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2021年11月20日 (土)

ベトナムの歴史(その9)

11世紀、ようやく始まる本格的な国づくり

今号から、いよいよ中国1000年支配(北属期)を脱した後の歴史に入って行きます。

938年にゴ・クエン(呉権)が「バクダン川(白藤江)の戦」いで南漢軍を破り、呉朝を建てたことは幾度も触れました。独立したとはいえ基盤の弱い呉朝は、呉権の死後、地域を治める12人の土豪が群雄割拠する「12使君」と呼ばれる時代に入ります。968年、この抗争を平定したディン・ボ・リン(丁部領)が丁朝を建て、国号を大瞿越(ダイ・コ・ヴェト)とします。この頃の中国は南漢、後周を経て宋(注1)の時代、日本は平安時代です。

ベトナム正史ではゴ・クエン(呉権)が中国軍を破って独立を成し遂げたとされていますが、実質的な面から見ると、統一し国家としての機構を造り上げベトナムの真の独立はこのディン・ボ・リンの丁朝の時代とする見方が大方のようです。

しかし、979年にディン・ボ・リンは後継問題の混乱で廷臣によって暗殺されてしまいます。この混乱に乗じ宋が攻め込んできますが、将軍レ・ホアン(黎桓)が奮戦し宋軍を退け、幼帝を廃し皇帝に就き丁朝は滅びます。この黎朝(注2)も後継争いがもとで僅か3代、29年で滅びます。

1009年、軍権を掌握した黎朝の将軍リ・コン・ウアン(李公薀)が黎朝を倒し、李朝を興します。この王朝は中国からの独立後の最初の長期政権として1225年まで215年間続きました。それまでの70年は独立したとはいえ中国の脅威と侵攻に晒され、内紛などでいずれも短命の王朝でした。その意味で、李朝はベトナムで本格的な国づくりを手がけた王朝と言えます。

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リ・タイ・ト公園のリ・タイ・ト像(出典:ウィキペディア)

国号を大越とし、都を現在のハノイにあたる地に移します。そして行政組織や税の整備、軍事力の編成、堤防建設、ベトナムで最初の大学の開校など、政治・経済・社会組織など、国家としての組織整備を進めます。この遷都には、〔1010年の秋頃、リ・コン・ウアン王は龍を模った雲が飛び立つのを見て、新しい都を現在のハノイに移し、その地をタンロン(昇龍)と命名した〕という言い伝えが残っています。

リ・コン・ウアンは現在もリ・タイ・ト(李太祖)と廟号で呼ばれ、ベトナムの人々に親しまれています。

ハノイには最古の大学、文廟(ヴァン・ミウ)が残っています。もともとは孔子を祀る廟堂として1070年に建てられ、その後1076年に大学が開設され18世紀まで続きます。境内に残る石碑には15~18世紀の科挙試験合格者の名前が刻まれています。観光スポットとして多くの人が訪れるだけではなく、子どもたちや若者の姿も多く見られ、さながら菅原道真を祀った太宰府の天満宮です。ベトナム訪問の際には是非、行ってみてください。

盛大に祝われた「遷都1000年記念」

李朝を樹立したリ・コン・ウアン(李公薀)が1010年に遷都してから1000年にあたる2010年10月10日、ハノイで大規模な記念行事が行われました。下の写真はその模様の一コマです。

この記念事業は周辺地域との合併で面積を3.6倍の3,345㎢に拡げ、人口を350万人から620万人へと1.8倍に拡大するという「ハノイ市拡大計画」とともに、国をあげて数年前から準備された一大国家事業でした。ちなみに、現在のハノイ市の人口は809万人です。(2019年9月ハノイ市統計局)

毎年ベトナムを訪問している筆者も、この一大記念イベントに合わせて訪問したかったのですが・・・残念。この年は10月末から11月初旬にかけての訪問になり、「ハノイ遷都1000年記念モザイク壁画」が描かれているイエン・プウ通りのアートはしっかりと見てきました。

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出典:AFP BB News ハノイ遷都1000年記念パレード(2010年10月10日、ハノイ)

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出典:WLAKIN HANOI 2018年5月23日カラフルなタイルでベトナムの歴史を描いた壁画(ハノイ、イエン・プウ通り)

(注1)宋=中国の王朝の一つ。960年~1279年、趙匡胤(チョウ・キョウイン)が建国。1126年、女真族(ジュシェン、満州族)により滅亡。1127年、一族の高宋(コウソウ)が江南に逃れ宋を再興。趙匡胤が建てた宋と区別し南宋と呼び、前者を北宋と呼ぶ。

南宋は1279年、元のクビライの侵攻により滅亡。

(注2)黎朝(前黎朝)=980年~1009年、レ・ホアン(黎桓)が建て、現在のベトナム北部を約30年支配した王朝。15世紀にレ・ロイ(黎利)が建てた後黎朝と区別して前黎朝と呼ばれる。

(注3)タンロン(昇龍)=ベトナム北部のホン川(紅河)流域の中心と都市で現在のハノイ。漢の武帝が交趾郡を置き、長く中国支配の拠点となる。唐時代は安南都護府が置かれ、阿倍仲麻呂が都護として赴任。李朝、リ・タイ・トの遷都でタンロン(昇龍)。その後、黎朝代ではトンキン(東京)、ベトナム最後の王朝、阮朝代の1831年からハノイ(河内)と呼ばれ今日に至る。

(2021年11月20日、あかたつ)

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