気象学者益田善信さんの戦争体験
独自の調査によって広島原爆後の「黒い雨」降雨範囲を分析し、黒い雨裁判で原告側住民84被爆者と認められる有力の根拠をとなる「益田雨域」で知られる気象学者益田善信さんの「戦争体験」を知る機会がありました。
二カ月ほど前の2月13日にZOOMで開催された「第5回大社基地講座」でのことでした。
「大社基地」については、機会を改めて詳しく紹介したいと思いますが、島根県出雲市斐川町に敗戦数カ月前の1945年(昭和20年)3月頃から6月にかけ急きょ建設された旧海軍の航空基地のことです。現在市民団体によって保存と有効活用を求める運動が続けられています。
その市民団体が主催して開催されたのが「大社基地講座」です。
「大社基地」については、昨年来中国新聞でも何回か報道されたことがありますので、興味を持っていました。私も小学校6年生の時に社会見学で訪れたことがあり、特別の場所でしたので、この講座を視聴しました。
この講座の最初に、司会者が「今日は、かつて大社基地で働いていた人にも参加していただいています」と紹介がありました。「どんな人だろう」と思っていましたが、講座の途中で紹介されたのが、気象学者の益田善信さんでした。
実は、ZOOMがつながった時、参加者が映る画面に「益田善信」さんの名前を見つけた時、「なぜ益田さんが?」と思っていましたが、講座の最後の頃に益田さんの話を聞いて納得です。益田さんこそが、大社基地の体験者だったのです。
「1945年6月中旬、米子の美保基地から、気象隊の隊長として大社基地に来ました。初めの一カ月は、基地の気象を調査、発表。7月20日過ぎに宮崎と大分の基地から銀河約50機が大社基地にやって来た。
そして8月6日に7機、7日に6機、8日に6機がこの大社基地から特攻機として飛び立った。1機が飛び立つのに40分以上かかったので、宍道湖の周りを旋回しながら待ち、夕焼けの中を飛んで行った。宮崎の都井岬を過ぎると米軍のグラマンに撃墜され、沖縄までたどり着いたのは、1~2機だったと思う。特攻機が飛んだのは、大社基地が最後ではなかっただろうか」
当時益田さんは、海軍少尉でした。益田さんの話では「銀河の特攻」が強調されていますが、確かに無事に帰還した銀河は少なかったようですが、銀河の役割は、雷撃の通常攻撃だったと思われ、「特攻」ではなかったと思われます。
益田さんの「黒い雨雨域」の講演は何度も聞いたことがありますが、まさか出雲という場所でつながっているとは思いませんでした。
1923年(大正12年)生まれの益田さんは、98歳の高齢ですが、きちんとしたお話には、びっくりしました。
この体験が、「科学者は二度と戦争には協力しない」というその後の益田さんの活動の原動力になったといわれています。
いのちとうとし
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