「中国新聞創刊之地」碑
昨日5月5日は、明治25(1892)年に創刊された中国新聞が130周年の節目を迎えた日でした。
昨日の中国新聞は、本紙だけでなく、8面で構成された別刷りの特別号でその歴史を紹介しています。その中で、私が気になったのは別刷り1面に掲載されていた「明治31(1898)年、『中國』大手町本社時代の社員」とキャプションが付された写真です。それはよく見ると明治31(1898)年当時の「中國新聞社」と看板がかかった社屋をバックにして並ぶ社員が映った写真です。
中国新聞の前身である「中國」と題された日刊紙が創刊されて5年後の写真ですから、創刊時と同じ場所だと思います。このキャプションで一番関心を持ったのは「大手町本社」の文字です。
このキャプションを読みながら「そうだったのか」と思い出したことがあります。
わが家からバスセンター方面に行くとき通る県民文化センター前の通りの中区大手町2丁目にある「タイムズレンタカー大手町」の敷地に「中国新聞創刊之地」碑があり、いつも不思議に思いながら通り過ぎていました。
私の記憶の中には、中国新聞社と言えば、被爆した現在の中区胡町(現在の三越広島店)に建っている社屋のイメージしかなかったからです。
今日の新聞でようやく謎が解けました。最初に中国新聞社の社屋があったのは、この大手町だったのです。社屋の前の通りは、江戸時代以来の当時のメイン通りでした。社屋があったと場所だと私がずっと思っていた中区胡町に移転したのは、1926年5月19日のようです。この年は、大正から昭和に元号が変わった年です。この年の12月25日に元号が昭和に開眼されていますので、中国新聞の社屋移転は、大正時代に行われたことになります。
改めてこの碑を見ると「明治二十五年五月五日 中国新聞創刊之地」と130年前の昨日の日付が刻まれています。裏側を見ても、これ以外の文字は刻まれていませんので、いつ設置されたかは不明です。「中國」から「中国新聞」に紙名が変わったのは、5000号を機に1908(明治41)年6月21日からだそうです。
明治25年(1892年)は、日清戦争が開始された明治27年(1894年)のわずか2年前のことです。軍都廣島の発展と共に中国新聞も発行部数を伸ばしたことが想像されますが、被爆地の新聞社となった戦後は、被爆者問題や反核・平和のために大きな役割を果たしています。
時々、頭をかしげたくなる記事を目にすることもありますが、中国新聞が、これからも被爆地広島の新聞としての役割を果たし続けてほしいと願っています。
いのちとうとし
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