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2021年11月18日 (木)

広島城下町歴史学習散策会(第1回)

14日に開催された「広島城下町案内衆・広島中央公民館主催」の「広島城下町歴史散策会」の第1回「『広島城下大絵図』の巻 基町編」に参加しました。

午前9時半に中央公民館に集合し、まず講師・案内人の郷土史家佐々木卓也さんの「広島城の成り立ち」や現在の調査状況などのお話を聞きました。佐々木さんのお話を聞くのは、久しぶりです。

「今年2021年は、毛利元就が安芸高田市の郡山城に入城してちょうど500年、2年前から築城が開始された広島城に孫の毛利輝元が入城した1591年(天正19年)から、430年の節目の年」などがまず紹介されました。

30分ほどの事前レクチャーを終えて、いよいよ外に出ての散策です。

参加者が手にするのは、当時の城下町の絵図と現在の地図が重ね合わせて描かれた「広島大城下町絵図」です。

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 「広島城下大絵図」は、広島市中区市民部地域おこし推進課が、広島市城下町案内衆、広島文化財団、中区の中央、竹屋、吉島、舟入の各公民館、広島県縮景園などの協力を得て、2007年(平成19年)に初版を発行し、その後2016年(平成28年)に改訂版が発行されています。広島城下町巡りには、欠かせない資料です。

中央公民館の玄関を出たところから、説明が始まります。現在の基町高校のあたりに北の丸があったのですが、その外側に「北堀」がありました。中央公民館は、「北堀」の跡に建っています。

中央公民館前の道を南下し、基町警察署の前で立ち止まります。ここから南に真っすぐ「中堀」が、現在のグリーンアリーナ(県立体育館)まで伸びていました。「中堀はそこから東に曲がります」と書いていくと、長くなりますので、いくつかの場所のみ紹介します。

中央公園には、西の出丸があったのですが、現在はサッカースタジアム建設工事のフェンスに囲まれていますので、簡単な説明を受け、すぐに広島城西側の内堀まで移動します。

ここでは、「なぜ内堀が大きくなったのか」の説明です。

20211114_103506

現在の広島城の本丸跡は、少しだけ小高くなっていますが、城づくりが始まった時には、全くの平地。そこに盛り土をするために、使われたのが堀を掘るために出た土が使われたため、どうしても内堀が大きくなったようです。

広島城の西側の石垣は、本丸に近い方が「野面積」(自然の石やほとんど加工し ない石を積み上げる方法)となっていますので、毛利の築城時代に築かれたものです。

20211114_103814

下の写真の右側の石垣は、「打込はぎ」(すき間を減らすため石をちょっと加工した積み方)で角は「算木積」となっており、福島正紀の時代に築かれたものです。上には、櫓があったそうです。

20211114_104340

広島城の石垣については、しろうや広島A4c01 (rijo-castle.jp)で詳しく知ることができます。

今日は基町地区巡りですので、広島城には入らず、中堀があった広島市民病院北側の中央庭球場(テニスコート)に移動します。この西南角には、テニスコート地下に駐車場をつくる時の発掘調査時に出て来た堀の様子をプレートにした説明版が、立っています。

20211114_110856

いつも通る道ですが、何気なく通っていました。かつての堀の上の道路(市民病院とテニスコートの間の道)を東進し、広島市水道局北側の中電のビルの前に移動します。

途中、広島市民病院の南側で東西に延びる道路が、かつて「乗馬の訓練などをした八丁馬場」との説明を受けます。この八丁馬場は、現在の、西はハノーバー庭園、東は京口門公園まで延びていたようです。その東の端の南北に延びていた八丁堀は、地名として今も残っていますが、八丁馬場の地名は、今は残っていません。

城下町の遺構ではありませんが、水道局の北側中電ビルの北角に立つ、臨時帝国議会堂跡の説明がありました。

その後、水道局の南側で電車通りの1本北側の小路に入り、県庁南館の前で、外堀の説明です。外堀は、相生通り上にある電車軌道の北端から南側歩道に架かるぐらいの幅で、現在の西は商工会議所が建っているあたりから東は福屋西の金座街入り口まで延びていたようです。外堀の幅は、シャレオの地下街を掘る時に、その遺構が出て来たことから確認できたようです。ただ、残念ながら現在は、その時発掘された遺構はどこにも保存されていませんので、目視で確認することはできません。参加者は、地下のシャレオの東西の通りをる木ながら、「ここがかつての外堀の位置だ」と説明を受け、想像するだけでした。

中郵便局前から地上に上がり、予定通りちょうど12時にそごう前で解散しました。天気に恵まれ楽しい「広島城下町散策」となりました。

次回は28日で、「白島編」をめぐることになっていますが、私は当日長崎で開催されている「全国被爆二世交流会」に参加することにしていますので、残念ながら参加できません。最終回(12月12日)の「幟町編」には、必ず参加する予定です。

いのちとうとし

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