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2021年9月 1日 (水)

「子ども」を主体とする学校制度 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

「子ども」を主体とする学校制度

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (3)――

前2回は、オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当者だった小山田圭吾による過去の「いじめ」事件を犯罪と考えるべきだという視点から取り上げました。さらに、我が国でも「いじめ」についての認識が変りつつあることを踏まえて、次のステップとして何ができるのかを考え始めました。

ここでお断りした上で強調したいのは、「全ての『いじめ』が犯罪である」という主張をしているのではないということです。逆に強調したいのは、「いじめ」という名称が付けられることによって、犯罪行為が見逃されてはならないという点なのです。

《文科省の「いじめ観」》

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文科省もその点には気付いているようです。(文科省による「いじめの定義」から。以下「定義」と略します。)

いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度 (2013年度・筆者注) から以下のとおり定義されている。

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。

これより7年前には文科大臣から、次のような「お願い」が出されています。

文部科学大臣からのお願い

未来のある君たちへ

弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。

仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。

君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。

いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

成十八年 (2006年・筆者注) 十一月十七日

文部科学大臣 伊吹 文明

二、三注釈を付けておくと、一つには、私の探し方に問題があるのかもしれませんが、ネット検索ではこれより新しい文科省の見解は見付かりませんでした。また、前回御紹介したコメントの中で、尾木直樹さんは2006年度に定義が変更されたとことを指摘しています。その後、いじめ防止対策推進法ができた際、2013年度に再度変更された定義が、上記のものなのです。そして伊吹大臣からのお願いは、定義の変更前のものです。古い「いじめ」の定義に沿っての「お願い」であることにも注意して下さい。

しかし、ここで取り上げた文科省の「いじめ観」には、「いじめ」を考える上で決して忘れてはならない必須の教訓がはっきり示されています。それは、被害者が二の次、三の次になっているという点です。

仮に、「自分が死ななくては、この苦しみから逃れられない」とまで感じている子どもが、文科大臣の「お願い」を読み始めたとして、最初に出てくる言葉が「いじめている」側の子どもたちへのメッセージだったら、その先を読む気にはならないでしょう。

そして、いじめの定義についての文科省の注釈では、「死という選択」は、漢字に埋もれた長い文章の中に申し訳程度に触れられていて、被害者本人の苦しみには何の言及もないのです。

《被害者の「発信」を受け止められる第三者機関》

問題の本筋に戻って、犯罪に相当する「いじめ」にあっている子どもがいたとして、その子が「自分はいじめにあっている」という発信を誰に何処でどの様にするのかは、最重要課題です。そして仮に何らかの形で発信をしたとして、その発信を、誰が何処でどの様に受け止めるのかというシステムを創ることもそれと不離一体の重要課題です。

「定義」では、被害者の発信には触れられていませんし、ほぼ自動的に「学校」がその発信を受け止める存在であることが仮定されています。さらに、警察への通報も学校からですし、「いじめの重大事態の調査に関するガイドライン」(平成29 年3月文部科学省)を見ても、被害者や保護者への配慮という言葉はあるものの、被害者に寄り添う姿勢があるとは読めません。

しかし、それを文科省の責任だと糾弾し非難するだけでは解決策にはなりません。学校そのものの本質を再度、見直すことが必要です。前回引用した、旭川市の中学校教頭の言葉が参考になります。「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか」(Yahoo!ニュースJapan 8月21日から引用)です。

彼の言葉は、「官僚組織としての中学校」を守ることを最優先した結果のように読み取れるのですが、同時に、犯罪を摘発し罰するという視点からだけ捉えた場合に、学校という存在が基本的矛盾を内蔵していることも明確に示しています。学校は教育機関ですから、被害者だけでなく加害者も指導・教育することが使命なのです。最初から被害者の立場に立って犯罪を立件し、それを受けて裁判所が罪を裁くことになるという一連の手続きを始める立場にはないのです。

それなら、被害にあう可能性を持つ全ての子どもたちに「110番ベル」のようなものを渡して、何かあればすぐ警察に通報するというシステムを作ったラどうでしょうか。しかし、このようなシステムが機能するようには到底思えません。一つには、子どもたちとの信頼関係があるかどうかが成否のカギになりますが、その可能性は学校と警察の双方が「革命的」に変化しない限り無理でしょう。現状のままでこのようなシステムを導入すれば、それは学校が「教育」を放棄することにつながるかもしれません。そもそも教育を否定するシステムで子どもを守るという構想そのものに無理があります。

となると、ちょっと荒唐無稽の部類に入ってしまうかもしれませんが、学校とも警察とも「独立」した関係にあって、子どもたちとの信頼関係を築くことができ、かつ「いじめ」を被害者の立場から捉えて、実質的な行動の取れる「第三者機関」といった性格のものを創れないでしょうか。

「机上の空論」にしないために、外国での例も参考にしながら次回、考えられたらと思います。

 

[21/9/1 イライザ]

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