ベトナムの歴史(その5)
「北属期」 紀元前111年~938年
前回のおさらいを少しだけして始めます。紀元前4世紀末に雄王(フン・ボン)の建てたベトナム最初の国家と言われている文郎(ヴァンラン)国に続き、紀元前258年に安陽王(アン・ズオン)がハノイ北部の古螺(コーロア)に甌雒(アウラク)王国を建国します。一方、中国を統一した秦の始皇帝は紀元前219年に中国南部からベトナム北部地方(嶺南地方)の攻略に着手し、広東に軍事長官の趙佗(チョウ・ダ)を派遣します。その後、趙佗は秦王朝に反逆し、紀元前203年に中国南部からベトナム北部にかけた地方に南越国(Nam Việt)を建てます。
ここまで、前回、お話ししました。
甌雒王国は趙佗の侵攻に晒され、ついに紀元前179年に南越国に併合されます。しかし、その南越国も紀元前206年に秦を滅ぼした漢によって滅亡します。趙佗による建国から5代93年、紀元前111年のことです。以降、漢王朝を皮切りに中国王朝よる直接統治が始まります。
中国によるベトナム支配は漢・晋・三国時代・隋・梁・唐を経て、938年の「白藤江の戦い(バクダン川の戦い)」で呉権(ゴ・クエン)が南漢軍を破り、939年にベトナム北部で初めての統一王朝である呉朝を建てるまでの1000年の長きにわたりました。
ベトナムの人たち誰もが知っている大切な歴史認識、この時期のことを「北属期」と呼んでいます。
(中国広東省福原駅前に建つ趙佗像)
ところで、なぜ、ベトナムの人たちは「北属期」の始まりを、趙佗が建てた南越国が、ベトナム人の甌雒王国を併合支配した紀元前179年ではなく、紀元前111年にしたのでしょうか。とても、不思議です。趙佗は黄河の北に位置し黄海に面する河北省出身の漢人、元々は秦の官吏で歴とした中国人です。しかも、中国にある本拠地・番禺(バングウ、広東省広州市)からベトナムを支配していたのですから、「北属期」は甌雒王国滅亡、すなわち趙佗の支配が始まった時とみるべきでしょう。
しかし、ベトナム史には趙佗支配の南越国時期を含むことが多いようです。趙佗が漢に反抗した「好漢」だったからなのか・・・・。それとも、「ベトナムの歴史」その2(4月20日)で、ベトナム全土を初めて統一した阮(グエン)王朝が、中国の清王朝に「南越国」という国名を拒否されたことを紹介しましたが、ベトナムの人たち共通のアイデンティティとして、「中国への反逆の象徴」としての越南国=趙佗へのシンパシーなのか・・・・。
「中国1000年の軛(くびき)」を断ち切った 「白藤江(バクダン川)の戦い」
小倉貞男著『物語ベトナムの歴史』(1997年、中公新書)では、1000年にわたる「北属期」を、第1次(紀元前111年~紀元39年)、第2次(紀元44~544年)、第3次(548~939年)に分けて詳しく紹介されています。関心のある方は、是非、そちらをお読みいただくとして、ここでは、「中国1000年の軛(くびき)」を断ち切った938年の「白藤江(バクダン川)の戦い」を「ベトナム中学校の歴史教科書」をもとに紹介します。
「ベトナム中学校の歴史教科書」には、下の絵とともに、次の様に記述されています。
「呉権は、兵士と人民に森で数千本の長い木を切らせ、その先端を削って鉄で覆わせ、白藤江の河口近くの要所に打ち込み、杭が水中に沈んだ陣地を作らせ、両岸に軍を待ち伏せさせた。938年末、劉弘操指揮下の南漢水軍はわが国の海域に入ってきた。呉権は、満潮時に、小舟の一団を使って白藤江の河口に南漢軍をおびき寄せた。劉弘操はわれを忘れて軍に追撃させ、杭を沈められている地点を越えたことに気づかなかった。そして潮が引き始めた。呉権は反撃するよう全軍に命令を下した。南漢軍は対抗することができず海へ逃げるしかなかった。その時干潮となり杭が次第に水面から突き出てきた。わが軍は上流から強力な攻撃を仕掛け、待ち伏せしていた両岸の軍も側面から攻撃を行った。南漢軍は混乱に陥り、船は杭にぶつかり粉砕した。残りの船は大きく重かったため、杭のある地点から脱出することができなかった。わが軍は、小舟でもって軽やかに通り抜け突進し、壮烈な白兵戦を展開した。敵軍は船を捨てて川に飛び込み、殺された者もあれば、溺死した者もあり、兵士の半数以上を失った。劉弘操もこの戦いで命を落とした。」
(「白籐江の戦い」の杭、ハノイ歴史博物館)
新たな歴史の始まり
「白藤江(バクダン川)の戦い」の勝利によって独立したベトナムは、新たな歴史を刻み始めました。それは決して平坦ではなく険しく厳しい道程ですが、そのスタートの「白藤江の戦い」はベトナムの人たちにとって何よりも学び継承しなければならない歴史的な偉業なのです。
その後、1887年にフランスによって植民地にされるまでの約950年間、ベトナムは独立を保ちます。しかし、その間も10回以上の侵略を中国から受けました。
次回からは幾度かに分けて、新たな歴史を刻み始めた10世紀からフランスの植民地支配が始まる19世紀までを紹介したいと思います。中国からの脅威に晒されながらも初めてのベトナムの統一国家、阮(グエン)朝ができるまでの歴史、日本とも関わりの深い歴史です。
(2021年7月20日、あかたつ)
[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
« 「ひろしま朝市」が再開されました。 | トップページ | 8月6日には、オリンピックの会場で全員黙祷を! ――change.orgでの署名運動経過報告―― »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 上関をめぐる今年の動きを予想する(2025.02.10)
- ヒロシマとベトナム(その66-2)(2025.02.06)
- ヒロシマとベトナム(その66-1)(2025.02.05)
- 赤貝のに付け(2025.01.26)
- ベトナムの歴史(その36) ― ベトナム Now Ⅸ― (2025.01.20)
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 2025年「全国被爆二世交流会」(2025.02.09)
- 2025年2月のブルーベリー農園その1(2025.02.08)
- 上関をめぐる今年の動きを予想する(2025.02.10)
- 書籍「被爆者阿部静子は語る」(2025.02.07)
- ヒロシマとベトナム(その66-2)(2025.02.06)
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 2025年「全国被爆二世交流会」(2025.02.09)
- 上関をめぐる今年の動きを予想する(2025.02.10)
- ヒロシマとベトナム(その66-2)(2025.02.06)
- ヒロシマとベトナム(その66-1)(2025.02.05)
- 2月「3の日行動」(2025.02.04)
« 「ひろしま朝市」が再開されました。 | トップページ | 8月6日には、オリンピックの会場で全員黙祷を! ――change.orgでの署名運動経過報告―― »
コメント