「広島ブログ」

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2022年4月

2022年4月30日 (土)

2022.4月のブルーベリー農園その3

雨もあり、晴天もありの月末後半の天気で、ブルーベリーは葉が出て花が咲きだしミツバチやハチなどの動きが活発になる。剪定していてもブンブンの音絶え間なく聞こえる。田植えが近いのでカエルの鳴き声も頻繁になっている。4月を通してブルーベリーの剪定、防草シートを敷く作業が続く。

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423日(土)

ブルーベリー畑の向こうの道路沿いの田んぼの法面に植えてあるシバザクラはまだ楽しめる。自転車やバイクに乗ったライダーがとまってシバザクラを眺める光景をよく見かける。手前には水神さんの小さな祠もあり雰囲気がいいのだろう。

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ブルーベリー畑で防草シートを敷く作業を続けている。所どころにある足元のレンゲが満開。

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小さな畑の中はドドーンと雑草が茂りだしている。刈り払い機で刈れるところは道沿い位で、

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野菜やジャーマンアイリスの植えてあるところは手で雑草を引き抜くしかない。

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424日(日)

里山のブルーベリー園は里道を挟んで東西2つに分かれている。今は東側でブルーベリーの剪定を続けている、近くの田んぼにはもう水が張られている。ゴールデンウイークにはあちこちで田植えが行われる。

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農園の周囲の花のいろいろ

① シャガ

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② エビネはまだ蕾

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③ 椿は満開でキイロススメバチが蜜を吸っている。

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④ 綿毛のタンポポ

等が咲く。他にもジャーマンアイリス、野菜やグイビの花も咲いている。

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426日(火)

農園は一日中雨なので軒先で防草ネットの補修を行った。雨でもブルーベリーの花はミツバチがきて結実してくれないと花は落ちない。(写真の品種はラビットアイ系のウッダード)

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年4月29日 (金)

「大社基地」跡保存運動―つづき

戦後陸上自衛隊の訓練場として使った後、遊休地となった「旧大社基地跡」(約9万平方メートル)は、国の機関である中国財務局が管理していましたが、2003年から売却が始まり、滑走路の一部は太陽光発電などの用地となっていました。

昨年2月には、残っていた西側2万7200平方メートルが、出雲市の民間企業に売却されました。

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中国新聞記事より

この売却が報道された後、昨日紹介した「出雲市による調査と保存」を求める運動が具体的に始まったのです。市民団体だけでなく、日本考古学会も「遺跡保存は学術上きわめて重要な内容を有する」として、国や県に調査や保存を求める要望を提出しています。

中国新聞の昨年5月の記事によれば、当時出雲市の文化財課は、「平和学習など戦争を後世に引き継ぐため貴重な遺跡」とした上で、「民間企業が土地を取得している。保存について市がどう対応するか結論が出ていない」としていました。

しかし、出雲市は今年2月に「史跡指定はしない」との結論を出し、島根県もその方針を追認しました。

島根県や出雲市が、一定の結論を出すことに異論はないのですが、問題は、この結論を出すまでの経過です。市民団体などから寄せられた情報では、県、市とも「旧大社基地」跡の十分な学術的調査を行った形跡がないのです。もともと市民団体や日本考古学会が求めていたのは、「保存」だけではありません。その前提となる「調査」をきちんと行うことを求めていたのです。

この経過を検証していくと、昨年広島市で問題となった「サッカースタジアム予定地の発掘調査」を思い出さずにはいられません。広島市も専門家などの意見を聴くことなく「重大な価値はない」とし、取り壊し(一部の切り取り保存のみで)を進めてしまいました。

「きちんとした調査も行わずに自らに都合のよい結論を導き出す」姿勢はあまりにも似すぎていると感じるのは私だけでしょうか。

第2次世界大戦時の戦争遺跡が、文化財として指定されるようになったのは、よく知られているように原爆ドームの世界遺産登録運動の結果です。

「原爆ドームの世界遺産登録」の大きな障害となっていたのは、当時の国の文化財指定基準です。その基準では、文化財指定できるのは「概ね100年を経過したもの」とされており、原爆投下から50年しかたっていなかった原爆ドームは、文化財指定基準を満たしていなかったのです。ちなみに当時、経過年数が一番新しい文化財は、松江市の小泉八雲旧居でした。

しかし、「原爆ドームの世界遺産登録」を求める160万を超える市民の署名が力となり、文化財指定基準に新たに「戦跡」を加えることによって世界遺産登録実現への道(登録を申請する国がきちんと法的に保護していることが必要条件)を開いたのです。と同時に、そのことは、第2次世界大戦の戦争遺跡を文化財指定する道も開いたことになります。

この文化財指定基準の改正によって「戦争遺跡」が、文化財として認められることになったのですが、実際に文化財に指定されたのは、ごくわずかだといわれています。その原因の一つが、「ここの戦争遺跡」をどう評価するのかの基準が、残念ながら定まっていいないからです。

文化財指定基準の改正から、すでに27年が経過しています。戦争が終わって77年を迎えようとしています。それは「戦争遺跡」も77年以上の歴史を刻んだことになります。

すでに多くの「戦争遺跡」が、きちんとした調査もされないまま、壊れ、無くなっています。

広島市のサッカースタジアム予定地の「旧陸軍輜重隊跡」の遺構もそうですが、破壊されてからでは遅すぎます。「戦争遺跡」をどう評価するのか、早く一定の結論を出す時期に来ているのではないでしょうか。

不幸な歴史の生き証人としての「戦争遺跡」の保存は絶対に必要なことだからです。

いのちとうとし

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2022年4月28日 (木)

「大社基地」跡保存運動

島根では、今月17日の「気象学者益田善信さんの戦争体験: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介した「旧海軍大社基地跡」(以下「旧大社基地」)の保存を求める運動が、行われています。

私が最初に「旧大社基地」の保存を求める運動のことを知ったのは、昨年5月10日の中国新聞の記事です。記事にはこう書かれています。「地元の歴史研究者たちが4月、市に調査と保存を求めて『大社基地の明日を考える会』を発足した」

ちょうどこの時期広島でも、このブログで何度も紹介しましたが、「サッカースタジアム予定地」から同じ戦争遺構である旧陸軍の「輜重隊跡」が発掘され、市民から「保存」を求める運動が起こっていましたので、この記事をより興味深く読みました。

と同時に、「旧大社基地」は、私には忘れられない思い出がありました。

今月17日のブログでは、「小学6年生の時社会見学で訪れたことがあり」と簡単にふれましたが、もう少し詳しく紹介したいと思います。

小学校最後の夏休み(1960年)を利用して、担任の岸先生という若い先生に連れられて同級生10人ぐらいと自転車で、古墳巡りをしました。私にとって、忘れることのできない小学生時代の貴重な思い出の一つです。

旧出雲市内の古墳を数カ所巡った後、珍しい前方後円墳を見学するため旧斐川村立荘原小学校に行く、途中で訪れたのが「旧大社基地」でした。現在は合併され出雲市となっていますが、当時は簸川郡斐川村直江地区にありましたので、「直江の飛行場跡」と呼ばれており、「旧大社基地」という名前は、全く記憶にありません。私が通っていた出雲市立高松小学校は、この「旧大社基地」から直線で西に約7.5キロメートルの距離にあります。

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中国新聞より

 「飛行場跡」と紹介したように飛行場としては使用されていませんでしたが、たまたま私たちが訪れたその日は、自衛隊機が飛来し、市民に紹介するデモンストレーションが行われていました。

私のアルバムにその時の様子を写した写真2枚が、残っています。

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上の写真の左側に4人ほどの半ズボン、ランニングシャツ姿の子どもが映っていますが、これが私たちだと思います。

当時、飛行機をまじかに見ることなど全くありませんでしたから、ただただびっくりして見学したことを覚えています。余談ですが、「大社基地を考える会」の事務局にこの写真を送ったところ、「初めて見る貴重な写真です」と言われました。

当時、カメラは非常に貴重なものでしたが、引率していただいた岸先生は、何かあると自前のカメラを持参して、私たちを写してくださいましたので、この貴重な写真が残っています。

「旧大社基地」は、戦争末期突貫工事でつくられた飛行場ですが、中国新聞の記事によれば「コンクリート舗装の幅約60メートル、長さ1500メートルの滑走路」の規模で建設されました。

戦後「旧大社基地」は、1950年(昭和25年)6月から始まった朝鮮戦争では、米軍が駐留していた美保基地(米子市)の前進基地として整備され、1953年(昭和28年)まで使われたという記録が残っているようですから、私が訪れた時は、まだ十分に飛行場として使える状態だったようですので、デモンストレーションの飛行が行われていたのだと思います。

「旧大社基地」の思い出が少々長くなってしまいました。主題は「保存を求める運動」がどうなっているかです。その紹介は、明日にしたいと思います。

いのちとうとし

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2022年4月27日 (水)

チェルノブイリデー座込み

世界を震撼させた旧ソ連チェルノブイリ原発事故が発生して36年目を迎えた昨日、午後0時15分から広島県原水禁が呼びかけた「チェルノブイリデー座込み」を実施ました。

チェルノブイリデーの行動は、事故が発生した翌年の1987年から毎年この日をチェルノブイリデーとして座込みや講演会などを実施してきました。座込みは、コロナが拡大した2020年を除いて毎年実施しています。
今年は、2月24日に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵略によって、廃炉となっているチェルノブイリ原発が、ロシア軍によって一時占拠されるという異常な事態を経験しての座込みとなりました。

それは、原発が事故だけでなく軍事行動によって非常な危険な状態にさらされるという事実を私たちの教えることになり、原発の安全性が根本から問われることを意味しています。

被爆者の箕牧智之さんのアピールの後、村主公夫さんが提案した下記のアピールを全員で確認し、最後の慰霊碑に向かって黙祷をして30分間の座込みを終了しました。

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「4・26チェルノブイリデー」アピール

チェルノブイリ原発事故から36年が過ぎました。事故を起こした原発は、放射性物質の飛散を防ぐための巨大なシェルターに覆われるなどの対策が続いていますが、廃炉に向けた具体的なめどは立っていません。

この中で、世界を震撼させる出来事がロシア軍によって引き起こされました。チェルノブイリ原発事故で、被曝し、住む場所を追われた人々が、今度は命を奪われ、再び故郷を離れることを余儀なくされています。私たちは、一日も早い停戦により再びウクライナに平和が訪れることを強く求めます。

またこの軍事侵略ではチェルノブイリ原発を含めたウクライナ国内の核施設が、軍事侵攻の標的となりました。原子力発電所がいかに危険なものかを改めて教えています。核兵器の使用・威嚇発言はもちろんのこと、核物質は兵器であるか否かを問わず軍事的にも大きなリスクをもたらすものであることが明らかになりました。

一方、「チェルノブイリのような事故は起きない」と宣伝され続けた日本でも、2011311日、福島第一原発でチェルノブイリと同じレベル7の事故が引き起こされました。11年を経た今も、メルトダウンによって溶け落ちた核燃料の取り出しは全く手つかずの状態であり、避難住民の帰還は進まず生活再建は依然厳しい状況にあります。

この中で、政府はあろうことか多くの県民・漁業関係者の反対を押し切り、放射能汚染水の「海洋放出」を決定する一方、再び原発政策を推進し再稼働を強行しています。加えて、「2050年の脱炭素社会」実現へ、原発の再稼働・新設を利用することも十分考えられるだけに、その動きも注視する必要があります。

私たちは、チェルノブイリを、そして福島を、原発事故被害者の痛みを決して忘れてはなりません。世界はその現実に向き合うとともに戦火による新たな脅威も想定し脱原発への歩みを加速させなければなりません。

「核と人類は共存できない」。新たなヒバクシャを作らせないためには、「核絶対否定」の道しかありません。

私たちは、人類史上はじめて原子爆弾の惨禍を被ったヒロシマから訴えます。

◆ロシアは、直ちに軍事侵略を停止せよ!

◆チェルノブイリ原発事故を忘れてはなりません!

◆福島第一原発のような事故を二度と起こさせてはなりません!

◆原発の再稼働・新増設を許してはなりません!

◆新たなヒバクシャを生み出してはなりません!

◆全ての原発被害者への補償と救済を強く求めます!

◆放射能汚染水の「海洋放出」の閣議決定の撤回を求めます!

◆ノーモアヒバクシャ、ノーモアチェルノブイリ、ノーモアフクシマ

                             2022年4月26日

                 4.26チェルノブイリデー座込み参加者一同」

―――――――――――――――――――――――――――――――――

昨日は、あいにくの雨の中での座込みとなったため例年の慰霊碑前から資料館下に場所を移しての実施となりました。しかし、雨にもかかわらず56人の参加がありました。

いのちとうとし

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2022年4月25日 (月)

明日4月26日はチェルノブイリ原発事故から36年です

1986年4月26日、旧ソ連時代に起こったチェルノブイリ原発事故、あれから36年です。この事故のことを知らない人も多く、先日も「どんな事故だったの?」と訊ねられました。

それがロシアによるウクライナ侵攻、そしてチェルノブイリ原発が占拠されたという報道がされ、過去の歴史の彼方に追いやられようとしていたことが、大きくクローズアップされてきました。

1986年のチェルノブイリ原発事故、ソ連は当初ひた隠しにしていましたが、欧州で大量の放射能が検出され事故が明らかにされました。事故から1週間後の5月3日、約8千キロ離れた日本でも雨の中から放射能が検出されたのを覚えています。

1991年にソ連が解体し、チェルノブイリ原発はウクライナの原発ということになりました。僕は原発事故から10年目の1996年とその翌年に、チェルノブイリを訪ねました。チェルノブイリから北側に在るベラルーシの首都ミンスクと、ウクライナの首都キエフで、広島・長崎の原爆写真展を開催するのに合わせて行きました。

最初の写真展の場所となったベラルーシの首都ミンスクの3月は、極寒の季節でした。にも関わらず、写真展には多くの市民がやってきました。一番多く聞かれた質問は、「日本は原子爆弾が落とされ、多くの人が放射能障害で苦しんでいる国なのに、なぜ原子力発電所をたくさん造っているのか」という質問でした。当時、ベラルーシは原発の無い国でしたが、チェルノブイリ事故の影響を最も強く受けた地域です。放射能事故に国境は無いということを明らかにしたと思います。

原爆写真展は、キエフでも開催されました。そしてチェルノブイリ原発も見学しました。キエフ市からチェルノブイリまで約100キロメートル、車で2時間位です。ホテルまで迎えのワゴン車が来てくれて、見学代金は昼食代を含めて100ドルだったと記憶しています。

世界中の多くの人から忘れかけられているチェルノブイリ原発が、ロシア軍によって占拠された理由については、今でも放射能の影響で住民が住めない地域になっているため、ベラルーシからの軍隊をキエフに攻め込むのが容易だと考えた作戦ともいわれています。

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チェルノブイリ原発

占拠されたチェルノブイリ原発の状況については、報道が少ないので、詳細は判りませんが占拠したロシア兵が被ばくし、75人前後がベラルーシの病院で治療をしているとか、立ち入り制限区域に隣接する村の住民は、戦争とまた起こるかもしれない原発の恐怖に怯えていたとのニュースを目にしました。

ロシアはウクライナ東部のザボリージャ原発にも攻撃をしましたが、原子炉から約400メートル離れた場所にある施設でした。ロシアも原子炉その物を破壊すると自らが放射能汚染されると恐れたのでしょう。

原子力規制委員会の更田豊志委員長も、原発がミサイルによる武力攻撃を受けた場合のことについて「守りようがない」「(原発が)停止したら直ちに危険度が下がるものではない。武力攻撃では(ミサイルのような)爆発力によって放射性物質が飛散させられる恐れがある」とも指摘しています。

日本の原発の多くは、日本海側に建設されています。日本海側だけが危険ということではありませんが、友好的な関係を持てていない中国、北朝鮮、ロシアなどが取り囲んでいます。

この度のウクライナ戦争は、原発が自らを被ばく者にさせる核爆弾だということを明らかにしたのではないでしょうか。

木原省治

【編集後記】編集者の都合で、木原さん原稿を休止していましたが、今回から再開することになりました。次回以降、以前と同じく毎月10日と25日にアップします。

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2022年4月24日 (日)

映画「私はチョソンサラムです」上映会とトークイベント

今日午後1時から西区民文化センターで、映画「私はチョソンサラムです」の上映会とトークイベントが開催されます。

「植民地と分断の歴史を生き、今も残る日本社会の差別の中、なぜチョソンサラム(朝鮮人)として生きようとするのか。

日本で生まれ韓国に留学し、祖国でスパイという冤罪で死刑判決を受け、その後、再審無罪を獲得した『政治犯』たち。

子どもたちのアイデンティティを確立するために民族の言葉や文化を学ぶ朝鮮学校。

日本政府による「高校無償化制度」適用除外という差別。

分断を乗り越え、自主的に平和的な統一を実現するために取り組んでいる活動家たち。

韓国の金哲民(キムチョルミン)監督が、18年の歳月をかけて作成した、在日朝鮮人の生きざまを紹介する貴重なドキュメンタリー映画です。」

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チラシに書かれた映画の紹介文です。

映画の上映後、映画に登場する康宗憲さん(韓国問題研究所代表)、金昌五さん(在日韓国民主統一連合大阪本部副代表委員)、朴錦淑さん(京都朝鮮中高級学校オモニ会元会長)の3人によるトークイベントも開催されます。

この映画は、2019年に作成され、2020年の11月に広島をはじめ全国10箇所で上映をされました。その映画を見た広島の有志が中心となり、実行委員会が結成され今回の上映が企画されました。当初、1月16日に開催する予定でしたが、コロナの影響で延期となり、今日の開催となりました。

私も知っているようで知らない在日朝鮮人の人たちの姿を知ることができる上映会だと期待しています。

いのちとうとし

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2022年4月23日 (土)

2022.4月のブルーベリー農園その2

4月半ばも休みの日は安芸区の自宅から妻の実家の東広島市豊栄町の農園に農作業に通っている。その農園の周囲がにぎやかになってきた。音はウグイス、キジの声、田んぼのトラクターなど。植物は足元に咲く野の花のスミレ、レンゲ、タンポポ、キンポウゲ、イヌゴケ、カキオドシ、ムラサキゴケなど。見上げると花木ではウワミズザクラ、ヤマツツジ、ヤマザクラなどが花開く。「愛宕山」という上方落語に「レンゲ、タンポポ花盛り、・・・・その道中の陽気なこと・・・」というくだりがあるがその風情で、農作業も気持ちよくすすめられた。

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416日(土)

ブルーベリーの剪定、防草シートを敷く作業を続ける。この防草シートはもう20年近く使用している、草刈り機を使うときにシートを切ってあちこち破れているがいまだ現役。

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417日(日)

ゴールデンウイークにこの地域では田植えが始まるので土をトラクターで耕転する姿が見える。日も随分長くなった。

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里山の林が切れる辺りにはスミレが生えている。花を咲かせその場所を教えてくれる。

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420日(水)

17日にはまだ蕾だったが里山のブルーベリー園に行く途中の高木、ウワズミザクラがすがすがしく開花している。

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ブラシ上の長い穂に小さな花がたくさん開く。かすかな香りがある。

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畑の畔のムラサキゴケの群生があちこちまだらに咲いている。

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ブルーベリー畑の足元の野の花。

①.レンゲ

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②.レンゲのアップ。安芸の郷のある安芸区でもあまり見ることはなくなった。

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③.防草シートを敷く作業をするので目線は下。レンゲやスミレやタンポポにシートをかけるのがためらわれるがたまにぎりぎりセーフの場所もある。

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④.結構大きなスミレの株。手前右下にタチツボスミレも見える。

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自宅の玄関の甕にどさっと活けるため山ツツジ、ウワズミザクラを切って持ち帰る。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年4月22日 (金)

わが家の花が咲きました―その2

3月25日の「わが家でも花が次々と咲いています。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」のつづきです。

エビネランです。

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この花は、「ブルーベリー農園」の便りを届けてくれる遊川さんから、一昨年に分けていただいたものです。

左側の苗は、昨年は芽を出したものの、花が付くことはありませんでした。今年も少し遅れて芽を出しましたので、「今年はどうかな」と心配していたのですが、開花はやや遅れたもののきれいな花を咲かせてくれました。右側の苗は、満開になって一週間が過ぎましたが、いまも見事な花を咲かせています。長く楽しめる花です。

胡蝶蘭です。

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前回はまだ数輪しか咲いていませんでした。一月経って、ほぼ満開状態になりました。一つの茎に10個以上の花がついていますので、立派に見えます。確か、わが家に来て3年目です。胡蝶蘭は、他にも数鉢あり、蕾がついていますので、これからが楽しみです。

アザレアです。

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いま、街路や公園などで、ツツジが咲き誇っているのをいたるところで目にしますが、わが家のアザレアも見事に咲きました。この花は、左後ろに見えるプランターの中に置かれ、同じフロアーの人たちの目を楽しませてくれています。花が終わると他の花に置き換えることになります。ベランダでは、あと2鉢アザレアが咲いています。

オリーブの蕾です。

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このオリーブは、アザレアと一緒のプランターに置かれていますが、こちらは1年中置きっぱなしです。小さな蕾が見えるようになりました。

 デンドロビウムです。

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前回「あと一鉢も大きなつぼみを付けています。」と紹介した鉢です。「ピンクシェード」という種類で、花の大きさは2倍ぐらいあります。

他にもギンギアナムなども花を咲かせていますが、残念ながら今年は例年より花の数がずいぶん少なくなってしまいましたので、紹介しません。植え替えが必要かもしれません。

明日は、遊川さんの「ブルーベリー農園」便りですので、もっときれいな花が楽しめると思います。

いのちとうとし

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2022年4月21日 (木)

三原地区・府中地区の4月「19日行動」

今月も三原の藤本講治さんと府中の小川敏男さんから、各地区の「19日行動」の報告が届きました。

【三原地区】

4月19日火曜日、1730分から三原駅前に19人が参加して平和憲法を守る「19日行動」を行いました。ロシアによるウクライナへの侵攻が続く中、多くの人命が失われています。

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スピーチした政平智春さん、寺田元子さん、高木武子さん、中西一夫さん、岡崎敏彦さん、齋尾和望さんは、口々にロシア・ウクライナ戦争を引き起こしたプーチン政権への批判とともに、危機に便乗して憲法9条の改悪、非核三原則の見直しや敵基地攻撃能力の保有などの発言を繰り返す自民党政権や日本維新の会などの改憲勢力を批判し、改憲阻止に向けあきらめずに行動を継続することを訴えました。

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齋尾さんは、「私たちは20159月の戦争法(安保法制)の強行採決・強行突破以来、毎月19日をポイントにして戦争法の廃止、憲法9条を守ろう!と街頭で訴えている。この間、改憲の流れを止めてきているが、今、大変厳しい状況に追い込まれている。改憲勢力は、ロシアによるウクライナ攻撃が追い風となり『日本は危ない。9条を取っ払って軍隊をもって自衛隊を海外へ派兵する。敵基地の攻撃も行う。核兵器の共有論まで飛び出している』こうしたことはかつてなかったことである。私たちは、絶対に憲法9条(戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否定)を守っていかなければならない。侵略戦争は絶対止めなければならない。力づくで物事は解決できない。それは歴史が証明している。それを憲法9条は世界に示してきた。だからこそ世界から『日本の憲法は宝だ』と言われている。そのことによって日本は77年間、平和が維持されてきた。私たちは、今回のウクライナ問題に乗じて憲法を変えようとする勢力と対峙して、平和憲法を守るためにがんばっていきます。」とスピーチしました。

藤本講治

【府中地区】

安保法制に反対する府中市民の会の4月の19日行動の報告です。

府中市は市議会議員選挙中のため最初からマイクなしのスタンディングのみ行うと決めていました。

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石岡真由海さん作の横断幕はロシア語とウクライナ語,そして英語で書かれていて、なんとか戦争をやめさせようという気持ちが入った力作です。

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ところが、選挙応援のためか、まさか選挙期間中はせんだろと思われたのか多くの参加はなく、3名だけの行動となりました。

しかし、いつものように15時30分から上下町Aコープ前で、17時ちょうどから府中天満屋前で、それぞれ30分間アピールしました。

小川敏男

【編集後記】

小川さんの報告のとおり、府中が市議会議員選挙中でしたので、中止になったかなと思っていましたが、少人数でも実施されたようです。「継続は力」ということを感じます。

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2022年4月20日 (水)

第15代高校生平和大使(2012年)の論文

第25代高校生平和大使の募集が、5月6日を応募締め切りとして開始されました。6月5日の選考委員会で今年の高校生大使が決まりますが、例年のとおり、広島県内では3名が選ばれることになっています。今年も多くの高校生に応募してほしいものです。

高校生平和大使の活動は、これまでもマスコミなどによって報じられてきましたが、今日は一人の高校生平和大使のその後の活動について、紹介したいと思います。

その元高校生平和大使は、2012年に神奈川県で選出された第15代高校生平和大使の相原由奈さんです。

その相原さんから、一週間前の13日に次のようなメールが届きました。

「東京外国語大学の大学院で在ブラジル原爆被爆者の研究をしております、相原由奈です。いかがお過ごしでしょうか。

この度、在学している大学の研究所が発行している雑誌に論文を掲載していただきました。

予算縮小で現在は電子版しかない、読者もそこまで多くない雑誌ではありますが、やっと論文を一つ世に出すことができました。ネット上で公開されており、無料で閲覧できますので、拙い論文ではありますが、ご高覧いただけますと幸いです。」

相原さんは、昨年の被爆76周年原水禁大会の分科会「在外被爆者と日本の戦争責任、その歴史認識問題について」で講師を務めていました。相原さんの報告テーマは、「ブラジル在住被爆者に関する報告」でした。

大会資料集でそのことを知った私は、「どうしたブラジルの被爆者のことを研究することになったのか」を知りたくて、すぐに相原さんに連絡を取り、ホテルまで会いに行きました。

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森田隆・綾子さん夫妻によって2001年に発刊された本

「なぜ、ブラジルの被爆者のことをテーマにしたのですか」と問うと「高校生平和大使の活動をしている時、ちょうどヨーロッパを訪れておられた『ブラジル被爆者平和協会』の森田隆会長とお会いし、ブラジルにいる被爆者の話を聞きました。その出会いをきっかけに、2017年と2018年にブラジルを訪問し、聴き取りを始めました。それから現在までブラジル在住被爆者の皆さんの協力を得ながら、研究を行っているのです。その研究結果を論文にするため、いまがんばっています。」との答えでした。

その研究結果が、今回の論文「ブラジル及び南米在住被爆者と医療援護―立ちはだかる『境界線』の壁―」となったのです。

相原さんの論文は、「掲載誌一覧: 東京外国語大学学術成果コレクション (tufs.ac.jp)」の『クァドランテ』第24号のpp.237-254に掲載されていますので、だれでも読むことができます。

早速私も読みましたが、学ぶことの多い論文でした。そして何よりうれしかったことは、高校生平和大使の活動が、被爆者問題の研究となって継続し成果を上げていることでした。

今年は、高校生平和大使派遣25周年の記念事業が計画されています。相原さんの論文を読みながら、これまでの様々な高校生平和大使としての活動を振り返ることも大切だが、歴代の高校生平和大使のその後の活躍ぶりも紹介できる記念事業となればよいと思っています。

いのちとうとし

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2022年4月19日 (火)

在韓被爆者の現状と韓国原爆被爆者協会の活動目標

「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(以下「市民の会」)結成50周年集会報告のつづきです。

市民の会市場淳子会長の基調報告は、在韓被爆者の現状と韓国原爆被害者協会の活動目標を紹介するもので、私も初めて知る詳しい内容でしたので、その一部を紹介します。

①、韓国原爆被害者協会の会員状況

市民の会が、発足した年1971年4月の協会の登録被爆者数は、6,269人でした。

現在(2022年1月31日)の登録者数は、1,981人です。

うち被爆者健康手帳取得者数は、1,933人。未取得者は、48人です。

未取得者は、多くが被爆者健康手帳取得のための証人を見つけることができない人たちで、残された課題の大きなテーマの一つです。

②、被爆者健康手帳取得者の手当て取得状況。

医療特別手当=168人 特別手当=49人 健康管理手当=1,701 保健手当=6

手当受給者は、1,924人となっていますが、9名は手当受給状況が確認できていませんので、確認出来た限りでは被爆者健康手当取得者は、全員何らかの手当を受給していることになります。

ただ、後の報告で紹介されたのですが、「医療特別手当取得申請に必要な医師の診断書が、韓国国内で書いてもらえず(被爆者問題に対する医師の理解不足などにより)、診断書取得のため来日するケースがある」ようですから、被爆者援護法適用が実現した今も新しい課題が、生まれています。

③、韓国原爆被害者協会がいま掲げている活動目標です。市場さんは、「現状と活動」の状況について詳しく報告されましたが、ここでは8の目標だけ紹介します。

(1)日本政府から「(日韓条約時に不問とされた)日本の植民地支配下で受けた被害」への反省・謝罪・賠償を得る。

(2)アメリカ政府から「原爆投下」に対する反省・謝罪・賠償を得る。

(3)被爆者援護法の完全平等適用。

(4)韓国の「原爆被害者支援特別法」(2016.5.29制定)の改正。

(5)韓国政府による平和公園・原爆資料館建設。

(6)韓国人原爆被害者の被害実態調査。

(7)韓国の地方行政による韓国人原爆被害者支援条例の制定。

(8)韓国における「広島三菱徴用工被爆者の三菱重工業に対する損害賠償請求訴訟」

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慶尚南道陜川郡の原爆被害者慰霊閣

市場さんは、最後に「市民の会の課題」として「現在の保障、過去の補償、未来の保証」の実現、とりわけ、過去の補償に関わる上記(1)、(3)、(6)、(8)の解決は、日本社会自らの責任で取り組むべき課題だということを強調されました。

その中で、現在の保証の問題として、「朝鮮民主主義人民共和国の原爆被害者が未だ『援護法の適用』はなく、とりわけ『医療支援』が急務である」ことについてもきちんと触れられたことが印象的でした。

「50周年記念集会に際し、こころをあたらにし、韓国の原爆被害者とともに、『未来の保証』(いのちとうとし注「2度と核被害が起きないことが保証された世界をつくる」)に向かって、目前の課題に取り組んでいきましょう!」の呼びかけで、市場さんの基調報告は終わりました。

いのちとうとし

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2022年4月18日 (月)

「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」結成50周年記念集会

1971年12月に孫振斗裁判をきっかけに結成された「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(以下「市民の会」)は、昨年50周年を迎えました。

昨日午後1時から結成50周年を記念する集会が、袋町の「まちづくり市民交流プラザ」で開催されました。

記念集会は、第1部、2部で構成されました。

第1部は、平岡敬元広島市長の「在韓被爆者支援運動の出発点から侵略と核の問題を考える」と題した記念講演。平岡さんは、在韓被爆者支援というか韓国での被爆者の存在が明らかになった当初から、その発掘と在韓被爆者支援を続けてこられて来たので、1960年代の話は初めて聞く内容も多くあり、非常に参考になりました。

第2部は、市民の会の市場淳子会長が「韓国原爆被害者協会の活動現況と目ざすもの」と題して基調報告。

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その後、東京の在韓被爆者問題市民会議代表の小田川興さん、長崎の市民の会・長崎支部長の平野伸人さん、広島の市民の会・広島支部世話人の豊永恵三郎から、各地の活動報告がありました。

それぞれの立場から、これまでの運動の歩みをたどる貴重な報告が行われました。

市民の会は、日本の朝鮮植民地支配の結果、原爆の被害を受けたにもかかわらず、日本政府から賠償はおろか、日本の被曝者と同等の援護さえ受けることができず、放置された韓国の原爆被害者を支援し、日本政府に対し賠償と援護を求めることを目的に活動を続けてきました。

その50年間は、被害当事者であり、「侵略と核兵器による被害を二度と繰り返されることがない世界を」と訴え続けている韓国の原爆被害者たちと共に歩んだ歴史でもありました。

50周年記念集会は、その貴重な歩みを振り返り、次の目標達成に向けて力強く歩みを踏み出す内容となりました。

私が、市民の会のみなさんと深く関るようになったのは、2001年に郭貴勲裁判を支援するため「在外被爆者に援護法適用を実現させる議員懇談会」を結成してからですが、この20年余りの間にも多くのことを学ばせていただきました。

「市民の会結成50周年記念集会」は、私自身にとっての韓国の被爆者とのかかわりを振り返る集会ともなりました。

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2022年4月17日 (日)

気象学者益田善信さんの戦争体験

独自の調査によって広島原爆後の「黒い雨」降雨範囲を分析し、黒い雨裁判で原告側住民84被爆者と認められる有力の根拠をとなる「益田雨域」で知られる気象学者益田善信さんの「戦争体験」を知る機会がありました。

二カ月ほど前の2月13日にZOOMで開催された「第5回大社基地講座」でのことでした。

「大社基地」については、機会を改めて詳しく紹介したいと思いますが、島根県出雲市斐川町に敗戦数カ月前の1945年(昭和20年)3月頃から6月にかけ急きょ建設された旧海軍の航空基地のことです。現在市民団体によって保存と有効活用を求める運動が続けられています。

その市民団体が主催して開催されたのが「大社基地講座」です。

「大社基地」については、昨年来中国新聞でも何回か報道されたことがありますので、興味を持っていました。私も小学校6年生の時に社会見学で訪れたことがあり、特別の場所でしたので、この講座を視聴しました。

この講座の最初に、司会者が「今日は、かつて大社基地で働いていた人にも参加していただいています」と紹介がありました。「どんな人だろう」と思っていましたが、講座の途中で紹介されたのが、気象学者の益田善信さんでした。

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実は、ZOOMがつながった時、参加者が映る画面に「益田善信」さんの名前を見つけた時、「なぜ益田さんが?」と思っていましたが、講座の最後の頃に益田さんの話を聞いて納得です。益田さんこそが、大社基地の体験者だったのです。

「1945年6月中旬、米子の美保基地から、気象隊の隊長として大社基地に来ました。初めの一カ月は、基地の気象を調査、発表。7月20日過ぎに宮崎と大分の基地から銀河約50機が大社基地にやって来た。

そして8月6日に7機、7日に6機、8日に6機がこの大社基地から特攻機として飛び立った。1機が飛び立つのに40分以上かかったので、宍道湖の周りを旋回しながら待ち、夕焼けの中を飛んで行った。宮崎の都井岬を過ぎると米軍のグラマンに撃墜され、沖縄までたどり着いたのは、1~2機だったと思う。特攻機が飛んだのは、大社基地が最後ではなかっただろうか」

当時益田さんは、海軍少尉でした。益田さんの話では「銀河の特攻」が強調されていますが、確かに無事に帰還した銀河は少なかったようですが、銀河の役割は、雷撃の通常攻撃だったと思われ、「特攻」ではなかったと思われます。

益田さんの「黒い雨雨域」の講演は何度も聞いたことがありますが、まさか出雲という場所でつながっているとは思いませんでした。

1923年(大正12年)生まれの益田さんは、98歳の高齢ですが、きちんとしたお話には、びっくりしました。

この体験が、「科学者は二度と戦争には協力しない」というその後の益田さんの活動の原動力になったといわれています。

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2022年4月16日 (土)

「チェルノブイリデー」か「チョルノービリデー」か

アメリカの臨界前核実験に抗議する座り込みを行った13日の午後5時から、4か月半ぶりの広島県原水禁常任理事会を開催しました。

「被爆77周年原水爆禁止世界大会」の開催要項などが議題になりましたが、少し論議になったのが、毎年4月26日の昼休み時間に実施している座り込みの名称をどうするのかです。

1986年4月26日、旧ソ連のチェルノブイリで原発事故が発生して以来、翌年の4月26日から毎年広島県原水禁は、原発事故被害者の救済、脱原発社会の実現を求めて、慰霊碑前での座り込み行動を続けてきました。当然ですが、「チェルノブイリデー」の名称で参加を呼び掛けてきました。

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昨年のチェルノブイリデー

ところが最近日本政府は、この「チェルノブイリ」の名称がロシアが表記だからということで、ウクライナ語名である「チョルノービリ」に変更することにしました。マスコミ報道も一斉に、「チョルノービリ」の名称を使うようになりました。

そういう事情から、常任理事会でも4月26日の行動の名称を「チェルノブイリデー」のままにするか「チョルノービリデー」に替えるのかが議論になったのです。

「チョルノービリデー」に替えようという意見は出ず、従来通り「チェルノブイリデー」を使うことになりました。

その大きな理由は、原発事故が発生した当時は、旧ソ連領で「チェルノブイリ」の名称で呼ばれており、一つの固有名詞として考えてよいのではないかということです。

事前に原水禁本部にも問い合わせましたが、原水禁も引き続き「チェルノブイリ」を使用するということです。

今年の「チェルノブイリデー」は、新たな状況の中で実施することになります。

言うまでもないことですが、ロシア・プーチンのウクライナへの軍事侵略は、原発が軍事行動の下でいかに危険なものかが、事実として示されてしまいました。チェルノブイリ原発は、すでに閉鎖されていますが、それでも深刻な事態を招きました。ウクライナには、いまもチェルノブイリ以外に15基の原発が稼働しています。チェルノブイリだけでなく、ザポロジェ原発もロシアの軍事攻撃を受けたといわれています。原発の危険性が、改めて浮き彫りになっています。

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今年の「チェルノブイリデー」の座込みは、4月26日(火)12時15分から30分間例年通り慰霊碑前で実施することを確認しました。

今年の「チェルノブイリデー」の行動にぜひ参加してください。

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2022年4月15日 (金)

2022.4月のブルーベリー農園その1

東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅からほぼ毎週通っている。今の時期はブルーベリーの枝の剪定が中心。葉が出て花が咲く前の3月までに済ませるのが理想だが、週末夫婦2人での農作業ではそうはいかない。ここで収穫したブルーベリーはほとんど安芸の郷に納品するので、実の量が安定的になるためにも剪定は手が抜けない。サクラやツバキ、野の花がいろいろ咲きだすし、キジもウグイスの声も生き生きしていて和ませてくれる。

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49日(土)

さくらが満開に。このソメイヨシノは20055月に当時の豊栄町が東広島市に合併されたことを記念して町民に苗木が贈られたもので農園では家の前のこの場所に記念して植えた。

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3段あるブルーベリー畑の一番上の場所で剪定を続ける。

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410日(日)

ブルーベリーの剪定の途中だがブルーベリーの畑の草が伸びてきているので防草シートを並行して敷いている。背丈が伸びて白い花をさかせている草はナズナ。

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防草シートを敷いている場所は一番下の畑。草が生えにくいので2枚重ねて敷いている。

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昼食後に1時間ほどかけてブルーベリーの枝を燃やす。熾火でいつものサツマイモを焼く。

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八重のツバキ。今が最盛期の咲き具合。

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コードレスの電動剪定ばさみの使用を始める。手指が楽になったのを実感。作業テンポも速くなる。

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ブルーベリー畑の地面の春の雑草の花

 ①ツボスミレ

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 ②トキワハゼ

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 ③キランソウ

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 ④無作為に防草シートの重しの瓦の穴から芽を出し、花を咲かせたのはカキオドシ。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

【編集者】遊川さんの「ブルーベリー農園」を今日から復活させました。次回は、23日です。

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2022年4月14日 (木)

アメリカの臨界前核実験に抗議し座り込み―慰霊碑前

アメリカが昨年2回の臨界前核実験を実施したことが報じられた昨日、核兵器廃絶広島平和連絡会議(連合広島、広島県原水禁、平和運動センター、広島県被団協など12団体で構成)の呼びかけで午後0時15分から40分までの25分間、慰霊碑前で同実験に抗議する座り込み行動を実施しました。

最初に、核兵器廃絶広島平和連絡会議の事務局を担う連合広島の大野会長があいさつ、最後に広島県被団協箕牧理事長が「バイデンよ!おまえもか」と強く抗議するアピール、そして慰霊碑に向かって黙祷をして行動を終了しました。

緊急かつコロナ対策ということで一組織1名の参加を呼びかけでしたが、被爆者や被爆二世、各団体、労組の代表など45人が参加しました。

参加者の総意で在日アメリカ大使館を通じて、抗議文を送ることも確認されました。

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報道によれば、臨界前核実験は、昨年6月21日と9月16日の2回実施されました。

昨年1月21日に「核兵器禁止条約」が発効して以降、初めて実施された核実験ですから、全ての核実験を禁止した「核兵器禁止条約」を全く無視する暴挙であり、絶対に容認することはできません。

実験の詳細の目的は不明ですが、「実戦使用を前提とする兵器の開発」を目的とした実験であることは間違いありません。

ロシア・プーチン大統領のウクライナへの軍事侵略、そして核使用をほのめかす発言が行われ、核使用の危機が叫ばれている時期だけに、なおさら抗議の声も大きくなります。

非人道兵器である核兵器の脅威が拡大しています。核戦争の危機も深まるばかりです。

「ヒロシマの声は届かないのか」というもどかしさも感じますが、広島・長崎の被爆の実相を知る私たちは絶対にあきらめることはできません。

核戦争の脅威から逃れる道は、核兵器の廃絶しかありません。

「核と人類は共存できない」「核絶対否定」

その声を上げ続けることこそ、私たちの使命です。

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資料館1階の「地球平和監視時計」は、まだ前回の核実験からの日数「499日」のままでした。

府中でも抗議の座込み

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夕方、府中市の小川敏男さんから上の写真と共に「府中でも12時から20分間、府中市役所前で抗議の座り込みをしました。参加者は20名です」とのメールが届きました。府中でも粘り強く座り込みが続けられています。後ろの植え込みに立っている折鶴は、石岡真由海さんが作って持参されたものです。

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2022年4月13日 (水)

ライラックの花が咲きました―被爆者の森

今日も「被爆者の森」の話です。

3月31日の「アスナロ」の木が植え替えられました―被爆者の森: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介した北海道の「ライラック」の花が咲きました。

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「きれいな紫色の花が咲きますよ」と教えていただいたことを思い出します。

この日は、曇り空でしたので「きれいな紫色」というわけにはいきませんでしたが、小さな花が何輪も咲いていました。まだ蕾もたくさんありますので、満開はもう少し先と思われます。一番下の枝が折れていますが、無事に一年(昨年3月に植栽された)を過ごし、きちんと根付き成長しています。樹木が細く、小さいため樹名板を付けるのは難しいと思いますが、何らかの方法で、樹名板を付けてほしいものです。

4月6日の「被爆者の森に咲く花たち: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介した鳥取県の「ナシノキ」は花が全部散っていましたが、奈良県の「ヤエザクラ」は、沢山の花が付き、いまが満開です。

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この写真の奥、一つ東のゾーンに北海道のライラックの花があります。

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今まで、あまり気付かなかったのですが、多種多様な樹木が植えられた「被爆者の森」は、訪れる度に楽しみや新しい景色を見させてくれます。

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2022年4月11日 (月)

原爆ドーム前からの訴え

昨日午前11時から、核政策を知りたい広島若者有権者の会(カクワカ広島)が呼びかけた「原爆ドームを1,000人で囲み、広島から、ロシアに対し戦争反対と核兵器使用禁止を訴え、ウクライナの平和を祈る」つどいが、開催されました。

企画のタイトルは「Prayers from Hiroshima - 平和の祈りを世界へ」です。

参加の呼びかけ文には次のように書かれていました。

「連日報じられる目を背けたくなるようなウクライナの惨状に、今世界中で多くの人々が 心を痛め様々なアクションが行われ、ここ広島でもいくつかデモなどが行われました。 しかしそれでも、ロシアの軍事侵攻は止まりません。77年前、戦争と核兵器がもたらす破滅的な被害を知る被爆地の市民として、しっかりとインパクトを与えられるようなアクションができないだろうか。そこで、いま再び核の脅威に晒されている世界に向けて、平和を願い、核を二度と使わせてはいけないと祈る広島の人々が原爆ドームの周りを埋め尽くすほど集まれば、これまでに無い程の大きなパワーとなって、世界に戦争反対・核兵器反対のメッセージを届けることができるのではと考えました。」

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安彦恵里香さん(ハチドリ舎店主)の司会で始まった集会は、長崎に原爆が投下された11時2分に1分間の黙祷からスタート。そして爆心地方向の空を全員が見上げます。

その後あいさつが続きます。カクワカ広島共同代表の田中美穂さん、被爆者の箕牧智之さん、佐久間邦彦さん、などなど。

あいさつが終わると、参加者が移動し、原爆ドームを囲みます。司会の指示が遅れ、あいさつが終わった時点で帰った人もありましたが、何とか原爆ドームを一周することができました。

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その後、希望する人たちによる個別のメッセージ撮影が行われ、集いや原爆ドームを囲む映像とともに、出来上がった動画を各種SNSにアップされることになっているようです。

撮影協力者の時川英之さんの協力で映像に納められ、無事終了しました。

好天に恵まれ原爆ドームを埋め尽くすほどではありませんでしたが、750人(主催者の発表)の参加がありました。短期間の呼びかけでしたが、本当にたくさんの人が参加されたと思います。

この集いを主催したカクワカ広島は、主に広島に住む高校生や大学生、会社員、カフェ店主など15人ほどが緩やかにつながったグループのようです。

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2022年4月10日 (日)

「明田弘司と、基町」写真展のつづき

「明田弘司と、基町」写真展の入り口で、参加者名簿に名前を書いていると、すぐ横で高齢の女性が、受付のスタッフに「今日は新しい情報をもってきたよ」と話されていました。

話を聞いているとこの女性は、近所の方にいろいろ聞きながら、かつての基町の情報を寄せられているようです。その情報は、付箋紙に書き込まれ、真ん中に広げられた地図に貼り付けられるようで、すでに何枚も付箋紙がついています。

女性の方は、「また来るよ」と言ってすぐに写真展の会場を後にされたので、細かな情報を知ることはできませんでした。

写真は、「1、高層アパート」「2、戦後復興期の基町と暮らし」「3、文化を育む」「4、昔を知り、未来へつなぐ」の4つのパートで構成されています。

「2、戦後復興期の基町と暮らし」では、私が電電公社に働いていたころ目にした木造住宅街やお好み焼き屋の写真があります。

会場の真ん中の机に貼られた地図は「基町地区古地図」です。受け付けていただいた資料には「基町の懐かしい時代をご存じですか?昭和28年~昭和30年頃の基町地区古地図に、お店やよく遊びに行ったところなど、懐かしい思い出や場所を書き込んで、当時の様子を教えてください。書き込みが難しい方は、スタッフが聞き取りをします。」と書かれています。

この主催者の思いにこたえて、ここを訪れた人たちの情報によって、古地図に新たな情報が加えられていたのです。

私が写真を見ている時にも、新たな情報提供者が現れました。

田坂さん(68歳)です。田坂さんは、古い基町の様子が映った5枚の写真を持参しておられ、スタッフに写真の説明をされています。

私も許可を得て、その様子を写真に撮りました。

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その中には、この会場となっている市営住宅を隣の高層アパートから写したもの(一番下)もあります。

田坂さんは、聴覚障害があるようで、写真と共にその写真の説明を書いたメモを持参されていました。重なった写真の一番下の「カラー写真は、故人となられたお父さんが映されたもの。3枚は、自分が映したもの。昭和30年代前半 年齢?(学校まだ) 兄の自転車 ボクの家です。」と書かれています。

持参した写真の説明が終わると、今度は筆談で近所の説明です。二本の石柱を描きながら「自宅の近くには、大きな門(かつての陸軍病院の門と思われる)があった」という情報が提供されました。その情報がスタッフによって付箋紙に書きこまれ貼り付けられます。自宅近くに「菅野書店があった」ことも付け加えられました。

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田坂さんが前回訪れられた時の情報でしょうか、地図の左端の「田坂」の表示のところに「私の実家です」と書かれた付箋が貼ってありました。

私が会場にいたのは、わずかな時間でしたが、その間にもお二人からの新たな情報が提供され、地図の付箋紙が増えていきました。

何とも不思議な思いを感じた写真展見学でした。

この写真展は、17日(日)まで午後1時から午後5時まで開催されていますので、ぜひ訪れてみてください。ただし月曜日、火曜日は休場となっています。

こんな企画を主催した「基町プロジェクト」のことが、もう少し知りたくなりましたので改めて訪ねてみたいと思います。

いのちとうとし

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2022年4月 9日 (土)

「明田弘司と、基町」写真展に行ってきました。

4月4日の中国新聞で紹介された「明田弘司さんの写真展」に行ってきました。

明田弘司(あけだ・こうし)さんは、1947年から半世紀以上の間、広島の戦後を撮り続けた写真家です。

その明田さんが遺した写真の中から、基町地区の写真約20点が展示されています。

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新聞記事では、「写真展会場は、基町市営アパート内」と書かれているのみでしたので、基町ショッピングセンターの中だろうと勝手に思い込み、最初にその場所を訪ねたのですが、どこにもそれらしき会場が見当たりません。しかし、その一角にチラシが貼付されていました。その中に会場が記されています。

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この地図を頼りにようやく会場にたどり着きました。基町地区で最初の頃に建てられた4階建ての市営住宅の1階です。

この写真展の主催者は、広島市立大学と広島市中区役所による「基町プロジェクト」ですが、写真家明田弘司さんが遺した4万7千枚を超える写真資料を整理・活用する活動をしている明田フォトプロジェクトの協力を得て、開催が実現したものです。

展示する写真の選定は、基町地区に住んでいる人やかつて住んでいた人たちと大学生が一緒に集まって、ありし日の基町を振り返りながら、作業が進められてようです。

基町に関する写真展は、3月21日の「写真展1976‐1978基町」に行きました。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しましたが、その写真展は主に本川沿いに広がっていた通称「相生通」が中心でしたが、今回の写真展は、私の記憶にある基町地区の市営住宅街が写った写真が展示されていることに興味を持ち、どうしても行って見たいと思い足を運びました。

会場は、壁に選ばれた写真が並んでいます。フロアーの真ん中に机が置かれ、基町の1950年だと思われる住宅地図が、貼り付けてあります。

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よく見ると沢山の付箋紙がついています。ここを訪れた人たちから寄せられた情報に基づいて、増えていったようです。

私もそんなお一人に出会いました。その時の様子は明日紹介します。

いのちとうとし

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2022年4月 8日 (金)

5月3日「憲法記念日」新聞意見広告にご協力を!

5月3日、日本国憲法は施行75周年を迎えます。

憲法を守る広島県民会議や広島県平和運動センターなどが中心になって取り組んできた「憲法記念日」の5月3日の中国新聞に意見広告を掲載する呼びかけが、今年も行われています。

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「輝け9条!活かそう憲法!」

ロシア・プーチン大統領によるウクライナへの軍事侵略によって、多くの市民の命が奪われ、国を追われています。

今年の憲法記念日は、施行75周年の節目の年というだけでなく、「戦争をしない」「戦争をさせない」ということが、いかに大切なことなのかを改めて私たちに考えさせています。

日本国憲法は、第二次世界大戦の悲惨な戦争体験から「もう二度と戦争はしない」という平和への強い意志を込めて誕生しました。

しかし、昨年の衆議院選挙の結果、憲法を改悪しようとする流れが作られようとしています。そしてプーチンのウクライナへの軍事侵略を受け、「核共有論」や外国の軍事基地に対する「敵基地攻撃能力」の保有を始め、軍備の増強が声高に主張され、「戦争する国」づくりへの危険な動きが、強まっています。

この流れを止めるためにも「平和が大切」という市民の声を大きく上げることが大切です。

憲法を守り活かし、市民のいのちと暮らし、子どもたちの明日を守る日本をめざして、声を合わせて平和憲法の大切さを訴えるため、憲法記念日の中国新聞に下記の要領で意見広告するための協力を呼び掛けています。


申込先 憲法を守る広島県民会議

    電話 082-942-2768

    FAX 082-942-2026

締切日 4月22日(金)

賛同金 個人一口 1,000円

振込口座 郵便局 01300-6-16060

一人でも多くの皆さんのご協力を呼びかけます。

いのちとうとし

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2022年4月 7日 (木)

一枚のチラシ

国立原爆死没者追悼平和記念館の訪問記のつづきです。

入口の受付に入館者が自由に取れるように何枚かのチラシが置いてあります。

その一枚に目が留まりました。タイトルには「平和記念公園 修学旅行モデルコース」と書かれています。

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平和記念資料館から出発して、最後に原爆死没者慰霊碑までの計7つのモニュメントや建物をたどるコースを紹介しています。

びっくりしたのは、3月28日の被爆遺構展示館―平和公園: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した3月26日にオープンしたばかりの「旧中島地区被爆遺構展示館」が、コースの2番目に組み込まれていたからです。

このモデルコースは、次のような順番になっています。

1.平和記念資料館→2.旧中島地区被爆遺構展示施設→3.追悼平和祈念館→4.レストハウス→5.原爆ドーム→6.原爆の子の像→7.原爆死没者慰霊碑

平和記念資料館を見学した後、追悼平和記念かに足を運んでほしいとの強い思いから、その途中にある旧中島地区被爆遺構施設が、組み込まれたものと思いますが、オープンと同時に地図に明示されたことに大きな意味があると思います。

追悼平和記念館は、広島市が管理を委託されているとはいえ、「国立」の施設です。

そこで気になるのは、平和記念資料館の扱いです。

早速、平和記念資料館の啓発課を訪ね、「旧中島地区被爆遺構展示館がオープンしたのですが、資料館が配布する資料で新しくこの展示館を書き加えたものが作られていますか?」と訊ねたところ、「新しいものはつくっていません」とこの答え。さらに「何か新しく作る予定はありますか?」との問いにも「現在のところその予定はありません」とのことでした。

私は、「旧中島地区被爆遺構展示館」は、平和記念資料館の展示を補強する重要な展示物だと思っていますので、国立追悼祈念館がいち早く新しいパンフレットで紹介しているのに、「なぜ平和記念資料館は?」と疑問が湧きます。

確かに、「旧中島地区被爆遺構展示館」で配布されるパンフレット「積層の記憶―「この地」が語る歴史―」には、問合せ先として「広島市市民局国際平和推進部平和推進課」の名前と住所、電話番号などが記されています。

平和記念資料館からみれば、「あれは広島市が担当する施設」という思いがあるかもしれませんが、平和公園を訪れる人たちに「どこが担当しているのか」は全く関係のないことです。

広島市と平和記念資料館が、きちんと連携し、平和記念資料館の配布物でも「旧中島地区被爆遺構展示館」が紹介されることを願わずにはいられません。

いのちとうとし

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2022年4月 6日 (水)

被爆者の森に咲く花たち

3月31日に続いての「被爆者の森」に咲く花の紹介です。

先月末には、まだ満開とは言えなかった京都のシダレザクラが、今満開に咲き誇っています。

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テレビのニュースなどで度々紹介される京都のシダレザクラは、濃いピンク色をしています。「ベニシダレザクラ」という種類のようです。

この木につけられた樹名板には、「シダレザクラ」としか書かれていませんが、濃いピンク色に見えますので、「ベニシダレザクラ」だと思われます。

もう一本は、鳥取県から贈られたナシの花です。

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鳥取県の県木は、「ダイセンキャラボク」ですが、高地で育つ木ですので、代木として「ナシノキ」が植えられています。

きれいな白い花と付けています。

すぐそばに、奈良県から贈られた「ヤエザクラ」の木が植わっています。まだ蕾です。

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この「ヤエザクラ」も奈良県の県木「スギの木」の代木として植えられています。

この木には、近くの竹屋小学校の子どもたちの手作りのもう一枚の樹名板が付けられています。

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「ふつうのさくらよりおくれてボタンのような形の花がさきます。」と書かれています。

ヤエザクラは、ソメイヨシノなどより1~2週間遅く咲くといわれていますので、開花し満開になるまでにはもう少し時間がかかりそうです。

被爆者の森は、訪れる度に何か新しいものを見つけることのできる場所です。

いのちとうとし

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2022年4月 4日 (月)

4月の「3の日行動」‐広島

「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、日曜日の昨日午後1時から本通電停前で、4月の「3の日行動」を行いました。

広島県内で新型コロナ対応の「まん延防止等重点措置」が解除された初めての「3の日行動」となりました。一月前とは、ずいぶん人の流れが多くなっています。

今月の「3の日行動」は、プーチンによるウクライナへの軍事侵攻に抗議し、直ちに停戦を求める声を上げようということでしたので、「ウクライナに平和を!」「プーチンは、侵略やめよ!」の2枚の横断幕が準備されました。

参加者一人ひとりが掲げるプラスターには、「核戦争するな 原発襲うな」「核兵器共有断固反対」「今こそ9条 平和な世界を」「ウクライナに平和を」「ロシアは国連憲章を守れ」などのアピールが書かれていました。

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マイクを握ったのは6人です。私もその一人として訴えました。

もちろん一番に訴えたことは、プーチンの侵略戦争に抗議し、「直ちに戦闘行動を中止せよ」そして「ウクライナの人々に人道支援を急ごう」ということでしたが、それと共に「戦争や武力行使が行われれば、一番の犠牲になるのは、守られるべき市民の命や暮らし。テレビに毎日流れる映像を見れば、それは明らだ」ということを訴えました。さらに「日本の国内でもこの機とばかりに『核兵器共有論』や『軍備増強論』が声高に叫ばれているが、本当に武力によって国民を守ることができないということをこの事態の中から学ばなければならない」ことを強調しました。

そして「戦争が始まるのは、結局のところ政治の失敗だということ。真に国民の命を守ろうというのであれ、軍備を増強する事ではなく、戦争や軍事行動が起こさせないために徹底した外交の努力が必要だ。それこそ、平和憲法の精神だ。もし日本が戦争に巻き込まれた時を想像してほしい」と訴えました。

もちろん、喫緊の課題は「ウクライナに平和を」もたらすことであり、犠牲を強いられているウクライナ市民への支援を強化することですので、そのことは最後に改めて強調しました。しかし、この事態の中で、どうしても考えざるを得ないのは「今の事態をどう考え、なぜプーチンの暴挙を阻止できなかったのか、本当にこの事態に至るまでに止める道はなかったのか」ということを思うからです。

私が、一番に訴えたかったことは、そのことです。

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昨日の「3の日行動」には、50人の参加がありましたが、その中には若い女性たち姿があり勇気づけられました。

いのちとうとし

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2022年4月 3日 (日)

2022年全国被爆二世団体連絡協議会総会がオンラインで開催

昨日4月2日午後1時より広教組会議室をホストに「2022年全国被爆二世団体連絡協議会総会」がオンラインで開催されました。

総会は、崎山会長のあいさつ、来賓のあいさつなどが行われた後、平野克博事務局長からこの2年間の活動報告、2022年、23年の2か年間の活動方針が提起されました。

私も広教組会議室から原水禁国民会議の代表として来賓のあいさつを行いました。来賓のあいさつの後、退席しましたので、以下は総会議案書からの引用です。

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総会で提案・確認された活動方針の大きな柱は次のとおりです。

1,再びヒバクシャをつくらないために,核廃絶と世界の平和を求める活動への積極的な取り組みを進めます。

2,国家補償と被爆二世・三世への適用を明記した被爆者援護法の改正をめざします。また,被爆二世健康診断の法制化,充実に向けて取り組みます。

3,放影研の行う「被爆二世臨床調査」「全ゲノム解析調査」に対して取り組みをすすめます。

4,在外被爆者支援と在外被爆二世・三世との交流を継続して強化します。

この他にも「全国被爆二世交流会の開催」「原水禁大会への積極的参加」「フクシマの被曝者との連帯、ALPS処理水の海洋放出方針の撤回」などが挙げられています。

「組織強化・財政確立の取り組み」として「被爆三世の組織化に向けた検討を始める」ことが示されているのが特徴的です。

総会では、岸田首相に対し、次のような要請を行うことが確認されました。少し長いですが、要請部分だけ引用します。


1. 核兵器禁止条約に日本政府として署名し、批准すること。仮に署名・批准しない としても締約国会議に参加すること。「唯一の戦争被爆国」として国際社会で核兵器 廃絶の先頭に立つこと。 ロシアのウクライナへの武力侵攻、核による威嚇に乗じた、非核3原則の見直しや「 核の共有」は絶対に行わないこと。 

2. 広島高裁の「黒い雨訴訟」控訴審判決が示した、特殊の戦争被害について戦争遂 行主体であった国が自らの責任によりその救済を図るという被爆者援護法の立法趣旨 の立場に立って、広島の黒い雨被爆者や長崎の「被爆体験者」など高齢化し原爆によ る特殊な被害に苦しむ被爆者や、原爆放射線の遺伝的影響を否定できない被爆二世を 広く救済すること。 

3. 日本政府および東京電力は、国策で進めた福島第一原子力発電所で重大事故を起 こし、大量の汚染水を発生させた責任を果たすこと。福島のみならず全国の、そして 世界の人々に、さらなる放射能汚染と被曝を強いるALPS処理水(トリチウム汚染 水)の「海洋放出」方針を撤回し、責任をもって陸上で保管すること。


総会終了後、被爆二世裁判の在間秀和弁護団長による「被爆二世訴訟の争点と焦点」と題した記念講演が行われました。

2年ごとに開催される総会は、従来2日間の日程で開催され全国の運動交流や今後の活動の具体的な進め方などが論議されましたが、今年は1日のみの開催となりました。

いのちとうとし

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2022年4月 2日 (土)

「震えるまなざしー撮影者たちが残したことば」-国立追悼平和祈念館企画展

平和大橋東詰めから眺めた満開の桜並木に誘われて平和公園に行ってきました。

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国立原爆死没者追悼平和記念館地下1階の「企画展示室」では、「震えるまなざしー撮影者たちが残したことば」と題した企画展が行われています。

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この企画展は、1945年8月6日、広島に投下された原爆によってもたらされた惨状をカメラに収めた6人が、「どのような心境でシャッターを切ったのか」が克明に記された被爆体験と写真によって構成された映像作品が上映されています。

「軍所蔵のカメラマン、写真館の店主、新聞社に勤務する中学生など、全く異なる職業や立場の撮影者たちが、目をそらしたくなる気持ちを押し殺しながら、ファインダーに写る被爆後の悲惨な状況をいかにしてフィルムに収めたのか。そしてその体験を、彼らの鋭い描写力でどのようなことばに表したかを明らかにします。」(配布されたチラシから引用)

そのチラシには、大きな文字で「惨状を見つめて 紡いだことば」と書かれています。

この企画展の特徴は、「カメラを持っていれば、真実としてそういうものを撮りたい」(深田敏夫当時16才 陸軍兵器補給廠勤務)との思いでシャッターを切った写真とともに、それぞれの被爆体験記が、編集されていることだと思います。

了解を得て、企画展示室の様子を遠景で撮影させていただきました。

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私が訪れた時には、12人ほどの人たちが熱心に画面を見ていました。展示映像は、約30分です。

この企画展の会期は、3月1日にスタートし、12月29日までです。

これまでにも「星は見ている―全滅した広島一中一年生父母の手記集」(2018年)や「流燈 広島市女原爆追憶の記 最も多く犠牲を出した女学校の記録」(2019年)、「時を超えた兄弟の対話‐ヒロシマを描き続けた四國五郎と死の床でつづった直登の日記」(2020年)など、心に残る企画展が実施されています。その企画展でつくられた展示映像は、国立原爆死没者追悼平和記念館のホームページ(企画展 | 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 (hiro-tsuitokinenkan.go.jp)で、いまも見ることができます。

ところで、追悼祈念館の入り口に置かれたチラシの一枚を手にして、ちょっとびっくりと言ってもうれしいびっくりすることがありましたので、そのことは改めて紹介します。

いのちとうとし

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2022年4月 1日 (金)

被爆クスノキの並木

22本の被爆クスノキの並木が続いている場所があります。中区千田町3丁目にある千田公園の東側です。

北端から見た様子です。

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並木の途中から北側を見たい様子です。

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爆心地から2,030mの距離です。

被爆時に、ここには広島工業専門学校がありました。

被爆当時の広島工業専門学校の建物配置図です。

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「広島原爆戦災誌」より

被爆クスノキは、右側の道路沿いの校庭に植えられていたものと思われます。

戦後は、1949年に広島工業専門学校と広島市立工業専門学校が、広島大学に併合され、広島大学工学部となりました。

1982年に広島大学工学部が、この地から東広島に移転したため、千田公園の名称だけでなく「広大工学部跡地」とも呼ばれています。

現在は、健康づくりセンター・健康科学館や中区スポーツセンターがありますが、その東側の道路沿いに被爆クスノキの並木が続いています。

健康づくりセンターの前庭には、ここに広島工業専門学校や広島大学工学部があったことを記したモニュメント「広島高等工業学校・広島大学工学部創立75周年記念碑」が広島大学工学部同窓会によって建立されています。

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台座には、最後まで残っていた正門付近の石垣の被爆した石を集めて作られたものです。

1988年に広大工学部跡地は、千田公園として整備が始まりますので、その時期に建立されたことがうかがえます。

22本もの被爆クスノキの並木が、今も元気な姿を見せていますので、一度訪れてみる価値があると思います。

広島市の「被爆樹木リスト」でも、「多数の並木が被爆したまま残されているのはここだけです」と紹介されています。

いのちとうとし

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