浄国寺(中区土橋町)訪問記その1-被爆の痕跡を訪ねる
古い新聞の切り抜きを整理していたら2017年12月25日の中国新聞平和面の「地域の被爆し伝える場に 爆心地から600メートルの浄国寺」の記事が目に留まり、改めて同寺を訪ねてみました。
浄国寺は、1573年に安芸国高田郡吉田村(現在の安芸高田市吉田町)に建立された歴史あるお寺です。その後広島藩主となった福島正則のすすめによって、現在地に移住することになりましたが、寺域はもともと毛利元就公の別邸があったところです。
由緒ある浄国寺ですが、1945年8月6日の原爆被災を免れることはありませんでした。爆心地から600メートルの浄国寺も一瞬のうちに焼失し、当時の住職は建物の下敷きとなって亡くなっています。
2006年に火災にあった浄国寺は、お寺の再建と共に墓地などの整理と共に原爆犠牲者の慰霊碑等も整備されました。新聞記事は、このことを紹介したものでした。
山門を入るとすぐ左手に、一カ所の集められた慰霊碑や被爆した六地蔵などが、目に入ります。
真ん中の線香台を挟んで、右側に文字も読み取ることができなくなった木柱が建っています。
1947年8月15日に建立された当時は、「広島防空機動隊員慰霊碑」と書かれていたようです。防空機動隊員とは、空襲警報時に動員され、伝令をもってまわった人たちのことです。2006年、お寺は火災に見舞われますが、この木柱の慰霊碑は、幸いにして焼失は免れ、当時のまま立ち続けています。今は文字はもちろんですが、木柱そのものもかなり痛んでいます。
左側には、高さは約50センチ小さな石の慰霊碑があります。
同じ1947年8月15日に地域住民を慰霊するため「西地方・西新町町民慰霊碑」が、同じように木柱で建立されましたが、こちらは早く朽ちたため1970年頃石碑に置き換わったようですが、「西地方町」は、土橋町に町名が変更される前の地名だったそうです。
この石碑には、文字は刻まれていませんので、二つとも見ただけでは何のための碑か知ることはできませんので、2017年の整備で、それぞれの名前を刻んだ御影石の台座が据え付けられました。下側の写真と比べるとその違いがよくわかると思います。
その二つの碑の後ろに、1770年に建立された被爆した6地蔵が、一列に並んでします。
よく見ると顔の一部が欠けていたり胴体部分に亀裂があることが分かります。被爆によって被害を受けたことが想像できます。お寺の言い伝えでは、「境内にあった6地蔵の御首のひとつが、寺から300~400メートルも離れた土橋の電停の近くに飛んでいた」ことになっています。「おこり地蔵」のような話です。お寺にも聞き、私も首のまわりを調べたのですが、ほとんども地蔵の首の回りが補修されていましすので、御首が遠くに飛ばされたど地蔵がどれなのかは、はっきりさせることはできませんでした。
ところでこの6地蔵、以前に私が訪れた時には、境内の奥の方にばらばらにあったと記憶していたのですが、今回の整備で原爆由来ということでしょう、慰霊碑と一緒の場所に集められたそうです。
境内の墓地を回ると、被爆したと思われる古い墓石もたくさんあります。その中には、原爆の影響を受けたと思われる傷跡が残る墓石がいくつも目に付きます。
また、このお寺の境内でも、「昭和20年8月6日原爆死」刻まれたお墓をいくつも目にすることになりました。このお墓には、7名の名前が刻まれています。
以前訪れた時には、墓地の一番奥には、無縁の墓がびっしりと並んでしました。それは、戦後の区画整理で浄国寺の境内が半分になった時、無縁墓が集められ、置かれていた墓石だったようです。下の写真が、当時の様子です。
墓石が並んで置かれていた墓地の西端は、きれいに整備され新しい墓所に整地されています。
「無縁墓はどうなったのか」かとお寺に訊ねたところ、「墓地の右奥に永代供養墓『あおそら』を作り、戦後合同供養墓で供養した無縁墓の遺骨や身元の分からない原爆犠牲者の遺骨と共に全てを納め、地域の被爆史を伝える祈りの場として、長く大切に供養することにしました」とのことでした。写真の右奥に永代供養墓が見えます。
遺骨を全て永代供養墓に納めたことから、私がかつて見た無縁墓の墓石は、すべて処分されたようです。
ここまでの紹介で長くなりましたので、つづきは明日にします。
いのちとうとし
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