明教寺と被爆し廃校となった光道国民学校-その2
昨日のつづきです。主題の「原爆と光道国民学校」についは、「原爆と寺院」に加え「広島原爆戦災誌」を参照しながら書くことします。
どちらの書籍にもはっきりとした時期が書かれていませんが、被爆当時、光道国民学校の校舎は軍に接収され、広島憲兵分隊が駐留していました。憲兵隊が駐留したためでしょうか、学校そのものが明教寺に移されたため、ここでは学校行事は行われていません。明教寺の本堂などが校舎として使用されるのは、1922年に火災にあった時以来2度目です。
当時、中心部にあるほとんどの国民学校は、軍の部隊が駐留していましたが、共用していたため、学校行事も行われていました。光道国民学校では、同じような鉄筋コンクリートの校舎だった袋町国民学校も、本川国民学校も軍も使用してはいましたが、学校校舎として使われていました。
ですからどうしても「なぜ光道国民学校だけ軍専用となったのか」という疑問が湧きます。やはり「憲兵隊が接収したから」としか考えようがありませんが、疑問に明快の答える理由はどの本にも書かれていません。
被爆当時の学校の様子です。
「原爆と寺院」によれば、当時の児童数は小学部男女250名となっていますが、原爆投下時には、集団疎開や縁故疎開で、約160名がこの地を離れており、児童疎開後は、1,2年生のごく一部が残留していたようです。しかし広島原爆戦災誌には、人的被害として「明教寺で被爆した石本校長と現業員岩城夫婦2人の計3人が即死した。当時校内にいた生存者はなく、炸裂下の状況は分かっていない。」と記載されているだけです。「原爆と寺院」にも、これ以上詳しいことは書かれていません。学童疎開せずに残って明教寺に通学していた子どもたちの何人が犠牲になったかは定かではありません。被害状況が不明な理由の一つとして、地元から通学する子どもが多かったようですが、私立学校だったため地元以外からも通学していた子どもたちがいたことが考えられます。
疎開していた子どもたちも、原爆投下の直接の犠牲にはならなかったものの、地元が多かったことから多くが家族を失うことになりました。
手前は本川小学校、奥に見えるのが光道国民学校:米軍返還写真
光道国民学校校舎は、鉄筋コンクリート3階建だったため、原爆による被害は、上の写真のように外形はもちろんですが、内部も焼けた形跡はなく、全体としては小破程度だったようです。そのため、アメリカ進駐軍に接収され、ダンスホールに改造されようとしてのですが、被爆によって校舎を使うことができなくなっていた崇徳中学(同じ宗派の学校)の強い要望がありが、10月1日から約1年間仮校舎として使用することになったため、進駐軍によって使用されることはありませんでした。
ただ、光道国民学校自体は、学校の再建の見込みが立たないまま、1945年(昭和20年)11月に廃校が決定、その後1951年(昭和26年)には、学校再建の計画が進められましたが、資金繰りが難航し、実現せず、被爆後廃校となった3校の一つとなりました。
現在、その跡地には、1階に百円ショップ「ダイソー」が入る「猫屋ビル」が建っています。学校の跡を示すものはありませんが、猫屋ビルの左側にあるテナントを表示する縦看板の一番上に「(財)閳教部光道会館」の文字を見ることができます。事務所は、4階にあるようです。
この原稿を書きながら思い出したことがあります。
ブラジル在住被爆者の森田隆さんのことです。「森田さんは、確か憲兵隊所属だったはず。きっとこの光道国民学校に駐留されたに違いない」と、「ブラジル・南米被爆者の歩み」(森田隆、森田綾子編著 2001年刊)に記された森田隆さんの体験記を読み直しました。
ありました。「広島市猫屋町の元光道館に設営された中国憲兵隊司令部。機動憲兵隊の宿舎に入りました。」「運命の8月6日の朝を迎えました。本土決戦に備え広島市西部の己斐山腹に地下壕づくりに従事する補助憲兵と同僚の13名。前夜より警戒警報解除の午前8時に、私の指揮で正門を出ました。」
元光道館が、光道国民学校です。この正門は、光道国民学校の正門です。当時の正門は、西側の電車通りに面していました。森田さんは、すぐ前の土橋電停から電車に乗り、寺町電停で下車し、横川駅を渡って西へ向かく時、被爆することになります。
明教寺訪問から色々なことが結びついた今回も不思議な縁を感じました。
いのちとうとし
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他の学校と違い、名士の子息子女が通う学校でしたから、何らかの力が働いたのではないでしょうか。
投稿: 広島 | 2023年10月 5日 (木) 10時59分