ベトナムの歴史(その13-1)
前期黎朝:ベトナム初の統一国家への歩み ~最も輝かしい時代~
前号で紹介しましたように明軍を破ったレ・ロイ(黎利)が、1428年にトンキン(東京、現在のハノイ)を都に大越国を建てます。その黎朝は前期(1428~1527年)、後期(1533~1788年)の360年に及びます。
ベトナムの歴史は「北属南進」の歴史と言われています。すなわち、北(中国)の圧力を受けながら南に拡張していく歴史という意味です。黎朝5代皇帝、レ・タイン・トン(黎聖宗、在位1460~1496年)の時代が、そのベトナムの歴史で「最も輝かしい時代」と言われています。
内政では明朝に習って諸制度を整備し、耕地の公田制を進め国勢を高めます。「南進」では1471年にチャンパ王国を滅ぼし、支配は中部から南部に及ぶようになります。西に向かってはラオスのラーンサーン王国を攻略します。
下の2つの地図を見てください。当時のベトナムは北部地域をトンキン(東京)、中部をアンナン、南部をコーチシナと呼んでいました。黎朝は中国(明)の「圧力」を受けながら北部地域のトンキンを治める王朝に過ぎず、中部のアンナン(安南)はチャンパ王国が支配し、南部のコーチシナ(交趾支那)は12世紀頃からカンボジアのクメール王国が支配していました。それを示しているのが右の地図です。
ベトナムの歴史は「北(中国)の圧力を受けながら南(チャンパやクメール)に拡張していった歴史」と言いましたが、逆の見方をすれば、北(中国)の圧力と南(チャンパやクメール)の圧力に挟まれていた、「南北挟み撃ち」の状態にあったとも言えます。その挟み撃ち状態の中で、強大な中国に抗い、朝貢政策をとりつつ南進を続けたのです。そして、インドシナ半島の東側を占める現在のベトナム国土への足掛かりを築いたのが前期黎朝の時代です。
(2022年7月20日、あかたつ)
【編集者】ベトナムの歴史(その13)は、明日「つづき」を掲載します。
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