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« ヒロシマとベトナム(その25) 「入管法」改正見送りをテコに 野党共同案による抜本改正を | トップページ | 由緒ある観音寺―観音寺訪問記の3 »

2021年6月 6日 (日)

言葉の重みも検査しよう ――物の重みは正確に測られています――

言葉の重みも検査しよう

――物の重みは正確に測られています――

 

6月初め、ワクチンの集団接種所に行くと、正面にこんな看板が出ていました。「はかり検査場」です。

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「ワクチン」と「はかり」とが結び付かず一瞬、戸惑いましたが、聞いてみると商取引や学校・病院等で使う秤(はかり)は、その正確さを定期的に検査することになっていて、ワクチン接種と同じ場所でその日、検査が行われているとのことでした。

物品の重さ、体重等を正確に測るための制度ができているのです。そのために、この場所には、検査に使う基準となる錘、つまりウエイトが準備されていました。

1_20210605211501

物体の重みが大切にされているのは良いことなのですが、このところ (と言うより、かなり長期にわたって) 蔑ろにされている政治家の言葉の重み、官僚の言葉の空虚さ・軽さについ思いが走ってしまいました。

その中でもコロナ対策についての菅内閣の言葉が一つ一つ引っ掛かりますし、対応も大問題なのですが、コロナだけでなく、コロナとオリンピックを重ねて見ると、何らかの発言がある度に耳を疑いたくなります。発言者は総理大臣初め、官房長官、オリンピック担当大臣、組織委員会会長、小池知事等々、ニュースで取り上げられる人ほぼ全てです。それが一日に何回も繰り返されるのですから、今の日本の状況を表す言葉は、「世紀末」や「末世」「乱世」、あるいはそれ以上のものにならざるを得ないように思えます。その他にも、「正気の沙汰ではない」。「狂気」という言葉は使わない方が良いらしいのですが、敢えて使えば「狂気の沙汰」の方が、現状をハッキリ表現しているかもしれません。

それは日本国内に限らず、IOCのバッハ会長や、コーツ氏、パウンド氏等の発言として、もっと端的に状況を表しています。それらについては、海外のマスコミをはじめ、多くの皆さんが批判をしていますので、それで十分かも知れません。でも私なりの感想を書き連ねておかないと精神衛生上、良くありませんので、この場で何点か披露させて下さい。

一つは、「菅総理大臣が反対しても、ハルマゲドンでも起こらない限りオリンピックは開催される」という趣旨の発言です。論理的に詰めると、仮に日本の総理大臣が「開催しない」と言ってもオリンピックを日本で開くためには、選手や関係者が日本に入国しなくてはなりません。総理大臣が、オリンピック開催はダメだと言った場合、当然、これらの人たちは日本に入国できないことになるはずなのですが、それにもかかわらず、日本で開く、その前提として、選手や関係者が日本に入国できるという主張は何を意味するのでしょうか。

それが可能なのは、例えば、日本がIOCの植民地であり、日本国民には主権がなく、IOCが日本国民を支配している、というような場合です。これって、ただ単に菅総理大臣に対する侮辱であるだけでなく、日本国民の主権を否定する重大発言です。この点からの「大抗議」が、日本国内から起きていないのは何故なのでしょうか。マスコミも、「主権侵害」だという点はあまり追及していないようなのですが、それで良いのでしょうか。

バッハ会長の「犠牲を払わないと、オリンピックはできない」という発言も、「犠牲」= 「主権の放棄」ということになるのです。そこまで言われたら、日本という独立国家の代表である総理大臣としては、「主権を放棄することはできない」と宣言してオリンピックを中止するくらいのことをしないと、次に同じようなことが起きた場合にも何もできないことになるのではないでしょうか。

次に取り上げたいのは、6月2日の衆議院厚生委員会での尾身会長発言です。要約すると、「このようなパンデミックという状況でオリンピックを開くなどということは、普通はあり得ない」になります。

これに対する田村厚労大臣の言葉は「自主的な研究の成果の発表ということだと思う。そういう形で受け止めさせていただく」です。

問題なのは、「自主的な研究」です。およそ学問の世界での研究は、学者個人の意思による「自主研究」でなくてはならないのです。そうではなく、例えば宗教的権威に従って自らの価値観を捨てては、学問・科学は成り立ちません。ガリレオ・ガリレイは17世紀の初頭に、ローマ法王庁の権威に逆らってまで、「自主研究」の成果が重要だと主張したのです。

その後の世界は、ガリレオ・ガリレイの立場に立つ科学を尊重してきたはずなのですが、現在の日本政府の科学観が田村大臣の言葉通りであるとすると、17世紀にまで後戻りしてしまったことになります。

それほど恥かしい言動が後世に残ることを承知の上で、何故オリンピックを強行したいのか、菅政権、そしてオリンピック組織委員会等、関係者には納得の行く説明をする責任があります。

しかし、同時に「専門家」の責任も問わなくてはなりません。昨年の4月11日から始めて、このブログで複数回にわたって指摘したように、昨年の安倍総理による全国一斉休校について、後出しではありますが、その正当性を「専門家」として認めたのですから。

この点については次回、より詳しく論じます。

 [2021/6/6 イライザ]

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コメント

「はかり検査」。このデジタル全盛の時代に、なごみます。

この一年→毎日が大日本帝国(特に戦争末期)→の日々。
一瞬→映画館で白黒スタンダードのニュース映画を見た気分に。

現在でも十分にニュース映像として価値あるのになぁ。
「お国がデジタル庁作るって時にそんなもの流せるか!」でボツになったか。

遅かりしの尾身サン→これから会見する時は、
「地平線から来た男・尾身です」ぐらい言ってやんなよ。
(『地平線から来た男』米1971 原題(主人公のfirst name)
”違う地平からの自主研究”→デーブ・スペクター氏twitter👏👏👏

(打たれましたか。アレルギー反応大ありの単老はスルーです)

「硬い心」様

田村・丸川両大臣の反応は、気の毒になるくらい以上です。「専門家の御意見も当然、参考にして最終決定は行います」と言っておけば、それで問題はなかったのですから。

田村大臣の言い訳も、言い訳になっていません。言い訳をするくらいなら、最初から尾身発言を否定するような言葉を使わなければ良かっただけです。

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