わが郷土五日市町と原爆
僕が生まれたのは、広島県佐伯郡五日市町海老塩浜279番地です。その後広島市と合併して、広島市佐伯区海老園2丁目となりました。この海老塩浜を「かいろうしおはま」と正しく読める人は、余りいません。
両親と姉は今の広島市南区皆実町で原爆に遭ったのですが、住む家が無くて父親の親戚の世話でこの場所に避難しました。原爆から4年後に僕はここで生まれ、またその4年後に父親が亡くなったのです。父の死んだ時は今の広島市中区加古(かこ)町でした。以前加古町は「水主町」と書いていました。父の死後、親子4人は再びこの場所に住むことになり、それ以降ずっとここに住んでいます。
さてわが旧・町五日市町、この家から平和公園の原爆慰霊碑まで、車で約11キロメートルです。
先日、遠い親戚にあたる80歳を超えた人から「私の親が避難してきた被爆者の介護をしたと聞いているのだけど、どこでそれをやったのか分からんじゃろか」と訊ねてこられました。その親はずっと前に亡くなっておられます。
こういうことに関心があるので、調べることにしました。区役所にある「五日市町史」で調べることにしました。上・中・下巻の3巻でそれなりの厚さのある「五日市町史」、思ったより原爆後の記述は少ないように思いました。
原爆が投下された時、五日市町にも爆風の影響でガラス窓が割れたと書いてありました。その後、多くの人が避難してきたようです。次のところが避難者を受け入れたと記録されています。
次のようにありました。
各民家→約2,700人
五日市国民学校(現・五日市小学校)→約900人
光禅寺→約100人
楽々園遊園地(現・大型スーパー店など)→約800人
五日市隔離病舎(現・五日市中央公民館→36人
石内浄土寺→約60人
八幡国民学校(現・八幡小学校)→1,343人
観音国民学校(現・観音小学校)および地区会館→約400人
五日市町役場(現・広島市佐伯区役所→約1,100人
となっていました。合計で約7,500人ですね。実際はもっと多くの人が避難されてきたと思います。そして多くの被爆者が亡くなっています。
治療行為をされた医者の名前も記してありました。知っている名前も数人ありました。歯医者さんも加わり、治療は「赤チン」などしか無かったようです。当時治療にあたった人は皆さん、あの世の人になっておられます。その人の子どもさんと思われる方が、開業している病院は見かけますが。
また、五日市町には広島戦災孤児育成施設・童心園(どうしんえん)がありました。当初は童心寺と言ったそうです。現在は障害者通所施設・皆賀園となっています。ここの生活を元に作られた映画「青葉学園物語」は、「マーケット」と呼んでいた商店街でロケが行われてたのを思い出します。
そして先日判決が確定した「黒い雨」被爆者、そのエリアの中には旧・五日市町も含まれています。わが郷土五日市と原爆の関係も、もっと関心を持って学びたいと思っています。
木原省治
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