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2021年6月 3日 (木)

平和の鐘の歴史―観音寺訪問記の1

梅雨の中休みの一日、「第4代平和の鐘」を見るため南区元宇品の観音寺を訪ねました。

訪問しようと思い立ったのは、「響け!平和の鐘実行委員会」の高東博視代表から送っていただいた資料がきっかけです。

平和の鐘の歴史

「第4代平和の鐘」と観音寺を紹介する前に、高東さんから送っていただいた資料を基に、平和の鐘の歴史を簡単にたどっておきたいと思います。

初代平和の鐘は、軍事供出され旧海軍が保有していた鐘の払い下げを受け所有していた建設業者から借り受け、1947年の第1回平和祭と翌年の2回使用されました。その鐘は第1回平和祭の時、慈仙寺鼻(平和公園の一番北)に作られた「平和の塔」(高さ約10メートル)に吊るされていましたが、1951年3月に盗難に遭い現在は行方不明となっています。中国新聞の記事によれば、重さは、37.5キロあったそうですが、朝鮮戦争の最中、金属が高騰していたため盗難に遭ったとされています。

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第1回平和祭:真ん中に平和の塔

第2代は、すでにこのブログで紹介しましたが、1949年に一度だけ平和公園以外で開催された第3回平和祭でのみ使用され、旧市民球場跡に鐘楼と共に現存しています。

第3代は、広島市西区中広町の光元寺の半鐘を借りて、1952年から1964年まで13年間使用されました。この鐘の表面には「世界平和伝声之鐘」の文字が刻まれています。「なぜこの寺の鐘が選ばれたのか?」は、中国新聞の記事(1995年12月16日)に書かれています。「檀家に市役所の人がおり、『8月6日どこのお寺も法要のため、貸してもらえない』と頼まれ貸すことになった」と。同じ記事には、「光元寺が1965年に火災に遭った」ことが記載されていますので、1965年からこの鐘が使用されなくなったのは、この火災が原因だったと思われます。しかし、使用されなくなってからも光元寺で寺宝として大切に保管されていましたので、2012年に「平和を願った鳴らされた鐘を後世に残してほしい」と広島市に寄贈されました。現在は平和記念資料館が所有していますが、収蔵庫に保管されていますので簡単に見ることはできません。

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第3代平和の鐘:「響け!平和の鐘実行委員会」資料より

第4代は、南区元宇品の観音寺で今も使用されている半鐘です。1965年から66年までの2年間使用されました。この鐘については、次回詳しく紹介します。

第5代が、1967年以来現在まで毎年使用されている鐘で、この鐘も平和記念資料館で保管されています。平和記念資料館の東館リニューアルまでは、1回フロアーにありましたが、現在はこれも収蔵庫で保管されていますので、8月6日の記念式典でしか見ることはできません。

高東さんから送られてきた資料を基に、「平和の鐘」の歴史を書きながら、奇妙なことに気づきました。第2代と第3代の間にある2年間空白です。

1950年は、理由がはっきりしています。朝鮮戦争が勃発したため、占領軍の命令により「平和祭」が中止になっていますので、当然鐘が使用されることもありませんでした。

しかし、1951年は「平和祭」が復活したにもかかわらず、なぜか「平和の鐘」の歴史がないのです。

とここまで書いて、改めて「響け!平和の鐘実行委員会」のホームページを開いてみると、この空白の2年についても記述がありました。

「1950年 式典会場としては1949年と同じ中央公園(護国神社前)を予定。ただし、朝鮮戦争のため式典は中止。ただ、『平和の鐘』だけは鳴らされた。」

となると、どの鐘が鳴らされたのかが、次の疑問として湧いてきます。予定された式典会場は、1949年「第2代平和の鐘」が鳴らされた場所と同じですから、この鐘が鳴らされたと想像するのが妥当だと思います。ただ、式典は中止となっており、平和公園内の「平和の塔」にも「初代の鐘」が吊るされていますので、ちょっと気になります。今のところ、そのことを明確に記載した資料を見つけることが出来ていません。

次は、1951年です。朝鮮戦争は継続していましたが、「平和公園戦災供養塔前で、平和式典を再開するが、初代『平和の鐘』が盗難にあったため、平和の鐘は不使用。鐘の代わりにサイレンが鳴らされた」と書かれています。

はっきりしました。「初代平和の鐘」が、同年3月に盗難に遭い紛失したにもかかわらず、当時の金属事情から代わりの鐘を見つけることが出来ず、サイレンを鳴らしたということです。

今日は、観音寺の「第4代平和の鐘」を紹介する予定で原稿を書き始めたのですが、「平和の鐘」の歴史の紹介が、ずいぶん長くなってしまいましたので、観音寺訪問記は、明日にします。

いのちとうとし

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