島根の夫婦松-平和公園(その2)
昨日のつづきです。
まず、なぜこの2本の松の幹が細いのかを考えてみました。
木の幹の一番下を見ると、その理由がわかるような気がします。
説明版によれば、赤松は「昭和32年3月」に、黒松は「昭和34年4月」に接木されています。昨日紹介したように平和公園に植樹されたのは「昭和38年」ですので、接木後4~6年ほど経過して、島根から広島に移植されたことになります。
黒松は、見分けにくいのですが、赤松は、接木されたと思われる痕跡が、はっきりと残っています。接木される原木を親木と言ってよいのかわかりませんが、根元の部分は、黒松だったことがわかります。
接木されたと思われる部分をさらによく見ると、赤松の部分は、元の松の幹よりほんの少し大きくなっているだけです。これ以上太くなるのは、難しいように思えます。
一方黒松は、何故か親木よりもさらに細いままです。
どういう理由かは、わかりませんが、接木された樹木の場合は、親木よりは、なかなか大きくならないのかなと勝手に想像しています。もちろんこの場所の土壌の問題などもあるとは思いますが。
いつかきちんと専門家の意見を聞いてみたいと思います。
調べていくうちに、さらに疑問になったのは、本当の「植樹日はいつか?」ということです。
昨日紹介したように現地に建っている標柱には「昭和38年7月2日」と書かれていますから、当然その日が植樹日と思っていました。
ところが、島根県広島事務所から送っていただいた「県人会史」には、「昭和38年11月6日 島根県知事田部長右衛門氏寄贈『島根の夫婦松』平和公園に植樹」と書かれていたのです。
ここからの2枚の写真は、会報からのコピーですので、写りは悪いですが、様子は分かると思いますので、島根県広島事務所の了解を得て、掲載しました。
植樹の様子です。
見難いのですが、参加者の服装は、間違いなく夏ではなく秋の服装ですから、正確な植樹日は、「昭和38年11月6日」というのが正しいということがわかります。ではなぜ現在の標柱に「7月2日」の日付があるかということになります。
実は、「県人会史」によれば、「昭和38年7月2日」の項には、次のような記載があります。
「昭和38年度総会開催。県人会発足10周年記念事業として、会旗の作成、広島市内中学校に島根県史を寄贈、郷土の図書館に各種図書を寄贈、平和公園に記念植樹を計画」
標柱(石柱:説明版は木)は、昭和47年7月10日に建てられたことが「県人会史」に記載されています。その時に「県人会発足10周年記念事業として植樹されたもの」ということで、「昭和38年7月2日」の日付が刻まれたものと思われます。
島根県広島事務所に日付の問題を再度問い合わせたのですが、「ずいぶん古い話なので、確かめることはできません」とのことで、確認をとることはできませんでした。
「県人会史」から転載ですので、元号をそのまま使いました。
このことを調べていて気になったのは、広島市がホームページに掲載している「平和公園の寄付樹木」リストのことです。ここでも新しい情報を得ることができましたので、次回紹介します。
いのちとうとし
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