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2021年6月 7日 (月)

由緒ある観音寺―観音寺訪問記の3

最初にお詫びです。4日のブログで、観音寺でご案内していただいた方のお名前を「前住職の奥様木村時子さん」と紹介していましたが、私のまったくの感違いでした。正しくは、「木村信子さん」です。大変お世話になりながら、失礼なことをしました。心からお詫びし、訂正させていただきます。

「第4代平和の鐘」を見るために訪れた観音寺ですが、このお寺は400年以上の寺歴のある由緒あるお寺ですので、木村信子さんに案内していただき、境内を散策しました。

境内の様子を紹介する前に、観音寺のホームページに書かれた「縁起」を紹介します。

「観音寺がある元宇品は昔、離島であり、宇品島と呼ばれていました。

その昔、毛利公の武夫であった坂本宗味秀晴公が宇品島の巡守となって、お寺を中興開基したと伝わっております。坂本秀晴公は、お寺に十一面観世音菩薩を安置し、深甚の礼拝を続けられていました。

後の元和四年(1618年)浅野氏入封の際に一緒に来られた桂雲禅師が臨済宗のお寺として中興され、開山となりました。」

この「縁起」には、「毛利公の武夫であった坂本宗味秀晴公が中興開基した」と記載されていますので、毛利輝元が広島城を建立した1589年以前に、お寺は開山されていたことになります。

さらに「縁起」には、小早川隆景などが宮島参詣時、この島に寄って祈願をしたことも記されています。

ここを訪問する前に調べていて知ったことですが、このお寺の境内には、樹齢400年といわれる「広島椿」があります。写真の左端、濃い緑の葉が茂っているのが「広島椿」です。

20210530_112059

 

開花時には、マスコミで報道されるほど有名な椿です。もちろん時季外れの今は、一輪も咲いていません。ホームページにあった開花時の写真です。

Photo_20210606082001

「広島椿」の歴史は、江戸徳川幕府の第2代将軍・秀忠が、「花の殿様」と呼ばれ、各大名がこぞって珍しいツバキを献上したそうですが、その中に「広島椿」の品種があったようです。その後、1619年に広島藩主となった浅野長晟(ながあきら)が、正室(徳川家康の三女)振姫の形見として植栽しました。この一本の古木には、薄桃や赤、白など多色で、まだらな色が入った花など数種類の花が咲くそうです。

Photo_20210606082002

例年3月のお彼岸のころ、「広島椿まつり」が開催されるようですので、その時期に改めて訪れたい場所です。

この椿の木のすぐ南側に鐘楼があります。観音寺では、戦時中の金属拠出から半鐘は免れたのですが、梵鐘は他の寺と同じく拠出されましたので、長く不在となっていたようです。戦後しばらくたって新たに造られた梵鐘が、吊るされ時を告げるようになってそうです。

20210530_120352

作られた当時は、朝と夕方に時を知らせる鐘として撞かれていたようですが、すぐそばにマンションが建設さるなど近隣に住宅が密集したため、現在は朝は中止され夕方午後6時のみ撞かれています。

写真ではちょっと見えにくいのですが、鐘楼のすぐ裏側に古い井戸があります。もちろん今は使われていませんが、それ以前はこの井戸水が飲み水として使われたそうです。

本堂の縁側に腰かけて信子さんのお話を聞いていた時「ずいぶん天井が低いお寺の本堂だな」と感じていたのですが、次の場所に移動してその理由を知りました。

鐘楼を見終えて、広島椿のわきの石段を登り一段高い場所に移動しました。そこは広場になっています。広場の左手隅に、小さな荒神堂が建っていますが、その建物の一部に燃えた跡のある柱が使われています。

20210530_120551

その焼けた木を示しながら、信子さんから意外な話を聞きました。「実は、この広場の位置に、もともと本堂があったのです。20数年前に本堂付近から火の手が上がり、本堂は全焼してしまいました。幸い一段下にあった庫裡(寺院の僧侶の居住する場所)は焼失を免れましたので、今はそこが本堂になっているのです。もともと火の気のないところで、焼け跡に油のにおいがしましたので、放火が疑われるのですが、犯人などはっきりしたことは分からないままです。」

今の本堂のそんな歴史は、信子さんに案内していただかなければ知ることのなかったことです。これで本堂を見た時感じた違和感の原因がはっきりしました。当時の新聞記事を調べてみると、火災が発生したのは1996年8月29日午前3時ころで、本堂は全焼、庫裏は外壁の一部が焼けただけで残ったようです。「第4代平和の鐘」は、火災当時、今と同じように庫裡の軒下に吊るされていたため、焼失は免れることが出来たようです。

散策が続きます。元本堂があった広場の奥は、墓地になっています。これも信子さんから教えていただいたのですぐに見つけることが出来たのですが、第27代横綱安芸の海さんの墓があります。

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安芸の海さんは、広島出身のただ一人の横綱です。手を合わせました。

その他に、広島椿の枝に隠れるような場所に宇品の海から引き揚げられた大きな石が大切に保存されています。教えていただかなければ見逃すところです。

20210530_121526

他に見落としたこと、忘れてしまったことがあるような気がしますが、印象に残ったことを記しました。2時間余りの訪問でしたが、有意義な時間となりました。これで今回の観音寺訪問記は終わりです。

いのちとうとし

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