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2021年10月 9日 (土)

広島市水道資料館見学記その2

見学記その1で書きましたが、2階フロアは、「広島市の水道の歴史」を紹介する展示物が並んでいます。2階に上がると、左側の壁面に画かれた「広島市水道の歴史」が目に入ります。水道管を埋設する作業の様子を写した初期から現代までの写真5が並んでします。

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その右には、「昔の広島の水事情」のコーナーがあり、水道布設以前に使われていた釣瓶や木管が並んでいます。

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その右隣りから、広島市の水道の始まりからの貴重な資料が並びます。私が見たいと思っていた展示物は、ここから始まります。ここからは、順不同で水道管などに刻まれた★マークや広島市のマークを中心に紹介します。

実は、私が見たいと思っていた水道管の一つは、「広島市水道の歴史」が描かれた壁面のすぐ奥に並べて置かれています。最初の写真の右端に小さく映っています。

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水道局の玄関で見た「サッカースタジアム遺構発掘現場」で見つかった水道管と同じように、★のマークと製造会社の記号が刻まれています。

残念ながら、この水道管も製造年は裏側になっていますので、直接確認することはできませんが、水道管の上部に腹付けられて説明文にはきちんと触れられています。

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この説明文によって創設工事が始まった1896年製造のものであることが分かります。★印についても「旧日本軍の刻印」だという説明をするため、写真の一番下に楕円形の説明文で、★印の位置を丁寧に教えています。

私が見たかったのは、広島市の市章

Photo_20211008170801

が刻印された水道管は、次の「広島市水道の始まり」と壁面に書かれた展示スペースで見つけることができました。

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丁寧に「広島市章の刻印はここです」と書かれた丸い説明文が付けてありますので、すぐにわかりました。製造者の記号「D.Y.S&C」の刻印がありますから、これまで見て来た★印のついた「軍用水道用の水道管」と同じ、イギリスの会社製であることが分かります。

これからわかることは、当たり前のことですが、広島市の水道布設は、勅令によって国の事業として行われたのですが、使用する鉄管は、軍用水道部分と接続する市街地部分をきちんと計算し、それぞれ区分して製造するように発注がなされていたということです。

「広島市水道70年史」によれば、直鉄管など多くは、公入札によって三井物産合資会社が落札し、その製造所は、英国グラスゴー府、ディ・ウィ・スチュワート商会に依頼することになります。水道管に刻まれた「D.Y.S&C」の刻印は、この会社のマークで、1896年は製造年です。三菱物産が請け負ったこの外国製鉄管は、発注された年(明治29年)に製造され、その年の12月15日に英国汽船に搭載されて宇品港に入荷しました。

5回にわたって納入されますが、到着時に破損管があったりしたため不足が生じましたが、不足分は国制鉄管で補充する契約となっていたため、大阪砲兵工廠(最後は大阪陸軍造兵廠)鋳造の鉄管も納入されました。大阪砲兵工廠は、直管のほかにも異形管などの鋳鉄管類を製造しています。

展示会場を進むと、大阪砲兵工廠で製造されたと思われる水道管が見つかります。

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なぜ、大阪砲兵工廠製造と解るかといえば、★印の下に少し見にくいのですが、製造年を示すと思わせる文字が、西暦ではなく「MEIJI」と刻まれているからです。その下に「×」記号が、かすかに見えます。この記号は、大阪砲兵工廠を表していると思われますが、確認が取れていません。

ところで、展示された水道管の上部に貼られた説明文には、「大正時代の鋳鉄管」と書かれています。

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★印の下に刻まれた文字は、「MEIJI・・」となっていますので、説明文と違って明治時代に製造された鉄管だと思うのですが?

この鉄管では、「MEIJI」の後に刻まれた二文字を読み取ることができませんでしたが、後で館外の展示物を見た時、そこには製造された年が刻まれていることが分かったのですが、それについては、次回に館外の展示物を紹介する時、改めて報告します。

鉄管は、そのほとんどがイギリス製で、残りが大阪兵器工廠で製造されたのですが、接続水道布設用の異形管の一部には、広島市内広瀬町の瀬良鋳物工場が製造したものが使われています。

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上の写真は、創設時の仕切弁と説明されていますが、右側に延びた水道管には広島市章が刻まれていますので、市民用水道に接続するために使われたものだということが分かります。

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同じ創設時の仕切弁でも、隣に展示されていた物には、★印の下に「1896」の文字が刻まれていますが、上の写真の仕切弁には、製造年が刻印されていません。説明文に記載されていませんので想像するしかないのですが、こうした違いから瀬良鋳物工場が作ったものではないかと思われます。

この仕切弁が瀬良鋳物工場製でなかったとしても、当時すでに、鋳鉄管やこんな複雑な仕切弁を製造することができた会社が、市内にあったことを示す貴重な資料だと思います。

原爆からの復興の様子も展示されていますが、今回は省略します。2階を見終えた後、1階の展示を少しだけ見学して外に出たのですが、その様子は次回12日に報告します。

いのちとうとし

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