ベトナムの歴史(その13-2)
後期黎朝:苦難の統一国家への歩み ~歴史上最も混乱した時代~
ところが、歴史はそんなに直線的には歩ませてくれません。レ・タイン・トン(黎聖宗)の死とともに黎朝は急速に衰退し、200年余にわたる混乱の歴史に入ります。
なぜ、混乱に陥ったのでしょうか。
小倉貞男著『物語ヴェトナムの歴史』によると、「国王が無能で無茶苦茶な生活を送ったから」「毎日宮殿で廷臣と酒を飲んで酔っ払い」「逆らうものは即座に殺し」「一族には逃げ出す者もいた」。「官僚は権力をかさにきて蓄財に熱心」「民衆の反抗を招き、従兄弟が民衆に推され義軍を指揮」「皇后は首をくくり」「(8代皇帝)レ・ヴィ・モク(黎威穆)は毒を飲んで死んだ」・・・・と、書かれています。
こうした中で1527年にマック(莫)氏が黎朝から権力を奪い、分裂と抗争を繰り返す「ベトナム史上最も混乱した時代」と言われる「南北抗争時代」、一種の戦国時代に入ります。
その頃の日本も戦国時代。毛利元就が兄・興元(おきもと)の急死の翌年、甥の幸松丸の後見役として臨んだ初陣で佐東銀山城主・武田元繁を討ち取り、その後、幸松丸の急死で毛利家当主に就いた頃です。その後、陶晴賢を厳島で破り、山口の大内氏、出雲の尼子氏を滅ぼし中国8カ国の覇者になったことはご存知の通りです。
話をベトナムに戻します。戦乱当初は権力を奪われたレイ(黎)氏とバック(莫)氏の間で、次いでグエン(阮)氏とチン(陳)氏の間で展開され、1558年に中部のフエにグエン(阮)氏の独立政権(広南国)が成立します。
1771年には「西山(タイソン)の乱」が起こり、一時、西山朝が成立します。グエン・フック・アインは敗退し、転戦しながらタイに逃れます。
初めてベトナム全土を統一した阮朝
グエン・フック・アインは1787年にフランス人宣教師の援助で借りたフランスやイギリスなどの軍勢を伴いベトナム国内へ戻ります。翌1788年には南部のサイゴンを奪回、1801年に中部のクアンナム(広南)の奪回とホイアンを制圧、そして1802年に北部のタンロン(昇龍、現在のハノイ)に入城し西山朝を滅ぼします。
阮朝の王宮(フエ)
こうしてグエン・フック・アイン(阮福映)が200年余続いた戦乱期に終止符を打ち、1802年に阮朝を興し、現在のベトナム国土全土を統一し越南国を建てました。グエン王朝の首都はベトナム中部、世界遺産の町「古都フエ」です。
ところが、その後の1世紀にわたるフランスの植民地時代のきっかけも、この時に外国の力を借りたことに起因します。そして、ベトナム全土を初めて統一した王朝の阮朝は、ベトナム最後の王朝でもあったのです。
ここからフランスの支配が始まり、第二次世界大戦時には日本軍が侵攻、日本の敗戦で再びフランスが植民地支配、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスを敗退させた後、南北を分断され、フランスに代わってアメリカが進駐。南ベトナムを支援するアメリカ軍との戦い(ベトナム戦争)が1975年4月30日のサイゴン解放まで続きます。
日本と、また私たち広島と関わりの大きいこの時代の歴史を、順次、見てゆきたいと思います。
(2022年7月21日、あかたつ)
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