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2021年9月29日 (水)

浄国寺(中区土橋町)訪問記その3-ペギー葉山と原爆

「目の前にある小鷹狩家の墓は、浅野藩の家老(後に家老ではなく重臣と判明)を務めていた家の墓ですが、歌手のペギー葉山さんの親戚にあたるそうですよ」男の人に教えたいただいた最後の内容です。「ペギー葉山さんは、広島に来られた時には、よくお墓参りをされていたようです。」

「えっ、そうですか」ただびっくりして聞くのみです。

その時の会話は、それだけでした。確かに目の前には、石の塀で囲われた立派な3基の墓が並んでします。場所は、本堂の正面です。

20210925_144406

小鷹狩(こたかり)という名字も初めて聞く名前です。帰宅して早速ネットで検索しました。

ペギー葉山:出生名―小鷹狩繁子 生誕―1933年12月9日 死没―2017年4月12日(83歳歿) 1965年に俳優根上淳さんと結婚し名字が森と改名。

間違いなく、このお墓とおなじ「小鷹狩」家の生れです。

さらに、ネットで検索しているとペギー葉山さんが亡くなった2日後の中国新聞の「天風録」がヒットしました。そこにはこう書かれている。

Photo_20210928180301

「『おじいちゃーん』。72年前の夏、福島にいた少女が広島へ向かって、泣きながら叫んだ。父の故郷に疎開していたら、その祖父と一緒に被爆死していただろう。後に「ドレミの歌」を歌う、ペギー葉山さんである。残念ながら訃報が届いた▲祖父は仏壇の前に座り、手を合わせた姿で焼かれた―。伝え聞いた最期を、ブログに何度も記して悼んでいる。先祖は広島藩の重臣を務めたともいう。華やかな世界に生きた人だが終生、広島との深い縁を大事にした」

この記事を頼りに、ペギー葉山さんのブログを検索してみると、幸いなことに今も残っていました。被爆と関わりのあるものが数回見つかりましたが、その内で先祖との由来がよくわかる2009年8月6日に掲載された「広島への祈り」の一部を引用します。

「今日は広島への原爆投下の日。私の祖父の命日です。朝、仏壇に手を合わせながら、64年前を思い出していました。父の故郷の広島へ99%縁故疎開することが決まっていた私に父が突然変更したのです。海軍の基地もある『呉』が敵の標的になることを心配したからです。土壇場に私は中野区桃園第二国民学校5年生の集団疎開児童として急遽、今のいわき市に出発することになりました。昭和198月終わり、暑い朝のことです。その後戦争が激化し終戦は再疎開の地の田島で迎え、その後、姉が出産のため滞在していた宮城県の中山平に滞在中の母に引き取られました。8月の10日頃だったでしょうか、広島に特殊爆弾が落とされて沢山の人が亡くなり、祖父をはじめとして親戚が焼け出されたというニュースを新聞で知ったのでした。それと同時に祖父があの815分、家の仏壇に手を合わせたままで遺体で発見されたという悲しい知らせを受けたのでした。オジイチャマに可愛がってもらっていた私は夢中で飛び出しました。滞在していた旅館の『仙庄館』のすぐ前の坂を駆け上って、空に向って『オジイチャーーン』と泣きながら叫んだ悲しい思い出があったのです。たった一発の恐ろしい『ピカドン』で30万人以上の罪のない市民が、地獄絵図の中に亡くなったあの恐ろしい日。そして続いて9日は長崎にも・・・地球が汚染を始めたのはあの戦争以後のことです、神がお怒りになっているのです。核兵器は絶対許せないものです。このおぞましい兵器を現在保有している国が存在していることすら、許せないことです。」

他のブログでは、こうも書かれています。

「父方の祖父は東京と広島を行き来していて、東京の我が家では私はいつも、おじいちゃまのお世話係、とても可愛がってくださっていました。ですから広島に疎開をしていたら当然いつもおじいちゃまと、朝の仏壇のお祈りを一緒にしていたはず」

次の日再び浄国寺を訪れた時、「そうです。このお墓がペギーさんの実家のお墓です。よくお墓参りに来られていましたよ」と教えていただきましたので、改めて小鷹狩家のお墓を見ることにしました。向かって左側のお墓の右側面にペギー葉山さんの祖父だと思える名前が刻まれていました。右から2番目です。

20210926_091232

見難いのですが「覚法院正誉直信居士 昭和20年8月6日没 信太郎」と刻まれています。昭和20年8月6日没と書かれている名前は、信太郎さん一人ですので、ペギー葉山さんの祖父で間違いないと思います。

ところで、ペギー葉山さんは、自伝の中で「二つの誕生日がある」として次のように書いています。

「ペギー葉山には、2つの誕生日があります。2人の姉(二女は他界)がいて、それぞれ4つずつ年が離れ私は末っ子です。父方の小鷹狩(こたかり)家の先祖は、広島藩主の浅野家家老職を務めたこともある由緒ある家系。母方の祖父は白虎隊の生き残りで、両親とも厳格でした。

 そして親たちの『今度こそ男子誕生』の祈りも虚しく私が生まれたのです。

 よほど落胆したのでしょうか、祖父は1933年11月9日に、東京・四谷で生まれた私の出生届を引き出しに入れたまま出し忘れたため、戸籍上の出生日は1カ月遅れの12月9日になったのです。」

ここに書かれた祖父こそ、よく広島から上京し一緒に暮らすことの多かった原爆死した祖父です。

思いがけず長くなってしまいましたが、やっと「浄国寺訪問記」を終えることが出来ました。

いのちとうとし

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