「広島ブログ」

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2021年9月

2021年9月30日 (木)

9月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

23日には3段あるブルーベリー畑に敷いている防草シートをはがして畳む作業が済んだので、草刈りとその合間に実のなった後の枝のカットなどを行う。農園の周辺では稲刈りがどんどん進んでいる。新米もそろそろ食べられるし、栗も食べられるし、富有柿はもう少し先。しかし、天気になると暑い日が続くがどうなん?といいたくなる。

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8月23日(木)。3段あるブルーベリー畑の列と列の間に敷いている防草シートをはがし、畳む作業が終わる。去年よりちょっと早く終わった。

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農園の友人2人が援農で来園。まだ少しあるブルーベリーの実を枝ごと切ってコンテナに入れ家の軒先で実と枝を仕分けしながらぺちゃぺちゃ。実を少しだけ安芸の郷に納品。

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9月25日(土)。刈り取りの終わった稲田と

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9月26日(日)。まだ刈っていない稲田。安芸の郷の給食で食べる米も10月から新米になる。安芸の郷の給食は地元の農事法人シバザクラの会から年間をとおして購入している。29日に10月分の新米を農園に持ってきてもらって安芸の郷に持ち帰る。

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農園の周囲の中秋を探す。

①.9月25日(土)イワシャジン

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②.クリ

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③.9月26日(日)キンモクセイ

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④.9月29日(水)サンシュの実。殻が割れ黒い実が覗く。殻を集めてつぶしてやるといい香りのスパイスになる。

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9月29日(水)のブルーベリー農園から。

①.晩生のブルーベリーの実が残っている。シーズンは過ぎているがジャムなどに利癒できる。

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②.10月になろうとしているのにまだブルーベリーの新芽が出て伸びる。多分暑さのせい。

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③.それでも早生のブルーベリーの葉がちらほら紅葉してきた。秋は進行中。

2021年9月30日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年9月29日 (水)

浄国寺(中区土橋町)訪問記その3-ペギー葉山と原爆

「目の前にある小鷹狩家の墓は、浅野藩の家老(後に家老ではなく重臣と判明)を務めていた家の墓ですが、歌手のペギー葉山さんの親戚にあたるそうですよ」男の人に教えたいただいた最後の内容です。「ペギー葉山さんは、広島に来られた時には、よくお墓参りをされていたようです。」

「えっ、そうですか」ただびっくりして聞くのみです。

その時の会話は、それだけでした。確かに目の前には、石の塀で囲われた立派な3基の墓が並んでします。場所は、本堂の正面です。

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小鷹狩(こたかり)という名字も初めて聞く名前です。帰宅して早速ネットで検索しました。

ペギー葉山:出生名―小鷹狩繁子 生誕―1933年12月9日 死没―2017年4月12日(83歳歿) 1965年に俳優根上淳さんと結婚し名字が森と改名。

間違いなく、このお墓とおなじ「小鷹狩」家の生れです。

さらに、ネットで検索しているとペギー葉山さんが亡くなった2日後の中国新聞の「天風録」がヒットしました。そこにはこう書かれている。

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「『おじいちゃーん』。72年前の夏、福島にいた少女が広島へ向かって、泣きながら叫んだ。父の故郷に疎開していたら、その祖父と一緒に被爆死していただろう。後に「ドレミの歌」を歌う、ペギー葉山さんである。残念ながら訃報が届いた▲祖父は仏壇の前に座り、手を合わせた姿で焼かれた―。伝え聞いた最期を、ブログに何度も記して悼んでいる。先祖は広島藩の重臣を務めたともいう。華やかな世界に生きた人だが終生、広島との深い縁を大事にした」

この記事を頼りに、ペギー葉山さんのブログを検索してみると、幸いなことに今も残っていました。被爆と関わりのあるものが数回見つかりましたが、その内で先祖との由来がよくわかる2009年8月6日に掲載された「広島への祈り」の一部を引用します。

「今日は広島への原爆投下の日。私の祖父の命日です。朝、仏壇に手を合わせながら、64年前を思い出していました。父の故郷の広島へ99%縁故疎開することが決まっていた私に父が突然変更したのです。海軍の基地もある『呉』が敵の標的になることを心配したからです。土壇場に私は中野区桃園第二国民学校5年生の集団疎開児童として急遽、今のいわき市に出発することになりました。昭和198月終わり、暑い朝のことです。その後戦争が激化し終戦は再疎開の地の田島で迎え、その後、姉が出産のため滞在していた宮城県の中山平に滞在中の母に引き取られました。8月の10日頃だったでしょうか、広島に特殊爆弾が落とされて沢山の人が亡くなり、祖父をはじめとして親戚が焼け出されたというニュースを新聞で知ったのでした。それと同時に祖父があの815分、家の仏壇に手を合わせたままで遺体で発見されたという悲しい知らせを受けたのでした。オジイチャマに可愛がってもらっていた私は夢中で飛び出しました。滞在していた旅館の『仙庄館』のすぐ前の坂を駆け上って、空に向って『オジイチャーーン』と泣きながら叫んだ悲しい思い出があったのです。たった一発の恐ろしい『ピカドン』で30万人以上の罪のない市民が、地獄絵図の中に亡くなったあの恐ろしい日。そして続いて9日は長崎にも・・・地球が汚染を始めたのはあの戦争以後のことです、神がお怒りになっているのです。核兵器は絶対許せないものです。このおぞましい兵器を現在保有している国が存在していることすら、許せないことです。」

他のブログでは、こうも書かれています。

「父方の祖父は東京と広島を行き来していて、東京の我が家では私はいつも、おじいちゃまのお世話係、とても可愛がってくださっていました。ですから広島に疎開をしていたら当然いつもおじいちゃまと、朝の仏壇のお祈りを一緒にしていたはず」

次の日再び浄国寺を訪れた時、「そうです。このお墓がペギーさんの実家のお墓です。よくお墓参りに来られていましたよ」と教えていただきましたので、改めて小鷹狩家のお墓を見ることにしました。向かって左側のお墓の右側面にペギー葉山さんの祖父だと思える名前が刻まれていました。右から2番目です。

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見難いのですが「覚法院正誉直信居士 昭和20年8月6日没 信太郎」と刻まれています。昭和20年8月6日没と書かれている名前は、信太郎さん一人ですので、ペギー葉山さんの祖父で間違いないと思います。

ところで、ペギー葉山さんは、自伝の中で「二つの誕生日がある」として次のように書いています。

「ペギー葉山には、2つの誕生日があります。2人の姉(二女は他界)がいて、それぞれ4つずつ年が離れ私は末っ子です。父方の小鷹狩(こたかり)家の先祖は、広島藩主の浅野家家老職を務めたこともある由緒ある家系。母方の祖父は白虎隊の生き残りで、両親とも厳格でした。

 そして親たちの『今度こそ男子誕生』の祈りも虚しく私が生まれたのです。

 よほど落胆したのでしょうか、祖父は1933年11月9日に、東京・四谷で生まれた私の出生届を引き出しに入れたまま出し忘れたため、戸籍上の出生日は1カ月遅れの12月9日になったのです。」

ここに書かれた祖父こそ、よく広島から上京し一緒に暮らすことの多かった原爆死した祖父です。

思いがけず長くなってしまいましたが、やっと「浄国寺訪問記」を終えることが出来ました。

いのちとうとし

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2021年9月28日 (火)

浄国寺(中区土橋町)訪問記その2-被爆の痕跡を訪ねるのつづき

昨日書き忘れたのですが、実は訪問した最初の日は、お寺が不在で詳しいことを聞くことができませんでしたので、翌日再び訪れ、ようやく話を聞くことができました。丁寧な対応していただき、最後に「今日は法事がありますので、詳しいことはこれを読んで下さい」と新しくできたパンフレットを手渡されました。そのおかげで、この訪問記の内容も少し豊かにすることができたように思います。

そんな話の内容を含め、昨日のつづきです。

永代供養墓「あおそら」の並びの本堂側には、新しくペット用の合同墓が作られていました。

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これも今の時代の反映でしょうか。紹介したいのは、「ともいきの碑」と刻まれた合同墓は、新しい御影石でつくられていますが、周囲の敷石や手水鉢など黄色ぽっく見える石は、本堂西側のかつてあった庭園で使われていた被爆石が使われていることです。

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最初の日には、気づかなかったのですが、翌日のお寺さんの話しで知ることが出来た内容です。

業者からは、「被爆石を使うと工費が高くつきますよ」といわれたそうですが、「被爆石を大切に使いたいとの思いで、可能な限り被爆石を使ってください」とお願いされたため、多くの被爆石が使われ、今の姿になったようです。「被爆70年以上たっても被爆の事実を子どもたちに伝え続け、住民の祈りの場として貢献したい」と中国新聞記者に語られた思いが、よく理解できました。

もう一つお寺にとって大切なものがあります。2階の本堂入り口にかけられている寺号額です。

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この額は、境内で被爆したイチョウの木で作られています。原爆によって一瞬のうちに堂宇が焼失し荒涼とした焼け跡を残すだけとなった浄国寺の境内で、ぽつんと立っていたのがこのイチョウの木でした。焼け野原となった広島市内、この大イチョウは、遠く広島駅からも一目でそれと分かったといわれていたほどの大木だったようです。この大イチョウが写った写真はないかと「明教寺と被爆し廃校となった光道国民学校-その2: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で使った写真の中を探したのですが、それと確認できるものを見つけることが出来ませんでした。この大イチョウは、被爆後生き残っていたのかを聞くこともできませんでした。

浄国寺のホームページには、この墓地に眠る「ゆかりの人々」が紹介されています。その一人として「宮島杓子」を創案した「僧・誓真」が紹介されていましたので、その墓を探すことにしました。「誓真の墓塔は頂部が尖った長宝珠型をしている」と書かれていましたので、お墓の頂上部が尖ったものを探して歩き、何とか見つけることができました。

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「実誉至誠誓真大徳 寛政12年(1800年)8月6日歿」と刻まれていますので、間違いありません。大きなお墓ではありませんので、気を付けないと見逃がしそうです

お寺のパンフレットには、誓真についてこう紹介されています。「代々広島の大工町に住んで米屋を営んでいたが、25歳の頃、宮島光明院に投じて僧侶となりました。彫刻の才があり、木魚や仏具等を作っていましたが、島民の生活を救うため琵琶の形からヒントを得て飯杓子を発案し、島の名産になりました。また、島内の処々に井戸を掘り、石畳や石段を整備し、参拝者や島民を助けました。」

廿日市市の「宮島案内絵図」を見ると、光明院のすぐそばに「誓真大徳碑」があり、誓真が掘った井戸を示すと思われる「誓真釣井」(せいしんつるい)が、4カ所記されています。「飯杓子の発案」だけでなく宮島にとっては、絶対に忘れてはならない人のようです。

ところで、卵型をした「卵塔」といわれるお墓は、僧侶特有のものだそうです。

確かに、墓地の南東角にある浄国寺の歴代の住職のお墓も同じ形をして並んでいました。

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もちろん、ここにあるお墓も誓真のお墓と同様に、すべて被爆しています。

最初の日、ほぼ目的のものを探し終え、お寺が不在でしたので、あきらめて帰ろうと思ったのですが、ちょうどお墓参りの来られていた男性がおられたので、お寺に聞けなかったことを「何か知っておられるのでは」と声をかけたところ、「この境内には、歌手ペギー葉山さんの先祖のお墓があり、広島で公演があった時には、よくお墓参りに来られたそうです」という私にとっては思いがけない話を教えていただきました。

帰宅しネットで調べると、ペギー葉山さんと原爆との意外な接点を知ることになりましたが、今日も長くなりましたので、その話は明日紹介します。

いのちとうとし

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2021年9月27日 (月)

浄国寺(中区土橋町)訪問記その1-被爆の痕跡を訪ねる

古い新聞の切り抜きを整理していたら2017年12月25日の中国新聞平和面の「地域の被爆し伝える場に 爆心地から600メートルの浄国寺」の記事が目に留まり、改めて同寺を訪ねてみました。

浄国寺は、1573年に安芸国高田郡吉田村(現在の安芸高田市吉田町)に建立された歴史あるお寺です。その後広島藩主となった福島正則のすすめによって、現在地に移住することになりましたが、寺域はもともと毛利元就公の別邸があったところです。

由緒ある浄国寺ですが、1945年8月6日の原爆被災を免れることはありませんでした。爆心地から600メートルの浄国寺も一瞬のうちに焼失し、当時の住職は建物の下敷きとなって亡くなっています。

2006年に火災にあった浄国寺は、お寺の再建と共に墓地などの整理と共に原爆犠牲者の慰霊碑等も整備されました。新聞記事は、このことを紹介したものでした。

山門を入るとすぐ左手に、一カ所の集められた慰霊碑や被爆した六地蔵などが、目に入ります。

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真ん中の線香台を挟んで、右側に文字も読み取ることができなくなった木柱が建っています。

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1947年8月15日に建立された当時は、「広島防空機動隊員慰霊碑」と書かれていたようです。防空機動隊員とは、空襲警報時に動員され、伝令をもってまわった人たちのことです。2006年、お寺は火災に見舞われますが、この木柱の慰霊碑は、幸いにして焼失は免れ、当時のまま立ち続けています。今は文字はもちろんですが、木柱そのものもかなり痛んでいます。

左側には、高さは約50センチ小さな石の慰霊碑があります。

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同じ1947年8月15日に地域住民を慰霊するため「西地方・西新町町民慰霊碑」が、同じように木柱で建立されましたが、こちらは早く朽ちたため1970年頃石碑に置き換わったようですが、「西地方町」は、土橋町に町名が変更される前の地名だったそうです。

この石碑には、文字は刻まれていませんので、二つとも見ただけでは何のための碑か知ることはできませんので、2017年の整備で、それぞれの名前を刻んだ御影石の台座が据え付けられました。下側の写真と比べるとその違いがよくわかると思います。

その二つの碑の後ろに、1770年に建立された被爆した6地蔵が、一列に並んでします。

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よく見ると顔の一部が欠けていたり胴体部分に亀裂があることが分かります。被爆によって被害を受けたことが想像できます。お寺の言い伝えでは、「境内にあった6地蔵の御首のひとつが、寺から300~400メートルも離れた土橋の電停の近くに飛んでいた」ことになっています。「おこり地蔵」のような話です。お寺にも聞き、私も首のまわりを調べたのですが、ほとんども地蔵の首の回りが補修されていましすので、御首が遠くに飛ばされたど地蔵がどれなのかは、はっきりさせることはできませんでした。

ところでこの6地蔵、以前に私が訪れた時には、境内の奥の方にばらばらにあったと記憶していたのですが、今回の整備で原爆由来ということでしょう、慰霊碑と一緒の場所に集められたそうです。

境内の墓地を回ると、被爆したと思われる古い墓石もたくさんあります。その中には、原爆の影響を受けたと思われる傷跡が残る墓石がいくつも目に付きます。

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また、このお寺の境内でも、「昭和20年8月6日原爆死」刻まれたお墓をいくつも目にすることになりました。このお墓には、7名の名前が刻まれています。

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以前訪れた時には、墓地の一番奥には、無縁の墓がびっしりと並んでしました。それは、戦後の区画整理で浄国寺の境内が半分になった時、無縁墓が集められ、置かれていた墓石だったようです。下の写真が、当時の様子です。

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墓石が並んで置かれていた墓地の西端は、きれいに整備され新しい墓所に整地されています。

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「無縁墓はどうなったのか」かとお寺に訊ねたところ、「墓地の右奥に永代供養墓『あおそら』を作り、戦後合同供養墓で供養した無縁墓の遺骨や身元の分からない原爆犠牲者の遺骨と共に全てを納め、地域の被爆史を伝える祈りの場として、長く大切に供養することにしました」とのことでした。写真の右奥に永代供養墓が見えます。

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遺骨を全て永代供養墓に納めたことから、私がかつて見た無縁墓の墓石は、すべて処分されたようです。

ここまでの紹介で長くなりましたので、つづきは明日にします。

いのちとうとし

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2021年9月26日 (日)

「いじめ」とコールバーグの道徳性発達理論 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (7)――

「いじめ」とコールバーグの道徳性発達理論

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (7)――

前回は、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) がどのように「いじめ」を把握しているのか、そしてその理解を元にした対策はどんなものなのかを概観しました。

「いじめ」の対策として村瀬が『いじめ』の中で薦めているのは、普通の「クラス会」とは別に「特別クラス会 (広場) 」を設けていじめの問題を話し合うことです。普通のクラス会が、「授業の場」あるいは「教育の場」に位置付けられているのに対して、「特別クラス会」は「法の場」として位置付けられます。それは、「先生のルール」と「子どもの自由なルール」という公開された場で共有されているルールの場に、「掟 = 子ども法」という地下に潜ったルールを持ち出して話し合いをするということです。

この「特別クラス会」を機能させるために、4月の新しい学年が始まる最初の日に、先生は生徒との間で「六つの合意」を取り交わします。念のために、「六つの合意」を再掲します。

合意① 「アンケートの項目」をわたしはしない、させない。

合意② トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する。

合意③ 公にされたことでの「仕返し」を許さない。

合意④ 「仕返し」がわかれば、緊急クラス会を開く。

合意⑤ 「緊急クラス会」でも改善が見られないのなら、親に来てもらい、現状を話す。

合意⑥ 家族と先生と学校が話をしても、違法性の改善が見られないのなら警察に訴える。

このような合意が守られれば、「いじめ」そのものを防げるであろうことは分ります。同時にいくつかの疑問も生じます。

例えば、「いじめ」は、一つのクラスの中に限定されているものではありません。例えば部活などの場で「いじめ」のあることは良く知られています。その場合はどうすれば良いのでしょうか。あるいは、前の年から続く「いじめ」があり、組替えで別のクラスになった「仲間」が、新学年になってもその行為を続けるというケースはどうでしょうか。

『いじめ』は、基本的な教科書であり、このような応用問題については別の著作や研究・実践があるのかもしれませんが、「クラス」より広範囲の場、例えば全校での取り組みも必要になってくるのではないでしょうか。

また「いじめ」は世界のどこでも起きているのですから、外国での経験や研究も参考になるはずです。その際に、「いじめ」を考える枠組みの一つとして、ロレンス・コールバーグの道徳的発達理論が役に立つと思えるのですが、村瀬の『いじめ』では、コールバーグへの言及が一切ありません。9歳から10歳頃に、子どもの中に「法」という意識が芽生えることを基本として「いじめ」の問題を扱っているのですから、コールバーグ理論の中の、中間的段階に現れる正義や法についての志向の変化・発達との関連を考えるのは自然なように思えるのですがどうでしょうか。

心理学や教育学を勉強した方には常識だと思いますが、ここで、コールバーグ理論の発達段階を日本語と英語のウイキペディアを元に簡単に示しておきましょう。各段階の下のイタリックの言葉は、その段階での道徳的思考の典型を示しています。

800pxkohlberg_model_of_moral_development

http://www.afirstlook.com/docs/diffvoice.pdf

 

1.慣習以前のレベル

第一段階=罰と服従への志向

「警察に捕まらないならば、それはOKだ」

罰の回避と力への絶対的服従がそれだけで価値あるものとなり、罰せられるか褒められるかという行為の結果のみが、その行為の善悪を決定する。

第二段階=道具主義的相対主義への志向

「気持ちが良ければ、やって良いんだ」

正しい行為は、自分自身の、また場合によっては自己と他者相互の欲求や利益を満たすものとして捉えられる。具体的な物・行為の交換に際して、「公正」であることが問題とされはするが、それは単に物理的な相互の有用性という点から考えられてのことである。

2.慣習的レベル

第三段階=対人的同調あるいは「よい子」への志向

「私のためだから、そうして欲しい」

善い行為とは、他者を喜ばせたり助けたりするものであって、他者に善いと認められる行為である。多数意見や「自然なふつうの」行為について紋切り型のイメージに従うことが多い。行為はしばしばその動機によって判断され、初めて「善意」が重要となる。

第四段階=「法と秩序」の維持への志向

「義務を果せ」

正しい行為とは、社会的権威や定められた規則を尊重しそれに従うこと、すでにある社会秩序を秩序そのもののために維持することである。

3.脱慣習的レベル

第五段階=社会契約的遵法への志向

「思慮深い人たちみんなの考えだ」

ここでは、規則は、固定的なものでも権威によって押し付けられるものでもなく、そもそも自分たちのためにある、変更可能なものとして理解される。正しいことは、社会にはさまざまな価値観や見解が存在することを認めたうえで、社会契約的合意にしたがって行為するということである。

第六段階=普遍的な倫理的原理への志向

「みんながそれと同じことをしたらどうなる?

正しい行為とは、「良心」にのっとった行為である。良心は、論理的包括性、普遍性ある立場の互換性といった視点から構成される「倫理的原理」にしたがって、何が正しいかを判断する。ここでは、この原理にのっとって、法を超えて行為することができる。

ここで「慣習的」という言葉は、「世間で受け入れられている善悪の判断」という意味です。多くの人は十代でこのレベルに達します。村瀬は『いじめ』の中で、9歳か10歳頃に子どもたちは「法の人」としての目覚めを経験することを指摘していますが、それは第1レベルの第二段階から第2レベルの第三そして第四段階への発達だと考えられます。

そして、『いじめ』の中の中心的解決方法として提案されている「特別クラス会」は、子どもたちを第3レベルの第五段階における判断をするような環境を創ることだと考えて良いでしょう。それも自分たちの手で「社会契約」をつくるという積極的な意味を持つことになるのです。

そして、コールバーグの理論を活用することで、「いじめ」の問題にどう取り組むのかという研究や実践も世界的に、そして我が国でも行われてきています。ネット上で探しただけでも、星野真由美による「いじめ問題への道徳的発達理論によるアプローチの方法について」(教育科学研究 第15号 1996年7月、17-27)や、その中でも触れられているコールバーグの提唱した「ジャスト・コミュニティ」の実践を取り上げている「ジャスト・コミュニティを目指す全校(学年)道徳という指導法」(田沼茂紀道徳教育研究室 2006年2006年12月24日号)が見付かります。

「ジャスト・コミュニティ」は、これまでこのブログで取り上げてきた、「集団的自立」や「特別クラス会(広場)」と共通した考え方ですので、これらの異なる理論や実践が相互に補い合い適用範囲を広げるなどすることで、さらに効果的な「いじめ」対策が可能になるのではないかと思います。

私は、コールバーグの発達段階理論を見詰めながら、第三者機関についての要件をより具体的に考えられるようになりました。その結果は次回に。

 [21/9/26 イライザ]

 

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2021年9月25日 (土)

わが郷土五日市町と原爆

 僕が生まれたのは、広島県佐伯郡五日市町海老塩浜279番地です。その後広島市と合併して、広島市佐伯区海老園2丁目となりました。この海老塩浜を「かいろうしおはま」と正しく読める人は、余りいません。

両親と姉は今の広島市南区皆実町で原爆に遭ったのですが、住む家が無くて父親の親戚の世話でこの場所に避難しました。原爆から4年後に僕はここで生まれ、またその4年後に父親が亡くなったのです。父の死んだ時は今の広島市中区加古(かこ)町でした。以前加古町は「水主町」と書いていました。父の死後、親子4人は再びこの場所に住むことになり、それ以降ずっとここに住んでいます。

 

さてわが旧・町五日市町、この家から平和公園の原爆慰霊碑まで、車で約11キロメートルです。

先日、遠い親戚にあたる80歳を超えた人から「私の親が避難してきた被爆者の介護をしたと聞いているのだけど、どこでそれをやったのか分からんじゃろか」と訊ねてこられました。その親はずっと前に亡くなっておられます。

こういうことに関心があるので、調べることにしました。区役所にある「五日市町史」で調べることにしました。上・中・下巻の3巻でそれなりの厚さのある「五日市町史」、思ったより原爆後の記述は少ないように思いました。

 

原爆が投下された時、五日市町にも爆風の影響でガラス窓が割れたと書いてありました。その後、多くの人が避難してきたようです。次のところが避難者を受け入れたと記録されています。

次のようにありました。

各民家→約2,700人

五日市国民学校(現・五日市小学校)→約900人

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光禅寺→約100人

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楽々園遊園地(現・大型スーパー店など)→約800人

五日市隔離病舎(現・五日市中央公民館→36人

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石内浄土寺→約60人

八幡国民学校(現・八幡小学校)→1,343人

観音国民学校(現・観音小学校)および地区会館→約400人

五日市町役場(現・広島市佐伯区役所→約1,100人

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となっていました。合計で約7,500人ですね。実際はもっと多くの人が避難されてきたと思います。そして多くの被爆者が亡くなっています。

治療行為をされた医者の名前も記してありました。知っている名前も数人ありました。歯医者さんも加わり、治療は「赤チン」などしか無かったようです。当時治療にあたった人は皆さん、あの世の人になっておられます。その人の子どもさんと思われる方が、開業している病院は見かけますが。

また、五日市町には広島戦災孤児育成施設・童心園(どうしんえん)がありました。当初は童心寺と言ったそうです。現在は障害者通所施設・皆賀園となっています。ここの生活を元に作られた映画「青葉学園物語」は、「マーケット」と呼んでいた商店街でロケが行われてたのを思い出します。

そして先日判決が確定した「黒い雨」被爆者、そのエリアの中には旧・五日市町も含まれています。わが郷土五日市と原爆の関係も、もっと関心を持って学びたいと思っています。

木原省治

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2021年9月24日 (金)

ワクチン接種を決断 因果関係を明確に

デルタ株の感染拡大により、これまで接種に関心の低かった若者を中心に接種の動きが広がってきました。先日東京では長蛇の列、抽選へと人々を困惑させていました。一方でワクチン接種を見送る人も少なくありません。理由に副反応の怖さ、ネットでのデマによるものも多いようです。

最近では県内でも基礎疾患もないのに接種後亡くなられたというニュースが流れました。(全国ニュースでは大きく取り上げられていませんが)

基礎疾患がある私は、当初絶対に接種しないと決めていました。また、ワクチンの開発後あまり時間が経過していないまま実用化されていることも不安な要素です。

しかし、コロナ感染の確率がワクチン未接種の人ほど高く、1回接種さらに2回接種と進むにつれ、2回接種で90%以上の人は感染確率が低いという調査結果を基に、2回接種をやっと決断しました。また、ワクチン接種の有効期限は?と疑問に思った時、どこまで正確かはわかりませんが、8か月程度と言う人もいます。となると多くの人が同時に毎年接種しなければ、感染状況はいつまで経ってもエンドレスに。私を含め一人一人が接種に協力してコロナを終息に導くためにも決断は正しいと思いました。政府にはワクチンの供給を万全な状態にしていただきたいものです。

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しかし、先日亡くなられた方を含め、これまで亡くなられた方の接種との因果関係について厚労省の部会で、病理解剖の結果待ちであることを理由に、「死亡とワクチンの因果関係は評価できない」というコメントが出ました。それよりも先に製造元と国内供給を担っている薬品会社は「現時点では因果関係については確認されておらず偶発的に生じたもの」としていました。私はこれらのことが納得いきません。回答があまりにも尚早で、国が責任を持てないワクチン接種は正直打ちたくないものです。このような発表をある程度想定はしていましたが、ワクチン接種を強く推奨する割に接種後に亡くなっても因果関係が評価できないで済まされる現実は疑問です。

またニュース報道では、接種後の死亡例のことをあまり出しません。因果関係がないからなのか、接種のスピードがなくなると感染拡大が収まらないという理由なのかわかりません。

しかし、これまで国内では約1,100人(831日現在)が接種後亡くなられています。これが偶然で片づけられていいわけがありません。打つか打たないかは個人の選択肢であり、国、県、市がまた職場で強制するものでもありません。いろんな情報を基に個人が判断すべきものです。そのためにも死亡事例もしっかり報道すべきだと思うのですが。

安佐南区 輝き

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2021年9月23日 (木)

9月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

中秋になったがまだ暑い日が続いている。ブルーベリー農園の中でバッタリとオスのキジに出会ったり、アマガエルはテントの屋根やバラの花びらの中にいたり、庭の池の中でヘビ2匹がウロウロしたりしていて摘み取りに追われているときは気づかない生き物の様が見えるようになる。農作業のメインは片付けで、防草シートはがしやブルーベリーの実のなった枝のカットなどが中心。その次はまた草刈りとなる。

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9月16日(木)

ブルーベリーの摘み取りをお願いした西条町の障害者の事業所の皆さんの作業もこの日が最終日。始まったのが8月の後半からだったので来年夏はスタートからの再開を期待している。

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摘み取りのために設置したの色々なものを片づける。

①、タープテントの片づけ

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②、縁側のゴザや摘み取ったブルーベリーを入れて運ぶコンテナを写真左の蔵に運び入れる。

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9月18日(土)

里山のブルーベリー園に行く途中里の里道に咲いているヒガンバナ。

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9月19日(日)

農園に今年はコスモスはなし。どうやら草刈りのせいらしい。近くの畑に咲くコスモス。

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農園の隣の稲田の収穫の様子。トラクターが3台も見える。

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9月20日(月)

19日からブルーベリー畑に敷いている防草シートをはがして畳む作業を続けている、一番下の畑がすんだ。

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平行してブルーベリーの実がまだ残っている所があるので実のついた枝を切って集める。

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切って乱雑にコンテナに積み上げてから実を切り離す。

数キロとれたので安芸の郷に納品した。

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農園の近くの道沿いにオレンジ色のキバナコスモスがいっぱい咲いている。垣根代わりにもなるのでたくさん植えられている。

 

2021年9月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年9月22日 (水)

9月の「19日行動」―広島、府中、三原

憲法違反の安全保障法制が、参議院で強行採決され成立してからちょうど6年目を迎える19日、県内各地で「19日行動」が行われました。

「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、最近は「3の日行動」として毎月3日にアピール行動を行ってきましたが、今月は節目ということで、3日に続き19日も街頭行動を実施しました。府中地区、三原地区は、いつものとおりの19の日行動が展開されました。

各地の行動の様子を紹介する前に、「安全保障法制」制定の後何が変わったのか、私なりの思いを述べてみたいと思います。

第1は、それまで政府が「憲法違反」として否定してきた「集団的自衛権の行使」を認めたことに象徴されるように、憲法を無視する政治が当たり前のように続いているということです。まず、国会審議の形骸化です。森友問題、加計学園問題、桜を見る会、河井夫妻の買収事件などなど、どれ一つとっても、まともに野党の質問に答えたことはありません。コロナ対策もそうですが、国民の声は、無視され続けています。

その象徴は、「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」と定めた憲法53条も平気で無視して、国会を開会せず、法律や予算を成立させることのできない閉会中審査でお茶を濁しているのです。今までも、憲法が尊重されないことは、たびたびありましたが、安保法制成立後は、憲法無視、違反が当たり前のような国会になったしまったと思うのは私だけでしょうか。

第2は、自衛隊の装備や訓練が大きく変容したことです。防衛費予算が、ぐんぐんと拡大し、攻撃型の装備に変質してきたことは、周知の事実です。と同時に、注目すべきは自衛隊が行う他国との共同訓練が大きく変質し、拡大していることです。日米印豪の共同訓練をやっていたかと思ったら、5月には、日米仏印4カ国の共同訓練、8月には日米英豪4か国による共同訓練が実施されました。しかも同盟関係という言葉まで使われ始めています。そして、イギリスの最大空母が横須賀に入港したのもびっくりです。「限定的な集団的自衛権だ」といったのは誰だったのでしょうか。共同訓練を繰り返すということは、「もし」の時に一緒の行動することに繋がらないと誰が言えるのでしょうか。

そんなことを考えながらの「19日行動」への参加でした。

 

広島

いつものとおり、本通電停前での街宣でした。午後2時から、今回は立憲野党の3党の代表が参加しての行動となりました。メインスローガンは総選挙も近づいていますから「アベスガ亜流政権はノー 野党が政策合意 さあ政権交代」でした。野党3党代表のアピールに続き、河井買収問題の深層究明を求めるアピール、続いて弁護士の山田延廣代表世話人が「違憲の安全保障法制は撤廃するしかない」ことを強く訴えました。

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そして三次地区で行動を続ける小武正教さん(ミャンマー市民の訴えを聞く会)から、2月1日の軍事クーデター以降のミャンマーの現状を紹介し「日本政府こそ、軍の行動中止させる役割がある」と訴えました。

1時間の行動参加者は、60人でした。

 

府中

小川敏男さんから届いて報告です。

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今月から冬時間となり30分繰り上げ、いつものように上下町のAコープ前は午後3時から9人の参加、府中天満屋店前は午後4時30分から12人の参加でリレートークとスタンディングを行いました。

主に「自民党の総裁候補は、河合夫妻の1億5千万円汚職事件の説明責任を果たせ」「「喜ばしいニュースは市民会連合が野党4党と政策合意をしたことだ」「来るべき衆議院選では政治は市民の1票で変えられるということを投票で示そう」などを訴えました。

 

三原

藤本講治さんから届いた報告です。

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今回の行動のスローガンは、「9.19私たちは忘れない!強行採決から6年!」です。

メインの横断幕をリニューアルし、いつものように三原駅前で23人が参加して街頭行動を実施しました。弁士は6人。「総裁・首相が交代しても憲法改正は自民党の党是であり,改憲策動は止まない。私たちは,憲法違反の戦争法(安保法制)の廃止。9条改憲NO!の声を上げ続けていく」などと訴えました。

 

いのちとうとし

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2021年9月21日 (火)

「法の人」を育てるために学校でできること ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

「法の人」を育てるために学校でできること

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

 

前回は、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) を紹介しました。村瀬によると、「いじめ」を理解する上で一番大切なのは、子どもたちが9歳か10歳になる頃、世の中には一定のルールがありそれに従う必要のあることに気付く、いわば「法の人」になるという事実でした。

しかし、その「法」には二面性があり、一つは、刑法その他の大人社会に通じる「公開」された法という面です。もう一つの側面は、しばしば、自分たちの仲間だけには通じても、仲間以外、例えばその他の友だちや先生には公開されない秘密の「法」あるいは「掟」だと言って良いでしょう。『いじめ』では、これを「仲間内の子ども法」と名付けた上で、この関係を次のように示しています。

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そしてこの「法」は、教室内では、次のような三つの「ルール」という形で具体的に現れているというのが『いじめ』の主張です。

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「法」、「ルール」、「掟」といろいろな言い方がありますが、要するに自分たちの行動を規制するという効果を持つ「言葉」が、直接的行使される「力」あるいは「暴力」を抑える状況を示しています。

問題は、その中に特定の仲間にしか共有されず、他の人たちには見えない「地下」空間が存在し、その中で「いじめ」が起きているという点です。

さらに、地下に潜った「掟 = 子ども法」の一部として、犯罪としか名付けられない直接暴力が大きな役割を果していることなのです。つまり「法」によって、と言うことは力によってではなく言葉によってという意味ですが、その「法」によって行動を支配することの重要性を理解し始めた子どもたちの中に、まだ力によって行動を強制することを容認する価値観が残っているのです。

そうした理解の下、「いじめ」の対策として村瀬が『いじめ』の中で薦めているのが、普通の「クラス会」とは別に「特別クラス会 (広場) 」を設けていじめの問題を話し合うことです。普通のクラス会が、「授業の場」あるいは「教育の場」に位置付けられているのに対して、「特別クラス会」は「法の場」として位置付けられます。その意味では、民主的な色が付きますので、「広場」という名称が相応しいと考えられます。

上の図で説明すると、「先生のルール」と「子どもの自由なルール」という公開された場で共有されているルール作りの場に、「掟 = 子ども法」という地下に潜ったルールを持ち出して話し合いをするということです。

そして、この「特別クラス会」が機能するために、「4月。新しい学年が始まるその初日に、先生は最初の重大な提案をします。それは生徒と取り交わす「六つの合意」の提案。何の合意かというと、いじめ対策に向けての合意です。」以下、「六つの合意」です。

六つの合意項目 (『いじめ』141ページ)

合意① 「アンケートの項目」をわたしはしない、させない。

合意② トラブルは「公開の場」へ持ち出して議論する。

合意③ 公にされたことでの「仕返し」を許さない。

合意④ 「仕返し」がわかれば、緊急クラス会を開く。

合意⑤ 「緊急クラス会」でも改善が見られないのなら、親に来てもらい、現状を話す。

合意⑥ 家族と先生と学校が話をしても、違法性の改善が見られないのなら警察に訴える。

合意①の「アンケートの項目」とは、「いじめ」のリストですが、長くなりますので省略します。

さて、ここで提案されている「広場」と、尾木ママが北欧で観察してきた「子どもパトロール」や、楠による「教育学」で強調されている「集団的自立」との共通点に注目して頂きたいのですが、北欧と日本とでのいじめ対応に共通点のあるということは、より広い国際的な広がりでこの問題について考えるとどうなるのか、という新たな問いにつながります。

スペースが限られていますので、さらに詳しい説明のできないことを申し訳なく思いますが、『いじめ』には実践例や過去のいじめの例を交えて詳しい説明がありますので、是非、読んでみて下さい。

これで、9歳から10歳頃に子どもの中に芽生える「法」という意識を元に「いじめ」を考える村瀬による『いじめ』の紹介を終りますが、「いじめ」についてずいぶんすっきりとした整理ができてきたように思います。

次回は、村瀬著の『いじめ』について、いくつかの疑問点を述べた上で、これまで何回か予告してきた「国際的」な広がりに目を向けます。

[21/9/21 イライザ]

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2021年9月20日 (月)

ベトナムの歴史(その7)

日本人が初めて踏んだ地は、ベトナムの何処

前号で、第9次遣唐使半官の平群朝臣広成(へぐりのあそんひろなり)が、734年に日本への帰途、嵐で現在のベトナムにあたる崑崙(こんろん)国に漂着したのが、「史実に残るベトナムの地を初めて踏んだ日本人」と紹介しました。

 ところで、平群朝臣広成が漂着した崑崙国は一体、ベトナムの何処だったのでしょうか。また、同じ帰国船団で日本をめざした仏哲はチャンパ国出身の僧侶ですが、チャンパ国は何処にあったのでしょう。当時のベトナムの歴史を理解する上で、少しこの辺りを見てみたいと思います。

当時は言うまでもなく「北属期」で唐の時代です。8世紀頃の崑崙国は中国では別名・林邑(りんゆう)国と呼ばれ、下の地図の赤丸で囲んだ緑部分でベトナム中南部一帯を治めていました。右下の地図は松本信広著の『ベトナム民族小史』(1969年、岩波新書)に収録されている「古代中国勢力下のベトナム」で、少し詳細な地域が分かります。

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(出典:Y-History教材工房「世界史の窓」チャンパー)

チャンパ(林邑)はもともと、漢帝国(紀元前202年~220年)の南端であるベトナム中部に設置した日南象林県という中国の行政区域でしたが、192年頃に現地官吏の子によって独立国になります。チャンパ国はインド文化を採用し、フエやダナン、ホイアンなど中継貿易を担う港市国家として栄えました。605年には隋によって一時、都のフエを占領されますが、その後復興します。2世紀から7世紀までは林邑国、7世紀から14世紀までは占城(せんじょう)国と国名を変えながら続いたチャンパ国は、北隣のグエン(阮)王朝や西隣のカンボジアのクメール王国との争いが絶えず、10世紀後半しばしばその支配を受け、15世紀後半には南下するグエン王朝の圧力で支配下に入り1832年に滅亡しました。

この間、チャンパ国より北に位置する中国支配を受けていた地域はどうなっていたでしょうか。720日の「ベトナムの歴史」(その5)で紹介しましたが、938年に呉権が「白藤江(バクダン川)の戦い」で南漢軍を打ち破り、中国諸王朝による紀元前111年から1000年にわたる支配の鎖を断ち切り、呉朝を建てます。その後、李朝、陳朝、黎朝などを経ながら、1802年に阮朝が初めてベトナムに統一国家を建てるまで約900年、独立王朝時代が続きます。

 

チャンパ国と仏哲、一弦琴・クニィ

再びチャンパ国に話を戻します。チャンパ国を建てたのはインドネシア人などと同じくオーストロネシア語族のチャム人です。2世紀~14世紀までチャム族が主要民族のチャンパ王国(占城国)は、クメール王朝やグエン(阮)王朝の圧力により次第に衰え滅亡します。

ベトナムは86.2%を占めるベト族(キン族)の他、53の少数民族でなる多民族国家ですが、チャム族もその一つとしてベトナム南部に暮らしています。カンボジアやタイ、マレーシアなどでも数千から数十万人が暮らしています。チャム族の文化としては舞踊と音楽、特に一弦琴クニィが知られ、産業では織物業や窯業が盛んで、レンガ造りの壮麗なヒンズー建築をサンスクリット碑文とともに各地に残しています。ダナンとホイアンの間にあるミーソン遺跡は特に有名で、私も訪れたことがあります。

一弦琴クニィは、私たちが枯葉剤被害児救援のためにベトナム民族アンサンブルを招聘し定期的に開催しているチャリティーコンサートで必ず登場する楽器です。立てた竿に弦を一本張っただけの簡単な楽器です。二胡や馬頭琴のように弓で弾きますが、ユニークなのは弦の端から糸が伸びていて、その先によく振動する小さな板=マウスピースが付いていることです。マウスピースを口の中に含んで糸電話のように糸をぴんと張って、弓を弾くと弦の振動がマウスピースに伝わり口の中で共鳴します。つまりクニィは口琴と同様、ヒトの口を共鳴胴に使う楽器なのです。ただ、口琴のように倍音で音程を作りだすことまではできません。指で弦を押さえて音程を変え、この辺は普通の弦楽器と同じです。

弦の先を口にくわえ、楽曲だけでなく猫の鳴き声や小鳥のさえずりなどを自由自在に表現する妙技は絶賛です。「こんな音」と、お伝えできないのが残念ですが、近いうちにコンサートを企画しますので楽しみにしていてください。

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(一弦琴クニィ)

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          (20081018日、第3回チャリティーコンサート)

734年に遣唐使半官の平群朝臣広成の帰国船団の第2船に、南インドのバラモン僧・菩提僲邦(ぼだいせんほう)と弟子でチャンパ国出身の仏哲が乗船していました。おそらくベトナム人(チャンパ人)で初めて日本の地を踏んだのは、この仏哲だと思われます。

その後、仏哲は752年の東大寺大仏開眼法要で抜頭(ばとう)や林邑楽(りんゆうがく)などの舞楽を奉納したことが伝えられています。おそらく仏哲の奉納した舞楽が、日本人が初めて触れたベトナム(チャンパ国)の文化だったのではないでしょうか。

(2021年9月20日、あかたつ)

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2021年9月19日 (日)

アフガニスタンでのタリバン政権再掌握

よりによって8月15日の終戦記念日に、アフガニスタンでタリバンが再度政権を掌握した。あまりに早急で信じられない勢いだった。だがなぜ20年前に一度は崩壊したかに思えたものが政権を執るにいたったのか。タジク系の旧政権の腐敗か、米軍撤退で歯止めがきかなくなったか。または、依然として高い失業率で、タリバンに入れば当面の生活を保障してもらえると思った若者のその場しのぎの支持か。

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イスラム教を否定するつもりはないが、やはりよく見ると、とにかく不自由そうだ。ましてやイスラム原理主義となると、極端すぎて尚更である。女性が全身と顔全てを覆うブルカを着用することは強制までいかないが、代わりに目だけしか出せないニカブを着用することを命令しだした。自分としては、コロナ感染予防のためいつもマスクを着けざるを得ないが、これだけでも大変な息苦しさと嫌悪感がある。ましてや目以外の全てを覆うとはどれだけの苦痛だろうか。ひとつひとつが旧体制に戻りつつある。大学も共学を禁止した。タリバン政権は表向きは女性の権利は保障するそうだが、実際はかなり制限が多く、20年前に戻る勢いかもしれない。

かつては旧ソ連の侵攻に遭い、それに対抗するためアメリカが故意にイスラム原理主義の組織を支援したりと、長年混乱の歴史だった。その混乱はいつまで続くのだろうか。自分としては中央アジアには密かにあこがれがあり、いつかはそれらの地域を旅してみたいと思っていた。ウズベキスタン・カザフスタンなどは、かつてソ連だったころは難しいと思っていたが、現代はなんとかなりそうだ。だが、アフガニスタンはいつになれば自由に旅できるほど落ち着くのか。そんな日がくることがあるのだろうか。

 

Mumei

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2021年9月18日 (土)

台風14号への備え

停滞を続けていた台風14号の進路は、予報どおり昨日から進路が多きく変わり、夕方前に九州に上陸した後、瀬戸内海の四国よりを通過することになりました。

広島県には、17日夜から18日の朝にかけて最も近づき、雨と風が非常に強まり、大荒れの天気になる恐れがあると、予報されていました。同時に、台風への備えを急ぐようにと予報士が繰り返しています。

わが家では、台風接近の予報が出る度に、雨対策は心配ないのですが、強い風に備えて、どうしてもやっておかなければならないことがあります。それは、ベランダに並ぶ植木が風に飛ばされたり折れたりしないように部屋の中に移動させることです。

昨日も、午後に入り雨が降り始めましたので、植木が雨に濡れないうちにと、午後2時ころから作業を開始しました。毎年、年に1,2度は行っていますので、一応手順良く進めることができます。

狭いベランダですが、洗濯物干しにじゃまにならないような場所に小さなものからやや大きめの31個の植木鉢があります。

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ベランダに接した部屋にまず、黒い大きめのビニール袋を3枚ほど敷き、一鉢一鉢部屋の中に移動させます。近年は、何度も移動させなければならないことがありますので、だいぶ手際が良くなったような気がします。

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10分ほどで、植木鉢の移動は終わりました。だいぶ葉っぱが落ちていますので、きれいに掃除しないと、これも風で飛んで近所に迷惑をかけることになります。植木鉢が無くなったベランダは、何か広く感じられ、普段のベランダ掃除では、ホウキが届かない部分も掃くことができます。

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その他にも飛びそうなものがありますので、一つひとつに植木鉢の嵩上げや固定のために使っているレンガを重しとして乗せます。後は物干し竿を屋内に入れれば、ベランダの台風への備えは終わりです。

次は、玄関前です。玄関前にも植木鉢が、3個ほど並べています。

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玄関には自転車を入れていますので、空きスペースが狭くなっていますが、3鉢ほどですので、全部入れます。

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鉢を移動させると、ここにも落葉がありますので、ホウキを持ってきて掃除をします。

わが家には、ベランダ以外にも部屋の出窓という出窓にも、沢山の植木鉢が並べていますので、台風対策で、植木鉢を移動する時には、「もう少し鉢を減らせばよいのに」と思うのですが、一生懸命に面倒を見て(といっても水と時々肥料をやるだけですが)、年を超えて再び花をつけてくれた時の喜びを思うと簡単には捨てることはできません。

今回は大きな被害が出なければよいがと祈りながらのわが家の台風への備えでした。

いのちとうとし

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2021年9月17日 (金)

島根原発で事故が起きたら―私の実家

一昨日(15日)原子力規制員会は、中国電力島根原発2号機の安全対策が新規制基準を満たしたと「合格」を与える審査書を決定し、中国電力に交付しました。これによって、島根原発2号炉の再稼働に向けての動きが強まることになります。

島根原発の問題については、このブログでも木原省治さんが何度も指摘しています。この決定を受け、次回(20日を予定)、様々な問題点やこれからの課題(地元合意)などを紹介していただけるのではないかと勝手に思っていますので、今日は島根原発を私自身のかかわりから考えてみたいと思います。

というのも、私の実家が松江市にあるからです。また原発事故が起これば非難の対象となる30キロ圏に、姉兄2人の家族が住んでいますし、松江市内は、高校の同級生もたくさん暮らしています。ですから、島根原発の問題は、他人ごとではないのです。

私の実家は、松江市の市街地南はずれの雑賀町です。雑賀町の町名は「戦国時代に活躍した紀州の足軽鉄砲隊『雑賀衆』を、松江城を築いた堀尾吉晴が城を守るため呼び住まわせた」ことに由来しています。いまも足軽屋敷の町割り(幅4mの道が縦横にある)が残る古い住宅街です。島根原発から実家までは、約11キロの距離です。

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松江市が作った「原発事故避難計画」によれば、雑賀町(5,220人)は乃木地区(12,730人)とともに、島根県内の一番外れ益田市が避難先となっています。益田市までは、直線では140キロですが、バスや車だと約162キロの距離があります。移動手段を含め本当にきちんと避難できるのだろうかとの危惧が湧きますが、ぜひ計画通りの避難が進んでほしいと思います。

私が働き始めた最初の職場が、松江市の中心にあった松江電報局でしたから、市内の地図はよくわかりますので、実家のこと以上に危惧していることがあります。

一番は何といっても、避難指示の司令塔とうなる島根県庁が、原発からわずかに8.7キロしか離れていませんから、原発事故が起きた時、本当に機能するだろうかということです。

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県庁は、島根原発の南東に位置しています。島根県出雲地方は、特に冬の時期には、北西の季節風が毎日のように吹きます。県庁は、風下になるのですから、県庁自体、全県庁職員の早急な避難が求められます。緊急の場合は、30キロ離れた出雲市の合同庁舎に機能を移転すると聞いていますが、どれだけ早く機能移転ができるのか、緊急の場合本当に機能するのか心配です。島根県のホームページによれば、避難計画を指導する防災部原子力安全対策課は、県庁内にあります。本当に出雲市に移転させるのであれば、事故が起こった時では遅すぎますから、いまから移転しておけばよいと思うのですが。「原発事故避難計画」だけ見ると立派な計画が作られていますが、それを実行するための十分な備えがされているのだろうかと、この一つをとっても感じてしまいます。二番目は、松江市の市街地を東西に流れる大橋川の存在です。河幅は狭いところでも130メートルあります。両岸を南北を結ぶ橋は、私が住んでいたころには2本しかなかったのですが、今は4本に増えました。しかしそれでもいざという時には、この橋が、避難移動の大きなネックとなることが予測されます。島根原発から30キロ圏内46万人の住民が避難を余儀なくされます。原子力規制委員会での「島根原発合格」に先立ち政府は、9月7日の原子力防災会議(議長・菅義偉首相)で、「緊急時対応」を了承しましたが、「机上の計画」と危惧する根強い住民の不安は大きいものがあります。今回私が指摘した問題もその一つです。こうした住民の声に向き合って、解消するための努力が続けられているのだろうかと、私の疑問が消えません。事故が起きたらどうなるのか、今一度立ち止まって真正面から向き合ったほしいと思います。

いのちとうとし

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2021年9月16日 (木)

『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (5)――

小山田圭吾事件の「犯罪性」を軸に、建設的な提案ができないものかいろいろ勉強をしてきたのですが、村瀬学著『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち――』 (ミネルヴァ書房、2019年、以下、『いじめ』と略します) が提唱している枠組みが大変貴重ですので、今回はその概略を報告します。

一言お断りしておきますが、今後、人名については敬称を略します。

『いじめ』では、副題が示しているように「いじめ」と法との関係に焦点を合わせています。通常の「法律」よりは広い概念ですが、その中心にあるのは当然、「法律」です。

『いじめ』では、学校における「いじめ」が矛盾した存在である点から出発します。一方では、「いじめ」と呼ばれる行為のほとんどが大人の社会であれば「犯罪」、つまり「違法行為」であるという事実があります。

この点について、『いじめ』では文科省が「いじめ」についてのアンケートで挙げている項目に注目します。それらは、「悪口や脅し文句、嫌なことを言われる」というあたりから始まり、「金品をたかられる」や「金品を隠されたり、盗まれたり、壊されたり、捨てられたりする」さらに、「嫌なことや恥ずかしいこと、危険なことをさせられたりされたりする」等です。大人の職場なら最低ハラスメント (それも犯罪として位置付けられています) として問題にされることであり、傷害罪、窃盗、恐喝、強要等の罪名が付く犯罪です。

他方、刑法には第41条で「14歳に満たないものの行為は、罰しない」という規定があります。「罰しない」という規定があるのですから、仮に14歳未満の子どもが学校で犯罪を犯してもそれは「犯罪」とは認められないことを意味します。

注記: ここでは「犯罪を犯す」という表現を使っています。本来は「罪を犯す」と言うべきだとの考え方もあり、しばしば、「犯罪を犯す」は重言だから使ってはいけないと主張する人もいます。しかし、「犯罪」の意味の一つは「法律によって罪を科される行為」ですし、この意味以外で使われる場合は少ないのではないかと思います。従って、字面だけを見ると「重言」ですが、意味としては「罪を犯す」では特定されない、ハッキリ限定された範囲を指していますので、この表現を使います。

さらに、14歳以上18歳未満の場合は少年法が適用されるので、「いじめ」における「犯罪性」、あるいは「犯罪度」といった方が正確なのかもしれませんが、の認識が甘い方に偏る結果になってしまっているのかもしれません。この点を『いじめ』では、次の表としてまとめています。

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『いじめ』では、この表の「青の領域」における子供たちの行動については「教育の力」だけでは十分に対応できなかった。それ以外の力、つまり「別の力」によって子どもたちが動き始めていると主張しています。この辺りの記述はかなり複雑で私流に整理してみると、次のようなことになります。

その「別の力」とは、この時期に子どもたちにとって、「法的な領域」の中にいるという (仮に言語化できていなくても) 感覚的理解とでも表現すべき前提の元に子どもたちを動かす力のことだと、私には読み取れました。

このような状態を『いじめ』では「小さな法の人」、あるいは「法の人」と表現していて、多くの子どもたちにこの意識が生まれるのは、9歳から10歳くらいだと特定されています。

そして『いじめ』の結論部分は次の通りです。

「青の領域」にいる子どもたちに、「法の人」になる「時期」を想定して、ここから始まるこの「小さな法の人」をしつかりと育ててゆくようなイメージを本当につくり出せるのかということです。

その可能物は、子どもたちが、教師と自分たちでこの「青の領域」期に自治(私はそれを「教室に広場をつくる」活動と呼んできました)が出来るような「教育態勢」をつくってゆけるかどうかにかかってきます。そしてその態勢をつくることが、「いじめ苦」「いじめ死」に向かい合う唯一の対応ではないかと私は考えてきました。

私がこのことを突き詰めて考えるきっかけになったものは中井久夫氏の「いじめの政治学」(1997年)という論文でした、そこで中井氏は「子どもの世界には法の適用が猶予されている。しかし、それを裏返せば無法地帯だということである。子どもを守ってくれる『子ども警察』も、訴え出ることのできる『子ども裁判所』もない。子どもの世界は成人の世界に比べてはるかにむきだしの、そうして出口なしの暴力社会だという一面を持っている」と指摘されていました。

私はこの論文を真正面から受け止め、ならば「子ども警察」のようなもの、「子ども裁判所」のようなものを考えることをもっと積極的にすべきではないかと思いました。

本書は、中井氏の思いに対する私の精一杯の返答になるように書い

たものです。

ここで思い出して頂きたいのは、シリーズの第4回で御紹介した楠凡之の『いじめと児童虐待の臨床教育学』 (2002年、ミネルヴァ書房) です。その結論部分を掲げます。

その結果として、「いじめ」の問題に関わる教師が心すべき留意点を5つ挙げています。

(1) 「集団的自立」のエネルギーを発揮できる活動世界の創造

(2) 子どもたちとの相互的な関係性を築きつつ、自らの価値観を明示していくこと

(3) 仲間集団のなかに相互尊重の関係性を実現していくこと

(4) 「9,10歳の発達の節目」を乗り越えていける学力の保障

(5) いじめや仲間集団内のトラブルを克服していける自治的な力量の形成

視点は少し違いますが、村瀬学の『いじめ』との共通性に御注目下さい。そしてこれは、同じく第4回で報告したように、尾木ママが北欧で見聞したこととも共通点がありますので、国際的に共有されているノウハウなのではないかと考えられます。

次回は、『いじめ』の中で報告されている実践例を取り上げた上で、再度視野を国際的に広げたいと思います。

[21/9/16 イライザ]

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2021年9月15日 (水)

9月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

体が、いろいろなところできびきび動かず、時に軋みをきたすようになっているのでブルーベリーの栽培のための農作業に伴う環境をいろいろ考え、少しずつ変えたりしている。例えば、車に高齢者マークを貼ることを始めたり、刈り払い機を背負うタイプから肩にかけるタイプにし、なおかつチップソーとナイロンカッター別の2台で機能分けをしたりしている。援農では友人たちがブルーベリーの枝の野焼きや、春には防草シートを敷く、秋にはシーズンが終わったのでシートを畳む作業を手伝って頂いたり。もちろん摘み取りでは安芸の郷やたくさんの援農と、農園のある地域の2つの障害者の事業所が協力、参加が始まったり。でも天気だけは手が届かない。でも季節、季節でいろいろな景色を見せてくれるのも自然。

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春ころから車に高齢者運転中のシールを貼っている。はてどこで売っているか→そう100円ショップだということで手に入れた。

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9月11日(土)新しい刈り払い機が届いたのでハンドルの向きなどの調整をする。

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ナイロンロープをセットして早速使用する。背負い式よりずいぶん楽なことが分かった。

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畑の草取りで使う2本足の熊手。随分昔の農具だが重さも適度にあってとても使いやすい。今はこのような農具はないと思うので大事に使いたい。

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9月12日(日)。

剪定できなかった小さいブルーベリーの木の手入れを行う。竹を立てて木をくくり風で動かないように補強した。

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他にも剪定できず実がなりすぎた木があり、実のついた枝を切って整理する。あとで熟れた実だけ収穫した。

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農園の周辺には初秋の植物がいろいろな花を咲かせている。

① ススキの穂が出てきだした。

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②オミナエシかオトコエシがススキの中に混じって咲いている。

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③ヨメナ

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④ヒガンバナ

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⑤ハゼの花

2021年9月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年9月14日 (火)

恵下廃棄物処分場建設と大雨土砂災害

広島市が、佐伯区湯来町恵下で進める一般廃棄物最終処分場(恵下埋立地整備事業)で出る汚染された湧出水の放出管が埋められた県道71号線で山崩れ事故が起きている現地調査に一緒に行きませんかと誘われ、12日の午前現地を訪れました。

私も以前から、恵下廃棄物処分場に反対する友人の運動に協力するため立ち木トラストに参加していましたが、今回初めて現地を訪れました。

恵下廃棄物処分場建設では、高濃度ダイオキシンが含まれた廃タイヤの燃え殻が見つかるなど様々な問題が発生していますが、今日の報告は8月中旬の集中豪雨によって発生した、道路崩落事故現場の様子です。

現場は、安佐南区沼田町戸山の県道77号線から左側(東に向かって)つながる県道71号線の山中です。

先導する車に随って進むと道路が倒れた木と土砂でふさがれて通れなくなった場所に突き当たります。

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ここで全員が車を降り、流れ出た土砂の山を越えて進むと、目の前に大きく山が崩落した現場が目に入ります。

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足元に気を付けながら、現場に入ります。ずいぶん高い位置から大規模な崩落が起こったことが分かります。

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どこに使われていたのかははっきりしませんが、砂防のために設置された思われる三角形のブロックが、目に付きます。

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最上部には、パイプがむき出しとなり浮いた状態になっているのが目に入ります。

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よく見るとパイプの上部に黒いアスファルト状のものが見えます。

このパイプは、恵下埋立で発生する進出水を放流するために県道71号線に埋設された放水管です。

今回の現地視察の一番の目的は、放水管までもがむき出しになってしまった土砂災害の状況を見ることでした。

恵下埋立が計画された当初の案では、進出水を放流するため山中にトンネルを掘ることになっていたようですが、地元地権者などの反対が強く、県道71号線路面の下に管を埋設することに計画が変更されたものです。

全長3.7km(湯来側の圧送区間780m、戸山側の自然流水区間2,980m)で、工事は2019年10月から今年の1月23日まで公費約2億7千7百万円をかけて、実施されました。今回土砂崩れ現場となった場所は、最も高い部分のすぐ手前に位置するようです。

今回の崩落は、8月12,13,14日にかけ、戸山地区に降った雨量約500㎜によって起こったものですが、この雨量は2018年に坂町で降った雨量と同じぐらいだといわれています。幸いなことに、道路のガードレールなどが土砂の流下をとどめる役割を果たしたようで、下流まで押し流されることはなく、また民家前には少し距離がありましたので、人的被害はなかったようですが、濁り水による田畑への影響は大きいようです。最初のこの土砂崩れを見つけたのは私の友人ですが、川の水を見に行って、あまりにも濁っていることから、気づいたとのことでした。

この付近も花崗岩が風化しザラザラとしたオニ真砂と呼ばれる真砂土で形成されていることが、現場にたってよくわかります。原因は、色々のことが想定されますが、今後のきちんとして検証を待たなければなりません。

恵下埋立地からの進出水放流方法をめぐる話し合いの中では、何度も「この地域は過去にも土砂崩れが起きている」ことを指摘したようですが、広島市は「安全対策はきちんとしているから大丈夫です」の一点張りだったようです。

今回の放水管パイプがむき出しとなるような大規模な土砂崩れが、現実に発生したことを受けて、広島市がどう対応するのか注視しなければなりません。

私は放水管パイプのすぐそばまではいきませんでしたが、近くに行った人の話によれば、パイプにはっきりと亀裂が入っていたようです。幸いにして、恵下処分場は、まだ稼働していませんので、今回は汚水漏れなどが起きることはありませんでしたが、稼働中だったことを想像すると大変なことになっていたことは十分考えられます。

広島市には、一日も早い復旧とともに、今回の大規模土砂災害の原因をきちんと究明し、計画の抜本的な見直しを含めた再検討が必要だと強く感じた現地調査でした。

いのちとうとし

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2021年9月13日 (月)

明教寺と被爆し廃校となった光道国民学校-その2

昨日のつづきです。主題の「原爆と光道国民学校」についは、「原爆と寺院」に加え「広島原爆戦災誌」を参照しながら書くことします。

どちらの書籍にもはっきりとした時期が書かれていませんが、被爆当時、光道国民学校の校舎は軍に接収され、広島憲兵分隊が駐留していました。憲兵隊が駐留したためでしょうか、学校そのものが明教寺に移されたため、ここでは学校行事は行われていません。明教寺の本堂などが校舎として使用されるのは、1922年に火災にあった時以来2度目です。

当時、中心部にあるほとんどの国民学校は、軍の部隊が駐留していましたが、共用していたため、学校行事も行われていました。光道国民学校では、同じような鉄筋コンクリートの校舎だった袋町国民学校も、本川国民学校も軍も使用してはいましたが、学校校舎として使われていました。

ですからどうしても「なぜ光道国民学校だけ軍専用となったのか」という疑問が湧きます。やはり「憲兵隊が接収したから」としか考えようがありませんが、疑問に明快の答える理由はどの本にも書かれていません。

被爆当時の学校の様子です。

「原爆と寺院」によれば、当時の児童数は小学部男女250名となっていますが、原爆投下時には、集団疎開や縁故疎開で、約160名がこの地を離れており、児童疎開後は、1,2年生のごく一部が残留していたようです。しかし広島原爆戦災誌には、人的被害として「明教寺で被爆した石本校長と現業員岩城夫婦2人の計3人が即死した。当時校内にいた生存者はなく、炸裂下の状況は分かっていない。」と記載されているだけです。「原爆と寺院」にも、これ以上詳しいことは書かれていません。学童疎開せずに残って明教寺に通学していた子どもたちの何人が犠牲になったかは定かではありません。被害状況が不明な理由の一つとして、地元から通学する子どもが多かったようですが、私立学校だったため地元以外からも通学していた子どもたちがいたことが考えられます。

疎開していた子どもたちも、原爆投下の直接の犠牲にはならなかったものの、地元が多かったことから多くが家族を失うことになりました。

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手前は本川小学校、奥に見えるのが光道国民学校:米軍返還写真

光道国民学校校舎は、鉄筋コンクリート3階建だったため、原爆による被害は、上の写真のように外形はもちろんですが、内部も焼けた形跡はなく、全体としては小破程度だったようです。そのため、アメリカ進駐軍に接収され、ダンスホールに改造されようとしてのですが、被爆によって校舎を使うことができなくなっていた崇徳中学(同じ宗派の学校)の強い要望がありが、10月1日から約1年間仮校舎として使用することになったため、進駐軍によって使用されることはありませんでした。

ただ、光道国民学校自体は、学校の再建の見込みが立たないまま、1945年(昭和20年)11月に廃校が決定、その後1951年(昭和26年)には、学校再建の計画が進められましたが、資金繰りが難航し、実現せず、被爆後廃校となった3校の一つとなりました。

現在、その跡地には、1階に百円ショップ「ダイソー」が入る「猫屋ビル」が建っています。学校の跡を示すものはありませんが、猫屋ビルの左側にあるテナントを表示する縦看板の一番上に「(財)閳教部光道会館」の文字を見ることができます。事務所は、4階にあるようです。

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この原稿を書きながら思い出したことがあります。

ブラジル在住被爆者の森田隆さんのことです。「森田さんは、確か憲兵隊所属だったはず。きっとこの光道国民学校に駐留されたに違いない」と、「ブラジル・南米被爆者の歩み」(森田隆、森田綾子編著 2001年刊)に記された森田隆さんの体験記を読み直しました。

ありました。「広島市猫屋町の元光道館に設営された中国憲兵隊司令部。機動憲兵隊の宿舎に入りました。」「運命の8月6日の朝を迎えました。本土決戦に備え広島市西部の己斐山腹に地下壕づくりに従事する補助憲兵と同僚の13名。前夜より警戒警報解除の午前8時に、私の指揮で正門を出ました。」

元光道館が、光道国民学校です。この正門は、光道国民学校の正門です。当時の正門は、西側の電車通りに面していました。森田さんは、すぐ前の土橋電停から電車に乗り、寺町電停で下車し、横川駅を渡って西へ向かく時、被爆することになります。

明教寺訪問から色々なことが結びついた今回も不思議な縁を感じました。

いのちとうとし

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2021年9月12日 (日)

明教寺と被爆し廃校となった光道国民学校-その1

昨年6月29日のブログ「原爆で廃校となった大手町国民学校: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」の最後に「 公立の国民学校で廃校となったのは、大手町国民学校だけですが、戦前にあった民間の国民学校2校(済美国民学校、光道国民学校)は、いずれもその年に廃校となっています。この2校のことも改めて調べてみたいと思っています。」と書きました。しかし、その後何の進展もないままでしたが、先日の明教寺訪問で、このうち光道国民学校についてのあらたなことを知ることができました。

新田洸真住職から「閳教部は、色々な活動をしたのですが、広島県で最初の私立学校『光道館』を作ったのですよ。原爆を受けた時には、光道国民学校と名称が変わっていたのですが。詳しいことは『原爆と寺院』に書いてありますので、ぜひそれを読んで下さい」と聞かされました。

広島原爆戦災誌以外に手がかりを見つけることができなかった「光道国民学校」のことを、明教寺訪問で聞くことになるとは思いませんでした。

最初に、「原爆と寺院」を参考に、「光道国民学校の歴史」を簡単に紹介します。

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この学校は、1879年(明治12年)に真宗門徒によって「光道館」という名称で設立されたことを起源としています。「光道」の名前の由来は「真宗の重要な経典である『無量寿経』のなかの『光閳道教』の言葉に依拠して命名された」と記されています。そして、この学校は、県内最初の私立学校だっただけでなく、真宗関係教育機関として、かなりユニーク(当時珍しかった男女共学や自由教育などのこと)な存在だったようです。そして1883年(明治16年)に小学校と改組されます。1922年(大正11年)に隣接工場からの失火で全焼した時には、明教寺が校舎として転用されてようです。1923年(大正12年)に校名が「広島光道学校」に改称され、1924年(大正13年)には、鉄筋コンクリート建3階の近代校舎として竣工します。当時、鉄筋の校舎は、広島市内はもとより神戸以西の学校では初めてのものでした。

下の写真は、「原爆と寺院」に掲載された1940年(昭和15年)当時の校舎です。鉄筋コンクリート建のずいぶんと立派な建物だったことが分かります。当時は、幼稚園(男女80名)も併設されていました。

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学校は、現在の電車通りに面したところにありました。下の地図は、1940年頃のものですので、まだ電車通りは古いままです。光道学校の前に電車通りが移るのは、1944年12月26日からです。地図左側に光道学校の文字があります。この地図は「原爆と寺院」に使われているのですが、先日のブログで紹介したように明教寺が妙教寺となっています。

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「被爆し廃校となった光道国民学校」については、1回で終了する予定でしたが、光道国民学校の歴史の紹介が長くなってしまいましたので、原爆とのかかわりについては、次回に紹介します。

いのちとうとし

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2021年9月11日 (土)

違和感のある日本語 ――「いじめ」についてはこれからも続きますが、ちょっと中休みです――

違和感のある日本語

――「いじめ」についてはこれからも続きますが、ちょっと中休みです――

「いじめ」は深刻な問題です。それは、私たち一人ひとりが社会とどう関わって行くのかという基本姿勢が問われることになるからです。だからこそ教育の現場での対応も難しいのだと思います。これまで、小山田事件を出発点にいろいろ勉強するうちに、はっきりしてきたこともありますので、もう少し時間を掛けて考えて行きたいと思っています。

今回は中休みとして、「違和感のある日本語」を取り上げます。これも奥の深い問題なのですが、むきにならずに問題提起をするのが目的です。

まず、一時は「誤用」の方が圧倒的に多かった言葉で、どのような理由かは分りませんが、ほとんど淘汰されてしまっていたことで「ホッと」していたのに、最近になって復活してきたものがあります。「かわす」です。漢字では「躱す」ですが、「ひらりと身を躱すやいなや、一散に陣地へ逃げこもうとした」のように、例えば飛んできた矢から身を守るために体を反らす、という行為を表す言葉です。

それが、マラソンや駅伝の実況では、前を行くランナーを「追い抜く」「追い越す」という意味に使われていました。とても耳障りで、大好きなマラソンや駅伝の番組も見たくはない (と言うより「聞きたくない」が正確なのですが) くらいの思いだったのですが、昨年を振り返ると全く耳にしていないような気がしています。それがこのところ、復活してきました。問題はオリンピックでした。

だから「オリンピック反対」という結論にはなりませんが、若い人たちには、正しい意味と使い方を身に着けて貰えればこれに越したことはありません。

さらに最近、多く耳にするようになったのが、「失敗を鑑みると」といった表現です。私は、これまで「鑑みる」の前に「を」が付く、「を鑑みる」という表現を耳にしたことがほとんどありません。ですから、「に鑑みる」が正しくて、「を鑑みる」は間違いだと判断してきました。

ところが、丁寧に辞書を調べてみると、例えば集英社の『国語辞典』には、「時局を鑑みるに」という用例が載せられていますし、大修館の『名鏡国語辞典』には、「国際情勢を鑑みるに楽観は許されない」がありました。

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これは、耳で聞いても違和感がありません。ちょっと不思議なのですが、秘密はどちらも「を鑑みるに」という形だということなのではないでしょうか。

対して「に鑑みる」の典型的な例は、「時局に鑑みて、贅沢は禁止する」といった文脈の中の「に鑑みて」です。この違いを文法的に解釈することで、どのような場合にどう表現すれば良いのかのルールがはっきりするのではないかと考えています。検討の結果はまた報告します。

また数詞の使い方で、「いち」「に」というべきところを「ひと」とか「ひとつ」、あるいは「ふた」とか「ふたつ」という例も増えています。分れば良いのかもしれませんが、やはり耳障りです。例えば、「一グループ」を「ひとぐるーぷ」と読むようなケースです。

最後に、かなりはっきりと分る最近の誤用例を二つ挙げておきましょう。「苦杯をなめる」と「役割を発揮する」です。「なめる」のは「苦汁」でしょう。「金メダルを噛む」のが当たり前になっている世の中では、「杯」も「なめる」で良いのかもしれません。そして「役割」は「果す」ものですね。

カタカナ表記の言葉まで視野を広げると、もっと違和感のあるものが増えるのですが、それはまたの機会に。

[21/9/11イライザ]

 

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2021年9月10日 (金)

エネルギー基本計画のパブリックコメント(意見公募)

9月3日から10月4日までの予定で、「第6次エネルギー基本計画(案)」に対するパブリックコメント(意見公募)が始まりました。「(パブリックコメント)書いても政策変更がされることないから」という人もおられますが、公けに私たちの意見が言える場です。是非とも多くの意見を寄せてもらいたいと思っています。エネルギー基本計画は、11月1日から英国で開催される気候変動枠組条約締約国会議 (COP26)の会議前に閣議決定を経て正式な物になることになっています。

8月4日に経済産業省の有識者会議で、おおむね了承とされた内容を読んでみましたが、なぜか島根県出身の政治家で「言語明瞭なれど意味不明」と形容され、総理大臣にもなったあの人を思い出しました。エネルギー基本計画案は、もう一歩ダウンして「言語も意味も不明瞭」です。

「可能な限り原発依存度を低減する」との従来方針を維持し、原発の新増設やリプレース(建て替え)は書いていません。しかし原発を低コストで安定供給が可能な「重要なベースロード電源」と位置付け、安全性確保を前提に「必要な規模を持続的に活用する」としています。この屁理屈というか、つじつまが僕の頭の中でどうしても整理ができないのです。一方で、2030年度の電源構成では原発は20~22%としています。

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一つの文章の中で、前段で書いた文章が後段の言葉に結ばれないというのは、政治家に忖度した官僚らの手段かも分かりませんが、例えば次の下りです。

    ・「国民からの信頼確保に努め、安全性の確保を大前提に、必要な規模を持続的に活用していく」「安全を最優先し、経済的に自立し脱炭素化した再生可能エネルギーの拡大を図る中で、可能な限り原発依存度を低減する」となっている。(下線は木原)

梶山弘志経済産業大臣が、福井県に在る原発の40年越え運転の同意を得る際

    (温室効果ガス46%削減の)「野心的な目標達成のために原子力を含む脱炭素電源を最大限活用していく」と述べていましたが、依存度低減には触れていませんでした。さすが原子力発祥の県、茨城出身の政治家だからでは片づけられません。

自民党総裁選挙、一政治家の時は「脱原発」を発言していた候補予定者もそれをトーンダウン、COP26までに衆議院選挙が行われるかどうかは不明ですが、どちらにしても選挙の争点にする(しなければならない)ことが重要だと思います。そのためには、それを形に表すのは、多くの人がパブリックコメントに意見を寄せることだと思います。

 

島根原発2号機の再稼働問題で、原子力規制委員会が実質合格にした時もパブリックコメントが実施されましたが、「160通」と報告されました。福島原発事故後の再稼働トップになった九州電力川内原発は1万通を超え、東北電力女川原発では1000通近くがありました。島根原発が少なかったことに「関心が薄くなった」という意見がありました。

COP26を前にした世界的な声は、「温暖化防止に本気で取り組まない日本」という批判です。原発にも石炭火力にも頼らないエネルギー政策は可能です。繰り返しになりますが、みんなでパブリックコメントを出しましょう。  

木原省治

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2021年9月 9日 (木)

「毎日」

毎日、朝ドラを録画して見ています。「おかえりモネ」です。

見ている人も多いと思います。このドラマは東日本大震災をきっかけに気象予報という「天気」にこだわり人々に幸せな「未来」を届けていくというお話です。今、物語は震災から10年後、中学生だった子どもたちが成長し、学生や社会人になっています。久しぶりに同級生で集まり、はじめて震災の時のことを話す場面がありました。多くの亡くなった人を見て、怖くなったこと。家族が行方不明のままで、つらいけど残された家族をささえるためにとにかくがんばってきたことなど。

本当につらい、悲しいことがあると、話せないし、話したくもないし、ずっと自分の中に思いがありつづけ、どうしようもないもののように思えました。

でも、最後に

「おれたち、もう普通に笑おうよ」と。「子どもの時みたいに、いつも一緒にいなくても、手をつないでなくても、何でもできるよ。」と。

ああ、友だちがいて、よかった。

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やっぱり、「誰かに気にされている、気遣われている」という感覚は人を助けるんだな。間違いないな。

「みんな、どうしてるかな。」近くにいる人、少し離れた場所にいる人のことを考えてみました。

「最近、どう?」「元気にしとる?」って、話をしてみよう、話を聞いてみようと思います。

 

 チョコ大好き

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2021年9月 8日 (水)

9月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

ブルーベリーの収穫はとにかく雨にたたられたシーズンだった。9月4日の土曜日、摘み取りに協力頂いた皆さんには終了のお知らせをしておいた。収穫は昨年に比べて3分の2となった。やはり天気にはかなわない。安芸の郷への納品も少なくなった。ぎやかだった8月から静かさが戻る9月に入ったが草刈りをはじめ作業はつきない。

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9月4日(土)。

3日が午前中雨、4日の午前1時から2時に約140mmの雨が豊栄町に降った。10時過ぎ農園に来てみると案の定畑は水浸し。

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防草シートは水が流れた方向によっている。

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ブルーベリーの実はというと3日からの雨続きでまた実が割れ、水分を含んでべちゃべちゃ状態。それでも3グループの友人、知人の援農がありよさそうな実を選んで摘み取りを行った。

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水路の泥、草を取り除いて水の流れを良くする。腰にこたえる作業だった。

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9月5日(日)。

ブルーベリーの摘み取り援農は昨日で終了。夏中ほったらかしで伸びに伸びた畑の草をひたすら抜いた。ジャーマンアイリスが顔を出した。

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庭の花壇。今年もツルボの花や、

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ホウズキが咲きだした。

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9月6日(月)。

東広島市高屋町にある障害者の事業所が摘み取りの手伝いをすることになり、この日は利用者5人と職員一人が来園。里山の東側で午前中2時間程度作業をして頂く。

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女性の利用者もいてポットとコミックが摘んだブルーベリーを計量するテーブルの上に置いてあった。

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周辺の稲田も稲刈りが始まっている。

2021年9月日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年9月 7日 (火)

市民の声を無視して、サッカースタジアム建設予定地地下遺構切取り作業を開始―被爆石も一般ごみとして処分します。

サッカースタジアム建設予定地発掘調査によって明らかとなった旧軍輜重隊跡の遺構の一部切り取り作業は、雨のため一日延期となりましたが、先週土曜日(4日)の午前9時から始まりました。

事前のマスコミへの連絡では、「取材間は、午前9時30分から」となっていましたので、その時間に現地を訪れると、すでに作業は開始されていました。

今回の発掘調査で明らかとなった「旧軍輜重隊跡の遺構」については、大変貴重なものだとして、保存を求める声が上がりました。私たち県原水禁も、何度かこのブログで紹介しましたが、「現地見学会」の実施をはじめ、「専門家の意見を聴いて評価し、保存を含めた検討をすべきだ」などの要望を広島市に行ってきました。

その経過の中で、当初「実施しない」と言い続けていた現地見学会の開催、全て取り壊すとしてきた遺構の「一部切り取り保存」など、一部ではありますが、前進させることはできました。

しかし、私たちが一番強調した「内部だけでなく外部の専門家の意見を聴いて、この遺構をきちんと評価し、保存方法を検討すべきだ」という要望は、結局受け入れられることはありませんでした。

それどころか、日本考古学会の「当該地点における、近代の軍事施設に対する前例のない規模での発掘調査により、溝や通路によって整然と区画された敷地に厩舎や兵舎、浴場に関わる建物が配置された、陸軍中国軍管区輜重兵補充隊関連施設の状況が明らかとなりました。軍事関連施設については不明な点が多いなか、今回の発掘調査成果は貴重な歴史資料となるものです。」とし「平和都市広島市として、陸軍中国軍管区輜重兵補充隊関連遺跡の重要性と価値を十分に検討し、事業計画の見直し・現地保存を含めた遺跡の保護策を講じること。」とする要望も、充分に検討することなく「一部切り取り保存」のための作業を開始しました。

さらに、広島市文化財審議会のただ一人の考古学専門分野選出の野島永(ひさし)委員の「この遺構は、国史跡級のもの」だという意見も全く無視されました。

私が、繰り返し要望したことは「専門家の意見を聴き、きちんと市民に説明できるようにすべきだ」ということでしたので、拙速な「遺構の一部切取り作業開始」は、どうしても納得できません。

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4日の現地見学では、さらにびっくりする広島市の方針を知ることになりました。この日は、マスコミ取材があるということで現場には、広島市の担当部長の姿がありました。気になっていましたので「切り取り保存される以外の被爆石などは、貴重なものだと思いますが、どうされるのですか?」と聞きました。質問が理解できなかったのか、首をかしげながら「一般ごみと同じように、廃棄処分します。」ちょっとびっくりする答です。

「ちょっと待ってください。それはないですよね。」と強く言いましたが、答えが変わることはありませんでした。

この遺構は、軍事施設の遺構であるとともに被爆遺構でもあります。広島市にとって、被爆石は貴重なもののはずです。その他にも被爆したと思われる鉄カブトなども出土していますから、あわせてどう保存、活用するのかを考えるのは、広島市の役割のはずです。

担当部長の話を聞く限り、「取り除いた被爆石などをどうするのか」について、十分に検討されたとは思われません。

サッカースタジアム周辺の敷石の一部として使う、学校教育の現場で活用するなどなど活用する道はいくらでもあります。

発掘調査を急ぐあまり、十分に検討することもなく「被爆石も一般ごみと一緒に廃棄する」では、「遺構の保存」を求めた市民の理解を得ることはできません。再考を強く求めたいと思います。

いのちとうとし

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2021年9月 6日 (月)

「子ども」を主体とする学校制度 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (4)――

「子ども」を主体とする学校制度

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (4)――

前回もそうだったのですが、最初は「今回が最終回」という心積もりで書き始めるのですが、内容が複雑ですので、次の回にまで待ち越すことになってしまいます。ということで、今回も完結はしませんが、お付き合い頂ければ幸いです。

これまでは、小山田圭吾事件を犯罪だと考えるべきだという点から出発して、そのためにも被害者からの発信が大切であること、そしてそれが可能になるのは、被害者の発信をきちんと受け止められる人や組織があり、被害者との信頼関係が基本になくてはならないことを確認してきました。

発信を受け止める側には、当然、家庭つまり保護者も入りますが、小山田事件との関連で、ここでは学校に焦点を合わせてきました。そして、その学校には被害者と同時に加害者も在籍しており、被害者と加害者双方の教育・指導をする責任が学校にあることを考えると、学校が「犯罪」という視点からの対応についての全責任を負うことには無理があるのではないかと考えられるという結論に達しました。

そこで、学校とも警察とも「独立」した関係にあって、子どもたちとの信頼関係を築くことができ、かつ「いじめ」を被害者の立場から捉えて、実質的な行動の取れる「第三者機関」といった性格のものを創れないか、という問題提起になりました。今回はその続きです。

 

「いじめの中には犯罪としか言えないものがある」という認識は正しいのですが、その前に、犯罪的ないじめも出発時点から「犯罪」そのものであるかどうかを考えることも必要です。「犯罪」になってしまった時点でどうすべきかに焦点を合わせる以前の問題提起として、「いじめ」を「犯罪」にしないような手立てがないものかを考える必要もありそうです。

《北欧の事例》

答えの一つは既に1990年代の北欧にありました。尾木直樹さんが、『日経xWOMAN』の2015年6月3日号で、1996年に北欧4か国を訪問した時の報告をしています。

北欧4カ国を訪れた際に驚いたのは、子ども達が主体的にいじめを無くすための取り組みをしているという点でした。子ども達が昼休みに2~3人のチームを組んで、「いじめている子、いないよね」とパトロールするのです。

 デンマークでは学校理事会が大きな権限を持っているのですが、校長、PTA会長、地域の弁護士といった13人の理事の中の7人が、小学校5~6年生の子ども達でした。

この実践例だけで、「いじめ」対策についての理想に近いあり方が理解できたような気がします。そして、子どもの権利条約の四つの柱を具現しているだけでなく、大人が積極的に関わってこれらの柱を教育の場で子どもたちのために提供しているという事実も、子どもの権利と大人がどう向き合うのかの良いお手本になっているのではないでしょうか。

念のため、ユニセフのホームページに掲載されている4本の柱を引用しておきます。

(1) 命を守られ成長できること

すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを受けることが保障されます。

(2) 子どもにとって最もよいこと

子どもに関することが決められ、行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えます。

(3) 意見を表明し参加できること

子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。

(4) 差別のないこと

すべての子どもは、子ども自身や親の人種や国籍、性、意見、障がい、経済状況などどんな理由でも差別されず、条約の定めるすべての権利が保障されます。

私の提案した「第三者機関」とこのような実践例の大きな違いは、「犯罪」としての「いじめ」対応にどのくらい配慮するのかという点です。しかし、子どもたちが学校運営の面でも主体性を発揮できるシステムを前提として考えるとき、学校そのものの「いじめ」対応で果す役割が大きく変わるはずですので、「第三者機関」の必要性もその視点から見直す必要が出てきます。

その点については次回に譲りますが、今回の趣旨は「北欧の教育は進んでいる。それに比べて日本は遅れている」という主張をすることではありません。その逆です。

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そのために、高校と大学の同級生の柴田勝征さんの著書から引用します。彼も数学を専攻し、その後、教育や言語学比較文化論等幅広い分野で活躍したのですが、彼の著書、『フィンランド教育の批判的検討』 (2012年、花伝社刊。以下「検討」と略します。) に取り上げられている我が国での実践例や理論的な整理を紹介します。300ページ近くの大部であるこの本では、国際学力比較(PISA)で常にトップクラスの成績を収めているフィンランドの教育を批判的に検証していますが、その中で「いじめ」についての調査・研究や検証も行われています。

《我が国での実績》

「検討」では、16ページを割いて「いじめ」についての記述があるのですが、そのほとんどは、楠凡之さんの『いじめと児童虐待の臨床教育学』 (2002年、ミネルヴァ書房。以下、「教育学」と略します。) の紹介です。本来ならこの本を読んでから内容を要約すべきなのですが、「検討」では、かなりの分量を引用していますので、以下の記述は完璧とは言えなくても近似値としてはそれなりの意味があるのではないかと考えています。

柴田さんは、「教育学」の内容の内、日本の教育学が強調している「教師集団」や「生徒集団」の役割を、フィンランド教育の「礼賛的紹介者」が無視していることを指摘しているだけでなく、学校におけるいじめ対策のカギである、という認識を示しています。

その概略ですが、「教育学」ではまず、「子どもの発育段階を4つの直に区分して、それぞれの時期のおける子どもの自我・社会性の発達的特徴と、それを反映した主要ないじめの特徴を提示しています。」

その4段階とは次の通りです。

(1) 6歳から9歳頃 (小学校低学年)

(2) 9,10歳から11歳頃 (小学校高学年)

(3) 11歳から13歳頃 (中学入学前後)

(4) 14歳から17歳頃 (高校生)

さらに注目すべきなのは、大脳の発達と子どもの社会性の発達とを密接に結びつけて考察していることです。

その結果として、「いじめ」の問題に関わる教師が心すべき留意点を5つ挙げています。

(1) 「集団的自立」のエネルギーを発揮できる活動世界の創造

(2) 子どもたちとの相互的な関係性を築きつつ、自らの価値観を明示していくこと

(3) 仲間集団のなかに相互尊重の関係性を実現していくこと

(4) 「9,10歳の発達の節目」を乗り越えていける学力の保障

(5) いじめや仲間集団内のトラブルを克服していける自治的な力量の形成

これらの留意点は、ただ抽象的に説明されているのではなく、具体的な実践例とともに、これらの留意点を日常的にどう生かすのかについても触れられています。

私の力量では、これだけ詳細かつ具体的なアドバイスを短く要約することは難しいので、関心のある方は是非、「検討」あるいは「教育学」をお読み頂ければと思います。さらに、楠さんの著書『虐待・いじめ 悲しみから希望へ 今、私たちにできること』 (2013年、高文研) も「教育学」をテキストにした楠さんの授業で、受講生たちの実際の経験を元に、 実践的な分析が行われている分り易い解説ですので、お読み下さい。

次回は、そこを出発点に、「第三者機関」についても考えてみたいと思います。

[21/9/6 イライザ]

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2021年9月 5日 (日)

ヒロシマとベトナム(その28)ーヒロシマで初めての「エージェントオレンジDay」

ベトナムで初めて枯葉剤がまかれて60年目に当たる8月10日、ヒロシマで初めての「エージェントオレンジDay」のイベント、「枯葉剤60年 ~改めて問う!エージェントオレンジ~」を東広島市で開催しました。

市内だけでなく広島市や竹原市、呉市などから来場45名、Web申込者32名に参加いただきました。

枯葉剤ドキュメント映画「花はどこへいった」

ベトナム帰還兵の夫を癌で亡くした坂田雅子監督の枯葉剤ドキュメント映画第一作。

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「枯葉剤の被害があれほどヒドイことを初めて知りショックでした」(女性・40歳代)、「ダイオキシンの恐ろしさに驚きました」(女性・60歳代)、 「いま現在も枯葉剤に苦しんでいるベトナム人や米国人がいることを知ることができた」(女性・60歳代)、「映像はほんの一部でしかないと思う。あまりにも戦争の被害を知らない自分にショックを受けた。日本の被爆者も76年経ても苦しみは続いている。まずは現実を知ることが大切と思った。(女性・70歳代)、「枯葉剤の漠とした認識がリセットされた。忘れてはいけない、自分に何ができるか・・・・」(男性・60歳代)など、世代を超えて続く深刻な枯葉剤被害の実態をヒロシマの被爆者と重ね、「知る」こと、そして「何ができるか」と自らの課題を問う感想が寄せられました。

「グエン・ドクさんと坂田雅子監督のトーク&シンポジウム」

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坂田雅子監督は首都圏とその周辺で急速に広がるコロナ感染のため、急遽、群馬県みなかみ町からのオンライン出演、ホーチミン市のグエン・ドクさん、会場(東広島芸術文化ホール「くらら」)をむすんだ多元中継での「トーク&シンポジウム」でした。

グエン・ドクさんからは、枯葉剤被害者に対する政府の公的支援が乏しいことに加え、連日7千人前後のコロナ新規感染者が続き、行動制限が敷かれている中で一段と厳しさが増している現状、日本企業や支援団体に働きかけ被害者への生活支援を取り組んでいることなどの活動が報告されました。

坂田雅子監督からは、第一作の「花はどこへいった」に続く「沈黙の春を生きて」を通して出会った多くの枯葉剤被害者とその家族の高齢化が進み、その支援体制が問われていることが強調されました。また、今年5月にフランスの裁判所がベトナム系フランス人女性チャン・トー・ガーさんの起こしていた枯葉剤を製造・販売したアメリカの化学企業14社を相手にした訴訟を却下した問題に触れ、今後も続けられる裁判への国際的な支援の必要性が訴えられました。

中国新聞東広島総局の教蓮孝匡記者からは、9年前のベトナム、アメリカ、韓国などでの枯葉剤取材の経験から被害者に対する補償が急務であること。2017年の「核兵器禁止条約」国連採択、今年1月の条約発効において、ベトナムの枯葉剤被害者団体(VAVA)が署名活動を展開したことなどを紹介しながら、ヒロシマとしての枯葉剤問題への関わり(課題)が話されました。

参加者が共有したお二人の感想、「改めてアメリカの補償が絶対必要と強く感じました。補償の請求活動が活発になることを願うとともに、日本でも推進したいと思いました」(男性・70歳代)、「すべての戦争被害者を救うまで、戦争は終わっていないと感じました」(女性・70歳代)

 

「パネル展」

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8月11日、12日、16日の3日間、7つのブース(ベトナム戦争と枯葉剤に関わる年表、枯葉剤(エージェントオレンジ)、ベトナム戦争と枯葉剤、ヒロシマとベトナム、グエン・ドクさんコーナー、ベトナムNow、枯葉剤被害児救援活動)の「パネル展」を開催し、69名に入館いただきました。

「丁寧な説明をいただき少し理解が深まりました」、「枯葉剤のことを知らなかったのでとても勉強になりました」、「私たちが目を覚まして行動していかないと行けないと思います」、「ヒロシマがベトナム戦争に協力させられていた足跡があったことに衝撃を受けました」、「枯葉剤は過去のものではない」などの感想が寄せられ、来場者のほとんどの人が枯葉剤に関する認識が「変わった」と答えられました。

最後にグエン・ドクさんと坂田雅子監督の心に残る言葉を紹介します。

平和親善大使としてのドクさんの「覚悟」

「2017年から2年間に(亡くなったベトさんと分かち合っていた)腎臓の手術など6回手術した。今もドクターからは“身体は良好な状態ではない”と言われている。私に時間は多くない。」、「戦争が終わって40数年経ち、多くの若者にとって戦争が実感できなくなっている。それはとても心配で深刻なことだと思っている。若い人たちに枯葉剤や戦争、平和の大切なことを伝えることが平和親善大使である私の任務。」

坂田雅子監督「小さな希望の光を灯し続けよう」

「枯葉剤被害者と家族の状況はとても深刻で、明るい希望が見えているかというそうではない。しかし、もう駄目なのかと言えば決してそうではない。ベトナムは被害者や障がい者に寄り添う姿勢をもった国だし、このイベントもそうだが枯葉剤問題は着実に広がり、支援も少しづつだが進んできている。希望というものはこの先にバラ色な何かがあるというものではなく、大変な中、厳しい中に何か一つでも小さな光があり、それが広がってゆくということだと思います。小さな希望の光を灯し続けましょう。」

 次号(10月5日)から幾度か、「トーク&シンポジウム」で取り上げられた枯葉剤裁判と補償問題について考えて見たいと思います。

(2021年9月5日、あかたつ)

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2021年9月 4日 (土)

2か月ぶりの広島「3の日行動」

緊急事態宣言が出ている中でしたが、2か月ぶりに「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」(以下、「ヒロシマ総がかり行動」)は、「3の日行動」を実施しました。

コロナ過での開催ということで、「ヒロシマ総がかり行動」の世話人会議でも様々協議しましたが、失政を続ける菅政権に対ししっかりとアピールする必要があるということで、時間を短縮(従来の1時間を30分に)して実施することになりました。

本通電停まで、いつもどおり午後5時30分からアピール行動が始まりました。

メインの横断幕は「コロナから命と暮らしを守る政治を」です。昼過ぎの「菅総理、総裁選出馬せず」とのニュースを受けての街頭行動となりましたが、

参加者は、あらかじめ用意した次のようなアピール文字が書かれたプラスター掲げます。

・憲法生かしたコロナ対策を

・憲法改悪反対

・自公政権でコロナ退治はできぬ

・軍事費削ってコロナ対策充実

・公的支援強化の野党連合政権へ

 ・野党共闘で政治を変えよう

他にも「落城寸前菅政権」もありましたが、菅総理の退陣表明があったため中止しました。手書きの「コロナ棄民を許さない 支えある社会へ」のプラスターもありました。

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オリンピック、パラリンピックの強行だけが理由ではありませんが、間違いなくコレラが影響したと思われるコロナの急速な感染拡大。充分な医療も受けられず、自宅で命を奪われる人まで出ています。菅政治の失敗としか言いようがありません。「総裁選には立候補せず、コロナ対策に全力をあげる」と菅総理は言っていますが、間違いだらけのコロナ対策がこのまま続けられたのではたまったものではありません。これまでの過ちへのしっかりとした謝罪が必要です。総裁選に出ないからといって、その責任から逃れることはできません。プラスターでのアピールの多くが、コロナ問題が掲げているのは当然のことです。

マスコミはこれから連日、面白おかしく自民党総裁選挙に関わる報道をくり返すことになると思います。しかし忘れてはならないのは、菅政権に失政は、一人菅総理だけの責任ではないことです。自民党の若手議員は、「菅首相では選挙は戦えない」といっているだけで、政策の失敗を指摘する声はほとんど聞こえてきません。与党としてのコロナ対策の失敗への反省は全くないのです。自民党総裁選挙後の臨時国会で新総理が選ばれたのちの総選挙が実施されることになります。大事なことは、後継総理にだれが選ばれようと、今回の総選挙が、国民の声に背を向け続けてきた自公政権に終止符を打ち、国民生活第一の政治へと流れを変えるための選挙であることは変わりがないのです。私もマイクを握る機会がありましたので、こんなことを訴えました。

30分間の短い行動になりましたが、30人の参加者がプラスターを掲げてアピールするとともに5人がマイクを握り訴えました。

朝から雨模様の一日でしたが、行動をはじめる午後5時半頃には雨もやみ、予定通り30分間のアピールで、9月の「3の日行動」を終了しました。

いのちとうとし

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2021年9月 3日 (金)

奇妙な広島市の回答―文化財審議会非公開について 「市民の市政参画の推進に関する要綱」の原点に戻れ

先月の12,13,14日と3日間連続して取り上げた「広島市の情報公開の現状の問題」のつづきです。

その後、広島市情報公開条例によって、広島市文化財審議会の「サッカースタジアム建設予定調査」に関わる情報公開請求を行った結果、私が求めていた情報が、ようやく開示されました。

確かに情報公開請求によって、情報提供を受けることはできたのですが、どうしても疑問が残るのは、広島市の「文化財審議会は、非公開で開催した審議会の議事録等の公開は差し控えさせていただいています。」(8月3日)という回答です。

この回答に対し、8月19日に再質問のメールを送りました。その内容は「市民の市政参画の推進に関する要綱」の「第3節 審議会等への市民参画 (審議会等の適正な運営)」を明示して、改めて広島市の見解をただしたものです。

8月31日に回答がありました。「会議の非公開、議事録などの公開差し控えが『要綱に沿ったものでなかった』」ことを認めています。その理由を「要綱の内容を当課が十分に理解していなかったこと及び人事異動に伴う事務手続の引継ぎが十分に行われていなかったことに起因する」としています。その上で「要綱の内容を職員に周知徹底するとともに、広島市文化財審議会に係る事務手続の見直しを行い、審議会及び議事録の適切な公開に努める」とし、「過去に開催した審議会の情報につきましても、要綱に沿った上で、開催記録等を作成し公開できるよう順次事務手続を進める」というものです。

回答は、「これまで要綱を遵守していなかった」ことを認めていますが、その理由を見ると「文化財担当課が十分理解していなかった」としています。しかし「文化財担当だけの問題」で終わってよいのか、「人事異動で事務手続の引継ぎが十分でなかった」とは何を意味しているのかという疑問が湧きます。

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松井一實広島市長(広島市ホームページより転載)

そもそも広島市は、「市民の市政参画の推進に関する要綱」の第1条でその目的を「この要綱は、市民の市民による市民のための市政の実現を目指す本市にとって、市民の知識 又は経験を市政に生かすことが重要であることにかんがみ、市民が市政に参画するための基本的な事項を定めることにより、市民の市政参画の推進を図り、よって市民主体の市政の実現を図ること」としています。この素晴らしい「要綱」は、全ての市職員が遵守すべきものです。

情報開示された資料によれば、2回開かれた「広島市文化財審議会」には、毎回8名の市職員が参加しています。一回は、市民局長も参加していますし、他の回には文化財担当課と共に文化のまちづくり担当課からも2名参加しています。もちろん2回とも、文化スポーツ部長の参加があります。

問題は、8月31日の回答に言う「担当課である文化財担当課」だけでなく、局長も部長も更に他課からの参加者もいながら、誰一人からも「非公開は問題がある」という指摘がなされていないことです。

「市民の市政参画の推進に関する要綱」には、審議会の開催だけでなく「市民の市民による市民のための市政の実現を目指す」ために「市民の市政参画の推進を図り、よって市民主体の市政の実現を図る」ための市政のあり方が、こんなことまで思うほどきめ細かく定められています。

今回の問題は、広島市文化財審議会が全部非公開で開催していたことから出発しましたが、「誰一人指摘しなかった」ことからも明らかなように、単に「文化財担当課」担当者だけの問題ではないといえます。

ここには、松井市政の「市民の声を受け止める」姿勢の弱さが浮き彫りになったと思わざるを得ません。これを機会に松井市長が先頭にたって、全職員に「市政参画の推進に関する要綱」を改めて徹底させ、広島市政が、要綱に盛り込まれた「市民との向き合い方」の原点に戻ることが必要です。

そして文化財担当課は、私への解答だけでなく、広島市文化財審議会のホームページにきちんとした謝罪と見解を掲載すべきです。

いのちとうとし

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2021年9月 2日 (木)

明教寺(中区猫屋町)訪問記

今週に日曜日の午後に放送されたRCCの「元就。後猫屋町の実はをさがしてすたこら」で「明教寺の被爆電車敷石」が紹介されました。

昭和19年まで本川駅から左折(本川橋から見て)し現在の本川小学校前の道を南進していたといわれる電車道のことが気になっていたのですが、この番組でその痕跡の一端を知ることができましたので、早速明教寺を訪問しました。

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本堂は、改修工事用の幕でおおわれており、「被爆電車石」を見つけるのに苦労しましたので、お寺の方に教えていただこうと思い本堂右手にある庫裡の呼び鈴をおしました。

全くの偶然ですが、「元就。」と同じように、最初に若奥さん(テレビでは、自分のことを「坊守」と紹介)が、そして副住職のご主人が出てこられました。今日訪れた趣旨をお話しし、まず「被爆電車石」の場所を教えていただきました。本堂の北側の通路に何枚か敷かれていました。

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本堂沿いに10枚以上敷かれているようですが、工事用幕で目にできるのは数枚です。

「確か、どれかの敷石に釘が残っていますよ」と教えていただき、一緒に探しました。小さな釘の頭のようなものが見つかりました。目に入ります。

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そう話しているうちに、檀家回りを終えられた新田洸真住職が帰ってこられました。まるでテレビで見た流れと同じになってきました。持参した昭和14年当時の地図の複製を広げて、さらに話を聞きます。「この寺の前の道を電車が走っていたのですね」「そうです。電車の敷石は、必要な人はどうぞということだったので、かなりの枚数をいただき、門から本堂までずっと敷き詰められていたのですが、寺の改修した今はこの部分だけです。」かつて電車が走っていた痕跡の一部に出会うことができました。

地図を見ながらの坊守さんのお話。「RCCで使われていた地図には、寺の名前が『教寺』と間違った寺名になっていましたが、この地図は正しく書いてありますね。どこかで入手できますか?」古本屋アカデミイを紹介しておきました。

テレビの番組では、もう一つの疑問がありました。それは、毛利家が関ヶ原の戦いに敗れ、長門の国萩に入封されたときのことです。番組では、萩のお城の写真が出て来た後「リストラに遭い・・・」という住職の話が続きましたので、「このお寺は、一度萩に移った後、こちらに戻ってこられたのですか?」と訊ねてみました。

住職のお答えです。

「もともとこのお寺は、安芸高田の甲立にあった高林坊の住職が、高林坊はそのまま残して毛利輝元公と共に広島に出府し、寺地並びに城の用材の一部を与えられて創建した寺です。この時一緒の移ってきた檀徒の数ははっきりしませんが、800ぐらいだったのではといわれています。毛利家が萩に入封する事には、大幅に減封されましたので、全部が付いていくことはできず200ぐらいの檀家が付いて行ったといわれています。この寺を建立した住職は、萩に一緒に移転し泉福寺を建立しましたが、明教寺はここに残りました。テレビで『リストラ云々』といったのはこのことです。」ようやく理解できました。

平和公園周辺のお寺を訪ねた時気になるのは、被爆した墓石などのことです。「電車の被爆敷石のほかに被爆当時のものはないですか?」「門の右手にある記念碑が被爆しています。本堂前にある墓石は、新しく建て替えられてものがほとんどですが、あちらの墓地(道路を挟んだ北側)には、古い被爆した墓石がありますよ。」「ありがとうございます。写真を撮りながら、廻らせていただきたいと思います。」とお礼を言ってお別れをしました。

下の写真が、被爆した「浄観33回忌記念碑」です。真ん中ほどに亀裂が入っています。

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この碑は、明治初頭の仏教界に大きな打撃を与えた、特に神仏分離と廃仏毀釈というめまぐるしい社会情勢の変化の中で、明教寺が生き残りと教義普及のための新しい信仰結社「閳(せん)教社」(後の「閳教部」)の創設を指導した浄観(1876~19886年)を記念して建立されたものです。

北側の墓地に足を運ぶと、すぐ左手に「明教寺合塔」が目に入ります。この碑も被爆しています。

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更に墓地内を回ると、多くのお墓が新しくなっていますが、被爆前に建立された碑もいくつか目に付きます。「對馬家之墓」も右上角が補修されています。

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裏側には、没年が昭和20年8月6日となっているお二人の名前が刻まれています。「昭和20年8月6日」と刻まれた墓が他にもいくつもあります。

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ところで住職とお別れする前に、「明教寺の寺史を記したものはありませんか」とお尋ねしたところ、前住職新田哲正さんがまとめられた「明教寺小史」を譲っていただきました。

「もっと詳しいことは、2004年に発行された『原爆と寺院』に載っています。これを書いた新田光子は、私の妹ですが、それを読んでいただくとさらによくわかると思います。」この「原爆と寺院」は、以前購入しましたが、開くこともなく積読のままになっていた本です。これを機会に改めて読んでみようと思います。

ご住職の話では、「閳教部」は様々な興味深い活動もあったようですので、「原爆と寺院」を読んだ後改めて紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2021年9月 1日 (水)

「子ども」を主体とする学校制度 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

「子ども」を主体とする学校制度

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

前2回は、オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当者だった小山田圭吾による過去の「いじめ」事件を犯罪と考えるべきだという視点から取り上げました。さらに、我が国でも「いじめ」についての認識が変りつつあることを踏まえて、次のステップとして何ができるのかを考え始めました。

ここでお断りした上で強調したいのは、「全ての『いじめ』が犯罪である」という主張をしているのではないということです。逆に強調したいのは、「いじめ」という名称が付けられることによって、犯罪行為が見逃されてはならないという点なのです。

《文科省の「いじめ観」》

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文科省もその点には気付いているようです。(文科省による「いじめの定義」から。以下「定義」と略します。)

いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度 (2013年度・筆者注) から以下のとおり定義されている。

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。

これより7年前には文科大臣から、次のような「お願い」が出されています。

文部科学大臣からのお願い

未来のある君たちへ

弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。

仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。

君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。

いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

成十八年 (2006年・筆者注) 十一月十七日

文部科学大臣 伊吹 文明

二、三注釈を付けておくと、一つには、私の探し方に問題があるのかもしれませんが、ネット検索ではこれより新しい文科省の見解は見付かりませんでした。また、前回御紹介したコメントの中で、尾木直樹さんは2006年度に定義が変更されたとことを指摘しています。その後、いじめ防止対策推進法ができた際、2013年度に再度変更された定義が、上記のものなのです。そして伊吹大臣からのお願いは、定義の変更前のものです。古い「いじめ」の定義に沿っての「お願い」であることにも注意して下さい。

しかし、ここで取り上げた文科省の「いじめ観」には、「いじめ」を考える上で決して忘れてはならない必須の教訓がはっきり示されています。それは、被害者が二の次、三の次になっているという点です。

仮に、「自分が死ななくては、この苦しみから逃れられない」とまで感じている子どもが、文科大臣の「お願い」を読み始めたとして、最初に出てくる言葉が「いじめている」側の子どもたちへのメッセージだったら、その先を読む気にはならないでしょう。

そして、いじめの定義についての文科省の注釈では、「死という選択」は、漢字に埋もれた長い文章の中に申し訳程度に触れられていて、被害者本人の苦しみには何の言及もないのです。

《被害者の「発信」を受け止められる第三者機関》

問題の本筋に戻って、犯罪に相当する「いじめ」にあっている子どもがいたとして、その子が「自分はいじめにあっている」という発信を誰に何処でどの様にするのかは、最重要課題です。そして仮に何らかの形で発信をしたとして、その発信を、誰が何処でどの様に受け止めるのかというシステムを創ることもそれと不離一体の重要課題です。

「定義」では、被害者の発信には触れられていませんし、ほぼ自動的に「学校」がその発信を受け止める存在であることが仮定されています。さらに、警察への通報も学校からですし、「いじめの重大事態の調査に関するガイドライン」(平成29 年3月文部科学省)を見ても、被害者や保護者への配慮という言葉はあるものの、被害者に寄り添う姿勢があるとは読めません。

しかし、それを文科省の責任だと糾弾し非難するだけでは解決策にはなりません。学校そのものの本質を再度、見直すことが必要です。前回引用した、旭川市の中学校教頭の言葉が参考になります。「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか」(Yahoo!ニュースJapan 8月21日から引用)です。

彼の言葉は、「官僚組織としての中学校」を守ることを最優先した結果のように読み取れるのですが、同時に、犯罪を摘発し罰するという視点からだけ捉えた場合に、学校という存在が基本的矛盾を内蔵していることも明確に示しています。学校は教育機関ですから、被害者だけでなく加害者も指導・教育することが使命なのです。最初から被害者の立場に立って犯罪を立件し、それを受けて裁判所が罪を裁くことになるという一連の手続きを始める立場にはないのです。

それなら、被害にあう可能性を持つ全ての子どもたちに「110番ベル」のようなものを渡して、何かあればすぐ警察に通報するというシステムを作ったラどうでしょうか。しかし、このようなシステムが機能するようには到底思えません。一つには、子どもたちとの信頼関係があるかどうかが成否のカギになりますが、その可能性は学校と警察の双方が「革命的」に変化しない限り無理でしょう。現状のままでこのようなシステムを導入すれば、それは学校が「教育」を放棄することにつながるかもしれません。そもそも教育を否定するシステムで子どもを守るという構想そのものに無理があります。

となると、ちょっと荒唐無稽の部類に入ってしまうかもしれませんが、学校とも警察とも「独立」した関係にあって、子どもたちとの信頼関係を築くことができ、かつ「いじめ」を被害者の立場から捉えて、実質的な行動の取れる「第三者機関」といった性格のものを創れないでしょうか。

「机上の空論」にしないために、外国での例も参考にしながら次回、考えられたらと思います。

 

[21/9/1 イライザ]

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