明教寺(中区猫屋町)訪問記
今週に日曜日の午後に放送されたRCCの「元就。後猫屋町の実はをさがしてすたこら」で「明教寺の被爆電車敷石」が紹介されました。
昭和19年まで本川駅から左折(本川橋から見て)し現在の本川小学校前の道を南進していたといわれる電車道のことが気になっていたのですが、この番組でその痕跡の一端を知ることができましたので、早速明教寺を訪問しました。
本堂は、改修工事用の幕でおおわれており、「被爆電車石」を見つけるのに苦労しましたので、お寺の方に教えていただこうと思い本堂右手にある庫裡の呼び鈴をおしました。
全くの偶然ですが、「元就。」と同じように、最初に若奥さん(テレビでは、自分のことを「坊守」と紹介)が、そして副住職のご主人が出てこられました。今日訪れた趣旨をお話しし、まず「被爆電車石」の場所を教えていただきました。本堂の北側の通路に何枚か敷かれていました。
本堂沿いに10枚以上敷かれているようですが、工事用幕で目にできるのは数枚です。
「確か、どれかの敷石に釘が残っていますよ」と教えていただき、一緒に探しました。小さな釘の頭のようなものが見つかりました。目に入ります。
そう話しているうちに、檀家回りを終えられた新田洸真住職が帰ってこられました。まるでテレビで見た流れと同じになってきました。持参した昭和14年当時の地図の複製を広げて、さらに話を聞きます。「この寺の前の道を電車が走っていたのですね」「そうです。電車の敷石は、必要な人はどうぞということだったので、かなりの枚数をいただき、門から本堂までずっと敷き詰められていたのですが、寺の改修した今はこの部分だけです。」かつて電車が走っていた痕跡の一部に出会うことができました。
地図を見ながらの坊守さんのお話。「RCCで使われていた地図には、寺の名前が『妙教寺』と間違った寺名になっていましたが、この地図は正しく書いてありますね。どこかで入手できますか?」古本屋アカデミイを紹介しておきました。
テレビの番組では、もう一つの疑問がありました。それは、毛利家が関ヶ原の戦いに敗れ、長門の国萩に入封されたときのことです。番組では、萩のお城の写真が出て来た後「リストラに遭い・・・」という住職の話が続きましたので、「このお寺は、一度萩に移った後、こちらに戻ってこられたのですか?」と訊ねてみました。
住職のお答えです。
「もともとこのお寺は、安芸高田の甲立にあった高林坊の住職が、高林坊はそのまま残して毛利輝元公と共に広島に出府し、寺地並びに城の用材の一部を与えられて創建した寺です。この時一緒の移ってきた檀徒の数ははっきりしませんが、800ぐらいだったのではといわれています。毛利家が萩に入封する事には、大幅に減封されましたので、全部が付いていくことはできず200ぐらいの檀家が付いて行ったといわれています。この寺を建立した住職は、萩に一緒に移転し泉福寺を建立しましたが、明教寺はここに残りました。テレビで『リストラ云々』といったのはこのことです。」ようやく理解できました。
平和公園周辺のお寺を訪ねた時気になるのは、被爆した墓石などのことです。「電車の被爆敷石のほかに被爆当時のものはないですか?」「門の右手にある記念碑が被爆しています。本堂前にある墓石は、新しく建て替えられてものがほとんどですが、あちらの墓地(道路を挟んだ北側)には、古い被爆した墓石がありますよ。」「ありがとうございます。写真を撮りながら、廻らせていただきたいと思います。」とお礼を言ってお別れをしました。
下の写真が、被爆した「浄観33回忌記念碑」です。真ん中ほどに亀裂が入っています。
この碑は、明治初頭の仏教界に大きな打撃を与えた、特に神仏分離と廃仏毀釈というめまぐるしい社会情勢の変化の中で、明教寺が生き残りと教義普及のための新しい信仰結社「閳(せん)教社」(後の「閳教部」)の創設を指導した浄観(1876~19886年)を記念して建立されたものです。
北側の墓地に足を運ぶと、すぐ左手に「明教寺合塔」が目に入ります。この碑も被爆しています。
更に墓地内を回ると、多くのお墓が新しくなっていますが、被爆前に建立された碑もいくつか目に付きます。「對馬家之墓」も右上角が補修されています。
裏側には、没年が昭和20年8月6日となっているお二人の名前が刻まれています。「昭和20年8月6日」と刻まれた墓が他にもいくつもあります。
ところで住職とお別れする前に、「明教寺の寺史を記したものはありませんか」とお尋ねしたところ、前住職新田哲正さんがまとめられた「明教寺小史」を譲っていただきました。
「もっと詳しいことは、2004年に発行された『原爆と寺院』に載っています。これを書いた新田光子は、私の妹ですが、それを読んでいただくとさらによくわかると思います。」この「原爆と寺院」は、以前購入しましたが、開くこともなく積読のままになっていた本です。これを機会に改めて読んでみようと思います。
ご住職の話では、「閳教部」は様々な興味深い活動もあったようですので、「原爆と寺院」を読んだ後改めて紹介したいと思います。
いのちとうとし
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