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2021年6月19日 (土)

サッカースタジアム建設予定地の被爆遺構見学記

今日は、私が見た被爆遺構の紹介です。

発掘現場には、こんな表示がありました。発掘は、来年3月1日まで行われるようです。

20210617_113756

現場はフェンスで囲われていますが、東側の基町住宅につながる歩道部分は、柵はありますが、フェンスではありませんので、発掘作業を身近にみることが出来ます。

20210615_154118

解説をしてくれる人もいませんので、写真を並べるしかありません。15日の中国新聞の写真には、手前にはっきりとした敷石が映っていますが、今はこの部分には、シートで覆われていますので、直接敷石を見るとことはできません。手前の柵のすぐ向こう側です。

20210615_160550

発掘面は、私が建っている地面とより当然のことですが、掘り下げられていますので、手前は見難くなっています。

発掘作業現場の真ん中あたりの少し奥側に敷石が並んでいるのが見えます。上の写真の左側のテント附近です。

20210615_154406

手前の方に、レンガでつくられた構造物が残っています。これはかなりきちんとした形です。

20210615_161224

何に使われた場所かわかりませんが、レンガ造りですから、軍の施設であったことは間違いないと思います。

さらに北側に進むと、水路のような構造物が、はっきりと確認できます。石積みでしっかりした構造です。

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今度は北側から見た全景です。

20210615_161906 

北側(写真では、右端の部分)では、被爆時の面からさらに掘り下げが進んでいるように思えます。ここには、軍の施設の以降はなかったのだろうかと気になります。

発掘現場は、旧陸軍の輜重隊(馬や自動車で武器弾薬や食料の運搬を担う部隊)があった場所といわれていますが、軍の施設がいかに広大なものだったかもよくわかります。

今まで簡単に紹介した発掘現場は、東側半分です。ということを知ったのは、現場で作業中の方から「いま盛り土がある向こう側も発掘していますよ。トイレのあるあたりからだったら、少しですが見ることが出来ます」と教えていただいたからです。

そこで、フェンス伝いにトイレのあるあたりまで移動しました。ここは、かつて大田洋子の文学碑を探すために訪れたところです。フェンスのところどころにある網目状のところから、中をのぞいていました。

20210615_163724

カメラのレンズに網目が映らないように写真を撮りましたのではっきり映っているのですが、人間の目で見ようとすると、網目が邪魔になってほとんど見ることはできません。写真を見る限りでは、東側程はっきりした遺構を確認することはできません。

報道によれば、発掘現場からは、軍隊で使われていた鉄カブトや軍用食器なども発掘されたようですが、今は別の場所に保管されているようで、見ることはできません。

現場を訪れて、発掘された遺構が具体的にどんなものだったのかの解説を聞きながら、現場を見たいということを改めて強く感じました。

そして、サッカースタジアムが具体的にどの位置に立つのか公表されていないため不明なことが多いのですが、東側の発掘現場は、建設予定地の東端になると思われますので、少し位置をずらすなどの設計変更をして、軍事施設の被爆遺構を残す道はないのかと、強く感じました。

この後、旧陸軍の輜重隊ゆかりの場所を訪ねましたので、22日紹介したいと思います。

いのちとうとし

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コメント

御ブログを、きっかけにして。ヒロシマ復興の軌跡。石丸紀興さん物を、読みました。輜重兵。日本と、アメリカ軍では、評価が、違いますね。兵站重視のアメリカ軍が、妥当以上と、思っています。

匿名希望さま
コメントありがとうございます。
そうです、あの遺構は、被爆遺構であるとともに、軍都廣島の遺構でもありますね。両方の側面から、貴重な遺構だと思いますが、被爆以前の広島を考えることも必要だと思います。そして、指摘されているように戦時体制の中での日本軍とアメリカ軍、兵士の命がどのように扱われてきたのかを考えることは大切だと私も思います。
遺構を見学した後、すぐ近くにある「馬碑」を見に行きました。その解説の中に、匿名希望さんが指摘されるようなことが書かれていましたが、そのことは、22日以降に紹介したいと思います。

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