広島市水道局から届いた写真
昨日のブログを更新したすぐ後に、広島市水道局にお願いしていた写真が、使用許可書と共に届きました。
使用許可申請書には、使用目的として「ブログ『新・ヒロシマの心に』に使用する」と書いていましたので、届いた写真を紹介します。
最初に紹介するのは、水道資料館の入り口の右側に展示されている児玉源次郎中将(当時)が揮毫した「「不舎晝夜」の石額です。もとは、太田川の水を取り入れる牛田取水門中央上部に掲げられていたものです。
次に紹介する1枚もそうですが、原版は無いようで「古く小さなプリントをデジタルカメラで撮ったもの」との注書きが添えられて届きました。
水の取り入れ口は、二つありますが、よく見るとその上に石額が取り付けられているのがわかります。写真の手前に太田川の水面が映っています。創設時は、太田川から直接水を取り入れていたといわれていますが、その様子がよくわかります。
大正時代になると太田川の水位が低下したり、市街地の膨張、さらに宇品軍用船舶の増大などによって、給水不足が起こるようになったため、1921年(大正10年)から始まった第2期拡張事業では、この取水口の36m下流に、堤肩から18mほどの川の中ほどにレンガ造りの取水塔が設置され、取水能力を上げることになります。この取水口がいつまで使われたのかは、調べきれていませんが、
2枚目の写真は、資料館入口左側に展示されていた伊藤博文が揮毫した「深仁厚澤」の石額です。創設時には、ポンプ室正面に掲げられていました。
この写真だけでは、どこの建物かわかりません。ポンプ室全体が写った写真を広島市公文書館に借用しました。
右側の高い建物が、ポンプ室です。1898年前(明治31年)8月25日の「軍用水道通水式」は、このポンプ室の前で行われていますから、この建物が水源地の中心だったことがわかります。この建物の壁面の一番上部に★マークが取り付けられています。通水時には、この噴水から水が吹き上がったようです。
送っていただいた2枚の写真を見れば、二つの石額が水源地の重要な場所に取り付けられていたことが、よくわかります。
「石額」に書かれた文字の意味は、10月7日の「広島市水道資料館見学記その1: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」に詳しく書いています。
ところで、写真が添付されたメールには、大切な情報が書かれていました。昨日のブログで紹介した「神田橋水道橋右岸(白島側)の石垣」のことです。
「問い合わせてみたところ、神田橋水管橋の残骸ではないということでした。神田橋水管橋の基礎は撤去時にすべて撤去し、芝生で復旧したそうです。」
確かに栄橋水道橋の下部の頑丈な石組と比べると、私が見つけた石垣は、構造が全く違うなということが分かりますので、この回答をいただき「やはり、早とちりだったな」と反省しています。
これで、ようやく広島市水道資料館見学記が終了しました。
いのちとうとし
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