明教寺と被爆し廃校となった光道国民学校-その1
昨年6月29日のブログ「原爆で廃校となった大手町国民学校: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」の最後に「 公立の国民学校で廃校となったのは、大手町国民学校だけですが、戦前にあった民間の国民学校2校(済美国民学校、光道国民学校)は、いずれもその年に廃校となっています。この2校のことも改めて調べてみたいと思っています。」と書きました。しかし、その後何の進展もないままでしたが、先日の明教寺訪問で、このうち光道国民学校についてのあらたなことを知ることができました。
新田洸真住職から「閳教部は、色々な活動をしたのですが、広島県で最初の私立学校『光道館』を作ったのですよ。原爆を受けた時には、光道国民学校と名称が変わっていたのですが。詳しいことは『原爆と寺院』に書いてありますので、ぜひそれを読んで下さい」と聞かされました。
広島原爆戦災誌以外に手がかりを見つけることができなかった「光道国民学校」のことを、明教寺訪問で聞くことになるとは思いませんでした。
最初に、「原爆と寺院」を参考に、「光道国民学校の歴史」を簡単に紹介します。
この学校は、1879年(明治12年)に真宗門徒によって「光道館」という名称で設立されたことを起源としています。「光道」の名前の由来は「真宗の重要な経典である『無量寿経』のなかの『光閳道教』の言葉に依拠して命名された」と記されています。そして、この学校は、県内最初の私立学校だっただけでなく、真宗関係教育機関として、かなりユニーク(当時珍しかった男女共学や自由教育などのこと)な存在だったようです。そして1883年(明治16年)に小学校と改組されます。1922年(大正11年)に隣接工場からの失火で全焼した時には、明教寺が校舎として転用されてようです。1923年(大正12年)に校名が「広島光道学校」に改称され、1924年(大正13年)には、鉄筋コンクリート建3階の近代校舎として竣工します。当時、鉄筋の校舎は、広島市内はもとより神戸以西の学校では初めてのものでした。
下の写真は、「原爆と寺院」に掲載された1940年(昭和15年)当時の校舎です。鉄筋コンクリート建のずいぶんと立派な建物だったことが分かります。当時は、幼稚園(男女80名)も併設されていました。
学校は、現在の電車通りに面したところにありました。下の地図は、1940年頃のものですので、まだ電車通りは古いままです。光道学校の前に電車通りが移るのは、1944年12月26日からです。地図左側に光道学校の文字があります。この地図は「原爆と寺院」に使われているのですが、先日のブログで紹介したように明教寺が妙教寺となっています。
「被爆し廃校となった光道国民学校」については、1回で終了する予定でしたが、光道国民学校の歴史の紹介が長くなってしまいましたので、原爆とのかかわりについては、次回に紹介します。
いのちとうとし
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