ベトナムの歴史(その10-1)
険しい中央集権国家づくりの途
前号(11月20日)で、938年に1000年に及ぶ中国支配を脱したベトナムが、李(リ)朝により1010年にタンロン(現在のハノイ)に遷都し、ようやく中央集権体制に基づく本格的な国づくりが始まったことを紹介しました。
しかし、中央集権体制といっても平野部には権威は浸透していても高地や山地の民族には及ばず、権力の衰えと共に各地で反乱続きました。李朝最期の李恵宗(リ・フエ・トン)帝は暗愚で国力を急激に衰退させ、「盗賊天下に横行し、人民の困苦甚だし」といわれた1225年に陳守度(チャン・トゥ・ド)によって滅びます。
李朝に代わった陳(チャン)朝は1400年まで175年続きます。日本では鎌倉時代から室町時代、中国ではモンゴル帝国・元から明の時代です。
“またもや中国の支配下に・・・・”
この陳朝時代、《またもや中国の支配下に入るか》という窮地に追い込まれます。日本の歴史に大いに関わりを持つこの大事件、モンゴル帝国・元の侵攻です。李朝時代にも幾度も宋の侵攻を受けますが、辛うじて防ぎ独立を保っていました。陳朝に入ると宋を滅ぼした元(モンゴル)の侵攻を三度にわたり受けます。一度目の侵攻は1258年、モンゴル帝国の第4代皇帝モンケ・ハンに攻められ、一旦は3年に一度の朝貢を呑まされますが、たびたび反旗を翻します。
二度目の侵攻は第5代皇帝フビライ・ハンが1285年に、ベトナム中部のチャンパ王国遠征に出兵協力を求めてきたことを拒否したことに端を発しました。この時も、首都タンロンは陥落し、首都一帯が空っぽになるほどの被害を受けました。しかし、元軍は激しい暑さに加えベトナム軍のゲリラ戦法に苦しみ、食糧も調達できず撤退を余儀なくされます。
この時、皇族で武将の陳国峻(チャン・フン・ダオ)が僅か5万人の兵力で、撤退する50万もの元軍を散々に破り、首都を奪還し独立を守り抜きます。元軍は半数の損害を受け、5万人の捕虜を出します。翌1286年、陳朝は5万人の捕虜一兵たりと殺さず中国に帰国させています。
(13世紀当時の中国、東南アジア 出典:ウィキペティア)
ベトナム人気質が窺える二つの逸話
この時の戦いには今もベトナムの人たちに語り継がれている逸話があります。余りにも強力な元軍の猛攻撃に抵抗できず投降者が続出する中で、陳平仲(チャン・ビン・チョン)将軍が奮戦しますが捕らえられてしまいます。元軍は陳朝軍の情報をチョン将軍から得るために「卿は北国の王たらんと欲しないか」と、中国で一国を与えると交換条件を出します。これに対し「予は北国の王たらんより、むしろ南国の悪鬼たらんことを欲す。捕らえられた予の運命は汝の掌にある。汝の意のままになすべし。問答はもはや無用なり」と答え、斬首されます。
チャン・ビン・チョン将軍はベトナムにおける愛国者の象徴として、首都ハノイやホーチミン市、クアンニン省ハロンなどの通りの名前になっています。
もう一つ、元軍を追撃撃破したチャン・フン・ダオの話しです。
敗戦に次ぐ敗戦に心を痛めた第3代皇帝・陳仁宗(チャン・ニャン・トン)帝が言います。「敵は優勢である。これに抵抗するのはいたずらに国民に不幸をもたらすだけではないか。戦禍を免れるために降伏しようと思う」と。これに対しチャン・フン・ダオは、「陛下の仰せはもとより人道の合するところであります。ただ、降伏するのであれば、降伏に先立って私の首を刎ねていだきたい。私がいる限りわが国は絶対に滅びることはありません」と答えました。この言葉に、陳仁宗帝はモンゴル軍と戦い続けることを決意したと言われています。
(ホーチミン市メリン広場に建つチャン・ブン・ダオ像)
状況によっては耐え難い不当な要求にも一旦は応じながら不屈の戦いを続けるというしたたかさ。怒りにまかせた対応をすることなく、無用の争いのもととなる怨讐を避ける温情的な対処。この故事にしたたかさと粘り強いベトナム人気質、深謀遠慮さが窺われます。少々の困難には団結して忍従でき、民族としての誇りを傷つけられた時には毅然と立ち向かう勇気を持った民族性。これがフランスの植民地支配との戦いに勝利し、その後、世界最強の軍隊といわれたアメリカ軍を破った要因なのかと、つくづく思います。
(2021年12月20日、あかたつ)
【編集者】あかたつさんから届いた「ベトナムの歴史(その10)」を編集者の判断で2回に分割しました。後半は、22日に掲載します。
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