天満小学校のプラタナスの歴史
先月25日に行った「古本まつり」で、気になりながらも購入しなかった本があったことを、29日のブログで紹介しましたが、その本は広島市立天満小学校の「創立百周年記念誌 てんま」でした。
その場でパラパラとページをめくると、昨年5月29日のブログ「平和と愛(友情)のシンボル プラタナスの碑」-天満小学校の原爆の絵第6号碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介したプラタナスが、「なぜ学校のシンボルとなったのか」などが詳しく記載されていました。
最初に目にしたのが次の文章です。
「プラタナス(PTAの新聞)の創刊号に、名づけ親の神崎竹千代さんはこう書いています。『私は学校に出入りするたびにいつも思う。戦前も常に子どもとともに明けくれ、夏にはいこいの日陰をあたえ、いく度か6年生を送り、1年生をむかえたプラタナスのことを。原爆により焼け出されてから私は、あのなつかしいプラタナスはもうだめだと思ったが、校舎の仮建築が終わり、本建築も一部出来上がり、昔の天満校に一歩一歩近づきつつある時、あのはだかになったプラタナスも自らの力で復活し、今は青々として子どもの作文に仲間入りし、画題となり、遊び場に日かげをつくって常に学校と共にある姿こそ今回出発したPTAのよきシンボルであり天満校と共にある唯一のものであろう。(以下略)』」
原爆資料館の「情報資料室」に、学校の「○○年誌」が収蔵されていることを思い出し、貴にはなったのですが、購入せずに後日情報資料室を訪れることにしました。
やはり情報資料室には、この本が収蔵されていました。
ここからは、この版に記載されている天満小学校のプラタナスの歴史をたどります。
このプラタナスが天満小学校の校庭に植えたのは、昨年5月のブログにも書きましたが、1931年(昭和6年)度の卒業生です。「細くて子どもの背丈ぐらいしかない」10本余りの木が植えられました。
2年後の学校の見取り図では、左下の民家の上の方にプラタナスが描かれています。
その後1942年(昭和17年)に、南西隅の民家が立ち退き、敷地が広がり、プラタナスは、運動場の真ん中に取り残されることになります。その様子が1945年(昭和20年)の見取り図に画かれています。
そして1945年8月6日、爆心地から1.2キロ離れていた天満小学校(当時は、国民学校)も校舎は全壊し、完全に消失したのですが、4-5本のプラタナスが焼け残ったのです。戦後の校舎建築でも焼け残ったプラタナスを大切に扱って設計されたことが、1955年(昭和30年)頃の見取り図からは読み取れます。
こうした学校の変遷を見ると、いつもプラタナスが大切にされてきたことが分かります。
最後に1974年に発刊された「創立百周年記念誌 てんま」の「あとがき」の一部を紹介します。
「本校の象徴ともいえるプラタナスは、今は葉を落とした細い枝を、何本も空に向かって伸ばし、冬の日差しを少しでも吸いとろうとするかのようです。
わたしたちは、今までこのプラタナスについて何一つ知りませんでした。そればかりかプラタナスがあること自体、ごくあたりまえのことと気にもとめなかったのです。百年の歴史は多くのものをつみあげてくれたと同時に、逆に多くのものを無関心に彼方に追いやってしまいました。(以下略)」
「平和と愛(友情)のシンボル」となって元気な姿を見せている天満小学校の3本のプラタナスの長い歴史を知ることができました。
「古本まつり」会場を最終日(31日)に再び訪れたのですが、この「創立百周年記念誌 てんま」は、棚から消えていました。
いのちとうとし
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