ベトナムの歴史(その6-2)
阿倍仲麻呂、安南護都としたベトナムに赴任
この頃のベトナムは安南と呼ばれ、現在のハノイに唐の安南都護府が置かれていました。都護府とは、「中国の漢、唐王朝の時代に、辺境警備・周辺諸民族統治などのために置かれた軍事機関。都護府の長官は都護と呼ばれていた。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
安南護都府(タンロン遺跡)発掘 (ハノイ)
ベトナム語の理解できない阿倍仲麻呂は、得意の漢字による筆談が役に立ったか、いずれにしろ755年に安南から遠路長安に帰り着くことができました。唐に残った阿倍仲麻呂はその後、重用され760年にこの安南護都に任じられます。彼がどのような施政を行っていたのか分かりませんが、近年、ハノイで安南護都府の発掘調査が進められており、その解明が楽しみです。
中国による1000年の支配を受けていた「北属期」のベトナムに相次いで日本人が漂着し、そのうちの一人がベトナム支配の現地最高責任者に就いていたとことは最近知られるようになっています。それにしても、中国に対するベトナムの人びとの感情は厳しいものがありますが、一方、こうした歴史を経ながらも親日的なのは、なぜでしょか。またの機会に考えて見たいと思います。
大陸交流の内海航路・瀬戸内
遣隋使、遣唐使の時代、ベトナムの地を初めて踏んだ平群朝臣広成にしろ、ベトナムの歴史に初めて名前を刻んだ阿倍仲麻呂にしろ、中国大陸に往き帰するのはまさに死を賭した冒険だったと思います。ジャイロ(羅針盤)はなく、推進力は風任せ。それでもなおかつ、大陸(異郷)へと優秀な若者を向かわせ、向かった動機はとてつもなく大きな夢と可能性への飛翔だったと思います。
交流(知)を求めた命がけの旅、なんとも壮大なロマンです。隋唐留学生や多くの渡来人を通して仏教や大陸文化、様々な技術を日本に伝えられたと考えると、交流の大切さをあらためて強く感じます。
7世紀の遣隋使は教科書で学んだ小野妹子が記憶に残っていますが、遣隋使船は120人程度の船が2隻、8世紀に入っての遣唐使船には4隻で500~600人が荒海を渡ったといわれています。その遣唐使船の大きさは、「長さが30m、幅7〜8m、帆柱2本の平底箱型で鉄釘は ほとんど用いず、平板を継ぎ合わせて造ったため、波切りが悪く不安定で、強風や波浪に弱い欠点があった。」(「ミニ内航海運史 Ⅱ 飛鳥・奈良時」)とのことです。
エンサイクロメディア空海 「空海の生涯」より
瀬戸内は内海ですが日本の歴史と文化が形作られてゆくなかで果たした役割は大きく、私たちのまちも深く関わっています。東広島市安芸津町は万葉の里として知られていますが、古くから内海航路の要として安芸津は栄えてきました。瀬戸内の「津」や「浦」では風待ちだけでなく遣唐使船の建造も行われ、それが造船業の盛んな瀬戸内をつくった所以かも知れません。
次回は、もう少し「北属期」のベトナムと日本との関わりに付き合っていただき、初めて日本の地を踏んだ仏哲について紹介します。
(2021年8月20日、あかたつ)
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