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2021年8月

2021年8月31日 (火)

8月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

この1週間は好天が続いた。ブルーベリーの実はとてもたくさん落ちていて発酵のにおいが漂う中での摘み取りとなっている。幸い割れた実を食べにくるスズメバチは殆ど見ないので作業に影響はない。しかし、安芸高田市向原でブルーベリーを栽培している知り合いの農園ではお盆の前後の長雨で割れた実にキイロスズメバチが来襲。木に近寄れない状態で困っていると聞く。対策として春に仕掛けるペットボトルのスズメバチストラップでその年の発生を抑えるのが大切と知人を介してお知らせした。わが農園は10数年来スズメバチストラップで捕獲をしているためかスズメバチの数は少ない。摘み取りはほぼ毎日行われているが23日の週から東広島市の障害者の事業所にお手伝いの募集を県の就労振興センターを介して行ったところ、2つの事業所が協力することになり作業が始まっている。昨年はシルバー人材センターにお願いしたが今年は近場の障害者の事業所との農服連携という新しい出会いが始まった。このご縁を長く続けたい。

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8月28日(土)

一番下の畑を刈り払い機で草刈りしていると手首のちょっと上の左腕がチクチクする。見ると虻がチクリチクリと首を前に傾けて刺している。刈り払い機のアクセルを緩めて右手でぴしゃり。1㎝位の赤い斑点が出てかゆい。

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この日は4組の援農グループが来園。午後の摘み取りを終えて休憩した時にふるまわれるブルーベリージュース。少しあまったので初めて摘み取り体験をするグループにお代わりしてもらった。

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摘み取りが終わると靴底には落果したブルーベリーの実がぐしゃりとこびりついているので流し台の水できれいに流さないいけない。

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その流し台の柱に下げている古い鉄の火箸の輪っかにじっと座っているのはアマガエル。にぎやかな声にも動じない。一句作れそうだがその才はなし。

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8月29日(日)

2組の援農グループが来園。お孫さん2人も参加。今年で3回目なので自分たちの判断で適当に休みを取って摘み取りをしている。

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摘み取りの援農グループの昼休みはテント、離れ、縁側などに分散して過ごす。お孫さんと一緒の家族連れのグループはちょっと暑いがテントの下で食事。

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8月30日(月)

里山のブルーベリー園から見える田んぼでは刈り取った法面の草の野焼きの煙がたなびく。稲刈りが近いためか田んぼの法面の草刈りがあちこちで始まっている。

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農園の近くの田んぼの様子。すっかり黄色くなった稲。

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稲穂。稲刈りはもうすぐ。安芸の郷の給食の新米ももうすぐ食べられる。

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ブルーベリーの実もまばらに。お盆前後の長雨で水分を多めに目に含んでいるため軟らかい実が多い。そろそろ収穫も終わりが近い。

 

2021年8月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年8月30日 (月)

情報公開で明らかになったことーサッカースタジアム建設予定地発掘調査

8月4日に広島市の情報公開条例に基づき開示請求を行っていた「サッカースタジアム建設予定地発掘調査」に関わる資料が、8月25日に部分開示されました。

もともと、文化財審議会を担当する文化財担当課に情報の開示を求めたのですが、同審議会が非公開で実施されていたため、「開示できない」と回答があったため、情報公開請求を行ったものです。不開示の通知が来るかもしれないと思っていましたが、あんに相違し、何故か私が求めていた情報はすべて開示されました。「なぜ最初から開示しなかったのか」という問題が残りますが、今日は開示された情報を検証して湧いた疑問を紹介します。

「サッカースタジアム建設予定地発掘調査」が議題となった広島市文化財審議会は、2020年3月2日と7月14日の2回開催されていますが、広島市がこれまで繰り返し主張してきた「記録保存が決定されています」という会議は、3月2日の会議です。この日の「報告事項」として「①サッカースタジアム建設予定地での試掘調査の結果について②サッカースタジアム建設予定地での発掘調査について」の二つのテーマが上がっています。

最初の疑問は、当日配布された資料として公開された「試掘調査概要」とそれに付された「試掘調査トレンチ設定個所」の図面です。

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見難いのですが、この図面によれば、T4は3カ所ですので計12カ所で試掘されています。ところが、公園東側部分の図面上「西の出丸」と書かれている周辺に試掘場所が集中し、何故か今回の発掘場所となる西側では、4カ所しか実施されていません。今回の「発掘調査」のための試掘としては不十分ではないかと思われます。どうもこの試掘は、サッカースタジアムを東側に建設するとしていた時期に実施されたもののように思われます。その試掘結果として、「調査の概要」には、「T4における軍の倉庫跡のものと思われる床面のほかは、各トレンチにおいて被爆整地層や被爆麺と判断できる被爆の痕跡は確認できなかった」と記されています。

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ところが、添付された発掘時の写真によれば、今回の発掘調査が行われている公園西側のT8では「敷石状構造物」が出土し、軍施設の遺構の可能性があると思われるにもかかわらず、このことについては、全く触れられていませんし、議事録の中にもこれに関する説明は見当たりません。

②の「サッカースタジアム建設予定地での発掘調査について」では、調査体制や財政問題に意見が多く出されていますが、この中で注目すべき発言があります。「記録保存のための発掘調査は、破壊することを前提に発掘するのですが、特に重要な遺構が出土した場合ですと、その出土した遺構が破壊されないように、サッカースタジアム建設計画の一部を修正すべきなのです。(略)既に決めてしまって壊すんだと。そういう一点張りになりかねないので、これは教育委員会で中止していただきたいんですけれども、重要な遺構が出て来た時は、設計変更せよと。」

この委員の重要な遺構は、「江戸期の遺構」を想定して発言されているようですが、「発掘調査」ということからいえば、どの時代の遺構であろうと同じように考えるのが当然のことです。ですから今回出土した軍隊遺構も同様に考えるべきであり、現在の広島市の対応は、この委員の意見を全く無視しています。広島市は「記録保存が決まっている」と繰り返しますが、その会議の中で、こうした指摘があったことを重く受け止めるべきです。

もう一つ重要なことが明らかになっています。広島市は、「発掘調査」に関わる説明文の中の「調査体制」の項で「(4)広島県教育委員会、有識者による指導助言」として「調査の実施に当たっては、広島県教育委員会の埋蔵文化財専門職員や市文化財審議会の埋蔵文化財分野の委員である野島委員等に、適宜指導・助言を受けることとする。」と書いています。名指しされている野島委員とは、市文化財審議会の10名の委員のうち、唯一の埋蔵文化財専門の委員なのです。この「野島委員に適宜指導・助言を受ける」ことは、7月14日の会議でも広島市が提出した資料にも明記されています。しかし、この間広島市が、野島委員の指導や助言を仰いだことはないといわれています。野島委員は「この遺構は非常に貴重なものだ」といわれていると聞いています。絶対におかしいと思います。

さらに不思議なことは、公開された3月2日の会議資料の中に「発掘調査場所」が、文字でも図面でも示されていないことです。これって、絶対に必要な資料だと思うのですが。疑問を感じられて委員はおられなかったのですかね。文化財審議会に初めて調査対象範囲図が提示されたのは、4か月後の7月14日に開催された審議会です。

いずれにしても情報公開請求をしなければ、これらの事実を私たちが知ることができず、市側に都合の良い説明だけを聞かされることになってしまいます。

「サッカースタジアム建設予定地発掘遺構」問題を前進させるためには、きちんと情報を公開し、市民の理解を得ることが絶対に必要なことです。広島市には、今からでもその道を選んでほしいと強く思います。

いのちとうとし

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2021年8月29日 (日)

全国で5番目に布設された広島市水道-その2

全国的に水道布設の要望が強まる中で広島市は、日清戦争講和後、総工費95万円の水道布設案を市議会に提案しましたが、布設費用の6割以上は国庫補助をあてにするものでした。しかし、内務大臣からは却下される結果となり、この計画は挫折したかに思えました。

もともと、水道に関する国庫補助の前例(函館、長崎、東京、大阪)は、布設費の3分の1ですから、広島市の要望は前例を破る内容でした。

ところが、明治28年(1895年)11月9日、広島市軍用水道に関する勅令が公布され、全市水道布設に道が開かれたのです。勅令が公布されたということは、帝国議会の協賛を必要としませんので、一気に計画が進むことになりました。しかもこの軍用水道は、実質的に市民用水道と全く同体のものになるものですから、広島市の水道は、勅令によって出現することになったのです。

この広島軍用水道創設の特異性を臨時広島軍用水道布設部副部長高田善一は次のように述べています。少し長いのですが、「広島市水道70年史」から引用します。

「全国に於いて、軍用水道を布設するのは今回の広島軍用水道を初めとする。海軍においては、是までもすでに給水法を施設したるものなきにあらざれども、凡そ広島軍用水道の如き企画は、此の度を以て最初とする。

 さきに広島市が稟請した国庫補助の3分の2を得て、水道を布設せんとしたが、之を却下して、直ちに軍が直営を以て、広島及び宇品に、この軍用水道布設の急施を定めたのは、全く軍事的緊要事なりとの視点において、決定せるなり。

 此の目的を完全ならしめんが為、軍兵駐留の広島市内にも、水道を接続布設することも亦、決定認可されたものである。」

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もともと軍用水道は、その地の住民の生活用水とは全く無関係に、軍が独自に計画施行し、もし完成後に余水があれば分与するというものでした。

軍用水道として全国で3番目に敷設された呉軍港水道の例です。

呉軍用水道は、明治22年(1889年)に布設されました。当然、軍専用です。その後明治36年(1903年)に呉海軍工廠が誕生したことにより、水需要が高まり軍用水道の拡充が行われましたが、呉市に余水付与の承諾が与えられたのは、ようやく大正2年(1913年)年3月のことです。

しかし、広島市水道の場合は、最初から全市民を給水対象に施行され、完成と同時に、その全施設と管理権も、軍用給水の確保を最優勢に配慮するという条件はあったものの無償で広島市に貸与委託され、水道施設全部を「広島市水道」と呼称することが指示されたのです。このような全市の水道布設を国が行うという異例なことが起こったのは、対大陸戦略を遂行するために陸軍そのものが、広島市の水道布設を強く望んでいたからです。

その一つは、昨日も紹介した検疫の問題です。似島に作った陸軍検疫所を運営するためには、水道施設が絶対に必要だったのです。もう一つは、兵員輸送とのかかわりです。日清戦争においては、朝鮮半島中国大陸に渡る全ての兵が、広島に集まり、宇品港から出兵しました。集合した兵は、全てが軍の施設に宿泊することはできません。当然、多くの兵は市内の宿泊施設を利用することになります。この兵士たちの伝染病対策は、喫緊の課題となっていたのです。ですから、軍の施設のみならず、市民水道も完備させることがどうしても必要なことだったのです。そのことは高田善一の「軍兵駐留の広島市内にも」の言葉で明らかです。こうした軍の強い要請があったからこそ、勅令が出てからわずか3年という異例の速さで広島市水道は完成したのです。このことからも、広島と軍の深い関わりが知ることできます。給水開始時の給水人口は、約4万5千人です。ちなみに当時の広島市の人口は、広島市統計書令和2年版によれば110,760人です。

ところで、一昨日の「サッカースタジアム建設予定地からの出土品の展示‐広島市水道局玄関ロビー: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介した、★マークのことです。私は当時布設されたすべての水道管に★マークが付いていると勝手に想像していたのですが、広島市水道局に問い合わせると「広島市において勅令により布設されたのは軍用水道のみで、そこから先に市民用水道が接続する形で布設されたと思われます。 したがって、軍用水道として布設されたものには★マーク、市民用水道として布設されたものには、広島市章が刻印されたことが推測できます。」との回答を得ることができました。水道資料館には、マークの違う2種類が、以前から展示されているようです。

もう一つ気になっている製造者の刻印については、まだ確認が取れていません。「広島市水道70年史」によれば、水道管は入札による外国製鉄管と大阪砲兵工廠に鋳造を依頼したものの2種類がると記されています。

現在、水道資料館は、コロナ対策で閉館中ですので、開館になったら訪れ、確認したいと思います。

もう一つ知ることができたのは、この水道敷設工事のために設定された「臨時広島軍用水道布設部廣島出張組跡」に現在の広島市水道局の庁舎が建っているということです。水道局庁舎の北側にある中国電力中広島変電所敷地に「臨時帝国議会議事堂跡」の看板があることを不思議に思っていたのですが、これでこの謎も解けた気がします。

いのちとうとし

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2021年8月28日 (土)

全国で5番目に布設された広島市水道

昨日、広島市水道局玄関ロビーに展示されている「サッカースタジアム建設予定地から出土した水道管」のことを紹介しました。

今日は、広島市水道が給水を開始と陸軍のかかわりについて、「広島市水道70年史」をもとに考察します。広島市水道史は、100年史も発刊されています。私が所有する「70年史」は少し古くなりますが、給水開始時のことは、変りがないと思いますので、これをもとにします。

その前に、日本国内の初期の水道普及状況を紹介します。明治20年(1887年)10月17日、国内で初めて横浜市で給水が開始され、その後の給水開始状況は、「日本の近代水道の歴史」では、次のようになっています。

1 横浜市 明治201017

2 函館市 明治22 9 20

3 長崎市 明治24 5 16

4 大阪市 明治281113

5 東京都 明治3112 1

6 広島市 明治32 1 1

7 神戸市 明治33 4 1

ところが、広島市水道局のホームページを見ると「広島市の水道は、明治31(1898)825日に創設、翌32(1899)11日に給水を開始しました。」と記すとともに「牛田浄水場で通水式が行われた明治31年(1898年)8月25日が広島市水道創設の記念すべき日」とし、「全国5番目の近代水道創設となりました。」としています。私も、広島市水道局の説を採用し、全国5番目としました。

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牛田浄水場にある広島市水道資料館

広島、東京どちらが先かの順番の問題は別にして、この順番を見て気づくことは、大都市よりも先に、外国の窓口となっていた港湾都市から給水が開始されていることです。それは海外から持ち込まれるコレラなど水を介して広がる伝染病が蔓延するのを防ぐことを目的としていたからです。次に大都市である大阪、東京に普及します。

つまり日本の近代水道は、まず貿易の拠点である5港(函館・横浜・新潟・神戸・長崎)や大都市である3 府(東京・大阪・京都)から、布設が進んだのです。

この条件に当てはまらない一地方都市に過ぎなかった広島市が全国で5番目に給水を開始したのには、ある特別の事情があったのです。

その特別の事情とは、陸軍の基地があり、大陸への出兵の基地となっていたからです。広島市には、1871年(明治6年)に第5鎮台が設置され、1886年(明治19年)には、広島鎮台が第5師団となり、この前後から陸軍部隊が一気に充実することになります。とりわけ廣島が重要な軍事拠点として位置付けられるのは、日清戦争(1894年、<明治27>から95年)の前線基地となり、朝鮮半島や中国大陸に侵攻する時、宇品港から多くの兵士が出兵することになったからです。そればかりではなく、日清戦争が始まると広島に最高戦争指導機関である大本営が広島城内の第5師団に置かれ、同年9月15日には、明治天皇が広島に到着し、さらに臨時帝国議会も開催されるなど、広島は臨時首都といってもよい状況になりました。

と同時に水と関わる深刻な事態が発生する事にもなりました。それは、戦争の影響で伝染病の流行が深刻化したことです。日清戦争では、戦傷者より伝染病に罹患して亡くなった兵士が多かったともいわれています。臨時検疫所を設けて、戦地から帰還する兵士が伝染病を持ち込まないようにする対策も急ぐとともに、似島に正規の陸軍検疫所が設定されました。

しかし、上水道が整備されていないため、川の水に頼った(井戸を掘っても塩分があり良質な水を得ることができなかった)飲み水では、汚染が避けられず、伝染病に流行の恐れがありました。恐ればかりではありませんでした。ある報告によれば「1895年(明治28年)3月から同年11月つまり戦争末期から終戦後兵士が凱旋して以降にかけて、広島県内で3,910人(死者2,957人)、うち市内1,308人のコレラ患者が発生した」のです。

広島に滞在していた明治天皇は、飲み水にはとりわけ気を使っており、伝染病が特定できるようにと天皇専用の井戸が作られました。その井戸は、いま「もひろしま美術館」(中区基町3-2)北側の歩道上に残っています。

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伝染病による死者は、市民や兵士だけにとどまらず、1895年1月には、当時大本営参謀総長である有栖川宮が広島で腸チフスを発症し死亡しています。

きれいな飲料水を確保するのは、陸軍にとっても喫緊の課題となっていたのです。こうした背景の中で、広島市の水道布設計画が具体化することになりますが、その詳細は次回にします。

いのちとうとし

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2021年8月27日 (金)

サッカースタジアム建設予定地からの出土品の展示‐広島市水道局玄関ロビー

現在進められているサッカースタジアム建設予定地での遺構調査で発掘された出土品が、唯一公開で展示されている場所があります。それは、広島市水道局(中区基町9番32号)の正面玄関ロビーです。

私がこの展示を知ったのは、たまたま労働組合に用事があって訪れた7月19日です。といっても訪れた時、すぐに気がついたわけではありません。建物には、二つある入口の東側から入ったため、ロビーの展示には気がつきませんでした。気付いたのは、帰りがけ玄関ロビーの外側に貼りだされた「サッカースタジアム出土水道管 1階ロビー展示中」の表示を見たからです。まさかの「サッカースタジアム建設予定地からの出土品」との出会いですから、駐輪場に改めて自転車を置き、ロビーに引き返しました。

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後に水道局企画総務課広報広聴係に問い合わせたところ、「展示はこの日からスタートしました」とのことでした。まさかの巡り会わせです。

今日は、西側にある水道局の正面玄関から建物に入ったところから紹介します。正面玄関を入ると、案内板が目に入ります。

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「展示スペースは右手奥です!」と書かれていますので、右手に目を移します。「サッカースタジアム建設予定地からの出土品」のコーナーが作られています。

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出土した水道管は、一番奥のガラスの壁際の床の上に置かれています。左側にある説明版によれば、長さは4.5Mほどで口径(内側の径)は、10cmです。説明文には、この水道管が「明治時代の水道管」であること、製造者は「DY.スチュワード社(イギリス)」で、1896年製で旧陸軍の★の刻印があることなどが記載されていますので、それを確認することにしました。

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旧陸軍の★の刻印は、見つけやすいように「★軍用刻印」と書いた矢印型の表示板が付けられています。

その左側の水道管の接合部の少し太くなったところに製造者を表す「D.Y.S&C」の文字が刻まれています。

次に製造年を表示した「1896」の文字を探したのですが、見つけることができません。この「1896」の刻印は、製造者を表す「D.Y.S&C」の裏側にあるため、水道管の下側になりますので、目視することはできないのです。ここでは、説明版にあった写真を掲示します。

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その写真には、はっきりと「1896」の文字が確認できます。

右側には、出土した時の現地の写真や運搬の様子などを紹介する写真も掲示されていますので、ぜひ一度訪れるとよいと思います。

この展示を見ながら少し疑問が湧いてきました。広島市が、サッカースタジアム建設予定地発掘遺構の現地説明会を開いたのは、7月24日ですから、すでにこの地期には、この水道管の遺構は、撤去されていたということです。つまり、現状復旧できないような手順で発掘作業が進められていたことになります。

水道局によれば、「文化財振興課からの連絡を受けて、とりあえずこの場所に保存することにしました」ということですから、もし水道局が保存を決めなければどうなったのでしょうか。そう考えると、この水道管以外の他の出土品はどう扱われているのだろうかという疑問が湧いてきます。

水道局によれば「今後の展示方法につきましては、展示場所、運搬や設置の方法・費用など検討すべき事項が多くあり、現在のところ、未定としております。」ということですので、この貴重な水道管も今後どう扱われるのかは不明です。

ところで、説明文には「明治時代の水道管」と簡単に記載されています。確かに明治時代の水道管には間違いないのですが、この水道管は、広島市に上水道が敷設された歴史を示す重要な生き証人でもあるのです。その理由は、次回改めて詳しく紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2021年8月26日 (木)

「いじめ」ではなく「犯罪」 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (2)――

「いじめ」ではなく「犯罪」

――小山田圭吾事件が問いかけているのは? (2)――

前回は、オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当者だった小山田圭吾による過去の「いじめ」事件を犯罪と考えるべきだという視点から取り上げました。小学生から高校生にかけての学生時代に「障害者をいじめていた」ことが第一の犯罪です。15年ほど経ってから、『ロッキング・オン・ジャパン(1994年1月号)』と翌年の『クイック・ジャパン(95年vol.3)』に掲載されたインタビューで、いわば「武勇伝」として自慢していたことは第二の犯罪です。

さらに、『クイック・ジャパン(95年vol.3)』では、被害者と彼の母親が小山田に出した年賀状を15年も保管した上で嘲笑していることを、第三の犯罪であると考えました。

今回問題にしたいのは、「犯罪」はそれだけに止まっていないという点です。小山田インタビューは、多くの人の目に触れる雑誌が企画し掲載したという事実抜きに語ってはいけない事柄です。『ROCKIN’ON JAPAN』の当時のインタビュアーは山崎洋一郎で、現在は同誌の編集長です。(謝罪文を公式サイトで発表しています。)

今回は、もう一つの掲載誌『クイック・ジャパン』で、「いじめ紀行」というシリーズを企画し、取材していた村上清の言動について考えたいと思います。この「いじめ紀行」の全文はネットで読めますので、(例えば、「のり部屋」というサイトがあります。)

ここで、最大級の言葉で弾劾したいのは、村上清は、「いじめはエンターテインメント」だと考え、小山田のインタビュー記事を企画し掲載したことです。その前提の下、小山田の犯罪の対象になった被害者のうち二人の母親に連絡を取り、特に、これまで注目してきた被害者と彼の母親と、有無を言わせず面会したことです。さらに、二人の母親からは、面会を断られているのもかかわらず、村上とのやり取りを (本人たちの許可がないまま、としか読めないのですが) 『クイック・ジャパン』に掲載していることです。このことも「のり部屋」に掲載されています。

「いじめ」を「エンターテインメント」だと考える人に人権意識があるかどうか問うこと自体愚問ですが、人を馬鹿にするのも好い加減にしろ、くらいは言っておきましょう。

この出版元の太田出版は、一応謝罪文を出していますが、1995年の記事の復刻版を2012年に出していることも合わせて考慮する必要もありそうです。

 《いじめについての認識》

以下、裾野も含めての小山田事件から何を学び取れるのかということなのですが、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」に立ち戻ることを提案します。特に「いじめ」の被害者の人権を、私たち全てが再度見つめ直す必要があるのではないかと思います。

確かに、「いじめ」については、社会的な認識が変ってきてはいます。例えば、NHKのインタビュー記事の中で、尾木直樹さんは次のように説明しています。

これまでの昭和の定義で言えば、いじめは▽自分より立場の弱い子を、▽長期間継続的にいじめて、▽相手が苦痛を感じているもの、しかもそれは▽学校が認定したものという4つも条件が付いていたんです。

昭和の定義では、いじめっ子が主語でいじめをして、学校が調べたら本当にあったという時に認定していた。それは自殺して亡くなってもそういう認定がされてきたんです。

ところが2006年に新しい定義になって、これはおかしいというので相当運動にもなって、いじめられている当該児童生徒が主語になって、被害者が「僕はいじめを受けた」「つらいよ」と言えば認定しましょうということになったんです。

ゆっくりですが、変化は起きているのです。その一つが15年前に起きた、被害者の立場から「いじめ」を捉えるという大きな「逆転」です。

それでも、社会全体として「被害者」を尊重しているのかを問われれば、「否」と言わざるを得ないのではないでしょうか。例えば、旭川市でいじめが原因で自殺した中学3年生について、同校の教頭の言葉、「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか」(Yahoo?ニュースJapan 8月21日から引用) の意味は、被害者と加害者の命を天秤に懸け、被害者の命を切り捨てているということなのです。

《子どもの声が届くために》

スペースが足りなくなってきましたので、詳細は別の機会に回すことにしますが、どうすれば良いのかについて、一番大切だと思われる点を挙げておきたいと思います。それは、制度的に法律的にまた社会全体の価値観として、被害者の発信力が弱いという事実です。被害者を非難したり批判をしているのではなく、「いじめ」という被害にあう子どもたちがその被害を訴えても、その声が届かないという結果にしかならないような法律や制度、そして社会全体の考え方が問題だという意味です。

かつては、セクハラやDVの被害、ストーカーの被害や煽り運転の被害等は、法律的・制度的に犯罪の被害とは認められていませんでした。しかし、まず法律が作られ、その法律に従って、被害者の存在が認められ、被害を受けた人は、刑事的な犯罪の告発ができるようになりました。直接警察に訴えることが可能になったのです。

しかし、2013年に「いじめ防止対策推進法」ができたとはいえ、被害にあった子どもが直接警察、あるいはそれに代る力を持つ公的機関にいじめ被害を訴えるという形の法律ではありません。

いじめ問題の難しさの一つは、いじめが限られた範囲の子どもたちの間で起こり、それがそのグループの外に認知される可能性が低いことです。そして、被害にあった子どもが先生や学校に訴えても、被害そのものを認めて貰うことが難しいという事例も多く報告されてきました。

そんな環境だからこそ、「いじめ防止対策推進法」が被害者の子どもの声を大きく強くし、その声が社会に届き、その結果として子どもを守る役割を果さなくてはならなかったはずなのですが、旭川の例が示すように被害を受けた子供の声は届いていなかったのです。

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では、どうすれば良いのでしょうか。皆さんと一緒に考えられればと思いますが、「子どもの権利条約」に謳われている子どもの権利を確認し、子どもたちの力を中心に据えて新たな学校制度を創るという方向が一つの可能性ではないでしょうか。

[21/8/26 イライザ]

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2021年8月25日 (水)

コロナ禍、孫との夏休み

夏休みも残りが少なくなり、思い出すのは僕自身の小学生の頃のことです。だんだんとユウウツ気持ちになり、「ヤレヤレ」とため息ばかりが出ていたのを思い出します。

 小学6年生の孫がいます。彼はサッカー少年で、このコロナ禍の中、そして連日の雨でもいろいろな場所に行って友人と練習をしています。普通の夏休みが過ごせる年なら、一泊二日くらいの家族旅行をしていたのですが、去年も今年もそれが出来ず、どこか近いところでと孫の希望を聞いて、二人で次の2か所に行きました。

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  1か所は裁判所です。刑事もののテレビを観ているようで、孫は裁判所をリクエストしました。ちょうど刑事事件の判決が10分毎に行われ、覚せい剤、窃盗、暴行、道路交通法違反でした。刑務官に連れられ手錠に腰ひもという姿で出廷した被告人の姿、孫には相当強いインパクトだったようです。

 裁判所の食堂で昼飯をとり、裁判所の周りを歩いて案内しました。ここが検察庁、家庭裁判所、拘置所、弁護士会館、とても興味深々だったようです。

 2か所目に行ったのは平和公園です。連日の雨でなかなか行けるタイミングが無かったのですが、『曇り時々雨』という日の午前中に出かけました。資料館はコロナ禍のために休館中で、その影響か公園内も見学者はまばらで見学には適していました。僕がたまにやる修学旅行生への碑めぐり案内のコースで案内しました。約1時間30分の案内でお昼過ぎになり。昼食を食べながら『反省会』をやりました。

 孫が一番興味を持ったのは、爆心地と原爆ドームでした。爆心地は、今の島内科医院のところです。特に何かが建っている訳ではありませんが、「この上空約600メートルで…」と説明すると、黙って空を見上げていました。

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 孫は被爆四世になります。原爆慰霊碑で「この中に在る石棺には、祖父(じい)ちゃんのお母さん、お父さん、お姉ちゃんの名前が書いてある名簿が入っている」と話すと、いつもは見せない神妙な顔で聞いてくれました。

それにしても、平和公園を見学したのは初めてというのには驚きでした。もしかして学校から来たけど、記憶に無いのかもしれません。今はコロナ禍により修学旅行生も見ませんが、シーズンには全国各地から多くの人が訪れる平和公園です。肝心な広島県内の子ども達が来ないというのは、どうしてなんでしょうかね。

資料館の見学が可能になったら、次は資料館見学をしよう。そしてその次は長崎にも行ってみようと約束しました。「本場のちゃんぽん、皿うどんは美味いぞー」

僕にとっても孫にとっても、有意義な夏休みの出来事でした(だったと思っていますが??)。

木原省治

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2021年8月24日 (火)

広島市「原爆被爆者対策事業概要」-「在外被爆者の支援」を修正

広島県・市、長崎県・市は、毎年7月に被爆者支援事業をまとめた「原爆被爆者対策事業概要」を冊子にまとめ、発表します。その中には、毎年厚生労働省が発表する前年度末(その年の3月31日)現在の全国の都道府県別の被爆者健康手帳所持者数が、掲載されていますので、いつも参考にしています。都道府県別といいましたが、広島県と長崎県は、広島市、長崎市の所持者数とそれ以外の県内の所持者数が掲載されています。

 年度ごとの被爆者健康手帳取得者数も掲載されていますので、例えば、2020年度末現在の被爆者健康手帳取得者は、127,755人で前年より8,927人少なくなっていることが分かります。前年に比較して6.5%少なくなっています。といっても、この人数が2020年度中に亡くなった被爆者の数ということは言えません。それは、今でも「被爆者健康手帳の交付」を申請し、新たに取得する人がいるからです。例えば、今年度でいえば、黒い雨訴訟で勝利した原告82名がそうです。

この「原爆被爆者対策事業概要」には、広島市が扱う被爆者健康手帳交付状況が、掲載されています。それによれば、この一年間で2,645人の死亡届が出されていることが分かります。前年末現在の被爆者健康手帳所持者は、47,632人ですので、この人数と比較すると死亡率は、5.6%ということになります。ここまで書いて、広島市に「厚労省が発表する中に、死亡者数が分かるものがありますか」という問い合わせの答えが返ってきました。「調べてみたが、そういう数字は発表されていない」ということでした。

それもそうだなとある意味の納得をしました。あくまでも推測ですが、厚労省は、各自治体には、年度末現在の「被爆者健康手帳所持者数」しか報告を求めていないと思われます。厚労省にとっては、これで充分ということだと思います。

私が、この数字にこだわるのは、実際に一年間に亡くなった人数でもないにもかかわらず、毎年マスコミは7月になると「今年の被爆者健康手帳所持者は、〇〇人で、前年から〇〇人減少しました」と報道し、あたかもその人数が亡くなった被爆者の人数ととられかねない報道をしているからです。

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前書きが長くなりました。今日紹介したかったのは、「原爆被爆者対策事業概要」の「第4編 その他」の「第4章 在外被爆者への支援」の記載内容が、修正されていることです。、昨年の11月、このブログでも2度にわたって「原爆資料館『海外で暮らす被爆者』のパネルの説明文が修正された」ことを紹介しました。その時は、「原爆被爆者対策事業概要」の修正については、話し合っていなかったのですが、今回修正は、原爆資料館と同じように「昭和42年(1967年)韓国原爆被害者協会の発足をはじめ、在外被爆者への援護を求める運動が大きくなり、司法に訴える動きも相次いだ。」の文章が付け加えられました。

修正は行われたのですが、これでは不十分なのです。当時広島市と原爆資料館との話し合いで強調したことは、「402号通達という違法な通達によって、長く在外被爆者に被爆者援護法の適用が行われなかった」ことでした。それは、2007年11月広島三菱徴用工裁判の最高裁判決で「『被爆者』が日本国外に居住地を移した場合に受給権が失権するとした402号通達の失権取り扱いの定めは、原爆2法の解釈を誤る違法なものだった。402号通達の失権取り扱いの定めは、原爆2法を統合する形で制定された被爆者援護法にも反することは明らかだ。」とし「402号通達について、『誤った法解釈で手当を支給しなかったのは、国家賠償法上も違法』と指摘し、精神的損害の慰謝料を認めた」ことで明らかなことだからです。

当時「パネルは字数が限られているので、そこまで書くことはできません」ということでしたので、部分的な修正で了解しました。しかし「原爆被爆者対策事業概要」には、字数の制限があるわけではないはずです。修正するのであれば、「402号通達」についても、きちんと記述すべきだったと思います。改めて広島市と話し合いたいと思います。

と広島市の対応を批判的に書きましたが、「裁判によって」在外被爆者への援護法適用が実現、拡大したことを「原爆被爆者対策事業概要」に記載しているのは、広島市だけです。

広島県、長崎県・市の「原爆被爆者対策事業概要」には、施策の変遷だけが書かれているのみで、在外被爆者裁判のことなど一言も記載されていません。

ですから、広島市の「在外被爆者への支援」の記載は貴重なのです。公文書ですので、後まで残ります。ですから広島市の「原爆被爆者対策事業概要」には、どうしても「違法な402号通達」のことを書き残してほしいのです。

 いのちとうとし

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2021年8月23日 (月)

8月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

お盆を挟んで雨が続く。今年のブルーベリー栽培では肥料を施していないので雨で肥料が効きすぎる心配はない。しかし、8月半ばの10日間ほどブルーベリーの収穫がとまったままなので安芸の郷のブルーベリーの予約注文数を確保できるかどうかやきもきしている状態がつづいている。晴れてほしいところだがどうしようもない。我慢がつづく。

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8月15日(日)

前日の豪雨一過、農園の見回りをする。法尻の水路には水がたっぷりだし、

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ブルーベリー畑の中にも水たまりができている。それでも3段ある畑の地面は水が引いていてブルーベリーの木も異常はなかった。

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ブルーベリーの実は長雨で実があちこちで割れている。

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8月20日(金)

今週は安芸の郷の摘み取り研修は中止つづきで20日にやっと摘み取りに入れた。収穫した実を車に運ぶ利用者。

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8月21日(土)

ブルーベリー畑の見回り。防草シートは所々で列の片隅の寄っている。土が出ている所が水流の上側。シートは木の根元で止まっている。

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日中は小さく晴れて摘み取りに支障はなかった。もっとも実は完全に乾いてはいないが。3組の友人知人のグループの援農で摘み取っとブルーベリーも安芸の郷に納品もできた。

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庭のテントのすぐそばのハギの花。

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8月22日(日)

ほぼ一日小雨が降ると予想したが、それでも3組の摘み取りの援農グループが来園。結局10時頃少し小雨がふったがそれから2時前にお帰りになるまで雨は降らなかった。安芸の郷でボランティア活動をしている矢野地区の民生委員の皆さんも摘み取りを終わって帰途につく。

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収穫したブルーベリーは安芸の郷にたくさん納品できた。後片付けと農園の見回り。枝の先に若草色の新しい芽が伸びだした。長雨で水分たっぷりでも元気なようだ。

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帰り道。近くの畑のテッポウユリが遠目に目にとまる。車で近くによって撮影。無造作に生えた咲きようが印象的。

 

2021年8月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年8月22日 (日)

「19日行動」―府中・三原からの報告

今月も、府中と三原地区の[19日行動」の様子が届きました。府中地区の行動は、石岡真由海さんの報告を小川敏男さんから、三原地区の行動は、藤本講治さんから写真とともに送られてきましたので、掲載します。

 

【府中地区】

府中地区は、いつものように上下と府中の2カ所で実施しました。

上下は、15時30分から上下Aコープ前です。9名が参加した。

府中は、17時ちょうどから府中天満屋前です。12名が参加しました。いずれも、30分間の行動でした。

府中市でも感染者がじわじわとぶり返し、豪雨後の警戒も続く中での開催。直前まで迷いましたが、度重なる政権の失策にいてもたってもいられず、スピーチの内容を反映する横断幕「コロナ対策の不備、五輪強行、平和軽視、金権腐敗・・・この怒りを投票へ」を急遽掲げてのスタンディング&リレートークとなりました。

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スピーチでは、アフガニスタンの状況になぞらえて政権の信頼と誠実な運営がいかに大切か、医療危機がすでに始まっている現状や今頃?と思うような対策でやってる感しか出さないコロナ対策のお粗末さ、広島・長崎の平和祈念式典での首相の読み飛ばしや遅刻など平和追求に対する意識の欠如など多くの項目が指摘されました。それらは皆安保法制を強行採決した側の人々が行なっているという事実に、コロナ下にあっても対策をとりながら声を上げていく必要性を、今日も強く感じました。

(石岡真由海)

【三原地区】

8月19日,17時30分から三原駅前に15人が参加して定例の街宣活動を行いました。

街宣を通して8月6日(広島原爆の日),9日(長崎原爆の日),15日(終戦記念日)を迎えて,改めて核兵器廃絶と恒久平和,そして戦争させない運動の強化を誓い合いました。

6人の弁士から,①「安倍政権は,6年前の2015年9月に戦争法を強行成立させる時,積極的平和主義と言ってきた。積極的平和主義とは,軍備を持つことである。戦争をするとか侵略するとは言わずに,国民の多くはこれにだまされた。この戦争法が我々をおおいつぶす今日の状況である。今日の自民党政権は,戦争を推し進める富国強兵,交戦政権である」(政平智春さん)。➁「東京オリンピックの開催によりコロナ感染が爆発的に増えた。菅政権はこれから開かれるパラリンピックの中止を決断し,一日も早く臨時国会を開会してコロナ対策を行うべきである」(寺田元子さん)。➂「コロナ禍で国民の生活,明日の生活がどうなるのかという時に,オリンピックの費用が開催するまでは1兆7千億円と言われていたが,終わってみたら20兆円もの膨大なお金が使われている。」(高木武子さん)。④「アフガニスタンへの戦争,今日まで米軍の爆撃,テロによって16万人の死者が出でいる。3人に1人がアフガンの民間人だと言われている。報復戦争は間違いである。武力では平和は守られない」(寺田明充さん)。⑤「今日の新型コロナ感染拡大の状況を考えると,国民の命を守ることが第一である。私たちは,国のあり様,政治のあり様を考えていかなければならない。来る総選挙では,平和で戦争のない社会,福祉の充実,市民生活が保障される社会,外国人の雇用や人権が保障される法整備,未来を担う子どもたちが安心して学べる法整備を政治が作る責任がある。こうした政治をめざして菅自公政権にNO!を突きつけましょう」(冨中豊彦さん)。

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⑥「今の政治状況,6年前に戦争法が作られ着々と戦争のできる法ができてきている。菅政権の本質を見抜き,戦争がどんなものかもう一度考えていこう。明日の天気は変えられないが,明日の政治は変えられる。このことをしっかり肝に銘じて秋に行われる総選挙に向かっていきましょう。そして,戦争のない名実ともにいのち,暮らし,平和が守られる日本にしていきましょう」。(岡崎俊彦さん)と菅政権の政策を批判しました。

来月9月の「19日行動」は,戦争法強行採決から6年目。今月の行動は,長雨が続いたことやコロナまん延防止対策などで参加者が限定した感がありましたので,戦列を整えて街頭行動に備えていきたい。

(藤本講治)

【編集後記】毎月「19日行動」の報告、ありがとうございます。県内各地で粘り強く取り組んでおられる様子が伝わり、「私たちもがんばらなければ」という思いにさせられます。報告をいただいた3人に感謝です。

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2021年8月21日 (土)

「人間」に対する罪 ――小山田圭吾事件が問いかけているのは?――

「人間」に対する罪

――小山田圭吾事件が問いかけているのは?――

オリンピック・パラリンピック開幕直前、開会式前の7月14日に浮上したのが、開会式の作曲担当者として発表された小山田圭吾による、過去の「いじめ」事件です。

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ハフポストから

この事件の概要は皆さん御存じのはずですが、Yahoo!ニュースJapanの7月18日付、篠田修司氏のまとめが分り易いので、彼の記事から引用します。全文もお読み下さい。

問題となっているのは、1994年に発行された『ロッキング・オン・ジャパン(1994年1月号)』と、翌年の『クイック・ジャパン(95年vol.3)』に掲載されたインタビュー記事です。

記事では小学生から高校生にかけての学生時代に「障害者をいじめていた」と告白。後述しますが、批判しているブログや報道によるいじめの内容を簡潔に書くと

    ・段ボール箱に入れてガムテームでぐるぐる巻きにした

    ・ジャージを脱がして裸にした

    ・(山形マット死事件の例を出しながら)マットレス巻きにした

    ・うんこを食べさせた

    ・バックドロップをかけた

    ・洗濯紐で縛って自慰行為をさせた

などなどです。

いじめではなく明らかに犯罪であり、文章の書き方も後悔しているのではなく自慢気に読めたことから「障害者をいじめていた人間がパラリンピックに関わるのか」、「五輪憲章に違反している」と炎上しました。

篠原氏が指摘しているように、小山田の行為は言い訳のできない犯罪です。そして、それを全国的に流通している雑誌二誌で「武勇伝として」語っていることも、当然、人権侵害です。被害者は二重の被害を受けているからです。これは、被害者本人にとっては「二重」では言い表せないほどの深刻な攻撃です。

《親としての立場から》

さらに「親」としての立場からこの事件を知って、どうしても許せないのが、『クイック・ジャパン(95年vol.3)』のインタビューです。

その詳細を報告・報道しているサイトはいくつもありますが、ここでは私が閲覧した中で一番詳しく報じている「にこスタ」から、内容を抜粋します。その記事は、「村上清のいじめ紀行・第一回ゲスト小山田圭吾」 (「いじめ紀行」と略)、で、長さは51~72ページにも及ぶものだったとのことです。「いじめ紀行」の中では、被害者の仮名が使われていますが、ここでは「被害者」という表現を使います。

この「いじめ紀行」で報じているショッキングな「事実」として、小山田が15年間持ち続けていた年賀状が登場します。

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この年賀状についての小山田の次のようなコメントに憤りを感じない人がいるのでしょうか。

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二つの画像は、「Tomo」さんのツイッターからお借りしました。

以下、私の推測ですが、被害者はお母さんに、自分がいじめられている事実を話せなかったのだと思います。自分のことを誰よりも愛してくれている、そして心配してくれているお母さんに、「ボクはうんこを食べさせられている」って言えないでしょう。でも、子どものことを心配している母親は、同じ部活(太鼓部だったそうです)で一緒の「友達」の名前の中から、「小山田」という名に気付き、「わが子と一緒に遊んでいてくれている」と思ったのではないでしょうか。ことによると、「そう思いたい」気持が、それから先の詮索にまで行き着かなかったのかもしれません。

そしてその関係が続くように、祈るような気持で、子どもと一緒に年賀状を書き、それを小山田に送ったのではないでしょうか。

小山田はその年賀状を15年間も保管して、この親子をあざ笑うために『クイック・ジャパン(95年vol.3)』公開したのです。

ことによると、真実はもっと醜いのかもしれません。『クイック・ジャパン(95年vol.3)』誌のインタビューで小山田は、自分は年賀状を出していないと言っています。しかし、被害者親子の送った年賀状には、「手紙ありがとう」という言葉があります。こちらの方が真実であると信じて良いのではないでしょうか。普通に考えて、年賀状に貰ってもいない手紙のお礼は書かないでしょう。

つまり、それが年賀状なのかその前の手紙なのかは分りませんが、小山田は被害者に手紙を郵送したか、手渡ししているのです。そしてその内容は、母親が我が子に「年賀状を書きましょう」と言わせるような内容だった、少なくともそう考える上での障害にはならないものだったということでしょう。

いつもは、想像を絶するような悲惨な行為を繰り返している相手に、なぜ小山田はそんな内容の手紙を送ったのでしょうか。大変大きな疑問符です。

ここで大胆な推理をします。被害者が小山田に年賀状を送るように仕向けるためだった――と仮定すると、それを15年間、持ち続けていた意味も分ります。

私は小山田を、それほどの悪人に仕立て上げたくはありません。どこかに人間性が残っていると信じたいからです。その願いが通じるような説得力のある説明を、仮説で十分ですので、何方か示して頂けないでしょうか。

 長くなりました。この先で、この種の「犯罪」を「いじめ」で終らせてしまっている現在の法制度、社会認識を改めるための問題提起をしたかったのですが、次回に延ばします。

[21/8/21 イライザ]

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2021年8月20日 (金)

ベトナムの歴史(その6-2)

阿倍仲麻呂、安南護都としたベトナムに赴任

この頃のベトナムは安南と呼ばれ、現在のハノイに唐の安南都護府が置かれていました。都護府とは、「中国の王朝の時代に、辺境警備・周辺諸民族統治などのために置かれた軍事機関。都護府の長官は都護と呼ばれていた。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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安南護都府(タンロン遺跡)発掘 (ハノイ)

ベトナム語の理解できない阿倍仲麻呂は、得意の漢字による筆談が役に立ったか、いずれにしろ755年に安南から遠路長安に帰り着くことができました。唐に残った阿倍仲麻呂はその後、重用され760年にこの安南護都に任じられます。彼がどのような施政を行っていたのか分かりませんが、近年、ハノイで安南護都府の発掘調査が進められており、その解明が楽しみです。

中国による1000年の支配を受けていた「北属期」のベトナムに相次いで日本人が漂着し、そのうちの一人がベトナム支配の現地最高責任者に就いていたとことは最近知られるようになっています。それにしても、中国に対するベトナムの人びとの感情は厳しいものがありますが、一方、こうした歴史を経ながらも親日的なのは、なぜでしょか。またの機会に考えて見たいと思います。

 

大陸交流の内海航路・瀬戸内

遣隋使、遣唐使の時代、ベトナムの地を初めて踏んだ平群朝臣広成にしろ、ベトナムの歴史に初めて名前を刻んだ阿倍仲麻呂にしろ、中国大陸に往き帰するのはまさに死を賭した冒険だったと思います。ジャイロ(羅針盤)はなく、推進力は風任せ。それでもなおかつ、大陸(異郷)へと優秀な若者を向かわせ、向かった動機はとてつもなく大きな夢と可能性への飛翔だったと思います。

交流(知)を求めた命がけの旅、なんとも壮大なロマンです。隋唐留学生や多くの渡来人を通して仏教や大陸文化、様々な技術を日本に伝えられたと考えると、交流の大切さをあらためて強く感じます。

7世紀の遣隋使は教科書で学んだ小野妹子が記憶に残っていますが、遣隋使船は120人程度の船が2隻、8世紀に入っての遣唐使船には4隻で500~600人が荒海を渡ったといわれています。その遣唐使船の大きさは、「長さが30m、幅7〜8m、帆柱2本の平底箱型で鉄釘は ほとんど用いず、平板を継ぎ合わせて造ったため、波切りが悪く不安定で、強風や波浪に弱い欠点があった。」(「ミニ内航海運史飛鳥・奈良時」)とのことです。

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エンサイクロメディア空海  「空海の生涯」より

瀬戸内は内海ですが日本の歴史と文化が形作られてゆくなかで果たした役割は大きく、私たちのまちも深く関わっています。東広島市安芸津町は万葉の里として知られていますが、古くから内海航路の要として安芸津は栄えてきました。瀬戸内の「津」や「浦」では風待ちだけでなく遣唐使船の建造も行われ、それが造船業の盛んな瀬戸内をつくった所以かも知れません。

次回は、もう少し「北属期」のベトナムと日本との関わりに付き合っていただき、初めて日本の地を踏んだ仏哲について紹介します。

(2021年8月20日、あかたつ)

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2021年8月19日 (木)

ベトナムの歴史(その6-1)

初めてベトナムの地を踏んだ日本人

前号で、938年に「白藤江の戦い」で呉権(ゴ・クエン)が、南漢(中国)軍を破り、紀元前111年から1000年続いた「北属期(中国による直接支配時代)」を脱した話をしました。そして、今号から幾度かに分けて10世紀からフランスの植民地支配が始まる19世紀までを紹介すると約束しました。

その前に、日本人として初めてベトナムの地を踏んだ人物について紹介します。

私は、この「ベトナムの歴史」シリーズを書き進めるまで、ベトナムの地を日本人として最初に踏んだのは阿倍仲麻呂とばかり思っていました。しかし、今回、改めていろいろ調べているうちにそれが誤りだったことを知りました。実は阿倍仲麻呂よりも20年ほど前に同じような事情からベトナムの地を踏んだ日本人がいたことを福永英夫著『日本人とヴェトナム―その歴史的かかわり』1995年、近代文藝社)で知りました。その人は、平群朝臣広成(へぐりのあそんひろなり)です。

少しややこしく、阿倍仲麻呂の方が馴染み深いので、先ず阿倍仲麻呂から話を進めます。時代は奈良時代、ベトナムは唐の支配を受けていた「北属期」です。阿倍仲麻呂は大和国(現在の奈良県)に生まれます。16歳のとき、私の故郷(岡山県吉備中央町)近くの備中国下道郡(びっちゅうのくにしもつみちのこおり、現在の倉敷市真備地区辺り)に生まれた吉備真備(きびのまきび)や、仲麻呂と同郷の僧侶・玄昉などと伴に、717年の第9次遣唐使に同行した留学生です。

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吉備真備や玄昉は17年後の734年10月に帰国の途に就きますが、阿倍仲麻呂は帰国せず唐の官吏の道に入ります。日本をめざす4隻の遣唐使船は嵐に遭い、吉備真備の第1船は海上を漂流すること1ヶ月で多禰嶋(種子島)に漂着します。この船には、ベトナム人で初めて日本の地を踏んだチャンパ王国(現在のフエ)出身の僧、仏哲も乗船していました。

第2船は舵が壊れ漂流を続け、再び唐領土まで戻されます。

第3船にベトナムの地を初めて踏んだ日本人となった遣唐副使・平群朝臣広成が乗船していました。この船も舵を失い渦巻く波に翻弄され、インドシナ半島全般を指す崑崙(こんろん)国に漂着します。上陸した115名の乗組員は現地人の襲撃で殺され、囚われた者も熱病で相次ぎ亡くなります。広成ら生き残った4名は翌年、牢獄を脱出することができ唐に戻ります。第4船は消息不明、おそらく遭難し100余名の乗組員とともに沈没したものと考えられています。

平群朝臣広成は4年後の738年、唐から渤海国(現在の中国東北部から朝鮮半島北部、ロシアの沿岸地方)に渡り、渤海国遣日使船(大使:胥要徳)に乗船して日本をめざします。ところが再び時化に遭遇し、大使ら40人は波に呑まれましたが、広成は嵐と戦いながら幸運にも出羽国に辿り着き、739年に平城京に帰ることができました。

この平群朝臣広成が、初めてベトナムの地を踏んだ日本人です。

阿倍仲麻呂、初めてベトナムの歴史に登場した日本人

再び、阿倍仲麻呂に話を戻します。

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阿倍仲麻呂、出典フリー百科事典「ウィキペディア」)

仲麻呂は唐に留まること36年、54歳を迎えた753年11月16日、蘇州から益久島(現在の屋久島)に向かう4隻のうちの第1船で帰国の途に就きました。右の絵に描かれた歌は仲麻呂が帰国に際しての送別の宴で歌ったものとされ、百人一首にも選ばれているものですが、唄った地について諸説あるようです。

この季節の東シナ海は激しいモンスーンの季節風が吹き荒れる時期で、4隻は互いの消息を絶ち四散してしまいます。第2船は多禰嶋(種子島)から益久島(屋久島)に入り、薩摩の秋妻屋浦(鹿児島県坊津付近)に辿り着いています。阿倍仲麻呂の乗った第1船は嵐に翻弄され、以前、平群朝臣広成らが流されたのとほぼ同じような経路で漂流を続け、唐の驩州(かんしゅう)に漂着します。この驩州がベトナム中北部、現在のゲアン省のヴィン(vinh)当たりだったのです。

これらの記録は平安時代に菅野真道(すがののまみち)によって編纂された奈良時代の基本資料である『続日本記』に記され、冒頭に紹介した『日本とヴェトナム-その歴史的かかわり』の第1章「漂流」に解説されています。

(2021年8月19日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんの「ベトナムの歴史」は、毎月20日に掲載してきましたが、文量が多くなりましたので、筆者の了解を得て、今日と明日の2回に分けて掲載することになりました。今日は、その第1回です。

 

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2021年8月18日 (水)

せこへいART MUSEUM美術館「世界の子どもの平和のための美術展」がスタート

世界の子供の平和像(せこへい)をつくる会ヒロシマが主催し、今年で20回目となる「世界の子どもの平和のための美術展」が、旧日銀広島支店で昨日午後3時にオープンしました。今年は、コロナ過ということもあり開催するのかどうかも検討されたようですが、少し作品は少なくなっても開催することになりました。

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「せこへい像」は、2001年、当時の秋葉忠利広島市長の協力で、旧市民球場南側にある「勝鯉の森」の東隣に完成させることができました。

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「像が完成した後も何か運動を継続させよう」との思いからこの美術展が企画されました。第1回目は、「せこへいのあるフォトコンテスト」だったようです。

今では、世界の子どもたちが描いた絵画や、支援する大人が作った作品が多数展示されています。

雨が降るあいにくの天気でしたので、来館者が少なかったため、主催者の一人にいろいろと話を聞くことができました。会場は、1階と3階にわかれています。1階は、主に子どもたちの作品、3階は支援者や卒業生?と思われる人の作品が展示されています。

気になったものを少し紹介します。

入り口を入ってすぐ左手には、沖縄から届いた貝とともに沖縄の子どもが作った詩が掲示されています。昨年も展示されていました。

1階ホールのメイン会場に移動します。入るとすぐ右手に世界の子どもたちが描いた絵画が展示されています。

キャプションを見ると、カザフスタン、イラク、カンボジア、パレスチナの子どもたちの作品です。

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左側に移動すると、等身大の紙に描かれた「BDY MAP(ボディ・マップ)」と呼ばれる作品が並んでします。

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この絵は、二人が一組となり相手のボディーを描いた後、自分が描かれたマップに「自分の思い」を言葉や絵で描き加えています。

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この「ボディマッピング」の手法は、南アフリカのケープタウンでHIVと共に生きる女性たちによって始まったそうです。会場には、安田女子高校の平和ゼミナールの生徒の作品が展示されています。

すぐ横に、高校生たちが元安川で掘りだした原爆瓦が展示されています。

掘りだした原爆瓦の他にも被爆者から子どもたちに託された被爆瓦や瓶もあります。その中に珍しいものがありました。溶けたキリンビールの瓶です。キリンビールの文字がはっきりと残っています。

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この瓶の中には、ビールと思われる液体が残っています。振ると中の液体が動くのが分かります。ちょっとびっくりです。本当は手を触れてはいけないのでしょうが、所持者がいたため出来たことです。旧キリンビール府中工場に長く展示されていたようですが、工場の閉鎖に伴い元の所有者に返され、現在に至っています。

他にも板ガラスが何枚も重なったガラス片もあります。

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資料館東のやや上流の元安川河川で見つかったそうです。説明をしてくれた人によれば、復元された中島地区の地図には、発掘場所のすぐ近くに「河内硝子店」があったので、このお店のものではないかということでした。

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「河内硝子店」(ブルーの線で囲ってある)は、天神町筋ですので、今度中島地区の被爆遺構として保存される場所のすぐ近くです。

3階に上がります。ここで紹介したいのは、前衛書道家の小川妙子さんの作品です。

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「希望」の文字が描かれています。ちょうど作家の小川さんがおられましたので、少しお話を聞きました。「もともと定時制高校?の教員をしていました。生徒の中には、被爆者の方が何人もおられて、被爆体験を聞くことが多くありました。私なりに、その被爆体験を伝えることはできないかと思い、書道で『平和へメッセージ』を表現することにしました。世界各地で展覧会を開いています。」そんな思いがこもった作品が並んでいます。

この美術展は、22日まで午前10時から午後6時まで(最終日のみ午後3時閉館)開催されていますので、ぜひ一度訪ねてみてください。

いのちとうとし

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2021年8月17日 (火)

ことしも8・15 反戦・原爆詩を朗読する市民のつどい

毎年8月15日に開催される「反戦・原爆詩を朗読する市民のつどい」に参加しました。今年はタイトルの頭に「ことしも8・15」と、「も」の字が入っています。理由がありました。この「朗読会」がスタートしたのは、2002年。原爆ドーム横に建つ「原民喜の詩碑」前だったそうです。今年は20周年の記念「朗読会」となりました。

広島文学資料保全の会・代表の土屋時子さんの司会でスタート。最初に全ての戦争犠牲者に対し黙とうをささげます。

第1部は、朗読会です。

白井朝香さんのシターの演奏と共に原民喜文学の研究・継承を進める「花幻忌の会」のみなさんによる原民喜の作品朗読。

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今年は、原民喜没後70周年です。朗読された詩は、原民喜詩碑に刻まれている「碑銘」と「かけがえのないもの」、「永遠(とわ)のみどり」の3作品です。

「永遠のみどり」は、2度朗読され、2回目は参加者全員が唱和しました。

次の朗読は、文学資料保存会のみなさん他による「桜隊―広島に散った俳優たち」の朗読でした。

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9人の登壇者によって、9人の隊員一人ひとりの経歴が紹介されました。

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 第2部は、作家堀川恵子さんの講演です。元広島テレビの記者。たくさんの著書がありますが、私の印象に残っているのは「チンチン電車と女学生」「原爆供養塔―忘れられた遺骨の70年」の2冊です。どうしても原爆に関わる作品に関心が深まります。

演題は、今夏発刊された本のタイトル「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」です。

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「アメリカの文書を調べていると『広島に原爆を投下した大きな理由に重要な軍隊の乗船(聞き間違いかも知れません)基地があったこと』と知ったことから、宇品の暁部隊のことを調べ始めました。2010年ぐらいから調べ始めたのですが、宇品に行って見ると『船員や工員ら軍属をふくめると三十万人を抱える大所帯』であったにもかかわらず、『凱旋館記念碑』の石碑が建っているだけ。」ここから始まった講演は、軍都廣島の成り立ちなど、その後取材を通じて知り得たことが、次々と出てきます。特に印象に残った言葉です。「戦争は起き始めたら止めることはできない。その前に止めなければならない。」「戦争に進む中で数字を改ざんしていった」「太平洋戦争が始まる前と今の状況は同じです。」そして陸軍被服支廠の事に触れながら「目に見えないものは記憶から無くなっていく」などです。

特に関心を持ったのは「兵員や兵器、糧秣を輸送するための船は、すべて民間の船舶。もちろん操船していた人たちも民間人。6万人もの犠牲が出ていますが、民間人ということで何の補償もされていません。」の話。この「何の補償もされていない」は、後の私の質問の答えで「戦傷病者戦没者遺族等援護法によって補償されることになったのですが、申請主義の為多くの人が受給できていません」と修正されました。私が質問したのは「国家補償の被爆者援護法を」の運動の中で少し学んだことがあったからです。

この「船員」の犠牲については、講演ではこの問題が主題ではありませんでした(といっても可奈ら繰り返し話が出て来たので、堀川さんも関心を持っておられるテーマ)ので、詳しく紹介することができなかったと思いますので、「全日本海員組合発行の『海なお深く 徴用された船員の悲劇』」というこの問題を扱った本を所有していますので、もう少し調べてみたいと思います。

「『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』をきちんと読んでみなければ」と思わされた講演でした。

8月6日から8月15日をつなぐ、この企画ずっと続けばと思います。

いのちとうとし

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2021年8月16日 (月)

読み飛ばしは避けられた ――総理一人の問題ではない――

読み飛ばしは避けられた

――総理一人の問題ではない――

前回は、今2021年8月6日の広島市平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)において、総理大臣挨拶が読み違いと読み飛ばしをしたことを取り上げました。[式典の名称についての説明をしておくと、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式が正式名称ですが、その前の「広島市平和記念式典」は、その双方を合わせた形のいわば略式の名称です]

読み違いは、冒頭で、「広島市」を「ひろまし」と、「原爆」を「げんばつ(もしくはげんぱつ)」の二つです。

次に、飛ばした部分は前回も引用しましたが、以下、下線を引いてあるところです。

国連総会の場で、「ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない世界の実現に向けて力を尽くします」と世界に発信しました。我(わ)が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、「核兵器のない世界」の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要です。

 近年の国際的な安全保障環境は厳しく核軍縮の進め方を巡っては、各国の立場に隔たりがあります。このような状況の下で核軍縮を進めていくためには、さまざまな場の国々の間を橋渡ししながら、現実的な取り組みを粘り強く進めていく必要があります。

(注――下線部は、首相が読み飛ばした部分)、

実際に、式典会場での言葉は、次のようになりました。

国連総会の場で、「ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない核軍縮の進め方を巡っては、各国の立場に隔たりがあります。このような状況の下で核軍縮を進めていくためには、さまざまな場の国々の間を橋渡ししながら、現実的な取り組みを粘り強く進めていく必要があります。

明らかに意味が通じません。官邸の説明では、総理が読んだ蛇腹は複数枚を糊付けしてあって、その糊が固まってページを開けなかったとのことです。

前回は、外国特派員協会での記者会見で述べた感想を報告しましたが、今回は、どうすれば、読み飛ばしを避けることができたのかを考えてみたいと思います。

 《「大切さ」をどう示すか》

まず、自分が読み上げる挨拶が重要なものであれば、原則として、それは自分で書くべきでしょう。挨拶ではありませんが、ラブレターを他人に書いて貰うのは例外中の例外でしょう。シラノ・ド・ベルジュラックの代筆が功を奏したのは、そこにシラノの思いが込められていたからです。

しかし、総理大臣は多忙です。重要な挨拶ばかりと言っても良いスケジュールの中で、それぞれの分野を担当する官僚や秘書たちが代筆するのも仕方がない、いや、職務を全うするためには必要なことなのかもしれません。

その前提で、総理と代筆者 (代筆だけではなく、読み易い用紙にプリントし総理に最終コピーを渡す等の挨拶関連の仕事全てをする人または人々をこう呼びます。さらに、総理とこれらの人々を略して「総理たち」と呼びます) それぞれに何ができたのかという「十分条件」を挙げてみましょう。その際、ポイントになるのは、自分たちの価値判断の中で「大切だ」と考えられることを、どのような形にしているのかです。

広島の平和記念式典での挨拶が総理たちに重要だったのは、蛇腹を選んだことが示しています。他の場合と同じく、A4の用紙にプリントしても、読むことに支障はないからです。それほど重要だったのですから、総理個人としては事前に一度は原稿を読んでおくべきだったのです。一応は目で追うくらいはしたのかもしれませんが、内容を理解して読むという最低限の努力までは行かなかったのかもしれません。

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少し客観的になって、超多忙な総理大臣という立場を考慮してみましょう。代筆者たちが総理に蛇腹を渡したのが式典の直前だったと仮定すると、「事前に一度読む」という余裕さえなかった可能性が出てきます。

ごく当たり前の挨拶の場合と比較すると分り易いと思いますが、挨拶をA4の紙にプリントアウトしたとすると、渡す側は、最低限、何枚渡すのかを確認します。これができなければ官僚として完全にアウトですから、総理の側の仕事には就いていないはずです。それを渡された側では、内ポケットに入れるために、三つか四つに折らなくてはなりません。その時に、2枚か3枚であっても、ざっと全体に目を通すことはできます。

さて、蛇腹を多当紙に包んで渡す場合、「ごく当たり前」ではないのですから、念には念を入れて、「事前に」多当紙の包みから中の蛇腹を取り出して、始めから終わりまで、物理的に問題がないのかをチェックして当然です。今回はそれもせずに、つまりプリントアウトした時点から何もせずに、挨拶分を書いた書類を総理に渡したことになります。

さらに、長崎では総理がトイレに行く時間を取るために、式典に2分遅刻したとのことですが、それと合わせて考えると、「代筆者たち」そして側で総理の時間管理を任されていた官僚たちの大失態、いや、怠慢としか考えられません。

まず代筆者たちの誰かが自ら、挨拶のプリントアウトされた蛇腹を読み直した上で、「総理、これは大切な挨拶ですから、一度は目を通して下さい」と言えば、避けられた読み飛ばしだということなのです。そして、「大切な挨拶だから、朝食を摂りながらでも一度目を通そう」ともしなかったのが総理大臣なのです。

これが可能だったのは、代筆者たちと総理大臣との間に、揺るがすこともできない厚い信頼感があったからとしか考えられません。それは、毎年同じ内容で繰り返される、広島・長崎での式典で「読む」挨拶は、今年も毎年と同じ内容であり事前の準備など必要ない、という共通理解です。

しかしながらダメ押しは、自分で読みながら、その意味を理解していなかった総理大臣です。字面を追うことはできても、その意味まで考えずにただの「読む機械」としての役割しか果せなかった政治家としての責任、総理大臣の役割はそれで良いと黙認してきた官僚たち、そしてそれを許してきた日本の政治全体が問われています。

あれほど悲惨な犠牲を払った人間に対する心からの慰霊の気持とは無縁な政治、そして核兵器廃絶という被爆者や日本全国の圧倒的多数の市民たちの願いを裏切る政治が問題なのです。

[21/8/16 イライザ]

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2021年8月15日 (日)

8月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町

長雨が続く。合間をぬって摘み取りは援農者も多くあり順調だったがお盆を挟んでストップ状態が続く。14日に数日行っていない農園に恐る恐る出かけて見回りをした。3段あるブルーベリー畑はプール状態になっていた。2000年にブルーベリーを植えてから何度もプール状態が繰り返されたのだが、それ以来ずっーと週末農業なのでリアルタイムで目の当たりにすることはなかった。稲作と違って畦が一部崩れて下の畑に流れても最小限の補修で済ませてきたし、ブルーベリーも枯れることはなかったので天気の回復を待つだけ。ただ、たくさんブルーベリーの注文の来ている安芸の郷の方は気がもめる。

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8月8日(日)朝からいい天気だが台風9号が近いためか空に雲が多い。

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摘み取りにきた援農のグループの中にベトナムの実習生を受け入れて建築業の方がいて今年も数人が参加された。時おり故国の歌を楽しそうに歌いながら摘み取りしていた。

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午後5時過ぎには雨。台風9号が来るのでテントタープやテーブルなどを片づけた。

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8月10日(火)。

9号台風の翌日の農園ではブルーベリーの実が落ちていたがまだ完熟の実が少ないせいかそれほど多くはなかった。木の被害もほとんどなくやれやれだった。

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念のため里山のブルーベリーの巡回を行う。刈り払い機を使うとき何かと面倒なクズ。花が咲きだした。

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8月11日(水)

友人が毎週近場の山に登るというグループに所属していて、メンバーの皆さんがブルーベリーの摘み取りを体験したいと来園。持参したリュックも山登り仕様だ。

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近くの田んぼには稲穂がかなり重く頭を下げてきた。実の糸も黄色を帯びている。この辺りは標高も400m近いので9月には稲刈りが始まる。

 

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雨が止まないので農園の状態が気になり見回りに行く。道路を挟んだとなりの水路から水があふれ畑の水路からもあふれてどんどんブルーベリー畑に流れている。

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畑は3段あるので水があふれて順々に流れていく。周囲は畦なのですっかりプールになっている。週末農業なのでリアルタイムで初めて見る光景だ。

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水浸しの中のびしょびしょのブルーベリー。まだ色づいていない実がいっぱいある。とりあえず元気そうだ。

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里山の法面でポツンと咲くヤブランの花。雨はいつ止むか。

 

2021年8月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年8月14日 (土)

情報公開に後ろ向き?な広島市-つづき

8月4日にメールで問い合わせた「広島市の情報公開」について、812日に広島市企画総務局法務課から、回答がありました。

正確を期すため、質問とメールでの回答をそのまま記載します。

① 基本的に公開が原則と承知していますが、その通りでしょうか。

【回答】御指摘のとおり、審議会等の会議は、原則公開としています。

② もし、原則公開となっているのであれば、もちろん議題によって、個人情報に関わる案件があった場合に、非公開となることはあると承知しています。

ただ、その場合であったとしても、「原則公開」ですから、その事案についての審議のみが非公開となるべきであった、他の事案の審議については、公開とされるべきだと思いますが、広島市としての考え方は、どうなっているのでしょうか。

もし、「複数の議題がある」場合であっても、個人上の部分のみに「非公開」は、限定すべきだということを書いた文書は存在しないのでしょうか。あれば、それを公開してください。

【回答】市民の市政参画に関する要綱第15条第4項において、「会議を非公開とする場合においても、議題ごとに公開又は非公開の区分ができるときは、公開とすることができる議題に係る会議の部分について、公開に努めるものとする。」と規定しています。

 なお、この要綱は本市ホームページにおいて公開していますので、市民意見公募手続の概要 - 広島市公式ホームページ (hiroshima.lg.jp)で御確認ください。

③ これまでの審議会においても、かなりの回数が、全体が非公開となっていますが、たとえ非公開だったとしても、個人情報がかかわっておら、公開されても差し支えない部分についての情報は、公開されるべきだと考えますが、どうお考えですか。について

【回答】全部非公開とした会議においても、その議事録等については、不開示情報を除き市民の閲覧に供するよう努めることとしています。

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④ 広島市のホームページには、これまでの「審議会などの開催状況」が掲載されていますが、現在ホームページ上に掲載されている開催状況は、昨年の6月分以降となっています。1年余りでは、短すぎるように思いますが、この公開について、「何時から何時までのもの」と何か決まったものがあるのでしょうか。

⑤ 以上の上に、私の要望としては、「少なくとも2年間分ぐらいは掲示される」べきだと思いますが、変更することは、出来ないのでしょうか。

 【回答】当課で管理しているホームページにおける、過去の審議会等の会議の開催状況に係る掲載については、その期間を定めたものはなく、まるまる2年間分というわけではありませんが、今年度分及び前年度分を掲載することとして更新しています。

 なお、それ以前の会議の開催状況等については、各審議会等のホームページで御確認いただくか、各審議会等の担当課へお問い合わせください。

 

この広島市の回答を読むと、私が持った疑問のかなりの部分が解消されますが、問題はそれがどう実行されているかです。

①の回答では、公開原則が確認されています。

②の回答では、明快に「非公開にする時も議題毎に区分し、公開に努める」ということですが、昨日指摘したように実際にはそうなっていないのが現状です。

指定された「市民意見の公募手続きの概要」のページを検索すると、「目的」としてこう書かれています。

「市の改革や条例の意思決定過程において、市民の意見を聴き、その意見を考慮して計画や条例の策定などを行うことにより、市民の市政参加の推進を図り、もって市民主体の市政の実現を図ることを目的としています。」

立派な目的です。ですが、今度の「サッカースタジアム建設予定地遺構発掘調査」を巡る市民意見に対する一連の広島市の対応は、とてもこの目的に沿ったものとは言えません。

③の会議録の公開の回答は、「市民の市政参画の推進に関する要綱」の第17条(議事録等の作成、公表等)4項で、きちんと「市長は、全部非公開とした会議の議事録等について、不開示情報を除き、前条第1項各号に掲げる方法に準じ、市民の閲覧に供するよう努めるものとする。」と決められています。

ここでも「でも広島市の対応は?」といわざるを得ません。私の「情報公開請求」にはどう対応するのでしょうか。

④は、私の見間違いで、昨年4月から掲載されていました。

もう一つ、質問にはなかったのですが、私が「広島市文化財審議会」のホームページに開催予定も開催状況も掲載されないことを指摘したところ、総務局法務課が、担当課である文化財担当課に対し、「文化財審議会」のホームページ、開催予定、開催状況を掲載するよう修正を求めたようです。

今度の指摘を契機に、広島市の情報公開の現状を精査し、意見公募だけでなく「市民の市政参加の推進を図り、もって市民主体の市政の実現を図る」広島市政を取り戻してほしいと強く思います。

いのちとうとし

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2021年8月13日 (金)

情報公開に後ろ向き?な広島市

昨日報告した「広島市文化財審議会」の審議状況を調べていて、疑問が湧いてきました。昨日も指摘したように「非公開」で開催される審議会などがあまりにも多いということです。直近の今年7月には49回開催されていますが、そのうち全部公開は、10回、一部公開は、1回です。他の38回は非公開で開催されています。「非公開」の中には、「介護認定審査会」や「原子爆弾被爆者健康管理手当等支給要件認定審査会」など、明らかに個人情報に関わるものも多くあります。しかし2日に開催された「令和3年度広島市経済観光局指定管理者指定審議会」では、「(1)選定要領について(2)公募施設の応募要領について(3)非公募施設の選定要領について(4)非公募施設の評価票について」が議題として挙がられていますが、非公開で行われています。その理由は「事務事業執行情報に該当するため」となっています。詳細が分かりませんので、何とも言いようがありませんが「(1)選定要領について(2)公募施設の応募要領について」などは、公開されてもよいのではないかと思えます。一部公開されているのは、19日に開催された「広島市感染症対策協議会」ですが、当日は二つの議題があり、公開されたのは「(1)最近の感染症情報について」で、非公開は「(2)令和36月分の解析評価について」です。非公開の理由は「個人情報に該当するため」となっています。

この事例では可否は別にして、議題によって、公開、非公開を決めて運用していることが分かります。担当課である企画総務局法務課に「公開が原則ですから、議題毎に公開、非公開されるべきではないですか」と訊ねると、「その通りです。議題毎に精査し、やむを得ない場合は部分的に非公開で行うことが原則です」との答えでした。

改めて、2020年11月以降(それ以前は、議題毎に分別されていない)の開催状況を調べると、議題で公開、非公開が区別された会議は、「広島市感染症対策協議会」以外に1回だけ見つけることができました。本年3月30日に開催された「第2回サッカースタジアム整備等事業者選定審議会」です。当日の議題は三つです。その内「(1)参加資格保有者によるプレゼンテーション」のみが公開され、他の二つ「(2)参加資格保有者との質疑応答(3)改善された技術提案書及び提案時参考見積書の審議」は、非公開です。非公開の理由は「法人情報に該当するため」となっていますが、プレゼンテーションを公開しながら、その質疑応答が公開されなかったのは、ちょっと不思議です。

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広島市は、法務課が言うように「可能な限り公開しよう」という姿勢が弱く、「できるだけ公開しない」で進めているように受け止めるのは私だけでしょうか。

そこで昨年7月14日に開催された文化財審議会の公開状況を再確認します。「傍聴の可否」は「×」になっていますので、非公開です。議題は二つ「(1)令和2年度における広島市の文化財保護の取組について(2)文化財保護に係る報告事項等について」ですが、2020年10月以前の開催ですので、「議題毎の『公開、非公開』も『非公開の理由』も書かれていませんので理由は不明です。しかし、文化財振興課の説明によれば「個人情報の保護に配慮する必要がある」ということですが、本当に二つの議題全てに「保護すべき個人情報があったのか」は分かりません。そうだとしても「(1)令和2年度における広島市の文化財保護の取組について」のように大ぐくりの議題設定ではなく、例えば「サッカースタジアム建設予定地遺構発掘調査について」など、もう少し細かく議題設定すれば、一部公開は可能だったはずです。

「広島市文化財審議会の公開に関する取扱い要綱」には「会議の公開」として「第2条 審議会の会議は、これを公開する。ただし、次に掲げる議題について審議を行う場合は非公開とする。」と公開の原則を定めています

さらに会議録についても「事務局は、作成した会議要旨を、事務局窓口及び広島市公文書館の所定の場所に備え置き、これを作成した日から同日の属する年度の翌年度331日まで閲覧に供するものとする。」と定めています。

しかし、「サッカースタジアム建設予定地遺構発掘調査」が審議された文化財審議会は、全て非公開で行われているため、「会議録」を閲覧することはできません。

これでは「公開の原則はどうなっているのか」と疑問を持たざるを得ません。

いのちとうとし

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2021年8月12日 (木)

「記録保存は決まったことです」と広島市は繰り返すが

広島市は、話し合いの度に「地下遺構発掘調査は、記録保存することが決まっています」と局長、次長、部長、課長、全ての人が口をそろえて繰り返します。

しかし、大事なことは、「記録保存だけでよい」ということを「いつだれが決めたのか」です。広島市が決めたことは、はっきりしていますが、問題は、外部の意見をどのように聞いて決めたのかです。

7月27日のやり取りで、「文化財審議会の了解を得た」ということでしたので、いつ時開催された文化財審議会なのか、調べてみることにしました。

まず、広島市のホームページにある「文化財審議会」のページを調べました。そこには「審議会は公開で開催される」と記載されているだけで、審議会の開催予定も開催状況も何も記載されていません。別のところにリンクも張られていません。この件は、後に文化財担当課に指摘し、現在は、リンクが張られていますが、あまりにも不親切すぎます。

色々さがして、審議会の開催状況は、「審議会等の開催日程 - 広島市公式ホームページ (hiroshima.lg.jp)」に記載されていることがわかりました。このページには、各会議のこれからの予定が書かれています。私が知りたい過去の開催状況は、そのページの最後のところに「※ 審議会等の過去の開催状況については、こちらのページを御覧ください。」に書かれています。「こちらのページ」をクリックするとようやく「審議会などの過去の開催状況」にたどり着くことができました。ここには広島市の全ての審議会などの開催状況が掲載されていますが、昨年度と今年度、つまり2020年4月から2021年7月までの開催状況しか掲載されています。「しか」です。

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平和記念公園における旧中島地区被爆遺構の展示整備に関する懇談会

掲載された一覧表をよく見ると、毎月30回くらいの会議が開催されていることが分かります。文化財審議会のように年に2回(広島市の担当者の説明)しか、開催されない会議を見つけるのは、ちょっと大変です。

それでも辛抱して、カーソルを移動します。ようやく見つけることができました。2020年7月14日に「文化財審議会」が開催されています。この1回だけです。

この日の議題は、「(1)令和2年度における広島市の文化財保護の取組について(2)文化財保護に係る報告事項等について」となっています。「サッカースタジアム建設予定地の地下遺構発掘調査」については、全く出てきません。ところが後で問い合わせて分かったことですが、議題の「(2)文化財保護に係る報告事項等について」の中で、「サッカースタジアム建設予定地での発掘調査について」協議されたようです。「ようです」と書いたのは、この「開催状況」には「傍聴の可否」という項があり、この日の文化財審議会は「×」となっていますので、「非公開」で開催されたのです。なぜ非公開となったのかを問うと「広島市文化財審議会において取り扱う指定文化財等については、個人および団体の財産であり、個人情報の保護に配慮する必要があります。」という答えが返ってきました。理解不能の理由ですが、開催状況に一覧を見ると、他のほとんどの会議が「非公開」となっています。「原則公開」であるべき審議会などが「非公開」で行われている問題は、改めて考えることにします。

今日の主題は、「サッカースタジアム建設予定地の地下遺構発掘調査は、記録保存のみ」がいつどうやって決まったのかですので、次に進みます。

「この2020年7月14日開催された文化財審議会で決まったのですか」と問うと、「2020年(令和2年)3月2日に開催された文化財審議会で了承を得ました」という回答が返ってきました。しかし、この日のまだ2019年度ですので、広島市のホームページ「審議会などの過去の開催状況」からは消えています。わずか1年4か月前のことすら知ることができないのですから、先に「しか」といったのです。

ホームページからは消えていますが、文化財担当課に問うと、その日の議題は「① 広島市天然記念物の指定解除に係る諮問② 意見聴取③ 報告事項④ 令和2年度における広島市の文化財保護に係る主な取組について⑤ 委員長及び副委員長の選任について⑥ 無形文化財分野委員の交代について」だったことがわかりました。「④ 令和2年度における広島市の文化財保護に係る主な取組について」で協議されたようですが、「サッカースタジアム建設予定地の地下遺構発掘調査について」は項目としてはあがっていません。担当者から聞いて分かったのですが、何故かこの日の会議も「非公開」で行われています。

これでは、ほんとうにこの文化財審議会で「記録保存が決まった」のか知るすべがありませんので、文化財担当に「両方の会議の『サッカースタジアム建設予定地の地下遺構発掘調査』に関わる資料を教えてほしい」と要請したのですが、「『非公開』だから、開示できない」という回答でした。

長々と、文化財審議会の開催状況を書いてきましたが、結局、広島市が言う「記録保存は決まっている」は、どんな審議を経て決まったのか、市民は知ることができないし、確かめようがないということです。

担当課に聞いても情報開示されませんので、広島市公文書館に「2020年7月14日と2020年3月2日に開催された文化財審議会の『サッカースタジアム建設予定地の地下遺構発掘調査』に関わる提出資料及び会議録」の情報開示請求をしました。どんな回答が来るのか楽しみです。

いのちとうとし

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2021年8月11日 (水)

何故、読み飛ばしが起きたのか ――心 (ハート) がそこになかったから――

何故、読み飛ばしが起きたのか

――心 (ハート) がそこになかったから――

今年、2021年の8月6日、例年開かれる広島市平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)での総理大臣挨拶が大きな話題になりました。[式典の名称についての説明をしておくと、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式が正式名称ですが、その前の「広島市平和記念式典」は、その双方を合わせた形のいわば略式の名称です]

一つは読み違いです。冒頭で、「広島市」を「ひろまし」と、「原爆」を「げんばつ(もしくはげんぱつ)」と読み違えています。

もう一つが読み飛ばしです。飛ばした部分は、次の引用文の中で、下線を引いてあるところです。

国連総会の場で、「ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない世界の実現に向けて力を尽くします」と世界に発信しました。我(わ)が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、「核兵器のない世界」の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要です。

 近年の国際的な安全保障環境は厳しく核軍縮の進め方を巡っては、各国の立場に隔たりがあります。このような状況の下で核軍縮を進めていくためには、さまざまな場の国々の間を橋渡ししながら、現実的な取り組みを粘り強く進めていく必要があります。

(注――下線部は、首相が読み飛ばした部分)、

実際に、式典会場での言葉は、次のようになりました。

国連総会の場で、「ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない核軍縮の進め方を巡っては、各国の立場に隔たりがあります。このような状況の下で核軍縮を進めていくためには、さまざまな場の国々の間を橋渡ししながら、現実的な取り組みを粘り強く進めていく必要があります。

明らかに意味が通じません。官邸の説明では、総理が読んだ蛇腹は複数枚を糊付けしてあって、その糊が固まってページを開けなかったとのことです。

 

《外国特派員協会記者会見での発言》

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私の感想ですが、実は6日の午後に外国特派員協会のonline記者会見でこの質問を頂きました。その答えをJ-Cast ニュースが分り易くまとめてくれました。さらに、Yahoo!ニュースが掲載してくれています。URLを貼り付けて、皆さんにクリックして貰えば良いのですが、記者会見での私の発言の要点だけはお読み頂ければと考えました。一部、J-Castニュースの引用も交えています。

秋葉氏は、読み飛ばし自体は「ミス」だとみる一方で、安倍政権ではほとんど同じ内容のあいさつが毎年のように使い回され、広島と長崎の式典でも内容がほとんど変わらない問題を指摘。「読み飛ばすかそうでないか、の問題ではなく、重要なのは、彼の心が単にそこになかった、ということだ」として、政権が被爆地に関心を寄せていないことを批判した。

さらに、あいさつの「あるべき姿」について

「悲惨な形で戦争の犠牲になった人を本当に慰霊しようとするならば、そんなこと(原稿の使い回し)はしないだろう。しかも犠牲者の多くが一般市民だった。もし心があるのであれば、人々の生死や苦しみ、現地で起こったことに心を致すはずだ」

  「もし心があるのであれば、多くの死者に対して向けられるスピーチでは、自らの気持ちや、心からのお悔やみの言葉が示されるはずだ」などと述べた上で、「しかし、それは起こらなかった」

「読み飛ばすかそうでないか、の問題ではなく、重要なのは、彼の心が単にそこになかった、ということだ。戦争犠牲者への関心がないし、新型コロナ感染で日本人に何が起きたかにも関心がない。台風や地震災害、その他のことでも同様だ。スピーチには、悲劇、悲しみ、今後人々にもたらされる痛みを自分の言葉で共有するという感覚が全くない」

「仮に読み飛ばしたとしても、共感や同情、未来への希望を、その場で自分の言葉で加えて語ることはできたはずだが、それも行われなかった。これが、日本の政治と政治家の貧困と低レベルを表している」

  「首相は単に官僚的業務のために(式典に)やって来るのであって、それ以上のものは何もない」

次回は、読み飛ばしや読み間違いを避けるためには何ができるのかを考えたいと思います。

[21/8/11 イライザ]

 

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2021年8月10日 (火)

8月6日の朝のこと

76年目の「8・6ヒロシマの日」が終りました。広島市主催の平和式典は、昨年に引き続き人数制限で開催されましたが、私は被爆者遺族として参列させてもらいました。

 

 初めて「ナマ」で観た菅義偉首相、資料館の下付近で車を降り、歩いて慰霊碑近くの席まで進みました。幅の広いおデコ(ひたい)付近が、汗と太陽の光線で光っていました。周りには警備と関係者が20人近く付いていて、その人たちが大きく強そうなので、ますます彼は小さく見えました。

 8時15分の鐘の音に合わせて黙とう、市長の平和宣言、首相、県知事のあいさつ、子ども代表の平和への誓い、国連グテーレス事務総長のビデオメッセージというように進みました。首相が「原爆」を「原発」と、「広島」を「福島」と言い始めた時、もちろん読み直したのですが、「心ここに在らず」を直観しました。

 そして究極は、百数十字を読み飛ばしたところです。式典参列者には市長の平和宣言や市議会議長の式辞は前もって活字になった物が配布されているのですが、県知事のあいさつも含め首相あいさつは渡されません。だから飛ばしても、会場がどよめくようなことはありませんでした。NHKのテレビ中継では、あいさつを字幕スーパーで出していたようで、少し停まったようですね。

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 首相官邸ホームページより

参列者の拍手の大きさで、あいさつの評価が表れます。首相あいさつが終わったところで、僕の席の前あたりの方が拍手されましたが、他の人がしないので少し戸惑ったような感じでおられました。

 拍手の順番でいえば、1番は子ども代表の平和への誓い、2番は県知事のあいさつ、3番は広島市長、4番は首相でしたね。

 首相が読み飛ばしたのは、あいさつ文の糊付けが理由で、全て官邸の責任とされていますが、読んでいてツジツマが合わないと考えれば、書かれていることよりも自分の考えで言い替えればよいと思うのです。「糊付けが取れないので、ちょっと待ってください」とでも言えば、評価はグーンと上り支持率も上昇するはずでしょうけどね。それが人間味だと思うのですが。

 この人は核兵器廃絶には興味が無いし、考えてもいないのでしょうね。否、逆に日本を核兵器の持てる国にして、米日韓を一体化した軍事体制の要とすることを考えているのでしょうか。書いてあることを読むだけだとしても、思ってもいないことを語るのは相当なストレスになるでしょう。

 

 式典を終えて、中国電力本店前に向かいました。例年行われている「反原発中国電力前集会」に出席して、最初のあいさつをさせてもらいました。式典での原爆・原発、広島・福島の総理失策の話しをしたら、参加者から笑い声が起こり「受け」ました。

中国電力前集会は、コロナ禍の中で参加者は少なくなっていますが、「8月6日の朝は中電前」というのが定着していて、全国から参加していただけるのは、本当に嬉しいことです。知り合いと「元気ー」「どうしてるー」と言葉を交わしあいました。これが、私を「頑張ろう」という気持ちにさせてくれるワクチンにもなります。

広島県内も8月4日からまん延防止措置が指示されていますが、福島第一原発周辺地域は2011年3月11日の夕方から、緊急事態宣言が発令され現在も継続中ですし、解除の見通しも無いのです。何が「復興五輪」、「アンダーコントロール」ですか。

木原省治

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2021年8月 9日 (月)

第2代平和の鐘―修復が完了

中国新聞の報道によれば、8月6日午前9時半から「響け!平和の鐘実行員会」のみなさんによって「第2代平和の鐘」が、鎮魂の祈りを込めて鐘が鳴らされたようです。毎年のことですが、ちょうど同じ時間帯で原水禁世界大会の行事が行われますので、もちろん参加はできませんでした。

今日は、7月9日のブログ「順調に進む「第2代平和の鐘」の鐘楼の工事: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介した鐘楼の修復完成の様子を紹介します。

工事用幕でおおわれた「第2代平和の鐘」の鐘楼の塗装工事が終わったのは、7月28日でした。たまたまその日に、出くわしたのも何かの縁のように感じました。工事関係の資材はすべて取り除かれ、塗装を終えた綺麗な姿が目に入ります。塗装工事が始まる前に聞いた話では、錆止めなどを含め4回塗装し、建設当時の色に近づけるということでした。よく見ると基礎部分のコンクリートを一生懸命掃除している人の姿があります。

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「何をされているのですか」と問うと「少し塗料がついているので、全部取り除いてきれいにしようと思っているのです」との答えです。「鳩の鋳物はいつ取り付けられるのですか」との問いには「私たちは塗装だけなので、それについては知りません。」と返ってきました。

以前に広島市の担当者に「鳩の鋳物を取り付ける日が決まったら連絡してください。」とお願いしていたのですが、残念ながら連絡はありませんでした。

新聞記事を見たその日(7日)に現地を訪れてみました。鐘楼には、新しい「鳩の鋳物」が、取り付けられています。何時取付けが行われたのか気になったものですから、帰宅して「響け!平和の鐘実行員会」の高東博視さんにメールで訊ねることにしました。

丁寧な返事が返ってきました。「鳩の鋳物」の取付けは、8月5日の朝に行われ、実行委員会の人が現地に行った時には、すでに新しい鳩が取り付けられていたようです。取り付け作業風景を写した写真を送っていただきました。

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「鳩の鋳物」は、既存の1個に加え、新しいものが3個、計4個です。南北にある大きな柱に取り付けられていますが、既存の鳩の鋳物(塗装工事中は取り外されていた)は、南側の柱の外側です。一番見やすい位置です。少し青錆びています。

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新しい3個は、グレーの色です。北側の柱に取り付けられた新しい鳩です。

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8月6日の記念式典の中で、鳩の除幕の様子の写真を送っていただきました。

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「つがいの鳩」は、広島の著名な日本画家・片田天玲画伯がデザインしたものだそうです。鐘本体の表面にも同じ模様が彫られています。この新しい「鳩の鋳物」は、安芸高田市吉田町にある平賀金属工業の工場で鋳造されましたが、平賀金属工業も「第2代平和の鐘」を制作した「広島銅合金鋳造会」のメンバーだったようです。1946年2月に設立され、当時の会社の名前は「平賀合金」です。ゆかりの品の制作ということで、喜んで引き受けられたと聞いています。

広島市公文書館にあった「原型」は、嘴が少し欠けていましたが、きれいに復元されていました。

ところで中国新聞の記事では「今後は市民が自由に鳴らすことができる」と書かれていましたが、現地を訪れると鐘を鳴らすワイヤロープが、円盤のところまでしか下がっていません。

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身長182cmの私が、いくら手を伸ばしても届きません。これでは鐘は撞けないなと高東さんにメールで訊ねたら、「6日祈念式の途中、ワイヤーを強く引き過ぎたのか上部の鐘とワイヤーの取り付けが外れてしまいました。市が連休明けに業者に修復依頼するようですが、その後の詳しい日程は不明です。」とのことでした。

修復が終われば、誰でも撞けるようになる予定です。私も一度撞いてみたいと思っています。

いのちとうとし

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2021年8月 8日 (日)

8月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

農園のブルーベリーの摘み取りの最盛期は8月。広島県のブルーベリーの産地の大崎上島はこの農園より早く7月末から8月上旬が最盛期となる。豊栄町の農園にはたくさんの援農者が来園し。安芸の郷からもブルーベリー摘み取りの研修として月曜日から金曜日まで来園し、収穫した実を安芸の郷に届ける。届け先の森の工房みみずくの食品部門で観の選別をして生食用、加工用、冷凍保存に仕分けられる。ここの農園が主要な供給先となっている。摘み取りに参加している人たちの間では「今年は甘い実が多い」の感想があってうれしい。収量も昨年より多めで推移している。台風9号が9日にかけて西日本に上陸しそうなので心配だが、雨が降ってほしいころなので雨の期待もある。

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8月1日(日)。

この日一番たくさんの人数で来られたのはフレンド・ベリー(安芸の郷で毎月1回ボランティア活動をしている)の皆さん。午前中、里山の東側で一斉に摘み取りを始める。

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午後の休憩の後は足場の安定している一番下の畑に。20名を超える援農のみなさんのお陰て安芸の郷へたくさんの実の納品ができた。

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8月6日(金)安芸の郷の事業所森の工房みみずくの利用者、職員による摘み取り。午後作業が終わってブルーベリージュースを農園からふるまってもらってごくごく飲んで帰途につく

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もう実がなくなり、ヒヨドリの来なくなった早生のブルーベリーのある場所の防鳥ネットの撤去作業(2か所ある)。夕方おそくまでの作業でしまい終えた。この日は農園に一人泊まる。

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8月7日朝。早朝、「作業前の農園の収支の見回りから

① 元気そうなクモ(名前知らず)

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⓶ 栗の実。

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③ 里道に咲くナデシコ。毎年この場所で姿を見せてくれる。

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10時前安芸の郷にボランティアで毎月2回活動して頂いている矢野地区の民生委員の皆さんと家族が一番上の畑で摘み取り。一番端っこまで行ってスタート。

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暑い中、無事摘み取り終了。詰めたい井戸水で手を洗い汗を拭く。(フレンド・ベリー)

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この日は5グループに摘み取りの協力を頂いた。摘み取りの人たちの通り過ぎたブルーベリー畑の中を見てみる。青い実は殆ど摘み取られている木もある。この実たちはまたしばらくして色づく。

 

2021年8月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年8月 7日 (土)

8月6日-平和祈念式典に参加して

被爆から76周年目を迎えた昨日、10数年ぶりに広島市主催の「原爆死没者追悼式並びに平和祈念式典」に原水禁国民会議の代表として参加しました。受付は朝7時20分、来賓受付に行くと指定された座席に案内されました。大きな白いテントが4つあります。その慰霊碑に向かった右手前の来賓席です。人数は少なくなりましたが、幾人かの親しい顔に出会いました。

指定された椅子に座ると、目の前の大型ディプレイに被爆者の証言が映っています。その中に懐かしい顔を見つけることができました。沼田鈴子さんです。

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8時になると式典が始まりました。毎年の式次第で進行します。松井市長の平和宣言。どうしても気になるところが一カ所ありますので、受付で渡された式次第に記載された「平和宣言」で再確認します。私が理解した通り「一刻も早く核兵器禁止条約の締約国となるとともに、これから開催される第1回締約国会議に参加し」と書かれています。気になるといったのは、今多くの人々(被爆者団体を含む)が、「日本政府は締約国会議に参加すべきだ」と要請しているのですが、その文脈には、「核兵器禁止条約を締結し」が、入っていないからです。

でも市長の平和宣言には、「締約国となるとともに」と「締約国となる」ことが、締約国会議に参加する前提だと明記されています。

私は、一昨日の被爆76周年原水禁大会広島大会の開会総会の主催者あいさつで「日本政府は締約国会議に参加すべきだという意見には、必ずしも賛成できない」と発言しましたが、平和宣言のように「締約国となって」なら、賛成です。松井市長は、この考え方を曲げないでほしいと思います。

それにしても、お粗末というか、聞いていて気の毒な気になったのが菅総理のあいさつです。出だしから、しどろもどろで「広島市」がまともに言えず「ひろまし」、「原爆」が「げんぱつ」とも聞き取れる発言。マスコミ報道によれば、読み飛ばしもあったようです。会場に入ってくる時から、覇気のない姿にびっくりしたのですが、あまりにも・・・・。心ここにあらず、ですね。

その上怒りが収まらないのは、「核兵器禁止条約」に一言も触れなかったことです。被爆者が最も聞きたい「核兵器禁止条約の署名、批准」を語ることができないのであれば、「原爆慰霊碑」の前に立つ資格はありません。

今年の平和祈念式典には、国連グテーレス事務総長は、ビデオメッセージで参加。世界各国からは、コロナ禍でありながら核保有国7カ国を含む83カ国とEU連合の代表が、式典に参加しています。私たちの前に、各国代表の席がありました。ここで頭に浮かぶのが、IOCが、「8月6日8時15分に全参加で黙とうを」という私たちの呼びかけに応えなかったことです。秋葉さんは、ぎりぎりまで希望を捨てないとして、5日の夜までオンライン署名を呼びかけられました。世界は、今8月6日の8時15分がどんな日か、共有しています。それにも関わらず、「8月6日8時15分の黙とうを拒否する」IOCの態度こそ、むしろ政治性を帯びた決定としたといわざるを得ないのではないでしょうか。

記念式典を終えると、県民文化センターでの「被爆76周年原水禁世界大会広島大会閉会行事」が開催される県民文化センターへ急いで移動しました。

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閉会行事は、主催者のあいさつ、分科会の報告、事務局長のまとめなどを行い、最後に「広島アピール」を採択し終了しました。アピールの最後の部分を紹介します。

「原水禁運動の原点は被爆の実相です。被爆地ヒロシマを体験した私たちは、憲法9条を守り、一切の戦争を否定し、二度と悲劇が繰り返されないよう訴え、行動していきましょう。これまで、私たちは原水禁を結成し、56年にわたり一貫して「核と人類は共存できない」、「核絶対否定」を訴え続け、核のない社会・世界をめざして取り組んできました。安倍から管へと続く政権のなかで、暴走を続ける戦争への道、原発再稼働への道に対抗していくことが喫緊の課題であり、未来ある子どもたちに「核も戦争もない平和な社会」を届ける取り組みを全力で進めましょう。ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア フクシマ、ノーモア ヒバクシャ」

被爆76周年原水爆禁止世界大会広島大会は無事終了し、いよいよ8日9日の2日間開催される長崎大会です。ただ、コロナの影響で今年も広島からは参加しないことになりました。

いのちとうとし

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2021年8月 6日 (金)

被爆76年原水禁世界大会広島大会始まる

先月27日福島大会からスタートした「被爆76周年原水爆禁止世界大会」の広島大会は、全てオンライン集会に切り替えられ昨日、今日の2日間開催されます。

初日の昨日は、午前10時に藤本泰成、金子哲夫両世界大会共同実行委員長による原爆慰霊碑献花からスタートしました。

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その後、午前10時45分から、広島県民文化センターホールで広島大会の開会総会が、行われました。司会は、第21代高校生平和大使を務めた開原弓喜(かいはらゆき)さん。一分間の黙とうの後、主催者あいさつ。共同実行委員長は3人いますが、地元ということで金子哲夫共同実行委員長が代表したあいさつ。次のように述べました。

「今年1月発効した核兵器禁止条約は、非人道兵器である『核兵器』を明確に『違法な兵器』とし、あらゆる活動を禁止する画期的なもの。真の被爆者救済のためには、核兵器を廃絶しなければならない。一人でも多くの被爆者が、『生きていたよかった』いえるように、核兵器廃絶に全力を尽くそう。この条約の署名批准を拒否する日本政府は、絶対に許されない。日本政府に対し、同条約への署名・批准を強く求める。

核兵器禁止条約には、『核実験被害者の救済」が明記されている。私たちのこれまでの運動の成果でもある。『核兵器の全廃』は、時間がかかるかもしれないが、『核実験被害者』の救済は、すぐに具体化できること。早期に実現させよう。核兵器禁止条約は、『核の平和利用』を認め、ウラン採掘から始まる全ての核被害者を救済する条約となっていない。『核と人類は共存できない』という理念を基本とする私たちは、『核の平和利用』を否定し、世界の全ての核被害者の救済を実現させるため、取り組みを強めなければならない。7月14日の『黒い雨』広島高裁判決を活かし、長崎の『被爆体験者』への手帳交付、福島原発事故被害者の救済への道を切り拓こう』と訴えました。

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次に広島県被団協箕牧智之理事長代行の被爆者の訴え、北村智之大会事務局長の基調提起と続きました。最後の閉会あいさつは、広島県実行委員会佐古正明事務局長。

開会総会は、ほぼ1時間で終了しました。開会総会の様子は、オンラインでライブ中継しました。

午後は、2時から予定通り「第1分科会 核保有国と核保有を望む国、日本との関係」「第2分科会 気候変動と脱原発、自然エネルギーの今とこれから」「第3分科会 在外被爆者と日本の戦争責任、その歴史認識問題について」「第4分科会 見て、聞いて、学ぼうヒロシマ 『核兵器禁止条約と原水禁運動の歴史』」の4つの分科会が開催されました。今年は、各分科会の講師陣に若い人たちが加わりましたので、新しい問題提起があったと思われます。私も第4分科会の講師を務めましたので、残念ながら全体の状況を報告することはできません。しかし、それぞれの会場で、ビデオ撮影を行いましたので、数日後に動画配信されますので、ぜひそれを見ていただきたいと思います。

当初、参加者を結集して行う大会として準備してきましたが、コロナ対策ということで、急きょオンライン集会となりましたので、少し戸惑った部分もありますが、何とか1日目は無事終了しました。

今日(6日)は、午前9時30分から10時15分まで、県民文化センターで閉会行事を行います。

その後午前10時30分から「国際シンポジウムⅠ 核兵器課題『核なき世界~被爆の日に願う~』」、午後4時から「国際シンポジウムⅡ 脱原発エネルギー政策課題『原発事故から10年~エネルギー政策転換~』」と、二つの国際シンポジウムが開催されます。広島県原水禁の秋葉忠利代表委員は、「国際シンポジウムⅠ」のパネラーとして参加します。

全てオンライン(原水禁チャンネル - YouTube)でライブ中継されますので、ぜひ視聴してください。

今年は、原水禁国民会議の代表として、本当に久しぶりに広島市主催の「平和記念式典」に参列します。

いのちとうとし

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2021年8月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その27)

「人類が決して忘れてはならない日」

76年前の8月6日午前8時15分、人類史上初めて人びとの頭上で一発の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして街を破壊し、10数万の尊いいのちを奪いました。今なお、その後障害は続いています。反核・平和運動に生涯を捧げられ「石田原爆訴訟」を闘われた故石田明さんは、「自分の生まれた日は忘れても、人類が核時代に入ったこの日は決して忘れてはならない」と仰っていました。その8月6日を、明日迎えます。

「核兵器禁止条約」が発効してから初めて、「黒い雨」訴訟で原告全員が被爆者と認定された直後の8月6日です。核抑止神話に囚われ核廃絶に背を向ける核保有国と日本政府の頑なな姿勢を崩すために、原告団以外の人たちへの被爆者認定と救済を勝ち取るために、思いを新たにしなければならないと思います。

原爆か化学兵器か、アメリカにとって“いずれも使ってみたい兵器”

昨年の7月「ヒロシマとベトナム」(その14)で、アメリカ軍が広島、長崎への原爆投下に続き、食糧難に苦しむ大都市周辺にある米や野菜の産地を壊滅させる枯葉剤作戦を計画していたことを紹介しましたが、中村梧郎さんの著書『戦場の枯葉剤ベトナム・アメリカ・韓国』(岩波書店)で次のように述べられています。少し長いですが紹介します。

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(原爆慰霊碑)

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(ベトナム最激戦地「クアンチ古城の慰霊碑」)

「そもそも枯葉剤は、第2次世界大戦の終戦間際に日本に散布する予定で準備されていたものだった。アメリカ現代史の権威、スタンフォード大学 B. J. バーンスタイン教授によれば、1945年5月に米陸軍に提出された 計画は、東京や横浜、大阪、名古屋、京都、神戸周辺の稲作地帯にチオシアン酸アンモニウムをB-29から投下し、穀物を全滅させようとする内容だった。5月2日にポーター将軍と化学作戦部が主張したのは、1,645㌧の24-Dの散布で少なくとも日本の稲作地帯の10%を破壊できるというもの(D.ウォーナー『聖戦』による)だった。しかし陸軍航空隊司令官H.アーノルド大将は工場や都市への爆撃の方が効果的だと判断していた。さらに炭疽菌やボツリヌス菌を使う細菌兵器の開発も進んでいた。〔トルーマンは戦争が長引くようなら細菌戦もガス戦も辞さないだろうとほのめかしていた。そうなっていたら原爆投下に勝るとも劣らないほどひどい結果を引き起こしていたであろう。B-29による散布の結果は分からない。しかし、戦争が11月まで続いていれば枯葉作戦は確実に行われたはずだ〕と、スタンフォードの研究室でバーンスタイン教授は語った。

陸軍航空隊副司令官エイカー中将は広島への原爆投下まであと3日となった8月3日、枯葉作戦の詳細な計画書の提出を命じている。原爆か化学兵器か、いずれも“使ってみたい兵器”であったにはちがいない。そして、報告書がエイカーのもとに届いたのは長崎に原爆が落とされた翌日の8月10日のことであった。この時にはもう日本の降伏は時間の問題だったために作戦が実行に移されることはなかった。日本は辛うじて散布をまぬがれたのであった。」(同前掲書62㌻)

「原爆の日」8月6日とともに、忘れてはならない8月10日「エージェントオレンジDay

1961年8月10日、アメリカ軍がベトナムで初めて枯葉作戦を展開した日です。その日からまもなく60年を迎えます。アメリカ軍が原爆とともに“使ってみたい兵器”だった枯葉作戦の詳細計画書が、司令官の手元に届いた1945年8月10日から16年後の同じ日が〔ベトナムへの最初の枯葉作戦日〕だったのは、ただの偶然に思えないのは私だけでしょうか。

前号の「ヒロシマとベトナム」(その26)でもご案内しましたが、8月10日の「枯葉剤60年~改めて問う!エージェントオレンジ~」。ベトナム戦争と枯葉剤のドキュメント映画「花はどこへ行った」鑑賞、「グエン・ドクさんと坂田雅子監督のトーク&シンポジウム」に是非ご参加ください。Web鑑賞、Web参加もあります。11日、12日、16日は「パネル展」も行います。会場は東広島芸術文化ホール「くらら」小ホールおよび市民ギャラリーです。

なお、このイベント開催費用とグエン・ドクさんの活動支援のためにクラウドファンディングおよび募金を取り組んでいます。是非、ご協力ください。

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お問合せ・お申し込みは 一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会

専務理事 赤木達男 akatatu@d4.dion.ne.jp

(2021年8月5日、あかたつ)

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2021年8月 4日 (水)

『ユニフォーム』

 オリンピックが開催されていますが、先日、ビーチハンドボールのユニフォームについての記事を見てびっくりしました。

国際ハンドボール連盟はユニフォーム規則で「女性選手はビキニのパンツを履かなくてはならない。体にぴったりとフィツトし、脚の付け根に向かって切り込んだ形のもので側面の幅は10センチまで。トップスは腹部の見えるもの。」と決められているというのです。男性選手はというと、「ぴったりとしたタンクトップと膝上10センチの長さのたるみすぎない短パン」と規定されているそうです。

今回のオリンピックで女性選手がビキニパンツでなく短パンを履いて出たことにより罰金処分を下されました。

規定とはいえ、罰金をくだされたことのおかしさと同じ競技をするのに性別で差別的な規定に驚きと怒りがこみ上げました。

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Japan Beach HandballHPより)

私は、ユニフォームとは、競技をするうえで最適なものであり、同じ競技をする男女で分けるべきではなく選手が動きやすく快適なものを選べるしくみであるべきだと思います。

 今回ユニフォームにこんな細かい規定があると言うことを知りました。しかも、性差別的なユニフォームの規定があるなんておかしいことです。

どんなことでもいえることですが、規定にあることでもおかしいと言えるようになっていきたいと思います。

 

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2021年8月 3日 (火)

何故IOCは、8月6日8時15分の黙祷を拒否するのか

 IOCバッハ会長は、私たちが要望した「8月6日8時15分に全会場で黙とうを呼びかけてほしい」という要望に対し、1日の記者会見で「8月6日の黙祷はしない」と発表しました。

私がこのニュースを耳にしたのは、8月1日の午後5時半頃、中国新聞の記者からの電話取材を受けたからです。

原水禁がIOCバッハ会長に送って要請書については、7月28日のブログ「「8月6日には、オリンピックの会場で全員黙祷を!」 広島県原水禁、IOCバッハ会長に要請書送付 : 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」に全文掲載していますので、ぜひ改めて読んでいただきたいと思いますが、改めて「バッハ会長に広島訪問は何だったのか」と問わなければなりません。

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1日のIOCの記者会見では「広島市からも要請があったが、8月6日は黙祷しない」と、広島市からも要請があったことを明らかにしました。広島市や被爆者団体、原水禁などの要請を無視したもので、許せるものではありません。IOCから広島市に回答が届いたのは、翌日(2日)の午後3時頃だったようです。ちょうど私が問い合わせの電話をした時でした。午後5時過ぎに改めて担当課に電話で聞いた限りでは、その内容は「広島訪問時の対応への感謝」と「8月8日にすべての犠牲者に対する思いをはせる何かを行う」というだけで、「8月6日」には全く触れられていないようです。もちろんというか予測通りというか、県原水禁や広島県被団協には、今も全く返答はありません。

「8月6日8時15分の黙祷を」の要請を最初に呼びかけた秋葉忠利前広島市長は、オンライン署名呼びかけの中で、以下のようにIOCの決定を批判するとともに、署名活動の継続を呼びかけています。

「8月6日8時15分の黙祷を拒否したIOCは、『平和の聖典』としてのオリンピックを日本で開く意味と、オリンピックの存在意義そのものを自己否定したことになります。」とし、この問題を考えるうえで、次の3点が重要だと指摘しています。

①「平和の祭典」であるオリンピックを日本で開くにあたって、会期中の8月6日を無視するということは、日本で開く意味を否定し、「平和の聖典」としてのオリンピックの存在意義を自己否定することになっています。

②8月6日について、7月中から積極的にその意味を考えた人は多くないにしろ、「IOCが8月6日を無視する」と聞いたら、「それはおかしい」と感じる人が圧倒的多数だと思います。その人たちの気持ちの受け皿として署名活動を続けます。

③幸いにしてIOCも組織委員会も、何が正しいことなのかを理解すると、「有観客」から「無観客」に一晩で方針変更をしたように、又人権感覚ゼロのスタッフを一晩で解任したように、正しい行動を選べる組織です。圧倒的多数の人々の8月6日への思いを届けることで、8月5日に方針変更を行って黙祷が実現する可能性はゼロではありません。

秋葉さんが継続して呼びかけるキャンペーンアドレスは「キャンペーンについてのお知らせ · 8月6日8時15分の黙祷を拒否したIOCは、「平和の祭典」としてのオリンピックを日本で開く意味と、オリンピックの存在意義そのものを自己否定したことになります。 · Change.org」です。

IOCの決定はおかしい」「IOCに抗議する」との思いを、このキャンペーンに協力することで表してください。

いのちとうとし

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2021年8月 2日 (月)

広島市は、なぜ外部からの意見を聴こうとしないのか

今日もまた、サッカースタジアム建設予定地発掘遺構についての報告です。

発端は、広島市の担当課長の一言です。

24日、25日の説明会で配布された資料をもらいに文化財担当課を訪れた時のことです。せっかくの機会なので文化財担当課長に「市長は、『遺構の一部を切り取り保全し、どこかに展示する』と表明されましたが、どこを切り取るのかを決めるためのスケジュールやどういうメンバーによって検討されるのか教えてください。」と訊ねたところ、「市長が記者会見で表明された『遺構の一部切り取り保存を検討する』というのは、保存するかしないかも含めて検討するということです。」とびっくりする答えが返ってきました。市長が一部とはいえ、保存を明言されたのですから、当然「どこかが切り取られて保存される」のだと思っていたのですが、「保存するかどうか」から検討するというのです。

重ねて問いただしたのですが、同じ答えですので、「明日部長と面談させてください。」とお願いし、帰宅しました。

夕方、文化スポーツ部長との面談できるという連絡がありましたので、急きょ「要望・質問書」を作成し、提出することにしました。主な論点は、「①保存するかどうかも含め検討しているのか②切り取り場所を決めるにあたっては、透明性を保ち、外部の意見を聴くこと③この間、文化財審議会にはどう諮ったのか、また審議会委員のみなさんの現地視察は行われたか」です。

これに対し、部長は「保存することは決まっている」と明言、②については、「記録保存が基本方針であり、これまで発掘に関わってきた専門家の意見をきちんと聞いてきた。保存についても、これまで通りで進める」と従来と変わらない説明に終始しました。

③の「文化財審議会(委員10人)の委員による現地視察」については、「委員に現地を見ていただくように考えています。」との答えでしたが、その時点では「まだ具体的な日程は決まっていません。」との説明でした。ところが、30日の午後8時ころ送られてきた回答書には「同審議会委員による発掘調査現場の視察については、7月28日から順次実施しています。」と書かれていました。私たちが、部長と面談したのは、27日の午後1時からです。7月28日と言えば、その翌日のことです。なぜ前日にあった私たちに「まだ何決まっていない」と答えながら、翌日には実施できたのか、不思議です。というか、隠していたのではないかという疑問が湧いてきます。何人の委員が視察したかも明らかではありません。

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私が、初めて訪れた6月15日の現場

視察したといっても、7月30日のブログ「サッカースタジアム予定地発掘遺構現地説明会: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介したように、すでに発掘現場は、多くのものが壊されているのですから、あまりにも遅すぎます。

原水禁への回答書には「現場の専門職員や本市の文化財審議会の委員等の意見を踏まえ」となっていますが、遅すぎる現場視察では、正しい評価が出せるとはとても思えません。何かアリバイ作りのように思えます。その上「意見を踏まえ」としているだけですので、文化財審議会の開催や検討会議の開催は考えていないようです。

しかも「来月(8月)中旬までに絞り込みを行う」というのですから、決定プロセスの透明性を期待することはできません。

広島市の担当者は、口をそろえたように「記録保存は決まっています」と述べ、「発掘された遺構は、壊れたところも多く、そんなに貴重なものではない」と言います。しかし、中国新聞の30日の報道によれば、「貴重な遺構だ」という専門家の意見も多くあります。私もかかわっている「平和記念公園における旧中島地区被爆遺構の展示整備に関する懇談会」の委員の一人でもある鈴木康之県立大学教授は「きわめてのころが良く、貴重な遺構だ。被や熱の跡が被爆によるものかそうでないかなどは分かっておらず、遺構を残したまま検証を続けるべきだ」と話しておられます。文化財審議会で、埋蔵文化財を専門とする委員は、一人だけですから、外部からの意見を聴くことは絶対に必要なことです。

ところで、「記録保存のみの発掘は文化財審議会に了解してもらっている」と市は言いますが、その文化財審議会は、「公開が原則」となっているにもかかわらず「サッカースタジアム遺構発掘」について審議された会議は、「非公開」で行われています。同時に審議された他の案件が理由となって「非公開」となったと思われますが、市民はその審議でどんな意見が出たのかを知るすべがありません。

私たちは、27日の申し入れ書の最後に次のように書きました。

「被爆遺構を残し、後世に伝えることは、広島市の使命です。

サッカースタジアム建設を促進するためにも、情報を公開して、市民の理解を得ることが何よりも大切だと思います。市民の声を無視して、『サッカー場建設ありき』で今回の地下遺構の調査、保全が進められるとすれば、それは、平和を理念とするサッカースタジアム建設にそのものに、禍根を残すことになることになります。私たちは、そのことを危惧します。」

広島市には、もっと市民の声に耳を傾けてほしいと思います。

いのちとうとし

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2021年8月 1日 (日)

8月6日には、オリンピックの会場で全員黙祷を! 第4回 ――名簿の送付とonline記者会見――

8月6日には、オリンピックの会場で全員黙祷を! 第4回

――名簿の送付とonline記者会見――

今回で、change.orgを通しての署名運動について、4回目です。

テーマは、「8月6日には、オリンピックの会場で全員黙祷を!」です。

(1) そろそろ8月6日が近付いてきましたので、明日2日の月曜日に、これまで賛同して下さった方々の名簿をまとめて、IOCとバッハ会長、そして組織委員会と橋本会長に名簿を郵送したいと考えています。

直接届けられれば良いのですが、緊急事態宣言下、しかも各地での陽性者数が過去最多という状況では、広島から上京すべきではないと考えての結論です。

(2)しかし、より多くの皆さんに賛成して頂き、説得力が増すことにつなげるため、8月5日一杯、あるいは8月6日の午前8時までの賛同者数の名簿を、メールでIOCと組織委員会に届ける積りです。

(3)さらに、8月3日か4日に、onlineでの記者会見を開きたいと思います。ZOOMを使うことになると思いますが、詳細が決まり次第、再度お知らせします。

以上が今回お伝えしたいことですが、賛同して下さった多くの皆様への御礼と、このキャンペーンの趣旨を再度掲げておきます。

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キャンペーンの趣旨を簡単に述べると、オリンピックの会期中の8月6日8時15分に、オリンピック会場で選手はじめ参加者全員で黙とうを奉げるよう、主催者であるIOCや組織委員会等が呼び掛けて欲しいということです。IOCのバッハ会長が特別待遇を受け、また多くの反対意見のある中の広島訪問でしたので、公的な立場で、しかも公的な場で広島を訪問した責任を果す必要があるからです。

ここ数年で、日本社会を変革するために大きな役割を果し始めている「change.org」のサービスを使っての署名運動ですが、7月20日の午後10時現在で、2,000人近くの方から賛同して頂きました。嬉しいことに、7月31日の夕方に、署名数は16,000近くに届きました。御賛同下さった皆様、有難う御座います。また、シェアして下さった方々、そして広告のための寄付をして下さった方々、心より感謝致します。

また、共同通信を始め、このキャンペーンを取り上げて下さったマスコミの方々にも御礼申し上げます。

今後とも、御協力宜しくお願いします。キャンペーンのサイトのURLを貼り付けます。

そして、改めて、change.orgに掲げた趣意書をここに再掲します。

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8月6日の8時15分に、オリンピック会場で全員黙とうを!

《「平和の祭典」を日本で開く意味》

 

皆さんご存知のように、オリンピックは「平和の祭典」という看板を掲げてきました。古代オリンピックでは、「オリンピック休戦」が行われていたこともよく知られています。そして日本で開かれるオリンピックに意味があるのは、「広島・長崎」の被爆体験そして被爆者のメッセージが、世界的にも平和の象徴になっているからです。

コロナの感染が広がる中、また多くの反対を押し切ってまでバッハ会長がIOC会長としての立場で広島を訪れたのは、この事実をIOCも会長自身も理解しているからなのだと信じています。そうであれば、「平和の祭典」であるオリンピックという場を通して、ヒロシマ・ナガサキのメッセージを世界に広める重要性についても、異論はないはずです。

《8月6日8時15分に黙祷を!

しかし、平和を実現するためには、スピーチだけではなく行動が必要です。それも多くの人が参加できるものであれば、その影響力はさらに大きくなります。

被爆76年目の8月6日がオリンピックの会期中であることは偶然ではなく、主催者や関係者たちの心の願いの反映なのかもしれません。それを行動に変えて、8月6日の午前8時15分、全選手そして関係者が、被爆者のみならずすべての戦争犠牲者の慰霊と、核兵器の廃絶を柱にした世界平和実現への決意を表明する黙とうをしたらどうでしょうか。会場の外では、私たちも参加できますし、世界に呼び掛けて同時刻に世界中の人々が黙とうしてくれることも期待できます。

《オリンピック主催者から呼び掛けを!

残念なことに、広島でのバッハ会長のスピーチにも、これまでのオリンピックの主催者側からや広島市や県からもこのような考えは示されていません。しかし、せっかくの機会です。IOC、組織委員会、東京都、その他の関係者の皆さん、世界が注目するオリンピック大会の最終日前日の黙とうを呼び掛けて下さい。参加全選手やその場にいる関係者、さらには会場の外の日本ならびに世界の人々が、8月6日8時15分に、一緒に黙とうを奉げることで、「平和の祭典」であるオリンピックが日本で開かれた意味が明確に浮かび上がります。

8月6日の黙とうを、後世は必ずや、オリンピックからの積極的平和発信の記念すべき一里塚として記憶することになるはずです。

前広島市長  秋葉忠利

注  8月9日には会期は終わっています。8月6日を、長崎を含めての黙とうの日にしたいと思います。

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今後とも、御協力宜しくお願いします。キャンペーンのサイトのURLを貼り付けます。

 

[21/8/1 イライザ]

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