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2021年6月

2021年6月30日 (水)

6月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

春の農園も週末農業で行くたびに景色が変わるが初夏の景色も忙しく変わる。植物の背丈の伸びが特に著しい。ブルーベリーの若い枝も良く伸び、まだ青い実はまるまると膨らみを増していく。ブルーベリーの剪定も西側の里山に取りかかっていて根気仕事で進めている。早生の摘み取りも始まり安芸の郷に数キロだが納品も行った。今の時期はおもにブルーベリーを使ったスイーツに利用される。

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6月26日(土)。

①.22日に農園に来たときは見られなかった竹がここまで伸びていた。

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②.庭の池にアメンボウが来ている。

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③.農園のすぐ近くの親戚の家の畑の景色、後ろの山が茶臼山、ヒメジョンの白花とルドべキアの黄色。

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6月27日(日)。

①.里山のブルーベリー園の農道の草刈りを行う。法面にはススキや笹竹が伸びていて切るとバリバリ音がする。

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②.草刈りする法面にはほんの少しホタルブクロが咲いている。

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③.庭の池を見てみる。イトトンボがいた。

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④.手前がブルーベリーの剪定後。奥のブルーベリーは剪定前で株もとが茂っている。足元すっきりで摘み取り作業をしやすくすることも気にしながら剪定していく。

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6月29日(火)。

①.ヤブカンゾウが開花。蕾や花弁は食べられるとか。

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②.ブルーベリーの剪定を続ける合間に妻の友人2人が早生のブルーベリーの摘み取りで援農。

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③.午後の休憩でとれたてのブルーベリーでジュースをごくり。ペクチンが多いのかどろっとしている。早生のブルーベリーはクエン酸がメインなので甘夏やレモンと同じ酸っぱさがある。

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④.庭の池を見に行く。石の上のカエルはじいーっとしたまま。蛇はまだ来ないから安心?

2021年6月30日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

 

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2021年6月29日 (火)

「安野 中国人受難之碑」周辺の草刈り

 太田川の上流,安芸太田町の中国電力安野発電所のすぐ裏手に「安野 中国人受難之碑」があるのをご存じでしょうか。

 碑には,「第二次世界大戦末期,日本は約四万人の中国人を日本の各地に強制連行し苦役を強いた。広島県北部では,西松組(現・西松建設)が行った安野発電所建設工事で三六〇人の中国人が苛酷な労役に従事させられ,原爆による被爆死も含め,二九人が異郷で生命を失った」と歴史の事実が刻まれています。

6月6日,広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会の呼びかけで,碑周辺の草刈りを行いました。参加者は14人。始めのあいさつの後,草刈り機で草を刈る役と,刈った草を集める役に分かれて作業を行いました。碑の後ろ側の斜面と碑が置かれている平地部分を中心に草刈り機や鎌で刈り取り,刈り取った草を集めて捨てるという作業を約1時間行いました。

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みなさんの見事な連係プレーで,怪我なくスムーズに作業を終えることができました。朝,碑を訪れた時には,背丈の様々な草が鬱蒼と茂っており,草の中に碑が埋もれている感じでしたが,作業が終わるころには見違えるほどすっきりとしました。

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最後に主催者の代表が,「このような地道なとりくみを続けていくことが大事。今後も安野の歴史事実を伝えていくためにがんばっていこう」とあいさつを行い,この日の作業を終えました。

碑文の最後は,次のように結ばれています。「太田川上流に位置し,土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は,今も静かに電気を送りつづけている。こうした歴史を心に刻み,日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する」

碑が建立された2010年以降,毎年10月の第三日曜日に,碑前で追悼の集いが執り行われています。このような地道なとりくみを続けていくことが,戦争加害の事実と,長期にわたる交渉・裁判を経て和解が成立した事実を風化させないことにつながるのだと改めて感じました。

Morisaki

【編集者】昨年の草刈りの報告の後に、「来年はぜひ一緒に参加したい」と書きましたが、残念ながら今年も参加することが出来ませんでした。来年こそは!と決意だけはしています。

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2021年6月28日 (月)

被爆の生き証人としてⅣ

 旧陸軍被服支廠の全棟保存にむけた議論がようやく動き出しはじめました。

5月16日、広島県は所有する全3棟の耐震化を表明しました。また、国の1棟を管理する中国財務局は「県や市の議論をふまえ、適切に対応したい」とコメントしました。

5月20日には広島市が「もの言わぬ証人である被爆建物を活用する表明だと受けとめる」と広島県の判断を評価しました。また、広島市としても費用負担について考える必要があると話をしています。

5月24日の参議院決算委員会では、文化庁審議官が「最古級の鉄筋コンクリート建物として『一定の歴史的価値』があり、原爆投下直後の臨時救護所となった『歴史的意義』がある」と答弁しており、厚生労働大臣も広島・長崎の被爆遺構について「しっかり守りながら伝えていくことが重要」と答弁しています。

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6月17日には、広島県が2023年度、全3棟の耐震化工事に着手する方針を固め、2021年度一般会計補正予算に6,600万円を盛り込んだと報道されました。予算案が成立すれば、有識者でつくる2つの検討組織(安全対策・価値評価、建物の活用の方向性)を置くことも検討されています。

もの言わぬ証人である被爆建物を後世に残すには、何のために残すかが問われます。

保存のために必要な概算工事費は1棟あたり5億8千万円とも言われていますが、一度、壊してしまえば元には戻せないことを踏まえ、国・広島県・広島市が知恵を出し合い一体となって全棟保存にむけた動きを加速させるよう、私たちも常に関心をもち、声をあげ続けましょう。

~ヒロシマを忘れた時、ヒロシマは繰り返される~

おきたか

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2021年6月27日 (日)

24日の行動―座込みと緊急要望書の提出

ちょっと遅くなりましたが、24日に広島県原水禁として取り組んで二つの行動の報告です。少し長くなりました。

 

関西電力美浜原発3号機再稼働に抗議する座り込み

関西電力は23日、40年を超えた原発の再稼働を行いました。広島県原水禁の呼びかけで、この再稼働に抗議する座り込みを、一日遅れとなりましたが24日午後0時15分から30分間平和公園慰霊碑まで実施し、最後に下記のアピールを採択しました。採択されたアピールは、すぐに関西電力に送付しました。

緊急の呼びかけ、そしてコロナ禍でしたが27名の参加がありました。前日の被爆76周年原水禁大会広島実行委員会結成総会に参加した原水禁国民会議北村事務局長も一緒に座込みました。

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美浜原発3号機の再稼働に抗議し、運転の即時停止を求める

 関西電力は昨日623日、運転開始から40年を超える、老朽原発の美浜3号機を再稼働させました。周辺住民をはじめとする県民、周辺県の反対や不安の声を無視した再稼働は断じて許されるものではありません。

 しかも、設置が義務付けられているテロ対策施設が期限に間に合わないため、4か月後の10月には再び停止することが決まったうえでの再稼働です。国内で多くの原発が40年を迎える中、まさに、「再稼働ありき」「実績づくり」に他なりません。

運転開始から40年を超える老朽原発の再稼働は、東京電力福島第一原発事故後に原発の運転期間が「原則40年、最長で延長20年」と定められ、あくまで再延長は、例外的であったはずです。しかし、国が「脱炭素社会」に向けて進めている計画の中で原発活用論が打ち出され「40年ルール」という原則が形骸化されようとしています。

老朽原発は、安全性、労働者被曝の増加、避難計画など、通常の原発にも増してさまざまな問題があります。

 東京電力福島原発事故以降、原発に頼らない社会の実現は世界的な流れです。

 福島の原発事故の教訓を忘れ、原発の安全神話を再び繰り返し、老朽原発を含む原発再稼働に突き進む政府や電力会社の姿勢は、住民の命や不安を置き去りにするものであり、決して許されるものではありません。

 福島原発事故は今も収束していません。今なお、避難を余儀なくされている福島の被害者を決して忘れてはなりません。

 今やるべきことは、再生可能エネルギーのさらなる開発など、危険な原発に頼らないエネルギー政策を推進することです。

核と人類は共存できません!

私たちは老朽化して危険な美浜原発3号機の運転の即時停止を強く求めます。

私たちは、原発なき社会を求める多くの市民とともに、これからもすべての原発の廃炉を求めて取り組みを進めます。

以上

2021年6月24日

「美浜原発3号機再稼働抗議・慰霊碑前座り込み行動」参加者一同  

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23日には、中国電力島根原子力発電所2号炉に対し、原子力規制委員会が事実上合格の審査結果を発表しました。島根原発を再稼働させない取り組みを強めなければなりません。一方で、東京電力福島第2原発の廃炉作業もスタートしています。

原発なき社会を実現させるため、声を上げ続けなければなりません。

 

「市民への現地説明会の実施を」-広島市に緊急要望書を提出

広島市が進めるサッカースタジアム予定地で進められている発掘調査によって、現地に被爆遺構でもある旧軍隊の広大な軍事施設の遺構があることが明らかになりました。

貴重な遺構をどう残すのかが課題となっています。広島県原水禁は、金子代表委員と高橋事務局長中谷常任理事が市役所を訪れ、緊急要望書を提出しました。少し長いのですが、全文掲載します。第一の要望している「市民への現地説明会」について、明確な回答はありませんでしたが、改めて検討することを約束させて申し入れを終了しました。

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サッカースタジアム建設予定地から出土した旧陸軍輜重隊施設遺構の現地公開及び保存についての緊急のお願い

  日頃から市民生活の向上、平和政策の実現に努力されていますことに敬意を表します。

 さて、先日615日にマスコミ各社が、広島市中央公園・サッカースタジアム建設予定地における埋蔵文化財の調査中に、旧陸軍施設の被爆遺構が見つかったと報じました。同時に、市内の被爆遺構の発掘例として過去最大級であり、「戦前の広島が軍都であったことを示す痕跡」とし、貴重な価値あるものだとしています。

 被爆都市広島市にとって、貴重な被爆遺構を保存することは、最優先の政策課題であるといえます。 私たちもこの報道に強い関心を持ち、貴市担当者に対し、現地説明会の開催などを要望していました。 しかし、現在までに明確な回答を得るに至っていません。

 今回の発掘調査が、「サッカースタジアム建設のため」に行われていることは、十分承知していますし、サッカースタジアムの建設を否定しているわけでもありません。

しかし、埋蔵文化財の発掘調査においては当然のことですが、調査を開始して見なければ、どのような貴重な資源が出てくるかは不明です。

 今回の調査で出土した物も、被爆地広島の歴史にとって、極めて貴重なものであり、私たちにとっても直接見学したいという思いを持つのは当然のことです。

しかし、残念ながら、現在のところ貴市は「現地での市民への説明会の開催はしない」と説明されています。

その理由の一つにコロナ禍であることがあげられていますが、幸いにして620日に広島県に出されていた緊急事態宣言が解除され、貴市も広島平和記念資料館をはじめ、公共施設の見学再開を決定されており、その障害は除去されたと考えます。

さらに、埋蔵文化財は、一度破壊すれば、復元することは極めて困難です。埋蔵文化財の調査は、ただ記録を残すだけでは不十分です。発掘されたものの評価によっては、当初の計画を変更し保存する道を選んだという事例は、これまでにも多々あります。

発掘された現場は、未来の市民を含めて市民の共有財産です。後世から、「この貴重な財産を葬り去ったのは、当時の広島市であり、サッカー・ファンだった」という声を起こしてはなりません。

つきましては、緊急の措置として、次のとおり要望しますので、ご検討いただき実現されるよう強く要請いたします。

1、市民への現地説明会を早急に実施すること

2、発掘された旧陸軍施設の被爆遺構について、早急に専門家の検討会を実施すること。その結論によって、保存を含めた継承方法を検討すること

3、その評価が確定するまで、現状を保存すること。

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なお、私たちが要望書を提出した翌日(25日)には、マスコミに対する現地説明会が実施されました。私も現地を訪れ、様子を見学しましたが、市民説明会も十分に可能だということが明らかになりましたので、改めて広島市に「市民への現地説明会の実施」を働きかけたいと思います。

いのちとうとし

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2021年6月26日 (土)

池袋暴走事件 ――「記憶は簡単に変るし変えられる」、を前提に――

池袋暴走事件

――「記憶は簡単に変るし変えられる」、を前提に――

東池袋自動車暴走死傷事故は、2019年4月19日に、東池袋4丁目の交差点で起きた交通事故で、母子二人が亡くなり、加害者も含めると10人が負傷しました。

今年の6月21日には、被害者参加制度によって、被害者の夫であり父である松永拓也さんが、被告の飯塚幸三・元工業技術院院長に直接質問をしました。

その様子は広く報道されていますので繰り返しませんが、松永さんの気持が吐露された質問でしたので、涙なくしては聞けない部分もありました。でも今日、ここで取り上げたいのは、松永さんが、これまではあまり注目されてはいない、しかし事件の真実を理解する上で重要な側面に切り込んでいることなのです。

その側面についての松永さんと飯塚被告のやり取りを、「The Sankei News」のオンライン版から引用しておきます。

最初は、事故直後に飯塚被告が息子さんに話した内容、そして実況見分で警察に話した内容です。

 

松永さん「あなたが入院中、息子さんに『ブレーキとアクセルを踏み間違えた』と発言しませんでしたか」

飯塚被告「覚えていませんが」

松永さん「息子さんはそう話したと警察の供述調書にありますが」

飯塚被告「息子がそのような印象を最初に持っていたことは覚えています」

松永さん「最初の実況見分で、あなたが『踏み間違いをしたかもしれない』と言っている」

飯塚被告「はい、申しました」

 

「踏み違いをしたかもしれない」という可能性を認めています。次に、松永さんから質問を受けた時点、つまり6月21日には、その記憶がどう変っているのかという点です。

 

松永さん「どこで加速していたとしても、ブレーキを踏んだと100%確信があるんですか」

飯塚被告「はい。スピードが出ていれば(ブレーキを)踏んでいるので」

 

つまり、2年前の「踏み間違いをした可能性」は完全になくなって、今の時点での飯塚被告の記憶では、「ブレーキを踏んだと100%確信がある」のです。

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ここで描かれているのは、時間とともに記憶が変わって行くプロセスなのですが、たまたま私が読んでいたのが、この分野の世界的な権威であるエリザベス・ロフタス教授による「虚偽記憶」の研究についての解説でした。ロフタス教授は、カリフォルニア大学アーバイン校の教授を長く勤めましたが、20世紀に最も影響力のあった100人の心理学者の一人に選ばれています。「虚偽記憶」についての研究は、ワシントン州、シアトル市近くで起きたレイプ事件での専門家としての関わりが端緒になりました。

これは、「タイタス冤罪事件」として知られている事件です。後に冤罪であることが証明され、自由の身になったスティーブン・タイタスというビジネスマンが、1980年、レイプ事件直後に警察に逮捕されました。後にアリバイも認められましたし、現場に残されたタイヤ痕や被害者の証言の多くとの違いも認められたのですが、裁判で「有罪」の判決を受けたのには、被害者Aさんの証言が大きく影響しています。

逮捕後のタイタス氏と、その他の何人かの写真を見せられた被害者Aさんは、タイタス氏が「一番似ているかもしれない」と証言しています。事実、タイタス氏は、のちに逮捕され有罪刑を受けた真犯人に似ていますし、ひげを蓄えていた点も共通しています。

ところが、実際の裁判になると被害者Aさんはタイタス氏について、「絶対この人に間違いはありません」という証言をしたのです。陪審員は、この証言を重く見て有罪を言い渡すことになりました。

飯塚氏もAさんも、最初は自分の記憶が絶対的なものではなく、違っている可能性があることを認めています。しかし、その後、自分の記憶が「絶対的」に正しいという発言に変っているのです。

タイタス冤罪事件では、真犯人が見つかりましたので、被害者Aさんの記憶が誤っていたことが証明できました。このように、誤った証言等が元で「有罪」になった、つまり「冤罪」のケースは、アメリカでは、1990年から2015年までの25年間で1300件もあるそうなのですが、その半数以上が嘘の証言によるものだったという報告があります。

池袋暴走事件では、何が「真犯人」に相当するのかが焦点になります。それについては次回に回します。

ロフタス教授はタイタス冤罪事件の後、長期にわたって、記憶についての膨大な実験を行いました。その結果、ロフタス教授がたどり着いた結論を私流に要約すると、「いくら、雄弁に述べられていても、いかに詳細にわたる記述があっても、その記憶が真実を述べていることにはならない。記憶は、改竄され変えられる。それもほんのちょっとした操作によって、変えることが可能なのだ。つまり記憶は曲げ伸ばし自由なものなのだ」になります。

その操作は、外からの場合もありますし、本人の内側から生じることもあるのです。ロフタス教授研究の詳細と、池袋の暴走事件との関わりについては次回に。

 [2021/6/26 イライザ]

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2021年6月25日 (金)

「悪乗り」に便乗するのか中国電力

私が担当した1か月前のブログで、経済産業省の総合資源エネルギー調査会 基本政策分科会の議論で「原発復活」の大合唱の中、3月17日の上関町議会で柏原重海(かしわばら しげみ)上関町長が、「エネルギー基本計画で原発の位置付けがどうなるのかを注視したい。国策として進められるなら地元として推進していく」と、原発推進議員の質問に答えていると書きました。

その後5月20日、中国電力は原発建設のために埋め立てるべき海域のボーリング調査の占用申請を山口県に行いました。皆さんに、山口県知事への「許可しないでください」の要請をお願いしていたものです。

これまでの2回の申請では、申請から許可まで、だいたい1か月という日にちを要していましたが、予想が外れて6月10日に山口県は許可し、7月7日から3か月間を占有期間としました。

しかしこの度は、海底の掘削位置を確認する作業には、占用期間に当たらないので前もって実施可能だと、自分勝手な判断を行い申請し山口県もそれに同調したのです。これまで2度のボーリング調査に反対する地元の人たちの行動は、この潜水作業を行うことを止めさせる行動でした。掘削位置を確認するための作業が、占用に当たらないとしたら占用許可が無くても可能ということになります。

そして6月29日から、この作業を開始するとしたのです。掘削位置を決める作業が具体的にどういう形になるのかは分かりませんが、潜水作業員が乗船した作業船が来て、指示する船、警備する船などがやってくるのでしょう。中国電力の広報担当者の弁では、「魚釣りをするのと同じようなもの」だということでした。

 

これまでの占用申請は、いずれも9月に行われ10月に許可を得て作業に入るための「説得行動」を行い、そして海が荒れ始める11月下旬から12月になると「荒天」を理由に中国電力は中止を発表するというパターンでした。 

しかし、これからの海は台風の時以外は海の凪(な)ぐ時期となります。中国電力は、まさか海上保安庁や警察の力を借りてボーリング調査を強行するとは考えられませんが、国の態度に異論を唱えるなど主体性のない会社ですから、これまでのパターンでは想定できない動きも心配されます。そして夏は当然暑い、高齢者の多い地元の人にとっては、暑さとも対峙しなければならないことになります。

6月29日には「原発いらん!山口ネットワーク」の呼びかけで、陸地側では草刈り作業をして抗議の意思を示すそうです。

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エネルギー基本計画とは直接結びつかないのですが、重要土地利用規制法案が国会最終日の深夜に強行採決されました。「軍事施設や原発など…」と報道していましたが、上関原発計画地図の原発中心部から約325メートルの所に、私たち10人が所有している5137㎡の土地が在り、約600メートルのところには「集いの家」といわれる太陽光発電も完備されているログハウスがあります。

この土地を避けるため、上関原発の敷地はその部分を避けてねじ曲がった線で描かれています。だから取水管も歪(いびつ)な曲線になっています。中国電力が取得したいという土地は、私たちの所有している土地も「集いの家」も含まれる約160万㎡の土地です。上関原発こそが重要土地利用規制法案の一番のターゲットになるのではと心配しています。

木原省治

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2021年6月24日 (木)

被爆76周年原水禁世界大会広島県実行委員会の結成総会(第1回実行委員会)を開催

被爆76周年原水爆禁止世界大会を成功させるための広島県実行委員会の結成総会(第1回実行委員会)が、昨日午後6時から自治労会館で開催されました。コロナ禍の開催となりましたが、35名を超える参加がありました。この結成総会も、当初は11日に予定されていましたが、緊急事態宣言発令中ということで延期となり昨日の開催となりました。

総会は、金子哲夫県原水禁代表委員の司会で始まった総会は、今年はちょうど沖縄慰霊の日ということで、最初に全員の黙とうでスタートしました。

開会のあいさつは、秋葉忠利代表委員。「日本の政治状況、広島の政治状況、様々な問題が同時多発的に起きている。原発再稼働、オリンピック、コロナ問題など。それに対応する力を持っていないのではないか。第1回世界大会から、政治の根幹にかかわる問題を取り上げてきた。その意味で、いま起きている問題をどう取り上げ、活かしていくのか、意志を実現できるのかが大事。原水禁大会は、平和を考えるべきオリンピック期間のど真ん中で開催される。8月6日も。オリンピックの大義は平和をつくること。ここに共感を覚えることのできるような大会にしなければならない」と訴えました。

続いて、例年のようにこの結成総会のために駆け付けていただいた中央実行員会の北村智之事務局長から、「被爆76周年原水禁世界大会の構想」について、提起が行われました。

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その主な内容です。

昨年の被爆75周年原水禁世界大会は、コロナ禍で全てオンライン集会(広島は、8月6日午前中、原爆ドームをリボンで囲む行動)となりましたが、今年の大会は、「人が集う」ことで感じられる空気感を大切にするため、現地での集会を開催することになりました。もちろん参加者の「安心・安全」を第一に考え、ゼロからの発想を組み立てた大会にします。

大会のコンセプトは「①原水禁運動の原点である「被爆の実相」を意識し、②「核兵器禁止条約」と「2021NPT再検討会議」に焦点をあて、3.11東日本大震災・福島原発事故から10年」を回顧し今後に活かすこと」です。

広島大会主な日程は、次のとおりですが、コロナの感染状況次第では、変更も予想されます。

今年の大会は、今年の8月5日、6日の二日間の日程で、全国からの参加者は300名規模で開催します。県内からの参加者は、開会総会200名、分科会100名を予定です。二日間の日程は次のとおりです。

①5日の日程

 献花・平和行進(900分平和記念公園集合)

  900分~  共同議長による献花

  930分~  折鶴平和行進

 開会行事(県民文化センター及びYMCA)

 1045分~  県民文化センターは、全国参加者(300人)

         YMCAは、県内参加者(200人)

         ・開会あいさつ、黙とう、主催者あいさつ、被爆者の訴え、

          大会基調提起、閉会あいさつ

 12時     終了

 14時~1630分 4分科会

 ・【核保有国と核保有を望む国、日本との関係】など

 *フィールドワークなどはすべて中止です。

6日の日程

 閉会行事(県民文化センター)

 915分~1015分 閉会行事  まとめ・アピール採択など

 国際シンポジウムⅠ(県民文化センター)

 1030分~1230分 「(仮題)核なき世界~被爆の日に願う~」

 国際シンポジウムⅡ(自治労会館)

 16時~18時 「(仮題)原発事故から10年~エネルギー政策転換~」

 

以上の大会内容を確認し、大会成功に向けて、現地実行委員会としての取り組みをお願いしました。

佐古正明代表委員の閉会あいさつで、結成総会は終了しました。

なお、被爆76周年原水爆禁止世界大会は、広島大会以外に「①7月31日 福島大会②8月8日9日 長崎大会」が実施されることも確認しました。

また、例年実施(昨年は中止)してきました「非核平和行進」は、今年も中止することにしました。

いのちとうとし

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2021年6月23日 (水)

6月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

6月は朝が早く開け、夕方おそく暮れる季節。農園のある場所は標高約400mなのでバラの咲く時期もずれる。ブルーベリーの実る時期もずれる。安芸の郷の早生のブルーベリーを第2森の工房AMAの1階、2階に植えているが今が旬で連日摘み取りが行われている。火曜日、金曜日には紙屋町の地下街の「ふれ愛プラザ」に100gパックを夕方納品している。早生から晩生まで(6、7、8月まで)何とか納品を頑張りたいと思っている。農園の早生のブルーベリーは7月初めから最盛期に入るが、摘み取りがまじかなのに晩生のブルーベリーの剪定をまだ続けている。もう少しの所まで来ているが過去最長の剪定作業になっている。が、まあ暑さに気を付けぼちぼちと・・・。

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6月19日(土)。農園の庭の小型のバラがたくさん咲いた。緑一色の農園の周囲にこの色合いはアピール力満点。

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ブルーベリーの剪定を続ける。。場所は残り2か所となった東と西側の里山。

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里山の周辺のサンショの木に実がっている。一つかじってみる。香りと同時に舌がしびれてくる。加工するすべを知らないのでそのままに。

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6月20日(日)。畑の一部に早生のブルーベリーを50本余り育てている。もう防鳥ネットを張っているが、草が伸びてきたのでネットの足元を浮かせてから草刈り機を使う。

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6月22日(火)。休みを取って農作業。

①.庭の花菖蒲。手入れしないのだが毎年咲く。

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②.里山の道沿いのギボシも開花。

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③.この日の剪定場所は里山のブルーベリー園の東側。中生のブルーベリーが少し実ってきたので剪定の合間に摘み取り。昼ごはんの後ポリポリ頂く。ちょっと酸っぱい。

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④.イトトンボや他のトンボが飛び交う。

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⑤.ブルーベリーの剪定で出た枝には冬の剪定と違って葉も茂り、実もついていて運ぶと重い。

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⑥.東側のブルーベリー園の剪定が終わる。最後の場所は西側のブルーベリー園。あと100本あまり。

 

2021年6月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年6月22日 (火)

6月の「19の日行動」―三原地区と府中地区

今月も、三原地区は藤本講治さん、府中地区は石岡真由海さんから、「19の日行動」の様子が届きましたので、それぞれ原文のまま掲載します。

 

三原の19の日行動

6月19日、土曜日1730分から三原駅前において20人が参加して街頭行動を実施しました。

16日に通常国会が閉会したことを受けて、様々な法律(悪法=デジタル庁関連法、改憲手続法、重要土地調査規制法など)が成立しました。今月の街頭スタンディングでは、数の力で悪法を次々強行成立させ、コロナ対策すらせず東京オリンピック・パラリンピックの開催に突き進む菅政権に怒り、「菅政権はNO!」の声を上げました。

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部落解放同盟の政平智春さんは、オリンピック開催を優先し、コロナ禍で悲鳴をあげる国民を見放す菅政権に対して、いのちと暮らしと人権を守れと訴えました。「オリンピック精神はいかなる差別をともなうこともなく、友情・連帯・フェアプレイの精神をもって平和でより良い世界を作ることに貢献することにあると言われている。しかし、IOCバッハ会長は、東京オリンピックの開催に当たっては『だれかが犠牲にならなければならない』と発言。だれが犠牲になるのか。常に弱者である。安定した位置にいる人たちは、今の医療現場の逼迫していることは全く眼中にない。オリンピックを開催することによってコロナはさらに拡大することは誰が考えても想像できることである。国民無視も甚だしい状況に我々は置かれている。そうしたことをしっかり見抜いて行動し、感染拡大で国民の命を危険にさらすオリンピックを中止にさせるために大きな声で反対していきましょう。」

寺田元子市議は、河井元法相が買収事件で3年の実刑判決が下されたことについて、「自民党から支払われた15千万円の資金の使途が明らかにされていない。そこが問題の本質である。国民に対して真相究明を行うことが菅政権の責任である。強い怒りを持つ。先の参院広島選挙区再選挙で市民と野党の共闘で勝利した力で秋の闘いにつなげていき、菅政権を退陣に追い込みましょう。」

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9条の会の齋尾和望さんは、改憲手続法(国民投票法)改正案が11日に参議院本会議で採決されたことについて、「憲法という最高法規、平和主義を変えようとする。そのための憲法改悪の手続きが今回の国民投票法の改正である。テレビ、メディア、インターネットでの規制が十分でないことや国民がどれだけ投票したら成立するのか最低投票率が決まっていないなど問題点が残っている。引き続き議論が続くのでしっかり見守って、きちんとした制度になるように監視しながら政治へぶつけていかなければならない。」

事務局(藤本)からは、安全保障上重要な土地の利用規制法案が16日に参議院で強行採決されたことについて、「自衛隊や米軍基地、原発周辺1km範囲を規制地域に指定して、様々な制約を設けようとする重要土地調査規制法。財産権の侵害、プライバシーの侵害など、国家権力による違法な情報収集が目論まれる危険な法律です。623日『沖縄慰霊の日』を迎えます。米軍基地や自衛隊基地の建設が進む沖縄が最も影響を受けます。沖縄つぶしとも言える重要土地規制法、私たちは重大な人権侵害、憲法違反の法律に強く反対し、廃止を求めていかなければならない。」

 

府中の19の日行動

安保法制に反対する府中市民の会は、6月19日(土)に恒例の「まちかどツアー」でスタンディングとリレートークを行いました。 参加人数は上下Aコープ前(15:30〜16:00)8人、府中天満屋前(17:00〜17:30)11人でした。

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上下Aコープ前

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府中天満屋前

週末でいつもより多くのドライバーたちが横断幕を見て通り過ぎました。中には大きく手を振って賛同の意思を示してくれる方もいます。月1回の市民同士の道端での交流が、まるで憲法前文にある市民の「不断の努力」の証のようです。

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弁士の話は、安保法制の違憲性はもとより、政府のコロナ対策の不備、コロナ災禍の中での東京オリンピック開催の狂気、河井夫妻の金権汚職事件、土地取引規制法案の危険性、沖縄辺野古埋め立て土砂の遺骨混入問題など多岐に渡りましたが、どれも市民の方を向いていない政治を厳しく批判する内容でした。また、硫黄島の激戦で父親を亡くした弁士からは、少年時代に「帰ってくる捕虜の中に父親を探したものの叶わなかった」と話し、戦争への準備にひた走る現政権の姿勢を強く問い正しました。

その上で多くの弁士が次の選挙への投票を強く呼びかけました。

【編集者】19日に予告していました「旧陸軍の輜重隊ゆかりの場所」訪問記は、26日以降に紹介します。

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2021年6月21日 (月)

もう化けの皮が剥がれました ――専門家としての責任とは――

もう化けの皮が剥がれました

――専門家としての責任とは――

オリンピックとコロナに焦点を合わせて、これまで、まずはIOCの関係者による、日本という独立国家の主権侵害について異議を唱え、続いて、「このようなパンデミックという状況でオリンピックを開くなどということは、普通はあり得ない」という趣旨の尾身発言を取り上げました。特に、田村厚労相の「自主的研究」が、時代錯誤であることも指摘しました。

続いて、マスコミが「真理・科学を守る尾身会長」のようなイメージで尾身氏を持ち上げ、科学の側に立つマスコミという雰囲気づくりに走ってきました。あたかも現代のガリレオ・ガリレイでもあるかのように。実は、それも眉唾だと指摘したのですが、この最後の点については十分には論じていませんでした。

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Justus Sustermans, Public domain, via Wikimedia Commons

しかし、これ以上の説明が不必要になってしまいました。6月18日の専門家有志による「提言」で主要なポイントとして挙げられたのが、「観客を入れるのなら、カクカクシカジカ」になってしまったからです。

それと、6月2日に同じ尾身氏が国会答弁で述べた、「何のために開催するのか明確なストーリーとリスクの最小化をパッケージで示さないと、一般の人は協力しようとしない」を比べると、「何のために開催するのか説明せよ」という主張は捨て去られ、「開催するなら」そして「観客を入れるのなら」という前提での発言になってしまっています。

18日の東京新聞電子版は、「尾身氏は、当初の提言には、五輪の「開催の有無を含めて検討して下さい」といった文言が含まれていたと明かした。しかし、菅義偉首相がG7で国際的に五輪開催を表明したことで、「意味がなくなった」として、内容を削ったという。」と報じています。

となると、既に観客ありで動いている政府の立場は認めざるを得ないことになりますから、記者会見での質問、「政府が観客あり、という前提で事を進めているときに無観客という提言は虚しく聞こえるが--」という疑問が生じます。

に対して、「自分たち専門家の役割はリスクを評価することで、それを政府に伝えることは我々プロフェッショナルとしての責任だ。それを採用するかどうかは政府や主催者の責任だ」と述べています。

でも、その立場からは、6月2日の「ふつうは開催しない」とか「なぜ開催するのかを国民に説明しなくてはならない」という主張は出てこないではありませんか。これは、自分たちのリスク評価を採用した上で、政府がその評価に基づいた行動を取れという主張なのですから。そして、6月2日に多くの人が尾身会長の発言を評価したのは、この部分があったからなのではないでしょうか。

さらに、リスクの評価の表現として、「開催というリスクは何としても避けなくてはならない」、つまり「開催すべきではない」があってもおかしくはありません。リスクの程度を表現する上で最大級の言葉ですし、それを採用するかどうかは政府が決めることになるからです。

さらに、「無観客」も「次善の策」も、政府や組織委員会がどのような行動を取るのかについてがその内容です。「開催しない」と同列にあるのです。その一方が「リスクの評価」で、もう一方が「評価の採用」であるという区別は付けられないのです。

論理的に考えると矛盾するおかしな表現なのですが、それでも「専門家」のレトリックに惑わされている人もいるようです。

目を覚ますために必要なのは、11日のこのブログで再度取り上げた、昨年の全国一斉休校の「正当化」のプロセスを振り返ることです。そこで「専門家」がしたことは、単純化すれば次の二つです。

  • 政府、または総理大臣の発言を前提として受け入れる。
  • 「専門家」として、その発言にお墨付きを与える。

今回の二度にわたる尾身発言もこれに沿って行われています。それは、次のように要約できます。

  • オリンピックは開催する、観客は入れるという政府と総理大臣の発言は受け入れる。
  • 「専門家」として「次善の策」を提案することで、①の政府と総理大臣の発言にお墨付きを与えている。

歴史的に、安部・菅内閣のやり方を見るだけでお分りだと思いますが、「次善の策」を提案すれば、自分たちのしたいことを「次善の策」だと断定するか、「次々善の策」を打ち出すための口実に使うという結果になるのは火を見るよりも明らかです。

そして、「私たちは『専門家』の意見に従ったのだ」と開き直るでしょう。このシナリオが確定してしまったのは、「開催の有無を含めて検討して下さい」が捨て去られたときなのですが、私見では、そのときとは昨年の3月2日なのです。

 [2021/6/11 イライザ]

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2021年6月20日 (日)

ベトナムの歴史(その4)

ベトナム最古の人類

地球上に私たち人間の遠い祖先(猿人)が誕生したのが約500万年前、そして原人→旧人へと進み、現代人と同じグループの新人類の登場が約20万年前と言われています。ベトナム最古の人類の痕跡はベトナムの北部、中国との国境・ランソン省(地図★)の約40~30万年前の地層から見つかった原人の歯です。

 ホモ・サピエンス(新人)の段階に入ると、約3万~2万年前の遺跡がタイグエン省(地図1)、フート省(同2)、ライチャウ省(同3)、ソンラ省(同4)、バクザン省(同5)、タインホア省(同6)、ゲアン省(同7)など北部地域で発見されています。「移動しながら生活していたと推定」されています。

ちなみに首都ハノイ(Ha Noi)は地図上の2に位置します。

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日本列島では約3万8000年前に大陸から渡ってきたホモ・サピエンスによって歴史が始まったといわれ、その痕跡として長野県佐久市の香坂山(こうさかやま)遺跡がよく知られています。遺跡の年代は出土した炭化物の放射性炭素年代測定によって3600035000年前と判明、国内最古の遺跡です。

 ベトナムには原人の遺跡が残っていますが日本列島には原人、旧人の痕跡はなく、新人(ホモ・サピエンス)が出発のようです。新人の痕跡は10万年ほど前にアフリカで誕生して中東(4万8000年前)→中央アジア(4万5000年前)→中国北部(4万4000年前)→朝鮮半島(4万2000年前)、そして日本列島(3万8000年前)へと、想像すらできないとてつも長い時を下りながら広がってきたのです。

 ベトナムに残る新人(ホモ・サピエンス)の痕跡が約3万年前、日本が2万8000年、遅れること数千年。自然に対して「無力」に等しい私たちの祖先が、どのようなルートをたどり日本列島に着いたのか。その困難を極める旅を経て、今日の私たちが存在している・・・・と、想像するだけでロマンです。

余談ですが、人類進化学者の海部陽介さんが3万年前の航海徹底再現プロジェクト」のドキュメンタリー映画(国立科学博物館企画・製作)『スギメ』のオンデマンド配信が717日から始まります。

詳細は、映画公式サイトへ! https://www.kahaku.go.jp/sugime/

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(出典:「世界中に広がっていくホモ・サピエンス:国立科学博物館」)

 

ベトナム最古の国家 文郎国

時代は一気にくだります。フート省、タインホア省で3500~4000年前の新石器時代の遺跡から磨製石器が発見されます。さらに時代はくだり紀元前8~7世紀、「現在の北部と北中部にある紅河(ホン川)のデルタに似た言語や経済活動様式を持つ大きな集落が幾つか形成されるようになった」。そして、現在の「フート省・バックハクに都」を置く「文郎国が成立し、雄王を頂点として人々を統治する国家が誕生した。」(世界の教科書シリーズ『ベトナムの歴史』56㌻)。ベトナム最初の国、文郎国(ぶんろうこく:Văn Lang)です。

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その後、紀元前257年、中国の秦と戦った蜀泮(しょくはん)が甌雒国(あうらくこく)を建てます。ベトナムにとって無視できない歴史的関係の国、言うまでもなく隣国の中国です。当時の中国は春秋・戦国時代を経て、紀元前221年に初めて中国を統一した秦(紀元前905~紀元前206年)の時代でした。ベトナムは、絶え間ない中国からの侵略に晒されてきました。

 

中国の脅威にさらされ、北属期へ

紀元前218年、秦は国土拡大のため南方へ進軍しますが、ベトナム軍の抵抗に遭い紀元前206年に退却します。翌年の紀元前207年、ベトナムで初めての国家・南越国Nam Việt Triệu)が趙佗(ちょうだ)によって建てられます。南越国は2度にわたり漢に朝貢し、漢の「外臣」になりますが、第7代皇帝・武帝によって紀元前111年、約100年続いた南越国は漢の武帝の侵略を受け滅亡します。

中国との戦い勝利した後も「朝貢外交」をとり続けたベトナムの姿勢は、今日まで形を変えて続いているように思えます。しかし、それは決して無抵抗ではなく、いかなる謀略と侵略にも断固としてハネ返すという意思を込めた、「したたかな対中国外交」の歴史でもあります。

次回は、紀元前111年以降の「北属期」と呼ばれる「中国1000年の支配」を辿ってみたいと思います。

(注)本文の主な参考文献は世界の教科書シリーズ『ベトナムの歴史』、フリー百科事典『ウィキペディア』など。

(2021年6月20日、あかたつ)

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2021年6月19日 (土)

サッカースタジアム建設予定地の被爆遺構見学記

今日は、私が見た被爆遺構の紹介です。

発掘現場には、こんな表示がありました。発掘は、来年3月1日まで行われるようです。

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現場はフェンスで囲われていますが、東側の基町住宅につながる歩道部分は、柵はありますが、フェンスではありませんので、発掘作業を身近にみることが出来ます。

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解説をしてくれる人もいませんので、写真を並べるしかありません。15日の中国新聞の写真には、手前にはっきりとした敷石が映っていますが、今はこの部分には、シートで覆われていますので、直接敷石を見るとことはできません。手前の柵のすぐ向こう側です。

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発掘面は、私が建っている地面とより当然のことですが、掘り下げられていますので、手前は見難くなっています。

発掘作業現場の真ん中あたりの少し奥側に敷石が並んでいるのが見えます。上の写真の左側のテント附近です。

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手前の方に、レンガでつくられた構造物が残っています。これはかなりきちんとした形です。

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何に使われた場所かわかりませんが、レンガ造りですから、軍の施設であったことは間違いないと思います。

さらに北側に進むと、水路のような構造物が、はっきりと確認できます。石積みでしっかりした構造です。

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今度は北側から見た全景です。

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北側(写真では、右端の部分)では、被爆時の面からさらに掘り下げが進んでいるように思えます。ここには、軍の施設の以降はなかったのだろうかと気になります。

発掘現場は、旧陸軍の輜重隊(馬や自動車で武器弾薬や食料の運搬を担う部隊)があった場所といわれていますが、軍の施設がいかに広大なものだったかもよくわかります。

今まで簡単に紹介した発掘現場は、東側半分です。ということを知ったのは、現場で作業中の方から「いま盛り土がある向こう側も発掘していますよ。トイレのあるあたりからだったら、少しですが見ることが出来ます」と教えていただいたからです。

そこで、フェンス伝いにトイレのあるあたりまで移動しました。ここは、かつて大田洋子の文学碑を探すために訪れたところです。フェンスのところどころにある網目状のところから、中をのぞいていました。

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カメラのレンズに網目が映らないように写真を撮りましたのではっきり映っているのですが、人間の目で見ようとすると、網目が邪魔になってほとんど見ることはできません。写真を見る限りでは、東側程はっきりした遺構を確認することはできません。

報道によれば、発掘現場からは、軍隊で使われていた鉄カブトや軍用食器なども発掘されたようですが、今は別の場所に保管されているようで、見ることはできません。

現場を訪れて、発掘された遺構が具体的にどんなものだったのかの解説を聞きながら、現場を見たいということを改めて強く感じました。

そして、サッカースタジアムが具体的にどの位置に立つのか公表されていないため不明なことが多いのですが、東側の発掘現場は、建設予定地の東端になると思われますので、少し位置をずらすなどの設計変更をして、軍事施設の被爆遺構を残す道はないのかと、強く感じました。

この後、旧陸軍の輜重隊ゆかりの場所を訪ねましたので、22日紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2021年6月18日 (金)

サカスタ用地に被爆遺構―どうするの広島市?

「サカスタ用地に被爆遺構」 6月15日の中国新聞一面のトップ記事の見出しです。31面にも関連記事が書かれています。

第一印象は、「すごいものが出て来たな」ということです。この場所には、何度が足を運んでいましたので、サッカースタジアム建設の前に埋蔵文化財の調査のための掘り起こしが進められていることは知っていました。その時は「広島藩時代の以降はどんなものが出るだろうか」ということで、残念ながら被爆遺構のことは頭に浮かびませんでした。

その日のある人のメールに「いのちとうとしさんはお分かりでしょう。あそこを掘れば出てくるのは分かっていたことですが」と書かれていましたので、穴に入りたい思いでした。さらにそのメールには「一昨年だったか、発掘調査が始まった時、○○さんが、あそこを掘れば色々でるはずだが城下町の遺構のことしか言わない。何か取り組む気はないですかと投げかけられていました」とも。

早くから、あの場所を掘り返せば、被爆遺構が出てくることを当然のことと思っていた人がいたのです。

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とにかく現場を見なければと、その日の午後現地に行ってきました。が、その前に広島市の対応について書いておきたいと思います。

新聞記事に「市民への現地説明会を開く検討をしていたが、新型コロナウイルスの感染拡大を理由に見送った」と書かれていましたので、事情を聴こうと広島市役所に電話を入れました。担当は、文化財振興課文化財担当です。

私:「非常に貴重な被爆遺構が出て来たようですが、現地での説明見学会を行っていただけませんか」

広島市:「一度予定していたのですが、コロナ禍で実施できませんでした。いずれ何らかの形で、説明会はしたいと思っていますが、作業日程もあるので、現地説明会は難しいと思います」

私:「現地で現物を見ながら説明を受けるということが、大切だと思います。ぜひ市民の公開してほしいのですが。20日までの緊急事態宣言は、解除される予定のようですから、その後ぜひ計画してください。密にならないようにということだったら、人数を制限するとかすればできるのではないですか。全て終わった後、記録を取られた写真などを使っての説明会では、意味がないとは言いませんが、不十分ですよ」

広島市:「今のところ現地での市民への説明会は、考えていません。コロナの問題があり、イベントなども中止になっていますから。マスコミには公開しなければと思っています。それと時間が限られていますので(サッカースタジアム建設の日程のこと)」

私:「もし緊急事態宣言が解除されたら、資料館などでも人数を制限しながらかもしれませんが、当然入館を認めることになりますよね。だから、緊急事態宣言が解除されたら見学会を実施してください。20日に緊急事態宣言が解除になったらもう一度電話を入れます」

ちょっと長くなったのですが、これが広島市とのやり取りです。このやり取りで私が感じたことです。広島市には、この遺構が市民の共有の財産だという認識が乏しく、「とにかく発掘調査をしなければならないので、調査はするが出来るだけ早く終了し、出来れ遺被爆遺構をあまり多くの人に見させずに、サッカースタジアムの工事をはじめたい。『被爆遺構を保存しろ』などといわれると大変だ」と考えているのではないかということです。

被爆遺構の発掘現場に行って、そのことを確認できました。作業を監督されている人を姿が見えましたので、こう問いかけました。「広島城時代の以降までたどり着こうと思えば、被爆遺構を動かさなければならないと思いますが、復元のためには、移動させるとき敷石などに番号を振っておく必要がありますよね。そうなっていますか」

ちょっとためらう形でしたが「広島市からはそんな指示が出ていませんので、今のところ何もしていません」との答えです。

私は現地に15日、17日の二度訪れ、別々の人にその度に同じ質問をしたのですが、答えは同じでした。これで理解できると思います。

広島市は、調査はするがどんな遺構が出ても保存する気はなかったのです。15日の夕方のテレビ各局の報道番組で、一斉にこのニュースが流れ、広島市は慌てているともいわれています。

当たり前のことですが、埋蔵文化財の調査では、調査する前には、予測はできたとしても何が出るかは、はっきりしません。しかし、調査によって貴重なものが出てくれば、立ち止まって「保存が必要か、保存するための計画変更できない」などを慎重に検討することが、当然のことだと思います。貴重なものが八来るされたため、計画が変更されたという例は、全国を見ればいくらでもあります。

今回の場合、被爆遺構ですからなおさらです。松井市長は最近「平和文化」という言葉をよく使われますが、「平和文化」というなら、被爆遺構を保存する事こそ、大切な「平和文化」ではないのかと私は思います。

今日も長くなりましたので、肝心な「サカスタ用地に被爆遺構」の現地報告は、明日になってしまいました。

いのちとうとし

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2021年6月17日 (木)

広銀本店1階 アンデルセンカフェで

「いのちとうとし」さんが、613日に書いておられた「広島銀行慰霊碑」に関連して。

広銀本店の慰霊碑、本店の東口(裏口)から出て、すぐ北側にあったので、私も写真撮りました。

今日は、建物の中を紹介します。

56日に新築オープンした広銀本店の1階、アンデルセンカフェ・イベントスペースがあります。

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奥のドアが東側出入口

 ここには、本がたくさん置いてあって、「自由にお読みください」とあるので、仕事帰りとか買い物途中に休憩して本を読んでいます。

自分では買わない本もあって、ちょこっと読むのには便利。

SDGsの本とか、Zoomの設定の本とか、広島関連の本とか。

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 最初に読んだのは、「戦争は女の顔をしていない」というコミック。

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(第二次大戦中にドイツ戦線に従軍した少女たちの証言をスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんがまとめたものを、小梅けいとさんがコミカライズしたもので、以前、三井マリ子さんが「買った」と紹介されていたので目に止まった。驚くことに、少女たちは自ら志願して従軍し、狙撃兵や衛生兵として戦闘に参加している。)

カフェは、使い捨てカップを使っているのと味がいまいちなのが残念だけど、トイレには、WWF(世界自然保護基金)のトイレットペーパーが置いてあって、ちょっといいな~

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 カフェ利用なしで、ちょっと休憩だけもOK。現在はコロナで18時までですが、通常は19時まで。

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東口から慰霊碑等のある外に出るとヤマボウシが満開でした。

(YOKO)

<編集記>6月13日の「広島銀行慰霊碑」を読んでいただいたYOKOさんから、素敵な写真とともにこの原稿が届きました。ありがとうございます。

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2021年6月16日 (水)

全会一致は民主主義の全否定 ――広島市議会の平和推進条例案策定の「手続き」こそ問題です――

全会一致は民主主義の全否定

――広島市議会の平和推進条例案策定の「手続き」こそ問題です――

前回は、コロナとオリンピックを巡っての「専門家」に責任について考えました。今回はその続きの予定でしたが、一昨日6月14日の記事で、いのちとうとしさんが報告して下さった、「慎重審議を求める要望書」に関して、これまで取り上げられていない重要なポイントに焦点を合わせることにしました。専門家の責任は、次の機会まで延期します。

今回の要望書は市議会の「政策立案検討会議」での審議について市議会議長に提出しました。議長の判断が賢明なものになることを祈っています。

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さて、いのちとうとしさんと私がこれまで何度にもわたって、この条例案を取り上げてきたのは、事、平和については世界から注目され、「ヒロシマ」という世界的にも平和の発信拠点である都市の条例がその名に相応しいものなのか、そして憲法の原理原則に忠実に従っているのか、という「内容」について大きな問題があるからなのでした。

これらの問題提起をこのブログの記事からお読み頂くために、リストを作っておきました。

 

2月16日 問題だらけの平和推進条例

2月17日 広島市議会議長に意見・要望書を提出

2月21日 広島市の平和推進条例は世界の期待に応える義務がある

3月11日 国内他都市の条例と比較しても問題あり

3月16日 条例案は憲法や被爆者の心も無視

4月18日 政策立案検討会議傍聴記―その1

4月19日 政策立案検討会議傍聴記―その2

6月2日 市民の声が無視された「広島市平和推進条例」(案)の検討

6月14日 「『広島市平和の推進に関する条例(仮称)』の慎重審議を求める要望書」を提出

 

今回は、この議会案の「内容」ではなく、これまでの検討の「手続き」が、民主主義の原則を逸脱していること、また核兵器廃絶のためにゆっくりとではあっても前進してきた世界の歴史に照らすと、この歴史を蔑ろにすることになる、という二点を指摘しておきます。

《「全会一致」は民主主義の否定》

まず、民主主義の大原則は「多数決」です。より多くの人の考えで物事を決めて行こうという原則です。念のために、100人が参加して、何かを決定することを想定して、何人が賛成すればどのような結論に至るのかを表にしてまとめておきましょう。

普通の場合の多数決決定

賛成者数

反対者数

多数決の場合の結果

100

0

賛成

99

1

賛成

9851

249

賛成

50

50

未確定

490

51100

反対

 

つまり、賛成が51人以上なら、結果は賛成で、50人の場合は、例えば議長に一票を投じて貰って決めるといった対応をしないと決まりません。賛成が49人以下の場合は、否決、つまり反対派が勝ちます。

次に、「全会一致」という決定の仕方を見てみましょう。別の言い方をすると、どの人にも「拒否権」を与えるということなのですが、しばしば見落とされている重要な点を指摘したいと思います。そのために、100人の会議で、多数決の場合と全会一致の場合、何人が賛成すると結果はどうなるのかを表にして比べてみましょう。(クリックすると表が大きくなります)

100人の会議で、多数決と「全会一致」とは何が違うのか

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まず、ケース⑤を見て下さい。多数決でも、全会一致でも、「反対派」が多数であれば反対派の意見が通りますので、どちらの決定方法でも「反対派」、今の場合は「少数派」の権利は守られています。

対して、「賛成派」、今の場合は「多数派」の声はどう変るのでしょうか。その違いを色でて示しておきました。

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「賛成」が51から99の場合、その「多数派」としての声は最終決定には全く反映されなくなるのです。つまり、「多数決」という民主主義の大原則が否定されることになるのです。

つまり、100人という集団の中で、多数決による決定をする場合には尊重され権利が守られる「多数派」の意思は否定され、全会一致という非常にまれな場合以外は、「反対派」の意見が全て通るのが「全会一致」の特徴なのです。

「ヒロシマ」が象徴している「平和」は、民主主義抜きには実現不可能なものです。そして仮に民主主義を否定して世界平和が実現する道があったとしても、その道を選んではならないほど重要です。平和に至る道としては民主主義しかあり得ないことを、「平和」の象徴である「ヒロシマ」として示さなくてはなりません。そのためにも、「全会一致」方式で準備された条例を通してはいけないのです。

これを逆の立場から考えることも重要です。会議の参加者一人一人が「拒否権」を持つのですから、「個人の意見がそれだけ尊重されているのだ」と強弁することも可能だからです。しかし、民主主義の決定プロセスは、それを採用せずに多数決を採用しているのです。

ただ、考え得る限りの世の中の決定事項で、「拒否権」が正当性を持つ場合もあります。それは、「多数決で人を殺してはいけない」という原則です。少し単純化してしまうと、アメリカの裁判制度では、死刑を宣告する際に陪審員全員が賛成しないといけないことになっています。非可逆的な決定、しかも何よりも重い人の命を奪うという決定をする際に、一人でも反対をする人がいれば、それは不可能になるのです。

ですから、日本の裁判員制度のように、多数決で「死刑」の判決が下せるような制度は一考の余地があると思います。しかし、このような例外を除いて、通常の決定についてはやはり「多数決」が大原則ですし、より慎重に決定しなくてはならない場合には、極端に走って「全会一致」にするのではなく、例えば日本国憲法で採用されているような「3分の2」の賛成が必要というように、少しだけハードルを高めるという方法がとられてきたのです。

市議会の「政策立案検討会議」が、仮に慎重の上にも慎重に審議をしたいと願ったのであれば、極限的な「全会一致」ではなく、「3分の2」多数決を採用するといった可能性がありました。にもかかわらず、「全会一致」という決定をしたのですから、何故、通常の「多数決」ではダメなのか、あるいは「3分の2」多数決ではダメなのかを市民の納得が行くような説明をする必要があります。

《核廃絶への道は「全会一致」否定の道》

次に指摘しておきたいのは、核廃絶を目指して前進してきた世界の運動の歴史です。今年の1月1日からシリーズでお届けしてきましたが、画期的な成果として、1996年の国際司法裁判所による勧告的意見と2017年の核兵器禁止条約の採択、そして今年の発効を挙げておきましょう。(ここをクリックして頂くと、1月1日の記事に飛びます。)

続いて1月11日

1月21日

2月1日

2月6日

2月11日

このシリーズで強調したのは、①核廃絶が進まないのは、核保有国・各依存国が「拒否権」を行使して、つまり「全会一致」という制度に頼って、核廃絶を拒否してきたからであること。②それを乗り越えて、国際司法裁判所の勧告的意見や核兵器禁止条約が実現したのは、国連総会やWHOの総会、OEWGといった多数決が生きている場を選んで、多数決の力によっての決定ができたという事実。でした。

広島市も平和市長(首長)会議の会長としてこのプロセスを先導してきたのですから、そして、世界の都市だけではなくNGOも世界の国々も注目しているのですから、自らの行動の大原則を否定するような仕方で条例を作ることは、自らの首を絞めるに等しいことを肝に銘ずるべきなのではないでしょうか。

 [2021/6/16 イライザ]

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2021年6月15日 (火)

6月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

9日に休みを取って農園に行き、12日の土曜日は午後に新型コロナワクチン接種を受けたので農作業はお休み。13日は一人で午後から農園の見回りと軽作業を行う。3段ある農園の畑の草刈りと防草シートを敷く作業が終わる。あとは里山の2か所のブルーベリーの剪定が残るのみ。といったところが週末農業の進み具合。

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6月9日(水)。

①.3段あるブルーベリー畑の真ん中の草刈り前の様子。夕方までかかってこの畑の草を刈り、11日の金曜日に妻と友人2人が来園して刈った後に防草シートを敷いて頂く。感謝。

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②.里山のブルーベリー園の剪定が続く。

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③.作業の合間に早生のブルーベリーを摘み取り杭にぶら下げる。毎朝食べるヨーグルトに入れてぽりぽりの食感が楽しめるシーズン到来。

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6月13日(日)。

①.この日は一人作業。農園の近くの麦畑。

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②.もうそろそろ刈り取りかも。

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③.先週防鳥ネットを張ったが、張ったままで帰ったのでこの日は穴の開いたところの補修を行う。

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④.ネットの補修が終わった4時過ぎから雨。

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⑤.庭のショウブにも、

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⑥.ドクダミ草にも

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⑦.カエルにも雨が落ち雨だれが落ちる。「雨が空から降れば/オモイデは地面にしみこむ/雨がシトシト降れば/オモイデはシトシトにじむ/ ・・・ しょうがない/雨の日はしょうがない」(「雨が空から降れば」作詞/別役実 作曲/小室等/歌小室等 から)。早じまいで農園を後にした。

 

2021年6月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年6月14日 (月)

広島市議会議長に「『広島市平和の推進に関する条例(仮称)』の慎重審議を求める要望書」を提出

広島県原水禁は今日(14日)午前11時、山田春男広島市議会議長に「『広島市平和の推進に関する条例(仮称)』の慎重審議を求める要望書」を提出します。

「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」に対する市民意見を協議した市議会政策立案検討会議の様子は、このブログでも4月19日と6月2日の2回にわたって紹介しました。

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広島市議会公式ホームページ「山田春男(議長)プルフィール」より

無修正のまま議長に報告された素案が、6月15日から開会される6月議会で成立するとの報道もあり、広島県原水禁も緊急に以下の要望書を提出することにしました。


「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」の慎重審議を求める要望書

 広島市民の生活の安心、平和行政の推進のため、ご尽力されていますことに、敬意を表します。

 マスコミ報道によれば、広島市議会は、6月定例議会において先に市民意見を公募された「広島平和の推進に関する条例(仮称)」を議決すると伝えられています。

 私たち広島県原水禁は、次のような理由から、6月議会での拙速な議決は行わず、改めて慎重に協議されることを強く求めます。

第1の理由は、貴重な市民意見が全く取り上げられなかったことです。

この意見公募に対し、1000件を超える意見が寄せられたと承知しています。私たち広島県原水禁も、去る2月15日に貴職に対し「「広島平和の推進に関する条例(仮称)素案」に対する要望書を提出し、素案の修正を求めてきました。

ところが、4月1日から始まったこの市民意見に対する「政策立案検討会議」での協議では、市民の意見によって素案が修正されることは、全くありませんでした。

市民の意見が取り入れられなかった原因は、政策立案検討会議が「素案の修正は、全員一致でなければならない」との原則を確認されていたからです。もちろん政策立案検討会議の運営方法をどうするかは、その構成メンバーで決められることを否定するものではありませんが、市民からの貴重は意見が、ただ全員一致でないからといて、全て取り上げられなかったことは、絶対に容認できません。

私たちも、4月1日からの全ての「政策立案検討会議」を傍聴してきました。確かに、一定の時間をとり、項目ごとに協議はされましたが、議論を聞いている限り、各委員の主張を述べるだけで、異なる意見を認めあいつつ妥協点を模索し、原案を修正することで「一つでも多くの市民の意見を取り入れよう」という姿勢が全く見えなかったことです。9人中8人が市民意見に賛成しながら、一人の委員の反対で市民意見が否定されるという場面を何度か見ることになりました。中でも、前文中に「核兵器禁止条約の発効」の文言を入れることが、否決されたときには、「これが広島市議会の議論なのか」とあぜんとしました。ここに、「全員一致がなければ修正しない」の問題点がはっきりしていると思います。

「平和の定義」の狭さとともに、これすら入れることのできない条例では、とても広島の「平和条例」には、値しないといえます。

第2は、憲法違反との疑いが払しょくされていないことです。

私たち広島県原水禁が申し入れた第5条、6条については、法律の専門家集団である広島弁護士会が、2月12日の会長声明で「市民の役割(第5条)に関する『本市の平和の推進に関する施策に協力するとともに,』との文言及び平和記念式典の実施(第6条第2項)に関する『市民の理解と協力の下に,厳粛の中で』との文言を改めるなどして,本条例案の制定によって,市民の表現の自由を制約しないよう求める。」として、憲法に保障された「表現の自由」を制約すると危惧し、修正を求める意見が出されていました。

しかし、「政策立案検討会議」のおいては、この弁護士会の会長声明について、深く論議されることはなく、「市民の表現の自由を制約しない」内容への修正は行われていません。

また第6条2項については、被爆者団体からも「『厳粛に』の文言は必要ない」との意見も出されていることは、充分斟酌されるべきです。

 終わりに、重ねて要望します。

本6月議会での拙速な「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」制定は行わず、改めて慎重に協議し、市民意見を取り入れ、市民の理解が得られる条例となるよう努力すべきです。

以上


今日の申し入れは、もちろん別々の文章ですが、広島県被団協の箕牧智之理事長代行と一緒に行いました。広島弁護士会からも、この問題に対し2月11日の会長声明が反映されていないとして、6月11日に改めて「広島市平和の推進に関する条例(仮称)素案」に関し,市民の意見を取り入れつつ慎重かつ十分な審議を求める会長声明 | 広島弁護士会 (hiroben.or.jp)」が出されています。

今後の広島市議会の対応を注視したいと思います。

いのちとうとし

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2021年6月13日 (日)

広島銀行慰霊碑

今年3月に、竣工した「ひろぎんホールディング本社ビル」(以下「広銀ビル」)の広島銀行本店が、営業開始して一カ月余りが過ぎました。

時々小雨がぱらつく昨日、買い物途中でこの「広銀ビル」の北側の道路を歩いていた気づいたことがあります。これまでも何度か、この道は通っていたのですが、見過ごしていました。

それは広銀ビルの北側に作られた緑地帯の中に設置されたモニュメントがあることです。樹木で整備された緑地帯の東側部分に据えられた被爆時の建物・芸備銀行本店の柱の頭部に取り付けられていたギリシャ風イオニア式の装飾が目に入りました。

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いつもの方向、道路を東側から西向きに進むと木に隠れていてちょっと気付きにくいのですが、昨日は反対方向から東向きに歩いていましたので、気づくことが出来たようです。

碑の右側には説明版があります。当時の写真とともに簡単な解説が書かれています。

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写真では見にくいのですが、当時この飾り石が使われていた位置が記されています。この写真からは、大きさが想像できないのですが、実物を見るとずいぶんと大きなものだったことがわかります。

広島市発行の「被爆50周年未来への記録 ヒロシマの被爆建物は語る」には、被爆当時の様子が次のように書かれています。「爆心地から250メートルで被爆した芸備銀行は、屋根が押し下げられ、窓枠や金具類もアメのように歪み、いたるところで発火した火災は8月10日まで続き、内部は灰燼に帰し、本店勤務者20人が犠牲となり、鎮火後に収容された遺体は、男女の区別もつかずなかば白骨化していたという。」

芸備銀行は、その後広島銀行と名をかえましたが、この建物は使われ続けました。5階建ての建物でした。しかし、1962年11月に解体されました。

この被爆柱頭と向き合う位置に、「広島銀行役職員物故者慰霊碑」があります。

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この慰霊碑は、広銀ビルが建て替えられる前はビルの屋上に設置されていました。そのため、事前連絡が必要といわれていましたので訪れたることがなく、私が目にしたのは、今回が初めてです。

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碑の横に設置された説明版には、「芸備銀行(広島原稿の前身)のうち、広島市内本支店には、役職員約450名が勤務していましたが、このうち144人が死亡、33人が重要を負い、生存した職員もほとんど負傷しました。店舗は、本店をはじめ8店が全焼し、3店が半焼しました。」と被爆時の被害の状況が書かれています。その後に、「被爆後から苦難の道を切り開いてきた」との歴史が書かれています。

最後は、次の文章で締めくくられています。「本慰霊碑は、原爆死没者をはじめ、創業以来の全物故役職員の御霊を慰め、その偉業をたたえるため、創業90周年となる1968(昭和43)年11月2日に建立されました。作・伊藤顕」

「原爆の碑」を紹介した本の中の多くが、「広島銀行慰霊碑」とだけ紹介していますが、この説明文を読むと、この慰霊碑は、原爆犠牲者だけでなく、これまでに亡くなられた全ての行員のみなさんの御霊を慰める碑として建立されたことがわかります。

台座の表面には「慰霊」、裏面には、「役員物故者のみたまここに鎮まる その偉業をたたえ景慕敬弔の誠を捧げる」と当時の頭取井藤勲雄さんが揮毫された文字が刻まれています。

ただ、現在の碑は、台座の周りだけでなく、すぐ後ろには木が植えられ、きれいに整備されていますので、裏面を見ることは難しいような気がします。私も、裏側は見ていません。

この碑の訪問記の一つに「2002年5月22日に再度訪れたら、ちゃんと案内出来る方が配置されており体験記なども含めた資料を頂けました。」と書かれているのを見つけました。今度この碑を訪れた時には、資料が今も配布されているのか、聞いてみようと思っています。

いのちとうとし

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2021年6月12日 (土)

国民投票法を改めて考える

昨日、参議院本会議において「憲法改正手続きに関する改正国民投票法」(以下「国民投票法」)が、採決され賛成多数で可決され、成立しました。しかし、何時部修正されたとはいえ、まだまだ問題が残る法律だということは、5月12日のブログ「改正されても問題が残る国民投票法: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で指摘した通りです。

今日は、そもそも「国民投票法」とは何かを考えたいと思います。この法律は、「憲法改正手続きに関する改正国民投票法」という法律名が示す通り、憲法改正に必要な国民投票法の手続きを定めたものだということは、改めて強調する事でないほど、周知の事実です。

ところが、国会の論議を見ていると、この当たり前のことが理解されているのだろうかと危惧せざるを得ないのです。

まずはっきりさせておきたいことは、「憲法改正」ができるのは誰かということです。いうもでもないことですが、どれだけ多くの国会議員(憲法上は、衆議院も参議院も議員の三分の二以上が必要)が、「憲法改正案」に賛成したとしても憲法を改正することはできません。国会議員にできることは「憲法改正案を発議する」ことしかできないのです。重ねて言いますが、国会議員に許されているのは「憲法改正案を発議する」ことだけです。

法律を作る手続きとは全く違い、「憲法改正」を決めることが出来るのは、有権者だということを忘れてはいけません。

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参議院本会議場

最近行われた学習会で、「なんでこんな欠陥だらけの国民投票法が、当時の民主党も一緒になって賛成し、成立したのですか」との問いに対する講師の答えはこうです。「当時の民主党は、『環境権などを憲法に加えたい』との考えがあり、それを実現するため、国民投票法の成立を急いだのではないかと思う」。

私も、当時の民主党の国会対応には、そうした思惑が強くあったことは想像していましたが、その時から強い疑問を持っていました。講師の答えを聞いながら、そのことを思い出しました。

疑問を持った理由の一つは、今までにも指摘してきたことですし、今でも問題になっているように欠陥だらけの法律の成立をなぜそんなに急いだのかということです。

もし、仮に私や講師が想像しているとおりの理由で、当時の民主党が国会対応をしていたとすれば、「党利党略」によって成立を急いだといわれても仕方ないことです。私が疑問だ、大問題だと考えるのは、国の基本法を変える憲法改正が、こうした党利党略が優先されて、実施されてはならないと考えているからです。決して憲法改正に反対だから言っていることではありません。

もちろん、私は民主党だけを責めるつもりはありません。当時の国会で多数を占めていたのは、自民党であり、その総裁は安倍晋三だったのですから、採決を急がせたのは自民党の改憲勢力であったことは間違いない事実として、忘れてはなりません。

元に戻りますが、憲法を改正できるのは、国民だけです。

そして国の最高法規である憲法を改正するための手続き法である「国民投票法」は、主権者である国民が納得し、瑕疵のない手続きが定められることは、ごくごく当たり前のことです。

しかし、私には、この基本ともいえる考え方が、最近の「国民投票法改正」を巡る論議の中では、後景に押しやられているように思えて仕方がありません。こう思うのは、私だけでしょうか。

ですから、憲法条文の改正論議を進める事よりも先にやるべきことは、欠陥法である「国民投票法」がきちんとした内容となるよう改正させることです。その法律改正の権限を持っているのは、今度は国会議員だけです。国会議員の責任は重いといわざるを得ません。

もちろん、改憲を進めようとする勢力によって「国民投票法が改正されたのだから」として、強引に憲法改正論議に進めようとする危険性があることを私も十分承知していますし、多くの人が危惧していることです。

しかし、だからといって「国民投票法」の改正は進める必要がないということにはならないというのが、私の考えです。

いのちとうとし

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2021年6月11日 (金)

騙されてもまだ信じ続けるのですか? ――専門家としての責任とは――

騙されてもまだ信じ続けるのですか?

――専門家としての責任とは――

 

前回は、IOCの関係者による、日本という独立国家の主権侵害について異議を唱えました。菅総理がG7首脳会議で主張すべきなのは、独立国としての主権の神聖さです。

次に、「このようなパンデミックという状況でオリンピックを開くなどということは、普通はあり得ない」という趣旨の尾身発言を取り上げました。田村厚労相の「自主的研究」が、時代錯誤であることも指摘しました。

でもそれだけでは十分だとは言えません。マスコミは、「真理・科学を守る尾身会長」のようなイメージで尾身氏を持ち上げ、科学の側に立つマスコミという雰囲気づくりに走っていますが、それも眉唾です。

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首相官邸ホームページ, CC BY 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0>, via Wikimedia Commons

ここでは、「専門家」という権威の下、私たち素人を欺いてきた人たち、仮に「欺く」という意図はなかったにしろ、多くの素人たちに誤った印象を与え、結果的に世論操作という重大な政治的役割を果した人たちを俎上に載せます。もちろん、危険を冒して、しかも命を削って現場で頑張って下さっている医療関係者、その他の皆さんには感謝の気持で一杯です。

《「全国一斉休校」の正当化》

マスコミではそれほど大きく取り上げられなかったのですが、「専門家」が責任放棄をした例として重要なのは、昨年3月2日に発表された、「専門家会議による見解」です。

その中で、「専門家」たちは、2月27日に突然、安倍総理が宣言し、29日には記者会見で説明した「全国一斉休校」に科学的根拠があることを、明示的には言っていませんが、論理的にはその結論になってしまうという形で、保証しているのです。

詳しい内容は、昨年のこのブログの4月16日の記述を中心に、数回にわたる説明をお読み下さい。簡単に要約しておくと次のような趣旨なのです。

  • この一両日中に北海道のデータも含めて分ったこととして、若者が感染しても症状が軽いため街中や遠隔地に旅行することで、中高年層に感染を広めている。
  • そして、見解の最後に「10代、20代、30代の皆さんへ」と特に、10代をその中に入れて、次のような強いアピールをしているのです。

 

6.全国の若者の皆さんへのお願い

10代、20代、30代の皆さん。

若者世代は、新型コロナウイルス感染による重症化リスクは低いです。でも、このウイルスの特徴のせいで、こうした症状の軽い人が、重症化するリスクの高い人に感染を広めてしまう可能性があります。皆さんが、人が集まる風通しが悪い場所を避けるだけで、多くの人々の重症化を食い止め、命を救えます。

③ つまり、全国一斉休校をして、10代の若者が人の多く集まるところに行かなければ中高年への感染や重症化を食い止められるという意味なのです。

④ しかし、この時点までのデータでは、特にクラスターの発生を見ても10代の若者が感染したという事実も、彼らが元になってクラスターが生じたという事実はありませんでした。しかも、クラスターの発生場所や施設等の機能を見ても、10代の若者が利用したり行ったりすることはほとんどあり得ないものばかりでした。

④ そしてそれまでに公表されていたWHOの報告では、10代の子どもたちの感染は家庭内感染が多く、それも大人から子どもへの感染であることが示されていた事実も無視しての結論だったのです。

このように、科学的・論理的な筋道から逸れてまで、安部総理大臣の全国一斉休校には「科学的」根拠があるかのような「見解」を示すことは、「専門家」としての責任を放棄したことになるのではないでしょうか。

《「37.5度以上の発熱が4日続いたら相談して欲しい」》

厚労省は昨年2月17日に、コロナに感染しているかどうかについて、PCR検査を受けられるかどうかの基準として、「37.5度以上の発熱が4日以上続いた場合」(高齢者や妊婦、基礎疾患のある人については2日)という「相談・受診の目安」を示しました。マスコミでも広く報道され、現場で相談や受診を取り仕切る保健所でも、4日経過しなければPCR検査を受けさせない、という徹底した運用が行われてきました。

しかし、4月22日の記者会見で、専門家会議のメンバーである釜萢敏・日本医師会常任理事は、「普段は診察を受けないような人でも、4日間経過を見て症状が続くようなら相談してほしいという趣旨だ」に相当する発言をしています。公的機関や医療機関が相談に応ずる上での最低必要条件として、4日間症状が続かなくてはダメだ、3日ではダメなのだという運用をし、それをそのまま受け止めてきた私たちが、「誤解」していたのだと言わんばかりの説明なのですが、でも「4日間」は変っていなかったのです。

とは言え、重症化の危険性のある人については、「2日間経過を見て」という条件が削除され、症状が現れたらすぐというように改められましたので、この点は評価できるのかもしれません。

しかし、昨年3月29日に亡くなられた志村けんさん、そして4月23日に亡くなられた岡江久美子さんのお二人とも、まず症状が出て、その後、自宅で様子を見ている2、3日のうちに容体が急変し、搬送されて病院で治療を受け、その後のPCR検査でコロナの陽性が分るという順序なのです。

お二人とも、高齢者ですので、コロナの可能性のある症状が出た段階でPCR検査を受けて下さい、という政府の方針があれば、あるいは検査を受けたい人は誰でも検査をうけられるという方針が採用されていれば、危機的状況になる前に、あるいはそれが避けられなかったのであれば、何とか危機を脱することができた可能性もあったのではないでしょうか。

そして、「37.5度以上の発熱が4日続いたら相談して欲しい」という方針は、専門家がその気になれば撤廃できたはずなのです。

国民の命を最優先するのが政治の役割であるのなら、また、感染の危険性を「検査」という手段で判定して、適切な医療を提供するのが「専門家」の役割であるのなら、それぞれの役割を果さなかった責任を問われても当然ではないでしょうか。

ここまで書いてきて気付いたことは、「専門家」という権威をまとって、恐らくは善意で発言してきた結果として、私たち素人の期待を裏切った人たちにも責任があることを論じつつ、その背景には、「専門家」、特に医療の専門家には私たち一般的庶民のレベルを超えた役割を担い果してほしいという期待、悪く言えば甘えがあることです。さらに、それが社会一般に広く浸透している価値観だとすると、その一部である「専門家」の側にもその期待に応える責任も生じているということです。

[2021/6/11 イライザ]

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2021年6月10日 (木)

山口県知事さん、海面占用を許可しないでください

 前回の私が担当したブログで、5月20日に中国電力が上関原発の予定海域のボーリング調査をするために、山口県知事に対しこの海域の占有許可(せんゆうきょか)を申請したと書きました。

分かりやすくいえば、海を埋め立てなければ建設が出来ない上関原発のために、その前段として、海底の地層のボーリング調査を行って、活断層の有無を調べるために海上作業を行いたいから、許可をしてほしいというものです。

山口県では、条例によってこの占有を許可するか否かの権限を県知事が持っています。その判断をする最大の基準は「なんのために占有したいのか」ということになります。当然中電としては上関原発を建てるためとなるのです。

村岡嗣政(むらおか つぐまさ)山口県知事は、申請が条例に照らして問題が無いからと言って、たぶん許可するでしょう。ここまで長々と説明をしましたが、そもそも新設である上関原発は国も認めていないのです。それなのに認めるというのは、条例違反だと思います。

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中電はこれまでの2年間、2度に亘って同じ申請をしてきました。そしてこの海域に作業台船などを持ってきて、「ボーリング調査をやらせてください」と作業に反対する漁師さんたちに呼びかけました。しかし漁師さんたちの「ここはわしらが漁業をするところだ」との訴える声に阻まれ、調査ができない状態に追いやられました。そして海の荒れる冬の時期になるということで、調査を断念するということが繰り返えされました。

私はこの中電の行為は、上関原発を建てたいというポーズを「誰かのために」やっていると思えてなりませんでした。その「誰か」が誰なのかは分かりません。しかし漁師さんたちにとっては、許されないことです。

しかしこの度の申請では次の理由で、これまでの対応とは違うのではないかと心配しています。

それは一つには、現在経済産業省内の議論されている「第6次エネルギー基本計画」の中で、原発推進の大合唱が行われているからです。これまで新増設は言わなかったのに、「やれ~やれ~」の大合唱となっているのです。国内で唯一の新設といっていい上関原発は、そのやり玉になっているからです。二つには、この時期の申請ということです。これからの海は、台風が来ない限り1年中で一番、静かな時期を迎えるからです。

山口県知事は、これまで申請から1か月以内で許可をしていますから、たぶん6月20日前後に許可を出すでしょう。その期間は3か月としていますから9月までとなります。

中国電力にも抗議の意思を伝えるとともに、山口県知事に「県民のことを考えるのなら、許可しないでください」の声を届けることが大事だと思います。

山口県知事への連絡は

753-8501

     山口市滝町1-1山口県庁内 

     村岡嗣政(むらおか つぐまさ)山口県知事

  FAXを送る場合

     知事室FAX番号 083-933-2129

※多くの声が届くことが大切だと思います。自らの言葉で声を届けていただきたいと思います。

木原省治

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2021年6月 9日 (水)

なぜいま、被爆二世健康記録簿?

 毎年この時期に始まる被爆二世健康診断(以下「二世検診」)が、今年度は6月10日に開始され、来年の2月28日まで実施されます。

 今年の二世検診の案内には、初めて「被爆二世検診記録簿」が同封されました。この「被爆二世検診記録簿」が、発行されることが明らかになったのは、昨年8月6日に安倍総理が出席し広島市が主催して開催された「被爆者代表の要望を聞く会」での、加藤勝信厚生労働大臣(現官房長官)の発言です。

 広島市が作った議事録によれば、県労被爆連の代表として参加した被爆二世の中谷悦子さん(県原水禁の常任理事)の「(被爆二世)不安解消の一助として、自らの健康管理に役立てるものとして健康管理票を発行してほしい」との要望を受け、加藤大臣が「国としても、被爆二世の方々が、検診の結果を自身の健康管理に効果的に活用していただくことは重要なので、小冊子のひな型を自治体に示す中で、標準化するなどの取り組みを検討していきたい」と答えています。この答弁によって、今年から「被爆二世健康記録簿」が、発行されることになりました。

 この「被爆二世健康記録簿」作成の目的について、厚労省は2020年12月17日の事務連絡で次のように記載しています。「被爆二世の 結果等を記録し、自身の健康管理に役立てること」と。

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 「被爆二世健康記録簿」発行されることに、私も反対しているわけではありません。しかし、過去の経緯を知るものとしては、どうしても「なぜいま」という疑問が湧くのです。

昨年12月の厚労省の通達は、「なぜ発行することになったのか」の経緯は書かれていませんが、加藤厚労大臣(当時)は、答弁の中で、その理由を「検診の結果を自身の健康管理に効果的に活用していただくことは重要」だといっていますので、なおさら「なぜいま」といいたいのです。

国の施策による「被爆二世検診」は、1979年にスタートしました。その後、被爆二世団体は、国への要望の中で、「ガン検診の追加」と共に「『被爆二世健康記録簿』(名称は、様々云われてきたが)の発行」を、要望し続けてきました。

私も、国会議員だった2000年から3年間、毎年行われる被爆二世団体の厚労省交渉に一緒に参加してきました。当時多くの要望事項の中でも、「被爆二世健康記録簿の発行」が、一番の中心課題だったことを記憶しています。その後もこの要望は続いたと思います。ところが様々な理由をつけて、厚労省は、この要望に応えることはありませんでした。私が知る限りでも、すでに二〇年以上、無視され続けてきました。加藤厚労大臣が「重要」と認識するような要望であったにもかかわらずです。

今回の厚労省の通達を読んでも、「いまなぜ」という疑問は解明しませんので、厚労省に直接電話を掛けて聞いてみました。その答えは、次のような内容でした。「日本被団協からこれまでにも要望があったのですが、当初被爆者健康手帳と同じものを要望されていると思い、受け入れることが出来なかったのです。しかし、その後、その内容が『健康診断記録簿的なもの』ということがわかりましたので、今回発行することになりました。」

この答えを聞いた唖然としましたので問い返しました。「もともと被爆二世団体が要望していたのは、『記録簿』としての手帳だったんですよ。あなたが言われたことが理由なら、その時から実施できたはずでしょう?」。予想されたことですが、具体的な答えは返ってきませんでした。当然、私の疑問は、今も解明されていません。

理由を想像すると次のようなことではないかと思います。

長年の要望を今にして実施しようとすることになった大きな理由は、次のことではないかと思います。

2017年2月に「被爆二世に対する援護措置としては不十分な健康診断しかなされていない状況=立法不作為の状態が五歩状態にある」と訴え始まった「被爆二世裁判」です。「政府としても、やれることはやっている」ことを明らかにしておきたかったと思われます。

厚労省は、なぜ今年から政策を変えて「被爆二世健康記録簿」を発行することにしたのかの理由は絶対に明らかにしないと思いますが、裁判以外に、被爆二世を取り巻く状況で大きな変化はないのですから、そう考えるしかありません。

つまり、被爆二世問題も他の黒い雨や在外被爆者問題と同じように裁判でしたか解決するしかないということになりそうです。

ところで「被爆二世健康記録簿」を手にして、ちょっと気になったことがあります。この冊子の最初ページの「被爆二世記録簿について」には、「この冊子は、ご自身で記入してください。」と書かれています。さらにページを進むと、4回分の「健康診断結果」を記載するように「記録表」が出てきます。

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気になるというのは、二世検診が終わって自分のところに送られてきた「健康診断票」の内容を全部、自分の手で転記しなければならないことです。私が同席した時の厚労省での交渉を思い出します。被爆二世の人たちが「送られてきた『健康診断票』をそのままと綴じることが出来る形・サイズが良いです。連続して健康診断の記録を残すことが出来ますから」と言っていたことを思い出します。

今回配布される「被爆二世健康記録簿」のサイズは、A6版(105×148mm)ですから、「健康診断票」を綴ることは無理です。もし、被爆二世の人たちの声を聴いておれば、毎年毎年転記しなければならないような「記録簿」(ひな形は厚労省が提示)にはならなかったはずです。

もっと当事者に向き合ってほしいと強く思います。

いのちとうとし 

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2021年6月 8日 (火)

6月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

防鳥ネットを張る。農園の中に白いネットの一角が現れてぼつぼつ摘み取りの季節に入ったことをそれとなく周りに知らせる景色となる。娘にも手伝ってもらい3人がかりでネットを設置した。平日に何日か農園に行き作業し、5日の土曜日には管理しているため池の法面の草刈りを行う。拭きが生えていたので持ち帰って食卓に。

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6月1日(火)。

①.農園の家には蔵があるがその後ろの庭に毎年咲くのがタイザンボクの花。

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②.庭のグイビの実が赤く実る。とって食べる。良く熟しても渋みが取れない。

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③.3時の休憩をしていると、我が家然としてヘビが庭をうろつく。のそりのそりと花壇の茂みに入った。

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④.帰る前に里山のブルーベリー園の見回りをしていたらトンボがとまっているのを見たのでそーっと近づいて撮影。名前知らず。

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⑤.この日の主な作業は畑に防草シートを敷くこと。シートを敷くところは3段ある。一番下の畑がほぼ終了。鳶を片手に引っ張る作業なので帰ってしばらくして手首がうずく。

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6月3日(水)。田んぼの法面の刈った草の野焼きの様子。火の消えた後には黒焦げの跡が「やいと」をすえた後の皮ふのように見えてしまう。

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6月6日(日)。

①.午後半日かけて2か所に防鳥ネットを張る。里山と

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②.畑。どちらも6月から7月までに実る早生のブルーベリーを植えていて。ヒヨドリなどが食べ尽くすので防鳥ネットは欠かせない。

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③.ネットの中にブルーベリー2本の木に食べられるほどの青色になっていて顔がほころぶ。

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④.花壇の中にショウブが開花。農園のあるところの標高は約400mなのでアジサイの花はまだ早い。

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⑤.防草シートを敷きたいが草が伸びていて仕方なく一度草を刈りそののちに敷くしかない。ブルーベリーの剪定もまだ残っていて、梅雨の天気を気にしながらのちょっとせかせか気分が漂う。

2021年6月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年6月 7日 (月)

由緒ある観音寺―観音寺訪問記の3

最初にお詫びです。4日のブログで、観音寺でご案内していただいた方のお名前を「前住職の奥様木村時子さん」と紹介していましたが、私のまったくの感違いでした。正しくは、「木村信子さん」です。大変お世話になりながら、失礼なことをしました。心からお詫びし、訂正させていただきます。

「第4代平和の鐘」を見るために訪れた観音寺ですが、このお寺は400年以上の寺歴のある由緒あるお寺ですので、木村信子さんに案内していただき、境内を散策しました。

境内の様子を紹介する前に、観音寺のホームページに書かれた「縁起」を紹介します。

「観音寺がある元宇品は昔、離島であり、宇品島と呼ばれていました。

その昔、毛利公の武夫であった坂本宗味秀晴公が宇品島の巡守となって、お寺を中興開基したと伝わっております。坂本秀晴公は、お寺に十一面観世音菩薩を安置し、深甚の礼拝を続けられていました。

後の元和四年(1618年)浅野氏入封の際に一緒に来られた桂雲禅師が臨済宗のお寺として中興され、開山となりました。」

この「縁起」には、「毛利公の武夫であった坂本宗味秀晴公が中興開基した」と記載されていますので、毛利輝元が広島城を建立した1589年以前に、お寺は開山されていたことになります。

さらに「縁起」には、小早川隆景などが宮島参詣時、この島に寄って祈願をしたことも記されています。

ここを訪問する前に調べていて知ったことですが、このお寺の境内には、樹齢400年といわれる「広島椿」があります。写真の左端、濃い緑の葉が茂っているのが「広島椿」です。

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開花時には、マスコミで報道されるほど有名な椿です。もちろん時季外れの今は、一輪も咲いていません。ホームページにあった開花時の写真です。

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「広島椿」の歴史は、江戸徳川幕府の第2代将軍・秀忠が、「花の殿様」と呼ばれ、各大名がこぞって珍しいツバキを献上したそうですが、その中に「広島椿」の品種があったようです。その後、1619年に広島藩主となった浅野長晟(ながあきら)が、正室(徳川家康の三女)振姫の形見として植栽しました。この一本の古木には、薄桃や赤、白など多色で、まだらな色が入った花など数種類の花が咲くそうです。

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例年3月のお彼岸のころ、「広島椿まつり」が開催されるようですので、その時期に改めて訪れたい場所です。

この椿の木のすぐ南側に鐘楼があります。観音寺では、戦時中の金属拠出から半鐘は免れたのですが、梵鐘は他の寺と同じく拠出されましたので、長く不在となっていたようです。戦後しばらくたって新たに造られた梵鐘が、吊るされ時を告げるようになってそうです。

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作られた当時は、朝と夕方に時を知らせる鐘として撞かれていたようですが、すぐそばにマンションが建設さるなど近隣に住宅が密集したため、現在は朝は中止され夕方午後6時のみ撞かれています。

写真ではちょっと見えにくいのですが、鐘楼のすぐ裏側に古い井戸があります。もちろん今は使われていませんが、それ以前はこの井戸水が飲み水として使われたそうです。

本堂の縁側に腰かけて信子さんのお話を聞いていた時「ずいぶん天井が低いお寺の本堂だな」と感じていたのですが、次の場所に移動してその理由を知りました。

鐘楼を見終えて、広島椿のわきの石段を登り一段高い場所に移動しました。そこは広場になっています。広場の左手隅に、小さな荒神堂が建っていますが、その建物の一部に燃えた跡のある柱が使われています。

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その焼けた木を示しながら、信子さんから意外な話を聞きました。「実は、この広場の位置に、もともと本堂があったのです。20数年前に本堂付近から火の手が上がり、本堂は全焼してしまいました。幸い一段下にあった庫裡(寺院の僧侶の居住する場所)は焼失を免れましたので、今はそこが本堂になっているのです。もともと火の気のないところで、焼け跡に油のにおいがしましたので、放火が疑われるのですが、犯人などはっきりしたことは分からないままです。」

今の本堂のそんな歴史は、信子さんに案内していただかなければ知ることのなかったことです。これで本堂を見た時感じた違和感の原因がはっきりしました。当時の新聞記事を調べてみると、火災が発生したのは1996年8月29日午前3時ころで、本堂は全焼、庫裏は外壁の一部が焼けただけで残ったようです。「第4代平和の鐘」は、火災当時、今と同じように庫裡の軒下に吊るされていたため、焼失は免れることが出来たようです。

散策が続きます。元本堂があった広場の奥は、墓地になっています。これも信子さんから教えていただいたのですぐに見つけることが出来たのですが、第27代横綱安芸の海さんの墓があります。

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安芸の海さんは、広島出身のただ一人の横綱です。手を合わせました。

その他に、広島椿の枝に隠れるような場所に宇品の海から引き揚げられた大きな石が大切に保存されています。教えていただかなければ見逃すところです。

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他に見落としたこと、忘れてしまったことがあるような気がしますが、印象に残ったことを記しました。2時間余りの訪問でしたが、有意義な時間となりました。これで今回の観音寺訪問記は終わりです。

いのちとうとし

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2021年6月 6日 (日)

言葉の重みも検査しよう ――物の重みは正確に測られています――

言葉の重みも検査しよう

――物の重みは正確に測られています――

 

6月初め、ワクチンの集団接種所に行くと、正面にこんな看板が出ていました。「はかり検査場」です。

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「ワクチン」と「はかり」とが結び付かず一瞬、戸惑いましたが、聞いてみると商取引や学校・病院等で使う秤(はかり)は、その正確さを定期的に検査することになっていて、ワクチン接種と同じ場所でその日、検査が行われているとのことでした。

物品の重さ、体重等を正確に測るための制度ができているのです。そのために、この場所には、検査に使う基準となる錘、つまりウエイトが準備されていました。

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物体の重みが大切にされているのは良いことなのですが、このところ (と言うより、かなり長期にわたって) 蔑ろにされている政治家の言葉の重み、官僚の言葉の空虚さ・軽さについ思いが走ってしまいました。

その中でもコロナ対策についての菅内閣の言葉が一つ一つ引っ掛かりますし、対応も大問題なのですが、コロナだけでなく、コロナとオリンピックを重ねて見ると、何らかの発言がある度に耳を疑いたくなります。発言者は総理大臣初め、官房長官、オリンピック担当大臣、組織委員会会長、小池知事等々、ニュースで取り上げられる人ほぼ全てです。それが一日に何回も繰り返されるのですから、今の日本の状況を表す言葉は、「世紀末」や「末世」「乱世」、あるいはそれ以上のものにならざるを得ないように思えます。その他にも、「正気の沙汰ではない」。「狂気」という言葉は使わない方が良いらしいのですが、敢えて使えば「狂気の沙汰」の方が、現状をハッキリ表現しているかもしれません。

それは日本国内に限らず、IOCのバッハ会長や、コーツ氏、パウンド氏等の発言として、もっと端的に状況を表しています。それらについては、海外のマスコミをはじめ、多くの皆さんが批判をしていますので、それで十分かも知れません。でも私なりの感想を書き連ねておかないと精神衛生上、良くありませんので、この場で何点か披露させて下さい。

一つは、「菅総理大臣が反対しても、ハルマゲドンでも起こらない限りオリンピックは開催される」という趣旨の発言です。論理的に詰めると、仮に日本の総理大臣が「開催しない」と言ってもオリンピックを日本で開くためには、選手や関係者が日本に入国しなくてはなりません。総理大臣が、オリンピック開催はダメだと言った場合、当然、これらの人たちは日本に入国できないことになるはずなのですが、それにもかかわらず、日本で開く、その前提として、選手や関係者が日本に入国できるという主張は何を意味するのでしょうか。

それが可能なのは、例えば、日本がIOCの植民地であり、日本国民には主権がなく、IOCが日本国民を支配している、というような場合です。これって、ただ単に菅総理大臣に対する侮辱であるだけでなく、日本国民の主権を否定する重大発言です。この点からの「大抗議」が、日本国内から起きていないのは何故なのでしょうか。マスコミも、「主権侵害」だという点はあまり追及していないようなのですが、それで良いのでしょうか。

バッハ会長の「犠牲を払わないと、オリンピックはできない」という発言も、「犠牲」= 「主権の放棄」ということになるのです。そこまで言われたら、日本という独立国家の代表である総理大臣としては、「主権を放棄することはできない」と宣言してオリンピックを中止するくらいのことをしないと、次に同じようなことが起きた場合にも何もできないことになるのではないでしょうか。

次に取り上げたいのは、6月2日の衆議院厚生委員会での尾身会長発言です。要約すると、「このようなパンデミックという状況でオリンピックを開くなどということは、普通はあり得ない」になります。

これに対する田村厚労大臣の言葉は「自主的な研究の成果の発表ということだと思う。そういう形で受け止めさせていただく」です。

問題なのは、「自主的な研究」です。およそ学問の世界での研究は、学者個人の意思による「自主研究」でなくてはならないのです。そうではなく、例えば宗教的権威に従って自らの価値観を捨てては、学問・科学は成り立ちません。ガリレオ・ガリレイは17世紀の初頭に、ローマ法王庁の権威に逆らってまで、「自主研究」の成果が重要だと主張したのです。

その後の世界は、ガリレオ・ガリレイの立場に立つ科学を尊重してきたはずなのですが、現在の日本政府の科学観が田村大臣の言葉通りであるとすると、17世紀にまで後戻りしてしまったことになります。

それほど恥かしい言動が後世に残ることを承知の上で、何故オリンピックを強行したいのか、菅政権、そしてオリンピック組織委員会等、関係者には納得の行く説明をする責任があります。

しかし、同時に「専門家」の責任も問わなくてはなりません。昨年の4月11日から始めて、このブログで複数回にわたって指摘したように、昨年の安倍総理による全国一斉休校について、後出しではありますが、その正当性を「専門家」として認めたのですから。

この点については次回、より詳しく論じます。

 [2021/6/6 イライザ]

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2021年6月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その25) 「入管法」改正見送りをテコに 野党共同案による抜本改正を

「入管法」改正見送りをテコに 野党共同案による抜本改正を

3月7日、4月5日、4月7日と3回にわたり取り上げてきた「入管法」改正が見送られました。

本当に良かったと思います。改正案の強行採決を見送らせたのは、第一に在留ミャンマー人コミュニティーをはじめ多くの在留外国人やその支援者・団体の運動の成果だと思います。第二に、クーデター後3ヶ月余り、虐殺と弾圧を続けるミャンマー国軍に対する批判の高まり。第三に、野党共同案との比較を通して国際的な人権基準と大きく乖離した日本の入管制度と今回の改正案の問題点を多くの国民が知ることになったこと。第四に、国連人権委員会からの度重なる「入管法」の是正勧告や今回の「改正案」に対する懸念表明。第五に、政府のコロナ対策を評価しない人が65%を越し、国民の生命と暮らしを顧みずオリンピック・パラリンピック開催に固執する菅政権への批判の高まり。第六に、東京都議選挙や総選挙への影響を回避するための与党の党利党略に基づく判断だと思います。

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日経新聞

したがって、「良かった」けれど、決して「安心もホッ」ともできる状況にはありません。

第一に、「3回以上の難民申請の場合、母国に送還できる」などとんでもない改正を止めることができましたが、期限のない収監や異常とも言える低い難民認定、裁判所や第三者機関の関与無き入管業務など、国際基準に満たない入管制度は残ったままです。第二に、改正が見送られただけで、政府与党の考えが決して変わったのではないことです。それは、収監中に亡くなったスリランカ人女性の様子を映した監視カメラの映像の開示を頑なに拒否していることからも窺えます。

安倍・菅政権と強権・強硬姿勢を貫いてきた中で見送らせた力(情勢)を背景に、総選挙で立憲野党を勝利させなければならないと思います。

 

相次ぐ技能実習生からの深刻な相談

「コロナ禍」も一年余り続いていますが、技能実習生に関わる深刻な相談が増えています。

Aくんのケース  2021年2月中旬

ベトナム中部出身、男性・28歳。2018年9月に来日、広島市内の管理組合を通し県南部の機械部品加工で技能実習(就労)。残業を含め月15~20万円。日本人から殴る、蹴るの暴力を受ける。管理組合に相談したが「頑張って」と言われただけで改善しない。居たたまれず2019年12月に「逃亡(ボドイ)」し東京、埼玉を転々とした。ネットで知り合った「ボス」の紹介で昨年春広島にきた。広島市内から東広島市の会社に今年1月末まで通勤、手取り14万円ぐらい。「ボス」の関係で2月から仕事が無くなった。2020年10月に在留資格が切れた。できれば日本でずっと働きたいと思っていたが・・・・。

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両親と弟が暮らすベトナムに毎月10万円の仕送り。家は貧しく昨年の台風で大きな被害を受けて大変。

Aくんと直接面談し技能実習機構への相談や入管への出頭・在留資格申請などについて話し合い、幾度か連絡を取り合いました。しかし、「出頭するとベトナムに帰国させられる」「借金や仕送りがあるので帰国できない」「オーバースティは良くないと分かっているが仕方ない・・・・」。

相談を持ちかけられてほぼ2ヶ月、技能実習生の支援団体や幾人かの方々の力を借りながらサポートを試みましたが、最終的には「ごめんなさい」の言葉を残し音信不通になりました。

Bくんのケース 2021年4月中旬

広島の支援団体よりHVPFを知るという技能実習生の相談への対応依頼を受け、東広島駅で落ち合う。

私たちが2009年以来交流を続けているベトナム中部・クアンチ省出身、男性・23歳。農業を営んでいる両

親と妹の4人家族。2018年5月に来日、茨城県の大手宅建会社の下請けに技能実習生として就労。送出し

機関への100万円はすべて借金。仕事が少ないうえ天候にも左右され、月に半分ほどしか働けない。

6~7万5千円の給料からアパート代などを引かれ、生活費を差し引くとほとんど残らない。借金返済どこ

ろか生活費もギリギリな状況で、2019年11月に「逃げた」。以降、色んなところで働いてきたがコロナで仕事が無くなった。在留資格は昨年(2020年)切れた。ベトナムに帰ってやり直し、また日本に来て働きたいが帰国するお金も無い。

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この写真は文中と関係ありません

Bくんとの面談で、「入管に出頭しできれば就労可能な在留資格を申請し、帰国費用を稼ぎベトナムに帰る」との対応になりました。その後、広島の支援団体のサポートで入管での在留資格(就労可能な特定活動)が取得でき、知人を頼って北信越の農家で帰国まで働くことになりました。

 以上が、この2ヶ月間にオーバースティ(不法滞在)実習生からの相談案件のあらましです。1件は残念ながら解決に導くことができませんでしたが、いずれも、真面目に働き、仕送りで家族を助け、実習期間終了後は引き続き日本で働き、あるいは帰国し日本語を生かした仕事をすることを夢見ていた好青年です。

 このような好青年が夢を打ち砕かれ、不法滞在(オーバースティ)へと追い込まれる背景には、外国人労働者を労働力の調整弁として受け入れてきた政策(技能実習制度)があります。

今回の「入管法」改正問題と技能実習生からの相談を通して、改めて「入管法」と「技能実習制度」を人権が尊重された制度へと抜本的に見直すことが必要だと痛感しました。

(2021年6月5日、あかたつ)

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2021年6月 4日 (金)

第4代平和の鐘―観音寺訪問記の2

今日は、本題の南区元宇品にある観音寺にある「第4代平和の鐘」にまつわる話です。

わが家から観音寺までは、直線で4.4kmの距離です。好天に恵まれ、自転車で出かけました。約25分で、到着。観音寺は、標高約40mの高台にありますので、下に自転車を置いて、急な石段93段を一気にのぼります。

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少し息を切らして境内につくと、東側に宇品の港が見渡せます。

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本堂に目を移すと、玄関左横の軒下に吊るされた「「第4代平和の鐘」が、すぐ目に入ります。

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平和の鐘の右下、「51番霊場」と書かれた銘板の下に、この鐘が「第4代平和の鐘」であることを記した銘鈑が取り付けられています。

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この銘板は、「響け!平和の鐘実行委員会」の高東さんたちが、取り付けられたものです。その銘鈑の横には、だれでも持ち帰ることのできる簡単な説明文が置かれています。これも高東さんたちが準備されたそうです。

前日に電話で連絡をしていましたので、前ご住職の奥さん木村信子さんが、資料を用意していろいろとお話を聞かせてくださいました。

私が一番知りたかったのは、「この鐘がなぜ『平和の鐘』に選ばれたのか」でしたので、一番にそのことをお訊ねしました。「はっきりとした理由はわかりませんが、こういう資料があります」と示していただいたのが、2011年に発行された広島市広報誌「ひろしま市民と市政」です(切り抜かれていたため、何月の発行かは不明)。そこには、息子の明裕さん(現住職)の話として「祖父は平和への祈りの気持ちで貸したのでしょう」ということだけしか記載されていませんので、選ばれた理由ははっきりさせることはできませんでした。

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ここ元宇品の観音寺は、爆心地からの距離は5,kmです。原爆によって屋根の一部が壊れたようですが、大きな被害はなったようです。「平和の鐘」を調べていて分かったことですが、歴代5代の平和の鐘の中で、唯一直接被爆を体験し、被爆の惨状を目の当たりにしたのは、観音寺の鐘だけのようです。というのも、初代は海軍からの払い下げ、2代は焼け跡に残った金属で鋳造されてはいますが新しく鋳造、3代は戦争が終わり住職が軍隊から復員後建立されたお寺の鐘、そして現在使われている5代は1967年に鋳造されているからです。

観音寺でも、他のお寺と同じように梵鐘は戦時中金属拠出されましたが、この半鐘は金属拠出を免れ、ずっとお寺に吊り下げられていましたので、原爆投下を体験することになったのです。その意味で貴重な「平和の鐘」ということが出来ます。そうしたこともこの鐘が「平和の鐘」に選ばれた理由の一つかなと勝手な想像しています。

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話を聞いている時、「平和の鐘」の後の建物内に木槌がぶら下げられているのが目に入りましたので、「この鐘は、いつも鳴らしておられるのですか?」と訊ねました。「いいえ、この鐘は特別の時しか鳴らすことはありません。同宗派(臨済宗妙心寺派)のご住職方に参加していただき、お寺としての行事(開山○○周年とかある住職の何回忌など)を執行する時、一番偉い導師が会場に入られることを参列者に知らせるための合図の鐘として鳴らすだけです。ですから私も一度ぐらいしか鐘の音を聞いた覚えがありません。どんな音だったかよく覚えていないのです」とのことです。

「第4代平和の鐘」のこの半鐘は、今も現役として活躍してはいるのですが、実際に鳴らされることは、今のところ予定がないようです。

平和記念式典での2回の打鍾の音は、貴重なものと言えます。当時のニュース映像の中に、「平和の鐘」を撞く場面が残っておれば、貴重な鐘の音ということになります。どこかのテレビ局に映像が残っておれば、ぜひ一度聞いてみたいと思います。でもやはり無理ですよね。

この後さらに、木村信子さんから「第4代平和の鐘」以外の観音寺にまつわるお話を沢山聞くことが出来ましたので、つづきは7日のブログで紹介します。

いのちとうとし

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2021年6月 3日 (木)

平和の鐘の歴史―観音寺訪問記の1

梅雨の中休みの一日、「第4代平和の鐘」を見るため南区元宇品の観音寺を訪ねました。

訪問しようと思い立ったのは、「響け!平和の鐘実行委員会」の高東博視代表から送っていただいた資料がきっかけです。

平和の鐘の歴史

「第4代平和の鐘」と観音寺を紹介する前に、高東さんから送っていただいた資料を基に、平和の鐘の歴史を簡単にたどっておきたいと思います。

初代平和の鐘は、軍事供出され旧海軍が保有していた鐘の払い下げを受け所有していた建設業者から借り受け、1947年の第1回平和祭と翌年の2回使用されました。その鐘は第1回平和祭の時、慈仙寺鼻(平和公園の一番北)に作られた「平和の塔」(高さ約10メートル)に吊るされていましたが、1951年3月に盗難に遭い現在は行方不明となっています。中国新聞の記事によれば、重さは、37.5キロあったそうですが、朝鮮戦争の最中、金属が高騰していたため盗難に遭ったとされています。

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第1回平和祭:真ん中に平和の塔

第2代は、すでにこのブログで紹介しましたが、1949年に一度だけ平和公園以外で開催された第3回平和祭でのみ使用され、旧市民球場跡に鐘楼と共に現存しています。

第3代は、広島市西区中広町の光元寺の半鐘を借りて、1952年から1964年まで13年間使用されました。この鐘の表面には「世界平和伝声之鐘」の文字が刻まれています。「なぜこの寺の鐘が選ばれたのか?」は、中国新聞の記事(1995年12月16日)に書かれています。「檀家に市役所の人がおり、『8月6日どこのお寺も法要のため、貸してもらえない』と頼まれ貸すことになった」と。同じ記事には、「光元寺が1965年に火災に遭った」ことが記載されていますので、1965年からこの鐘が使用されなくなったのは、この火災が原因だったと思われます。しかし、使用されなくなってからも光元寺で寺宝として大切に保管されていましたので、2012年に「平和を願った鳴らされた鐘を後世に残してほしい」と広島市に寄贈されました。現在は平和記念資料館が所有していますが、収蔵庫に保管されていますので簡単に見ることはできません。

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第3代平和の鐘:「響け!平和の鐘実行委員会」資料より

第4代は、南区元宇品の観音寺で今も使用されている半鐘です。1965年から66年までの2年間使用されました。この鐘については、次回詳しく紹介します。

第5代が、1967年以来現在まで毎年使用されている鐘で、この鐘も平和記念資料館で保管されています。平和記念資料館の東館リニューアルまでは、1回フロアーにありましたが、現在はこれも収蔵庫で保管されていますので、8月6日の記念式典でしか見ることはできません。

高東さんから送られてきた資料を基に、「平和の鐘」の歴史を書きながら、奇妙なことに気づきました。第2代と第3代の間にある2年間空白です。

1950年は、理由がはっきりしています。朝鮮戦争が勃発したため、占領軍の命令により「平和祭」が中止になっていますので、当然鐘が使用されることもありませんでした。

しかし、1951年は「平和祭」が復活したにもかかわらず、なぜか「平和の鐘」の歴史がないのです。

とここまで書いて、改めて「響け!平和の鐘実行委員会」のホームページを開いてみると、この空白の2年についても記述がありました。

「1950年 式典会場としては1949年と同じ中央公園(護国神社前)を予定。ただし、朝鮮戦争のため式典は中止。ただ、『平和の鐘』だけは鳴らされた。」

となると、どの鐘が鳴らされたのかが、次の疑問として湧いてきます。予定された式典会場は、1949年「第2代平和の鐘」が鳴らされた場所と同じですから、この鐘が鳴らされたと想像するのが妥当だと思います。ただ、式典は中止となっており、平和公園内の「平和の塔」にも「初代の鐘」が吊るされていますので、ちょっと気になります。今のところ、そのことを明確に記載した資料を見つけることが出来ていません。

次は、1951年です。朝鮮戦争は継続していましたが、「平和公園戦災供養塔前で、平和式典を再開するが、初代『平和の鐘』が盗難にあったため、平和の鐘は不使用。鐘の代わりにサイレンが鳴らされた」と書かれています。

はっきりしました。「初代平和の鐘」が、同年3月に盗難に遭い紛失したにもかかわらず、当時の金属事情から代わりの鐘を見つけることが出来ず、サイレンを鳴らしたということです。

今日は、観音寺の「第4代平和の鐘」を紹介する予定で原稿を書き始めたのですが、「平和の鐘」の歴史の紹介が、ずいぶん長くなってしまいましたので、観音寺訪問記は、明日にします。

いのちとうとし

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2021年6月 2日 (水)

市民の声が無視された「広島市平和推進条例」(案)の検討

4月18日(広島市議会・政策立案検討会議傍聴記―その1 入れられなかった「核兵器禁止条約の発効」-広島市平和の推進に関する条例 : 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)と19日(広島市議会・政策立案検討会議傍聴記―その2 「原則」のため、次々と葬られる市民の意見 : 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))に紹介した「広島市議会・政策立案検討会議」は、あと1,2回開催されるようですが、昨日で前文とすべての条文に対する市民意見の検討は、一応終了しました。

市民意見の検討の会議は、計7回に開催されましたが、結局私が4月19日のブログで危惧「今回の検討状況を見る限り、残念ながら『原案が修正されることはほぼない』ことが予測できますが」した通り、市民の意見が取り上げられることは全くありませんでした。

修正されたのは、4月19日のブログでも紹介した「前文の第6段落の最初の文言『しかしながら、被爆75周年を迎え』という表現を『被爆75周年が過ぎ』に変更したことです。これは変更というより、時系列を考えれば、市民の声が無くても原案提示の時点で直しておくべきか所ですから、修正と言えるものではありません。しかし、この声に対しても、最初は反対意見があったことをぜひ紹介しておきます。」だけでした。

7回すべての検討会議を傍聴して改めて感じたことは、次のことです。

会議の運営をどう進めるのかは、その会議の構成メンバーで決めることですから「全会一致でなければ修正しない」ということも、一つの方法だと思います。しかし、市民意見を公募したのですから、寄せられた市民意見を大切にして、可能なものはできるだけ取り入れ、市民とともにより良い条例をつくるという姿勢が、基本的な考え方として、必要だったはずです。残念なことですが、この会議ではそうした姿勢を見ることはできませんでした。

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各委員が、自分の考え方を主張するだけに終始して、「意見が一致しないから修正しない」ということで市民の意見は切り捨てられてしまいました。当然のことですが、市民の意見を全て、又そのまま取り上げるべきだというつもりはありません。しかし、もし少しでも市民の声を取り上げようという姿勢があったなら、「こう言う文章ではどうだろうか」などの意見を出しあい、「全員が一致」するように努力するのが当然だと思いますが、そのような前向きの姿勢を見ることはなく、深まった議論に進展することはありませんでした。

その典型が、5月19日の行われた「第5条(市民の役割) 市民は、本市の平和推進に関する施策に協力するとともに、平和の推進に関する活動を主体的に行うよう努めるものとする」での結論です。この条文に対しては、「市民の協力義務を負わせることは、市民の思想・良心の自由や表現の自由を侵害することになるので削除すべきだ」などの意見が寄せられていました。広島県原水禁の申し入れの中でも強調した点です。この検討では、ある委員から「文章を『市民は、平和の推進に関する活動を行うよう努めるようにする』としたらどうか。」と提案があり、9人の委員中8名が「市の施策に協力する」という文言を削除することに賛同したのですが、一人の委員が「原案で良い」と主張したため、結局、ここでも市民の意見は取り入れられないことになりました。

憲法違反の疑念がある「協力義務を課す」内容を修正するための努力がなぜされないのか、当然の疑問です。4月19日のブログで紹介した「前文に『核兵器禁止条約の発効』が入れられなかった」ことと合わせ、会議が、「全委員一致でなければ修正しない」という合意事項の画一的な適用による運営されたことによる問題点が、はっきりとします。

結果、繰り返すようですが、「市民の意見は何一つ取り入れられなかった」ということになったのです。

もう一つ紹介したいのは、市民の意見が一番多く寄せられた第6条(平和記念日)の2項です。ここでは、「平和祈念式典は、市民の理解と協力の下で、厳粛に行うもの」となっていますが、これに対し「表現の自由を制約する恐れがあるから削除をと危惧する声が多く寄せられました。これに対し「これは広島市に対し課したものだから、市民の活動を制約するものではない」「議会ですでにこの内容を含んで決議を行っているので、それを入れただけだ」として、一人の委員を除き、原案が修正されることはありませんでした。委員の意見を聞いていても疑問が残ります。①決議と条例では、全く拘束力が違う②「市に責任を課す」としていますが、第5条で「市民は市の平和行政に協力する」ことが義務付けられているのですから、両条文を合せれば、市民に「厳粛に行うための協力」を強制することが出来ることになることを強調しておきたいと思います。

結局、昨日までの傍聴では「広島市平和の推進に関する条例(仮称)素案」を作った自負を持つ政策立案検討会議の委員にこれ以上期待することはできない」との思いを強くしました。しかし最終的には、この条例は、市議会が作ることになりますから、あとは「これだけ多くの市民の声を無視した条例をそのまま採択してよいのか」という市議会議員一人ひとりの良識に期待するしかないと思っています。

いのちとうとし

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2021年6月 1日 (火)

宮島の包ヶ浦自然公園 ――初めて素晴らしさに触れました――

宮島の包ヶ浦自然公園

――初めて素晴らしさに触れました――

 

いよいよ5月も終りになりました。31日の月曜日は素晴らしいお天気で、コロナで委縮している気持を少しは伸び伸びさせたい気分になりました。とは言え、広島県には緊急事態宣言が出ていますので、県境越えを自粛するのは当然なのですが、隣の市や町に出掛けるのも控えた方が良さそうですので、廿日市市内で、しかも人との出会いの少ない所を探してみました。

ありました。宮島です。世界遺産に登録されていますし、世界的にも知名度が上っていて、コロナ禍以前は外国からの観光客で賑わっていたのですが、最近はそれほどでもないようです。その宮島の中でも、フェリーの船着場から近い厳島神社やロープウエイで簡単に行ける弥山と比べると、圧倒的に人出の少ないのが包ヶ浦自然公園です。夏には海水浴客で混雑することもあるようなのですが、今の季節は大丈夫そうですので早速実行に移しました。

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山奥の我が家から車で宮島口に向かいました。途中では勿論、誰にも会いませんでしたし、フェリーの乗船客はパラパラ。大鳥居は工事中でしたが、久し振りの海にホッとしました。

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フェリー乗り場から包ヶ浦までは一本道のようです。2.8kmですので、それほど時間は掛からないでしょう。

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すぐに包ヶ浦自然公園に着きましたが、素晴らしい公園です。広々としていて、何より海に近いのが魅力です。キャンプ場としても十分な広さがありますし、BBQコーナーや炊事場等の施設もあるようです。テニスコートなどのスポーツ施設も揃っています。小さいキャビンから大きな家族用のキャビンなどもあって、YouTubeで紹介されている高級リゾート地と比べても遜色がないような雰囲気です。でも今は、コロナの感染で全施設閉まっているようでした。広場にも道にもとにかく、至る所に鹿がいました。

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ちらっと海水浴場を見ていると、付近の地図に気付きました。海沿いにずっと東の方まで行けるようです。それほど時間は掛からないだろうと考えて、さらに先まで行くことにしました。そしてこの判断は大正解でした。

「ポツンと一軒家」を御覧の皆さんなら御理解頂けると思いますが、「いよいよ山道ですね」とか「左側は絶壁で、やはり怖いですね」というような感想が出てくる道をしばらく上りました。展望が開ける場所で停まって下を見ると、包ヶ浦海水浴場です。

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さらに上り続けると、瀬戸内海の美しさが映える地点に、「展望広場」のような場所がありました。そこからの景色ですが、左上に見えるのは絵の島でしょうか。

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松に隠れて見えませんが、ヨットが一艘優雅に帆を張っていました。

その辺から下りになって、平地に出ると、砂のきれいなビーチが出現しました。入浜です。

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よく目を凝らして頂けると分りますが、キャンプの準備をしているグループがいるようです。

お天気に恵まれて、瀬戸内海の美しさを満喫できた一時でした。もう少し暖かくなって、今度は海水浴に来られればと夢を膨らましつつ、帰りのフェリーに乗りました。船の上の風が少し強くなっていましたが、宮島口でも心地良い一時を過ごして帰路に就きました。

 [2021/6/1 イライザ]

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