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2021年9月16日 (木)

『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

小山田圭吾事件の「犯罪性」を軸に、建設的な提案ができないものかいろいろ勉強をしてきたのですが、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) が提唱している枠組みが大変貴重ですので、今回はその概略を報告します。

一言お断りしておきますが、今後、人名については敬称を略します。

『いじめ』では、副題が示しているように「いじめ」と法との関係に焦点を合わせています。通常の「法律」よりは広い概念ですが、その中心にあるのは当然、「法律」です。

『いじめ』では、学校における「いじめ」が矛盾した存在である点から出発します。一方では、「いじめ」と呼ばれる行為のほとんどが大人の社会であれば「犯罪」、つまり「違法行為」であるという事実があります。

この点について、『いじめ』では文科省が「いじめ」についてのアンケートで挙げている項目に注目します。それらは、「悪口や脅し文句、嫌なことを言われる」というあたりから始まり、「金品をたかられる」や「金品を隠されたり、盗まれたり、壊されたり、捨てられたりする」さらに、「嫌なことや恥ずかしいこと、危険なことをさせられたりされたりする」等です。大人の職場なら最低ハラスメント (それも犯罪として位置付けられています) として問題にされることであり、傷害罪、窃盗、恐喝、強要等の罪名が付く犯罪です。

他方、刑法には第41条で「14歳に満たないものの行為は、罰しない」という規定があります。「罰しない」という規定があるのですから、仮に14歳未満の子どもが学校で犯罪を犯してもそれは「犯罪」とは認められないことを意味します。

注記: ここでは「犯罪を犯す」という表現を使っています。本来は「罪を犯す」と言うべきだとの考え方もあり、しばしば、「犯罪を犯す」は重言だから使ってはいけないと主張する人もいます。しかし、「犯罪」の意味の一つは「法律によって罪を科される行為」ですし、この意味以外で使われる場合は少ないのではないかと思います。従って、字面だけを見ると「重言」ですが、意味としては「罪を犯す」では特定されない、ハッキリ限定された範囲を指していますので、この表現を使います。

さらに、14歳以上18歳未満の場合は少年法が適用されるので、「いじめ」における「犯罪性」、あるいは「犯罪度」といった方が正確なのかもしれませんが、の認識が甘い方に偏る結果になってしまっているのかもしれません。この点を『いじめ』では、次の表としてまとめています。

Photo_20210915205101

『いじめ』では、この表の「青の領域」における子供たちの行動については「教育の力」だけでは十分に対応できなかった。それ以外の力、つまり「別の力」によって子どもたちが動き始めていると主張しています。この辺りの記述はかなり複雑で私流に整理してみると、次のようなことになります。

その「別の力」とは、この時期に子どもたちにとって、「法的な領域」の中にいるという (仮に言語化できていなくても) 感覚的理解とでも表現すべき前提の元に子どもたちを動かす力のことだと、私には読み取れました。

このような状態を『いじめ』では「小さな法の人」、あるいは「法の人」と表現していて、多くの子どもたちにこの意識が生まれるのは、9歳から10歳くらいだと特定されています。

そして『いじめ』の結論部分は次の通りです。

「青の領域」にいる子どもたちに、「法の人」になる「時期」を想定して、ここから始まるこの「小さな法の人」をしつかりと育ててゆくようなイメージを本当につくり出せるのかということです。

その可能物は、子どもたちが、教師と自分たちでこの「青の領域」期に自治(私はそれを「教室に広場をつくる」活動と呼んできました)が出来るような「教育態勢」をつくってゆけるかどうかにかかってきます。そしてその態勢をつくることが、「いじめ苦」「いじめ死」に向かい合う唯一の対応ではないかと私は考えてきました。

私がこのことを突き詰めて考えるきっかけになったものは中井久夫氏の「いじめの政治学」(1997年)という論文でした、そこで中井氏は「子どもの世界には法の適用が猶予されている。しかし、それを裏返せば無法地帯だということである。子どもを守ってくれる『子ども警察』も、訴え出ることのできる『子ども裁判所』もない。子どもの世界は成人の世界に比べてはるかにむきだしの、そうして出口なしの暴力社会だという一面を持っている」と指摘されていました。

私はこの論文を真正面から受け止め、ならば「子ども警察」のようなもの、「子ども裁判所」のようなものを考えることをもっと積極的にすべきではないかと思いました。

本書は、中井氏の思いに対する私の精一杯の返答になるように書い

たものです。

ここで思い出して頂きたいのは、シリーズの第4回で御紹介した楠凡之の『いじめと児童虐待の臨床教育学』 (2002年、ミネルヴァ書房) です。その結論部分を掲げます。

その結果として、「いじめ」の問題に関わる教師が心すべき留意点を5つ挙げています。

(1) 「集団的自立」のエネルギーを発揮できる活動世界の創造

(2) 子どもたちとの相互的な関係性を築きつつ、自らの価値観を明示していくこと

(3) 仲間集団のなかに相互尊重の関係性を実現していくこと

(4) 「9,10歳の発達の節目」を乗り越えていける学力の保障

(5) いじめや仲間集団内のトラブルを克服していける自治的な力量の形成

視点は少し違いますが、村瀬学の『いじめ』との共通性に御注目下さい。そしてこれは、同じく第4回で報告したように、尾木ママが北欧で見聞したこととも共通点がありますので、国際的に共有されているノウハウなのではないかと考えられます。

次回は、『いじめ』の中で報告されている実践例を取り上げた上で、再度視野を国際的に広げたいと思います。

[21/9/16 イライザ]

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