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2021年10月12日 (火)

広島市水道資料館見学記その3

2階フロアの「広島市水道の歴史」を見終えましたので、1階に降りました。屋外展示に移動する前に1階の「広島市水道と私たちのくらし」の展示を短い時間でしたが見学しました。

外から入口を入って右側には、広島市水道の水源である「太田川の恵み」についてパネル展示されています。いつか訪れてみたいと思っている太田川の源流も写真入りで説明されています。

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左側は、太田川の水がどうやって私たちの家庭に届いているかなど、現在の水道に関わる展示です。

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「災害への備え」のパネルもありますが、一番印象に残るのは、真ん中に展示されている「家庭の水道」です。「家庭で一人が一日に使う水道の量は、平均216リットルです。みんなの目の前にあるペットボトル(2リットル)だと、108本の量です。」と書かれ、そのパネルの前にはペットボトル108本が並べられていています。

一人でこんなに使っているのかな?と思ったのですが、帰宅後水道水を使うたびに、想像してみると「なるほど、それぐらい使っているなー」と実感しました。

いよいよ屋外展示の見学です。屋外には、資料館の館内に収容できない大きなもの、牛田水源地に設置されていたポンプなどが展示されています。

その一つに被爆建造物でもある猿猴橋水道管があります。水道創設時に猿猴橋上流に架設された水道橋の一部が、切り取り保存されています。

20211002_115602  

横の説明版には、次のように書かれています。

「牛田浄水場から宇品港へ水道水を送るため、明治30年(1897年)7月に完成し、明治31年(1898年)8月から主要送水管として使われてきました。昭和20年(1945年)8月6日の原子爆弾の爆風にも耐えて、焼け野原となった市内に水を送り届けました。(中略)100年以上にわたり活躍した水道橋ですが、平成19年(2007年)に老朽化のためその役割を終え、被爆建造物として歴史を後世に伝えるため、その一部をモニュメントとして広島市水道資料館に保存しています。」

この水道管をよく見ると左側に、白い文字が見えます。近づいて写した写真です。

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2階の展示室では、読み取ることが難しかった記号や文字が、この展示では白く塗られ見やすくなっています。疑問が解消しました。

MEIJI.30.」と刻印された文字。説明版に完成年と記載されている「明治30年」を表していることは間違いありません。これで「MEIJI」の刻印があるものは、国内で製造されたものだということがはっきりしました。明治30年に製造されたことを示しています。下側の×印の意味は、製造者を表していると思いますが、いろいろ調べてみたのですが、いまのところ解明できていません。

上部には、★印が刻印されていますので、軍用であったことが分かりますが、館内の展示と違い、ここでは説明されていません。広島市が全国で5番目という早い時期に水道が布設されたのは、軍事的理由からですので、広島城周辺にあった軍事施設への給水と共に重要視されたのが、大陸への出兵基地となった宇品港への給水でした。宇品港の軍用桟橋を経由して船舶に給水されました。

ここに展示されている「猿猴橋水道橋」は、宇品港へ送水するために絶対に必要だったのです。ですから、ここで使われた水道管に★印があるのは、当然のことです。

布設当初、水道橋は、猿猴、神田の2橋でした。神田は、神田橋のすぐ上流に、猿猴は、猿猴橋の上流に架設されました。神田橋水道橋については、改めて紹介します。

水道橋は、石組の橋脚の上に展示されています。この橋脚部分も、水道管と一緒に一部を切り取り移設されたものだと思いますが、「広島市水道70年史」にば、「橋脚は、鋳鉄製だった」と記載されていますので、布設当初のものではなかったように思われます。

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「ヒロシマの被爆建造物は語る」(広島市発刊)より

 「広島市水道70年史」に、布設当時の経緯と共に掲載されている写真と同じものです。水道資料館に展示されているような石積みの橋脚は映っていませんので、展示物は後に作られた橋脚のようです。

その他にも、昭和の初めに建築された量水室が、学習ルームとして使用される別館として使用されていますが、使用時だけ開けられるようで私が訪れた時には鍵がかかっていました。

広島市水道資料館の見学を終え、帰宅の途につくと、新牛田公園との境界に、もう一つ貴重な建造物が保存されているのが目に入ります。

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現在1棟だけ残っている1924年頃つくられた旧濾過調整機上屋です。ここから南側、現在の新牛田公園には、大きな濾過池がありました。布設時には、4面でしたが、その後の水需要の増大に伴い順次増設され、1957年頃の上空からの写真では、8面になっているのがわかります。

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「ヒロシマの被爆建造物は語る」(広島市発刊)より

 そして、それぞれ池ごとに濾過調整機上屋があった様子がわかります。このレンガ造りも、もちろん被爆建物です。

この後、神田橋上流の水道橋を見て帰ろうと回り道をし、神田橋付近をうろうろしたのですが、それらしきものを見つけることができません。しかたなく帰宅したのですが、後に見つからない事情を知ることができましたが、明日報告します。

いのちとうとし

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