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2021年10月19日 (火)

「和解を導いた力―呂学文さんの闘いをふりかえる―」集会

昨日報告した「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」開催の前日に、毎年運動を継承するための集会が開催されてきました。

今年も前日16日の午後2時から広島弁護士会館で「和解を導いた力―呂学文さんの闘いをふりかえる―」をテーマとした集会が開催されました。

呂学文さんは、1995年8月に安野に強制連行され強制労働を強いたれた人たちによって結成された「安野受難労工聯誼(れんぎ)会」の会長に選ばれ、西松建設との補償交渉の先頭に立つとともに、1998年1月広島地裁に対し「西松建設に謝罪と補償を求める」いわゆる西松建設訴訟の原告団長として大きな役割を果たした人です。呂学文さんがいなければ、この訴訟がここまで進展を見ることはできなかったのでは、というのが私の感想です。

集会は2部構成で開催されましたが、何といっても今年のメインは、第1部の呂さんの次女呂志英さんによる「遺族が語る呂学文さん」でした。コロナ禍で来日が難しくなり、中国山東省済南市と会場をZOOMで結んで証言となりました。集会を主催する「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」の川原洋子事務局長の質問に答えてのお話でしたが、その一つひとつ話は、非常に重いものがありましたが、特に印象に残ったことが二つあります。

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その一つは、「強制連行のことで覚えていることは」という質問への答えです。「父は、建国記念日の7月1日は、いつも二胡を引いて、苦しそうな顔をしていました。母に『なぜ』と聞いても、母は厳しい顔で聞くことを止めさせられました。1966年私が小学生の頃です。紅衛兵となって活発に活動していたのですが、壁新聞に父の名前がありました。戦時中スパイだったとして糾弾されています。呂学文の文字を見てがっくりしたことを覚えています。」

「93年広島の市民が訪れていたことを覚えていますか」の質問に「はっきりと覚えています。その場に家族も集まりました。父は、日本でのことを詳しく語りました。初めて聞く話です。その父の話を聞いて、かつての自分を恥じました。」

その年呂学文さんは、帰国後初めて広島を訪問しますが、帰国した時の様子を「広島から返って父は、雰囲気ががらっと変わりました。母が『50年間耐えた父の苦しみはようやく解放されたよ』といっていたことが忘れられません。」

もう一つは、広島高裁の裁判長に送る手紙を書いた時の様子です。「命を懸けて書いた手紙です。3時間かけてやっと書き終えた時には精根尽き果たしほっとした様子だったことが忘れられません。」

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当時、呂学文さんは、急に体調が悪くなり、歩くこともできず、ベッドからも起き上がれない状況でしたが、公正な判決を求めて書かれた手紙です。この手紙が、翌2004年7月の広島高裁での勝訴判決を導き出したといっても過言ではないと思います。

第2部は、4人による「呂学文さんを語る」です。私もその一人として登壇しました。私の話は、「被爆者としての呂学文さん」です。

中国人強制連行の受難者を初めて広島に招待したのは、1992年です。その時招待した団体名は「強制連行された中国人被爆者との交流を進める会」でした。この名が示すように、当初は被爆者問題として活動が始まったのです。93年5月には、張文彬さんが、強制連行の中国人被爆者として初来日しますが、張さんは安野の受難者ではありませんでした。安野の受難者の被爆者が初来日したのは、呂学文さんと孟昭恩さんです。二人は同じ年の7月、原水禁世界大会への参加と市民交流を目的として来日しました。呂さんは、被爆48周年原水禁世界大会の「アジア被爆者フォーラム」で証言しましたが、私が一番印象に残り今も忘れることができないのは、呂さんの次の言葉です。

「私にとって、広島で被爆したことも絶対に忘れられないことだが、どうしても回復してほしいことは強制労働によって人間としての尊厳を奪われたことです。」この呂さんの思いが、被爆者問題から強制連行被害の謝罪・補償要求へと発展し、いまに至ったということです。

この他にも、被爆者援護法が在外被爆者にも適用されることとなった時、呂さんは未払い分の手当てを受け、治療費の一部に使うことができたこと、しかしそのわずか半年後に亡くなられてことなどを話しました。

呂学文さんとの出会いは、私にもう一つの被爆問題を考える機会を与えることになりました。

集会には、60人の参加がありました。

いのととうとし

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