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2021年11月21日 (日)

天皇の憲法遵守義務 ――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その5――

天皇の憲法遵守義務

――『数学書として憲法を読む』に沿っての講演・その5――

前回は、仮に天皇が憲法違反を犯したと仮定しての「思考実験」をしました。天皇の憲法違反は「国民の総意」に反することは御理解頂けると思いますし、それは「国民の総意」の否定でもあります。となると、論理的結論として、「国民の総意」にのみ根拠のある天皇という地位を否定することにもなりますので、天皇位に止まることはできません。

つまり、憲法遵守という義務は天皇という存在そのものと一体不可分の関係にあります。しかし、仮に天皇が憲法違反を犯したとしても、それを誰がどのような手段で認定し天皇という地位を剥奪するのかという、現実社会での行動のレベルに移して考えると、「国民の総意」が存在しないのですから、実行することは不可能です。あるいは、「超憲法的な」議論を持ち出さないと話が進まなくなってしまいます。

また、ポジティブな面、つまり天皇が「公務員」とは独立した形で憲法遵守を行おうとしても、具体的な行動としてはかなり限られることも既に考察しました。

しかし、「国民の総意」を全く別の視点から見直すことで、新たな展望が見えてきます。

 《「総意」に近付く「不断の努力」》

憲法制定時に「国民の総意」に実体のあったことは、時の天皇の宣告が保証していますし、明示的には第1条において天皇の存在の根拠になっていること、そして計測不可能であるその絶対的な重みについてはこれまで注目してきました。本章では、天皇がその絶対性を否定する可能性を考察したのですが、具体的にそのようなことが起きる可能性は低く、天皇と「国民の総意」という関係を考えるのであれば、より現実的な状況に注目すべきなのではないかと思います。それは、これまでも度々強調してきたような天皇による憲法遵守の言動を「国民の総意」という視点から捉え直すことです。

仮に天皇ではなく、大統領のような地位であれば、その根拠になるのは「国民の総意」ではなく、「過半数の国民の意思」とでもいった表現になると思います。選挙で選ばれた大統領の場合、マスコミも注目し本人も常に念頭に置いているのは、当選した時の支持率と比較して現在はどのくらいの人が支持しているのか、そして次の選挙ではどのくらいの支持が得られるのかということです。

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リンカーン大統領

Public Domain

「国民の総意」の場合にはこのような数値化ができません。しかし、憲法制定時点には100パーセントの人が象徴としての天皇の存在を認めたという想定はできます。でも、現時点で仮に国民投票が行われたとしても、それと同じ割合で象徴天皇制が認められているとは考えられません。では、「国民の総意」という表現は今の時点で現実的な意味を全く持たないのでしょうか。一つの可能性として「国民の総意」を、象徴天皇制を支える「理想形」として設定すること、つまり究極の目標といったような位置付けをすることが考えられます。

そのような、重い目標を設定するのは押し付けがましいのですが、憲法についての天皇・皇后の言動から判断すると、このような「理想」に近付くために、つまり、より多くの国民に象徴天皇の存在意義を認めて貰えるよう、天皇が意図的に努力をしているのかもしれないとさえ考えられるからです。

仮にそのような憶測が少しでも現実を反映しているとして、天皇がこのような努力をすること、あるいはそれに呼応して国民の側からもその努力を助けることは憲法に依っても他の権威によっても排除はされていません。それどころか、憲法第12条では、自由と権利については「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と義務付けられています。このシリーズでも確認したように、天皇が国民としての自覚を持ち、12条の「不断の努力」を自らにも課していると考えることは可能です。それは、「総意」の近似値である国民の考え方や感じ方を重く受け止めて、「総意」に近付くための「不断の努力」を続けていることになるのではないでしょうか。

《天皇の「公務」とは》

マスコミが良く使う言葉の中で、分った気になってはいてもいざその内容を手短には言い表せないものの一つに「公務」があります。公務員の場合には問題がないのですが、天皇の場合には、国事行為がその中に入ります。でもその他の天皇の仕事の内、何が「公務」なのかについては、宮内庁ではそれなりの決りがあるのでしょうが、私なりに納得のできた解釈は、ここに掲げた「理想」に近付く努力です。それを「公務」だと考えると、憲法とのつながり、そして主権者との関係で、ストンと胸に落ち着いたような気がしています。

その結果として、測定可能な「総意」が存在するとまでは永遠に言明できなくても、このように真摯な天皇の努力を認めその意味を考えると、主権者たる国民はこうした天皇の姿勢を歓迎しなくてはならないことになるのではないでしょうか。

最後にもう一度強調しておきたいのは、国民一人一人と直接対話を重ね、一人一人の人生に一人の人間として謙虚にそして真摯に関わろうとする努力を続けている天皇・皇后の姿です。それを憲法に人間的な実質を与えるべく懸命な努力、つまり「不断の努力」を「国民」として続けているのだと受け止めてもあながち的外れではないと思えるのですが――。

最後に付言しておきたいのは、「不断の努力」を義務付けられ、期待されているのは国民と天皇に限られているのではない点です。99条で憲法遵守義務を課せられている、大臣・国会議員・裁判官その他の「公務員」も、「不断の努力」をしなくてはならないのです。

そして、天皇が「国民の総意」という現実の社会には存在しない、しかし理想としては意味のある目標に向かって努力するのと並行して、公務員は憲法15条に規定されている「全体の奉仕者」という、現実には存在しない、しかし理想としては意味のある目標に向かって努力するという規定は、車の両輪として、憲法の美しささえ表現している規定だと考えて良いのでしないでしょうか。

以上、「国民の総意」という憲法なのかでは実体があっても、現実社会には存在しない概念をどう捉えれば、憲法の理念を現実の社会で実現する上での具体的指標になるのかを見てきました。久し振りの対面形式の講演で、力が入り過ぎた感はありますが、私の伝えたい事柄は曲りなりにも伝わったのではないかと自負しています。

 [21/11/21 イライザ]

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