「広島ブログ」

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2021年5月

2021年5月31日 (月)

5月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

5月下旬になると標高約400.mの所にある農園も日中は25度くらいのがつづく。ホトトギスが鳴き始め、ブルーベリーの植えてあるところではキジのカップルがブルーベリー畑に消えたり、ヘビがウロウロしたりしてそこそこにぎやかな初夏の農園。週末の農作業は3段あるブルーベリー畑の剪定がやっと終わり、残す2か所の里山の剪定に入るのだがそこは膝丈くらいのブッシュ状態なのでますは草刈りに取りかかる。そして30日にちょっとだけ剪定に取りかかれた。

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5月23日(日)。家族4人で農園に行ったので妻と娘がウメの実を収穫。夏の飲み物にするため翌日ウメシロップにする。

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5月29日(土)

① 一向にくる気配のないミツバチの巣箱がひっくり返っていた。よく見ると黄色いコンテナの右下から竹の子が出てきて倒したことが分かった。箱が倒れた時に竹の子もぽきっと折れたようで共倒れに。

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② 庭の花壇のフランネルソウの花びらの上に乗ってじぃーっとしているのはクモの幼虫。

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5月30日(日)。

一人農園に泊まり日の出から農園の周囲を見回る。

① とにかくクモがブルーベリーの木から木にクモの巣をかけている。

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② もう周りの田んぼは殆ど田植えが終わっている。

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③ 今年休耕田になった田んぼ。草を生やさないためにトラクターが入った後に轍が朝日でくっきりと見える。

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3時の休憩。縁側からの眺め。

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草刈り用の燃料を買いに行く途中の池に行ってみる。水中植物のコウホネがちらほら咲いていた。

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里山の草刈りを2日間で済ませた。

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倉庫の横のバラ。これからポチポチと咲いてくれそう。

 

2021年5月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年5月30日 (日)

納得できない長崎市からの回答

3月29日のブログ長崎の原爆犠牲者数は?―長崎市へ質問状を送付: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、長崎の原爆犠牲者数について質問状を送ったことを書きました。

問いかけたことは次のことでした。

「長崎市は、1945年末までの犠牲者数を、1976年に広島・長崎市の連名で出された『核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請』では『約7万人(誤差±1万人)』とし、長崎市が1991年に岩波書店から発行した『ナガサキは語りつぐ 長崎原爆戦災誌』では、『1945年12月末までの犠牲者数は7万余を公式に採用』としているにもかかわらず、なぜ、『原爆被爆者援護事業概要』では、『73,884人』を使われているのですか」ということでした。

長崎市からは、最初に次のような回答(4月6日)がありました。

「死没者数について、正確な実数は把握できておりませんが、長崎市においては、長崎市原爆資料保存委員会の推計である『73,884人』が採用している数字であり、『ナガサキは語り継ぐ 長崎原爆戦災誌』に記載されている死者7万人余は、この数字を指しており、同段落でその旨記載しております。」

これに対し私は改めて問いかけたのは、「死者7万余は、長崎市の公式な数字ではないのか」ということと「長崎市原爆資料保存委員会の推計、73,884人」を採用されるとしても「公式の死者数7万余を併記すべきではないか」ということです。

この問いへの長崎市の回答(5月20日)は次のとおりです。

「『ナガサキは語り継ぐ 長崎原爆戦災誌』においては、長崎市原爆資料保存委員会が推定した『73,884人』を基に、『長崎市では、(中略)、死者7万人余とする説を公式に採用している』としており、そのことを同段落に記載しております。」

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被爆した長崎市城山小学校

この回答を読んでも私には、次のような疑問が残ります。

①.長崎市が認める公式な犠牲者数は、いったい何人かということです。7万余か73,884人のどちらなのかです。もちろんどちらを使用したとしても、いずれも推計の数字ですが。

②.「ナガサキは語り継ぐ 長崎原爆戦災誌」でいわれている「公式」ということが変更されたのか?ということです。

この問いに対する回答(5月26日)です。

「繰り返しとなり恐縮ですが、長崎市が採用する数字は、これまでの様々な経過の中で『長崎市原爆資料保存委員会の推計』と出典を明記し『73,884人』を通例としており、現在の所、この表記を変更する考えはありません。

原爆被害について、様々なご意見があることは重々承知しておりますが、長崎市の考え方についてご理解くださいますようお願いいたします。」

私も、長崎市が「長崎市原爆資料保存委員会の推計」を通例として使用されていることを否定するものではありませんが、残念ながらこの中でも「公式の数字はどちらですか」への回答はありません。再度問いかけていますが、果たしてどんな回答になるのでしょうか。

この問題は解決していませんが、長崎市にもう一つ質したことがあります。それ「長崎原爆資料館のホームページで同じように長崎市原爆資料保存委員会の『73,884人」の数字が使われているにもかかわらず、『推定』の文字すら入っていない』ということです。

この疑問は、「原爆資料館のホームページについては、長崎市原爆資料保存委員会の報告が推定であるという前提から、『推定』という文字を記載しておりませんが、長崎市原爆資料保存委員会の推計と出典をより分かりやすく明記する予定です。」と修正する旨の回答がありました。

長崎市からは何度も回答をいただきましたが、長崎市が公式に採用している犠牲者数はいったいどちらなのか、なぜ確定した数字でもないのに一桁まで示された犠牲者数に固執されるのかという私の疑問は、依然解消されないままです。

長崎の原水禁大会に参加した時、私たち広島県の代表団が追悼のため毎年訪れる城山小学校の「原爆被爆70周年記念誌『平和』」の「発刊によせて」にはこう書かれています。「爆心地から500メートルの地点にあった本校児童約千五百人のうち千四百人余りの尊い命が奪われました。」犠牲者数は、確定していません。

私が、このことにこだわるのは、正確な実態を解明しなければならない原爆被害ですが、それが解明できないのも原爆被害の実態であることをはっきりさせることも、原爆の実相を知る上で大切なことだと思っているからです。

いのちとうとし

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2021年5月29日 (土)

「第2代平和の鐘」の鐘楼の工事

今日は、5月2日のブログ「平和の鐘」(平和の鐘: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))で紹介した「第2代平和の鐘」の後日談です。

あの後すぐに「響け!平和の鐘実行委員会」代表の高東博視さんから、関係する資料を県原水禁事務局に送っていただきました。その資料の受け取りと原水禁世界大会の打合せのため自治労会館に行く道すがら旧市民球場跡に通ったところ「2代平和の鐘」が鐘楼ごと工事用幕でおおわれているのが目に入りました。下の写真は、北側(ハノーバー庭園側)から写したものです。

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近くまで行って見たのですが、周囲に「何の工事」を示す看板が見当たらなかったため、広島市に問い合わせました。と同時に、高東さんにも資料を拝受したお礼のメールと一緒に、「何かご存知ないですか」とお聞きをしてみました。高東さんから教えていただいた内容と広島市の回答ともとに紹介します。

今回の工事は、「第2代平和の鐘」周辺の整備と合わせ、鐘楼の塗装や補修が目的で、6月末まで実施されるようです。上の写真の手前をよく見ると石段の一部が見えます。鐘楼の南側の土手は、切り取られましたが、ハノーバー庭園側は、そのままですので、石段をたどって近づけるように進入路が整備されています。

実は、これ以外にも今回は大切な工事が行われます。もともと「第2代平和の鐘」の鐘楼には、鋳物でつくられた「羽ばたく平和の象徴の鳩」が、取り付けられていたのですが、多くが紛失し現在は1個が残っているだけです。下の2枚の写真は、高東さんから送っていただいたものです。

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現存する鳩

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鳩の鋳物が紛失し小さな二つの穴だけが残っている

今回の整備に合わせて、「響け!平和の鐘実行委員会」のみなさんが、元の4個ある姿に戻そうと3個の鳩の鋳物を新たに鋳造し、それを取り付けた後、広島市に寄附されることになっています。現在その鋳造作業が進んでいます。その新たに鋳造される鳩の型の原型は、現在広島市公文書館に保管されているものが使用されます。この鳩の鋳物が広島市公文書館に保管されているのは、「第2代平和の鐘」を寄贈した「広島銅合金鋳造会」の当時の会長松村米吉さん長男伸吉さんが、「追悼の念を込め、制作を呼びかけた経緯を知ってほしい」との思いを託して、当時の作業風景を写した写真とともに寄贈されたからです。その経緯が、2009年7月30日の中国新聞(広島の「平和の鐘」2代目の模様 被爆金属のハト後世へ | ヒロシマ平和メディアセンター (hiroshimapeacemedia.jp)に詳しく書かれていますので、ぜひ読んでほしいと思います。

ご遺族のことでは、高東さんのメールにこんな紹介がありました。「活動のきっかけは、銅合金鋳造会の鋳物師ご遺族の一人(ご婦人)が、『お父さんが造った鐘をもう一度鳴らして欲しい』との声を偶然耳にしたことです。」今回の鳩の鋳物の補修を知られたら、ご遺族のみなさんもきっと喜ばれることだろうと思います。

ところで、このブログの原稿を書く前に、公文書館に保管されている現物をぜひ見てみたいと思ったのですが、現在緊急事態宣言中ということで、公文書館も閉館中のため、実現しませんでしたので、残念ながら写真で紹介することが出来ません。

広島市の担当課に「鳩の鋳物が取り付けられるときは、ぜひ立ち会いたいので連絡をください」とお願いをし、連絡が来ることになっていますので、その時新たに取り付けられたものと一緒に、公文書館に保管されているものも紹介したいと思います。

高東さんからは、ぜひ紹介したい「鳩の鋳物」を鋳造する工場にまつわる話を教えていただいていますが、この話は「響け!平和の鐘実行委員会」のホームページにもまだ掲載されていませんので、先走らないことにし、今日の余話はここまでで終わります。

いのちとうとし

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2021年5月28日 (金)

予期せぬ再会

コロナ禍でさまざまなことが変わりました。組合は集まり顔をあわせ運動をすることを基本にしてきたので、ジレンマを感じます。現状の中でなにがやれるか考え、Web併用あるいは完全Webでの会議や学習会等も行っています。生活にも変化がありました。帰宅後はテレビのかわりに「Choose Life Project」等をオンラインで観ることが日課となりました。講演会等に参加することも好きでしたが対面開催がほぼなくなったので、これもオンラインで興味のあるものを見つけてぽつぽつと参加するようになりました。

 

あるとき、「アウシュヴィッツ強制収容所をめぐり考える、ポーランド ピーススタディツアー」というオンラインイベントを見つけました。「案内人」のところに、見知った名前を見つけました。アンナ・チャスカさんです。20188月に「世界人権宣言70周年企画」の旅に参加したときのガイドさんでした。思ってもみなかった再会を楽しみに、オンラインイベントに申し込みました。

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(慰霊碑の前で話をするアンナさん 2018

 オンラインイベントは、アウシュヴィッツ強制収容所のバーチャルツアーに加え、現地の社会科教員インタビュー、現地の高校生インタビューもあり、ポーランド人の加害にも踏み込む、思っていた以上に深い内容でした。とりわけ印象に残ったのが、戦後75周年記念イベントでの元収容者スピーチです。https://newsfrompoland.info/historia/marian-turski-speech/今の日本に重なり仕方ありませんでした。 

以下、このスピーチのポイントです。

1930年代初頭のベルリンにいると想像しましょう。ある日、「ユダヤ人はこのベンチに座るな」と張り紙がされます。あなたは「良いことではないが、別の場所に座ればいい」と言うかもしれません。「このプールに入るな」、「この声楽隊に入るな」、「ドイツ人の子どもと遊ぶな」、「ユダヤ人には午後5時以降しかパンを売るな」――誰かを排除することに、被害者・加害者そして傍観者の全員が、少しずつ慣れていきます。政府は、人々がゆっくりと麻痺し、悪に反応しなくなり、無関心になっていく様子を見ています。そして、気がつくとユダヤ人は隔離され、収容所ができ、殺害されます。

アウシュヴィッツは、突然、空から降ってきたのではありません。

この場所で起こったことは、起こり得るということです。起こり得るということは、地球上のどこでも起こり得るということです。憲法、人権、民主的な秩序、少数派の権利を守ることができるなら、それに打ち勝つことができます。

無関心であってはいけません。

歴史に関する嘘を見たとき無関心にならないでください。少数派が差別されているとき無関心にならないでください。民主主義とは、多数決と同時に少数派の権利が守られなければなりません。権力を握る政府の行動に無関心にならないでください。

もし、無関心であるならば、私たちの上に、私たちの子どもの上に、アウシュヴィッツが急に降ってくることに気がつきもしないでしょう。

2018年の旅は、過去ではなく、「現在・未来を考える旅」でした。世の中にあふれる差別・排外主義・優生思想、権力の教育やメディアへの介入、政治の強行運営、分裂支配、歴史修正、憲法改悪の動き・・・。そのとき感じた「今、日本は同じ道をたどっているのではないか」という思いは、2年後、コロナ禍により確信となりました。

信用できないデータに「大本営発表」を、正当な要求をする者が叩かれる状況に「非国民」を、人員も物資も足りないまま必死に対応にあたる医療現場に「野戦病院」を重ねずにはいられません。国はちぐはぐで無責任な対応をし続け、課題は自助努力と精神論に丸投げです。失敗を認めず総括もせず、大義(五輪)にむかって突き進む姿は「インパール作戦」に重なります。私たちの生きる「今」は「戦後」なのか?という問いが頭の中をぐるぐるします。

 

今を「戦後」にしていく。そのために、おかしなことに引っかかり続けたい、一人の主権者として声を上げ続けたい、改めてそう感じる再会となりました。

よりのぶ

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2021年5月27日 (木)

「広島県原爆被害者団体協議会」発足65周年

65年前の今日5月27日、広島市基町の広島YMCA講堂に、県内各地の被爆者団体から代表など約120名が結集し、広島県原爆被害者団体協議会(以下「県被団協」という)の結成総会が開催されました。この結成総会には、長崎八名、愛媛一名の代表の参加がありました。

この結成は、前年に開催された第1回原水爆禁止世界大会の機に、県内各地に被爆者団体が結成され、「一刻も早く被爆者組織を立ち上げたい」との被爆者の気持ちを結集するために作られました。

結成総会で、確認された12項からなる規約の第3項では、県被団協の目的を「原爆被害者どうしが助けあい、励ましあって、医療、生活その他の問題を解決するための運動を行います。また、原爆被害を、全国及び世界に訴えるとともに、三度、この被害を受けて苦しむ人の出ないように、原水爆禁止運動を行います」としています。

原水禁世界大会の大会宣言で確認された「被爆者救援と原水爆禁止運動を推進する」ことが明示され、被爆者が運動の軸となることも宣言されたのです。県被団協は、この目的に沿い、私たちの先頭に立って、運動を続けてこられました。

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広島県原爆被害者団体協議会結成総会(「ヒロシマ40年森滝日記の証言」より)

この県被団協の結成に大きな役割を果たしたのは、同年の3月18日に広島市立千田小学校に地域の被害者の会代表約300人が集まり開催された「広島県原爆被害者大会」です。その会場は、お互い見ず知らずの被爆者だったにもかかわらず、手を取り合い、肩を抱き合って「お互いによく我慢してここまで生きてきたものだ」と強い共感を生み出す場となったそうです。そしてこの大会で森瀧市郎先生が起草された大会宣言「世界への挨拶」が採択されました。その一部を紹介します。

「私たちは今日ここに声を合わせて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまた再び繰り返してはいけません。(中略)原爆後10年間、放射能の病の恐ろしさに直面してきた私たち。今年になって明らかにされただけでも早くも4名の人たちが放射能の病で死んでいった姿をまのあたりに見た私たちが、空気や水を放射能で汚染する水爆実験をどうして黙って見ておられましょうか。私たちはもはや、いかなる力の前にも黙っていない覚悟です。」

この大会では、国家補償の精神に立つ「原・水爆被害者援護法(仮称)の制定を目指す行動決議も行われました。

ですから、この広島県原爆被害者大会と県被団協結成総会は、一つの大きな流れで結ばれていることになりますので、この大会も絶対に忘れてはならないことです。

この県被団協の結成が大きな力となり、この年(1956年)の8月9日から長崎で開催された第2回原水爆禁止世界大会の二日目の8月10日に、全国からの代表800名が参加し、長崎国際文化会館で「日本原水爆被害者団体協議会」が結成されました。広島から全国組織の結成へという流れは、原水禁組織が結成された時と同じ道筋をたどっています。

被爆76年目を迎え、被爆者が高齢化し、最近、残念なことですが、全国で、県内で、被爆者団体が「解散することになった」というニュースが届きます。

広島県被団協の結成65周年を迎えた今日、改めて被爆者や被爆者団体が反核平和運動に大きな役割を果たした歴史を振り返り学ぶことは、私たちにとって大切なことにように思います。

いのちとうとし

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2021年5月26日 (水)

心配な日本語 (2) ――一難去ってまた一難 (後)――

心配な日本語 (2)

――一難去ってまた一難 (後)――

 

「60sp」さんと「一読者」さんからコメントを頂きました。有難う御座いました。

「60sp」さんが例示されたように、「頂く」とか「召し上がる」といった敬語の使い方はかなり混乱しているようですね。近い内に、新たな問題提起も含めて、まとめて考えてみたいと思います。

「一読者」さんは、「他人事」、そしてその後頂いたコメントでは「夜が更ける」の読み違いを指摘して下さいました。「ひとごと」なのに「たにんごと」と読む人が後を絶たないだけでなく、わざわざ「たにんごと」とルビを振ってある本までまであったそうです。「よがふける」を「よるがふける」と読むケースは多そうですね。

「ひと」で思い出したのが、5年前の6月1日のブログです。「一段落」を「ひとらんだく」と読む人が多いのですが、こちらは「いちだんらく」です。

その他にも、心配な日本語や違和感のある日本語として取り上げたのは、2016年6月11日の、「とある」と「かぶる」や、

2019年5月11日の、「なだい」と「みょうだい」

そして、2019年5月26日の、「被るのは帽子」等です。

この中でも、「ある」の代りに「とある」を使う例が雨後の筍のように増え続けていて、それを「もう一難」と呼びたかったのです。改めて呼びかけたいのですが、もし、あなたがどこかで「とある」を使いそうになったら、その時には、桃太郎を思い出して下さい。

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「昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました」の代りに、「昔々、とあるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました」と言うでしょうか。「とある」を使った方が自然だと思えるようなら、「とある」を使って下さい。そうはなりませんよね。

「ある」で済むところは「ある」で!

この他にも、「注目を集める」や「肌理細やか」といった誤用もまだまだ耳障りです。となると「耳障りが良い」も聞きたくありません。回を改めて論じたいと思います。

[2021/5/26 イライザ]

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2021年5月25日 (火)

第6次エネルギー基本計画の議論

経済産業省の総合資源エネルギー調査会基本政策分科会(以下、分科会)で行われている第6エネルギー基本計画の議論、その詳細は伝わってきませんが、まるで福島原発事故など無かったかのように、原発推進の大合唱が行われていることに、愕然とすると同時に怒りが起きてきます。

 そのキッカケになったのは昨年10月26日、菅義偉首相が国会の所信表明で、「2050年までに温室効果ガスの排出を実質ゼロ(カーボンニュートラルCN)にする」と演説したことです。そしてこれを後押ししたのが、12月25日に政府が発表した「グリーン成長戦略」だと思います。非常に巧妙な作戦で「原発回帰」を打ち出したと思います。

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「二酸化炭素を出さない原発」という、原発推進派が何十年も前に云ってた愚かで常識外れの話しが、またもや云われ出したという感じです。

この度のエネルギー基本計画は、正式には夏ごろに閣議決定するとされていますが、6月11日から英国で開催される先進7カ国首脳会議(G7サミット)で明らかにされるだろうと言われています。日本を除くG7の全てが、目標を示して石炭火力全廃方針を打ち出しているのに、未だに利用継続の姿勢を出し続ける日本政府、これも原発推進の言い訳にされています。

福島原発事故後、その翌年に改正された原子炉等規制法は、原発を運転することができる期間を40年という「40年運転ルール」を決めました。特別な点検をして原子力規制委員会の認可を受け、関係自治体が同意すれば、1回に限り最大20年延長を認めるとなっていますが、分科会では「20年でも30年でも延長すればいい」という発言が行われているのです。

福島原発事故後、民主党政権時の革新的エネルギー・環境戦略でも、14年の第4次、17年の第5次エネルギー基本計画でも、「可能な限り原発依存度を低減する」、「原則として新増設は行わない」が明記されていました。しかしこの度は、このまま私たちが黙っていると、それらが全て崩されるだろうと予想されています。

そして原発と再生可能エネルギーを含めて、「二酸化炭素を出さない電源」とするというフテブテしさです。

新設原発計画である上関原発の問題のある上関町では、3月17日の町議会で柏原重海(かしわばら しげみ)町長は、「エネルギー基本計画で原発の位置づけがどうなるのかを注視したい。国策として進めるなら地元として推進していく」と答弁しました。

しかしその理由を、「原発そのものを建設することが目的ではなく、住民の安定した暮らしのための財源確保が目的。原発建設が絶対ではない」と説明しています。素直というか本音が、この人らしいです。

5月20日、この動きに呼応したように中国電力が上関原発のボーリング調査をするために、山口県に対しその海域の使用許可を得る届けを行ったという連絡がありました。

木原省治

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2021年5月24日 (月)

パレスチナに平和を!原爆ドーム前スタンディング

イスラエルとパレスチナ・ガザ地区の武装組織の停戦合意が発効した5月21日の夕方午後6時から、広島市立大学の田浪亜央江准教授の呼びかけで、「パレスチナに平和を!」とアピールするスタンディンが行われました。原爆ドーム前のこの行動に賛同した日本人、パレスチナ自治区やシリア出身者の在日外国人などなど約30人が参加しました。

最初に呼びかけ人の田浪さんが「なぜこの行動を呼びかけたのか」を説明するあいさつ。その主な内容は、下記掲載した当日のアピールを読んでいただきたいのですが、私が印象に残ったことは次の紹介。「ガザ地区の広さは、この広島市の安佐北区の広さと同じです。そこに暮らす人は、約200万人。そのことを想像してほしいと思います。」帰宅して調べると安佐北区の面積は、353㎢で人口は、約14万4千人、ガザ地区の面積は、360㎢です。ちなみに、広島県の人口は約278万人、広島市は約120万人(2021年4月現在)ですから、ガザ地区の人口密度がわかると思います。

田浪さんのアピールの後、参加者からの一言リレートーク。メモなしで参加しましたので、残念ながらここで紹介することが出来ません。最後に私も一言。「かつて、原水禁世界大会にはパレスチナの代表が参加していたことを思い出します。ガザで多くの市民が命を奪われている事態の中で何ができるのかと考えていた時、この行動呼びかけがあり、参加しました。ヒロシマが少しでも声を上げる事が大切だと思います。」

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少し長いのですが、パレスチナ問題の本質や歴史を知るためにも、ぜひ読んだ欲しいと思いますので、アピール文を全文を紹介します。

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パレスチナに平和を! 原爆ドーム前スタンディング アピール

イスラエルとパレスチナ・ガザ地区の武装組織の停戦合意が発効したと伝えられています。

ガザの人々は、連日の凄まじい空爆の恐怖からは、とりあえず逃れられるでしょう。ガザの人道支援や復興が叫ばれ、日本も協力を謳うことでしょう。

しかしこのままでは、「停戦」は新たな攻撃へのカウントダウンの開始と同じです。パレスチナに自由と公正、そして真の平和がもたらされるよう、国際社会は今こそ変わるべき時です。

たとえ空爆がなくとも、イスラエルによって2007年以来封鎖されてきたガザの状況は壊滅的で、200万人あまりの人々が展望の見えない暮らしを強いられています。

そしてパレスチナ全体も、イスラエルによって狭い地域に分断され移動が制限されるとともに、とくに近年エルサレムでは家屋破壊や住民の居住権の剥奪が進行してきました。イスラエルはさまざまな手法でパレスチナ社会を侵食し、パレスチナ社会を消滅させようとしています。

問題はイスラエルとパレスチナの「憎悪の連鎖」や「暴力の応酬」ではなく、こうした枠組みで問題を理解する国際社会や、マスメディアの報道のあり方こそが問われるべきです。パレスチナを占領するイスラエルが、ヨルダン川西岸地区での入植地を拡大し、ガザを封鎖して巨大な監獄として管理し続けることを国際社会が黙認し続ける以上、パレスチナ人は可能な限りの抵抗を続けるしかありません。

そもそも西岸地区住民のおよそ三分の一、ガザ住民の大多数は、1948年のイスラエル建国時、ユダヤ人が支配する国を軍事力によって実現しようとする政策によって追放され、難民となった人々とその子孫です。イスラエル建国の暴力が現在に至る中東の混乱の要因であることは、繰り返し想起されるべきです。

今回の事態の「発端」となったエルサレムのシェイフ・ジャッラーフ地区では数年来、ユダヤ人右派入植者団体が法的手段や暴力に訴えてパレスチナ人を立ち退かせようとしており、現在28のパレスチナ人家族が立ち退きの瀬戸際にいます。イスラエルのネタニヤフ首相はこうした入植者の運動を、パレスチナ社会を挑発し、自身の政治的危機を回避するために利用しました。国際社会、とりわけアメリカは、イスラエル・パレスチナの和平「仲介」を名乗りながら入植地の問題を黙認・容認し、入植者運動の過激化に手を貸してきました。

テルアビブの住宅街に向けロケット弾を発射したハマースの軍事作戦については、擁護の余地はありません。しかし、上述のような建国の経緯と占領政策、パレスチナ人への抑圧に加え、核兵器保有を含め中東髄一の軍事力をもつ国家であるイスラエルと、非国家組織であるハマースを対等であるかのように扱うのは間違っています。ガザの人々が、少なくとも2006年の民主的な選挙において圧倒的にハマースを支持したのは、主流派のファタハがもはやパレスチナの治安管理を行うイスラエルの下請け機関となっている以上、抵抗を続けるハマースを支持するほかに選択肢がないからです。

私たちは、1948年のイスラエル建国以降のパレスチナ人の苦難を思い、民族自決と自由・公正を求める彼らの長年のたたかいに敬意を示し、広島原爆ドームを背に73分間のスタンディングを行います。

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原爆ドーム前のスタンディングは、ちょうど午後7時13分に終了しました。最初「73分間の行動(73分間の意味は、アピール文の最後に紹介されています)」と聞いた時には、ずいぶん長いなと思いましたが、様々なアピールがあり、あっという間の73分間でした。

「停戦合意」があったからと言って、戦闘行動が停止しただけであってパレスチナへの暴力が続き、問題が解決したわけではないことを忘れないで欲しいと思います。

当日の様子がもう少し知りたい方は、https://nakba-standing.comで見てください。

いのちとうとし

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2021年5月23日 (日)

5月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

好きなエビネランはもうしぼんできて、フランネルソウがもう少しで初花を見せてくれそう。小さな農園の周囲の植物も初夏は忙しく、目まぐるしく週末に来るたびに変化を見せてくれる。ブルーベリーの剪定は3段ある畑の作業がほぼ終わる。来週からは里山に移行するが、小豆くらいの大きさになった枝を切ることになる。

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5月22日(土)曇り空から午後は青空が広がる中ブルーベリーの剪定を続ける。里山のエビネはもうしおれている。

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農園の花壇。

①.ジャーマンアイリスが満開。今年は花が少な目。

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②.同じ花壇に伸びてきたフランネル草は一輪赤い穂を見せる。

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③.今は使っていない庭のつくばいの苔の上でじぃーっとしているのは2匹のカエル。

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里山のブルーベリー周辺。

①.小さくて細いタケノコがにょきにょき生えてくる。後ろの白い花穂はシライトソウ。今年は1輪増えて2輪に。

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⓶.里山に咲く野生のサツキ。梅雨の合間の晴れた空はもう夏。

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③.卯の花のひとつハコネウツギ。

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④.むせかえるような香りが漂う。

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収穫→里山に入る手前の畑のソラマメが太って下を向いた来たので10個ばかりもぐ。しかしまだもぐのが早かった。写真手前の梅の実はいつ収穫しようか・・・?

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ブルーベリーの剪定をしながら、小さい木は竹などを立てて麻の紐で縛ってできるだけ枝を垂直に仕立てる。麻の紐は一巻き850mある。もう1個目は消費して2個目を使っている。

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5時30分頃、車に乗ろうとするとキジの鳴き声。声の方向を探すとブルーベリー畑の法面の上にいてあたりを見回している。距離およそ50m。おらが家の風情。

 

2021年5月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年5月22日 (土)

府中地区で実施された5月の「19日行動」

広島県も、コロナ感染拡大で緊急事態宣言が出され、様々な街頭行動も中止を余儀なくされていますが、府中地区では、今月も「19日行動」が実施されました。

毎月情報を送っていただく小川敏男さんからのメールと市民グループの石岡真由海さんがフェイスブックに掲載された文章をもとに、私の責任で編集し紹介します。

府中地区では、事前に「安保法制に反対する府中市民の会」のメンバーに「緊急事態宣言が出たが今月の行動はどうするのか」を検討するため「①いつもどおり、②中止、③スタンディング」の三択でアンケートが行われました。その結果「いつもどおり=3人、スタンディングのみ=2人、中止=2人」の回答があり、最終的には「熟慮の結果、今回はスタンディングを行うこととします。」となり、当日の行動は、スタンディングのみで実施されました。さらに、きめ細かく「スピーチの代わりに掲げたい看板や横断幕等があったらご持参ください。マスク・お互いの距離を取って、感染症対策をして行います。」と行動への参加が呼びかけられました。

さて当日の様子です。ここからは、石岡真由海さんのフェイスブックを拝借します。

#コロナじゃけ、オリンピックできんよ

今日は19日なので安保法制に反対する府中市民の会のまちかどツアー。コロナ感染症緊急事態宣言下なので、リレートークなしでスタンディングのみ。上下Aコープ前と府中天満屋前で行った。いつもの『安保法制は違憲!』に加えて『コロナじゃけ、オリンピックできんよ』の横断幕に予想以上の人が手を振り返し、会釈をしてくれて好反応。世論調査が現れた感じ。『政府は何を考えとるんかのう(怒)!』と車窓全開で同意してくれたおっちゃん、元気をくれてありがとう!おかしいことには怒っていこう。」

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上下Aコープ前

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府中天満屋前

参加者は、「上下Aコープ前15:30から16:00=8人。府中天満屋店前17:00から17:30=9人」でした。

 

以上が府中地区の「19日行動」の報告です。三原は、今月は中止することになったそうですが、来月は実施するよう話が進んでいるということです。。コロナ禍でしかも緊急事態宣言下での行動ですから、各地区とも実施するにしても中止するにしても悩みながらの判断になっています。

広島では、来月(6月)の「3日行動」は、緊急事態宣言が延長されることを予測して、すでに中止を決めました。ただ、緊急事態宣言の状況によっては、現在開会中の通常国会の閉会日(6月16日)に合わせて街頭行動をここなうことが検討されています。

コロナ禍、感染予防を最優先にしながら、どのようなアピール行動ができるのかは、その時々で判断するしかありませんが、いずれにしても頭を悩ませる難しい問題です。

いのちとうとし

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2021年5月21日 (金)

心配な日本語 (1) ――一難去ってまた一難 (前)――

心配な日本語 (1)

――一難去ってまた一難 (前)――

 

ラジオの時代には、マラソンの同時中継はありませんでした。「絶対に」なかったと言い切れないのは、ラジオ時代に意識してマラソンの中継を探した (けれども見付からなかった)、経験がないからです。でも、ラジオでマラソンの中継を聞いたとしても、その内容がどんなものになるのかちょっと想像できません。

テレビでのマラソンや駅伝が人気番組になっているのは良く分りますし、釘付けなっていることもあります。でも一時、マラソンの中継から遠ざかっていたときがありました。それは、「かわす」という言葉が余りにも多用されていたからです。

元々「かわす」とは、たとえば「体を躱す」とは、goo辞書によると、

[動サ五(四)]《「交わす」と同語源》

    1 ぶつからないように身を翻して避ける。「身を―・して自動車をよける」

    2 巧みに避けて逃れる。「鋭い追及を―・す」

という意味なのです。そして例文として挙げられているのは、芥川龍之介です。

・・・ひらりと身を躱すが早いか、そこにあった箒をとって、又掴みかかろう・・・ 芥川竜之介「アグニの神 」

・・・敵の大将は身を躱すと、一散に陣地へ逃げこもうとした。保吉はそれへ・・・ 芥川竜之介「少年 」

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芥川龍之介

それがマラソンの中継では、「前を走っている選手を追い越す」という誤用が定着してしまっていたのです。聞くに堪えないとはこのことなのですが、とにかくこれを聞かされるのが不愉快で、マラソンそのものからも遠ざかるほどでした。

幸いなことに、最近のマラソン中継ではこの誤用が一掃されてしまっています。素晴らしいことなのですが、あれほど「定着」していた誤用が全く使われなくなってしまった理由が分りません。

想像を逞しくすると、どこかのスポンサーの社長レベルの影響力を持つ人が言葉についても見識のある人で、しかも私と同じような危機感を待っていて、「誤用を改めないのなら、スポンサーを降りる」と宣言したのではないか、そして一社から他の社へも広がった、などというシナリオが頭に浮びます。何方か真相を教えて頂けると有り難いのですが---。

このプロセスが分ると、それを応用して、かたくなに「五輪開催」の立場からの報道しかしない日本のマスコミを変える可能性が生まれます。

これが「一難去った」話です。それでは、「また一難」は何でしょうか。それは次回をお楽しみに。ここからお願いです。皆さんから、「また一難」は何なのかを当ててみて下さい。当った方には、ささやかな賞品を差し上げます。当らなくても、つまり私と同じ「誤用」ではなくても、それと同じくらい、あるいはそれ以上に意味のある問題提起にも同様に賞品を差し上げます。

[2021/5/21 イライザ]

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2021年5月20日 (木)

ヒロシマとベトナム(その24)

「史上最良の日越関係」

4月27日、茂木外相とベトナムのブイ・タイン・ソン外相の電話会談行われ、「史上最良の日越関係をさらに力強く発展させていくことで一致した」と「VIETOJO」が報じていました。

下の写真の中央がソン外相ですが、左端に懐かしい顔を見つけました。

Photo_20210519092401

「VIETJO」4月28日、中央がブイ・タイ・ソン外相

HVPF設立前から交流を重ねている友人、元在日ベトナム大使館の公使で現在はベトナム外務省のアジア局長を務めているグエン・チュオン・ソンさんです。2008年、当時の駐日大使、グエン・フー・ビン特命全権大使の秘書官(二等書記官)として、ベトナム大使として初めての広島県訪問・東広島でのイベント参加の調整してくださったのがソンさんです。以来、十数年、公私とも交誼いただいています。

日越外相会談の報道を通し、ソン局長との思い出とともに相親日的なベトナム人、ベトナム理解を深める日本人・・・と、経済活動だけでなく教育・学術・文化活動や民間交流を含め、「アジアで最も緊密な関係」が築かれていることをあらためて実感しています。

 

日本とベトナムの若者から学ぶ

ベトナムとの交流イベントや講座の企画に学生会員や若い会員、ベトナム留学生などに参画してもらっていますが、「赤木さんたちの年代ではベトナム戦争や枯葉剤かも知れないが、今の若者には“気軽に行ける南国の楽園”だったり、“安く・美味しく・楽しくバックパッカーできる国”」、「暗く重い過去に縛られず、もっと明るく今風に」、「気軽に参加でき、そこから深まりと広がりへと進んでいけるような企画を」という意見とともに様々なアイディアを出してくれます。

留学生や技能実習生からも、「ベトナム戦争とか枯葉剤とか、厳しく不幸だった過去でなく、発展し、明るく頑張っている今のベトナムに目を向けて欲しい」、「技能実習生の多くが苦労しているが、皆がみな惨めな境遇で苦しんでいるだけではなく、目標を持って明るく元気に頑張ってもいる。暗く惨めな面だけを見ないで欲しい」という声を聞きます。

“現状の事実に立って、過去にではなく未来に向かって歩もう”という「未来志向」の発想です。こうした、日本の若者の意見もベトナムの若者の声も、もっともです。それは、決して“過去を忘却するのではなく、過去の歴史の上に立って”というものです。

若い人たちとのディスカッションを通して、古希を目前に控え「老人」の域に達した自分は、ややもすると過去のみに囚われ、現在の姿が見えなくなり、したがって未来を描けなくなっているのではないかと気づかされます。過去・現在・未来を貫いて捉えるという歴史的思考が大切だと。

私が初めてベトナムを訪問した1991年は、ベトナムがそれまでのソ連を基軸とする外交から全方位外交に転換した年でした。その時に掲げられたスローガンが「過去を閉ざし未来を指向」というもので、95年にはアメリカとの国交を正常化します。その5年後、ベトナムを訪れたクリントン大統領が、「われわれは過去を変えることはできないが、未来を変えることはできる」と、未来志向の建設的な米越関係の構築を訴えました。

 

歴史的な思考から導かれる「未来志向」

その会見の席でレ・カー・フィェウ共産党書記長は、「過去は変えられないが、その本質を正しく理解することが重要だ」として、「私たちにとっては、過去は、暗い、悲しい不幸な歴史の一頁だけであるわけではありません。私たちにとって、過去は根であり、土台であり、現在と未来に向けての力でもあるのです。このような過去から、われわれは教訓を引き出し、過去に対する正しい責任を持たなければならないのです。」と述べています。

ここに、「未来志向」の意味が明確に述べられています。もう一人、長くベトナム歴史学会事務局長を担われ、現在、国会議員として活躍されているズオン・チュン・クオック議員の言葉を紹介します。

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ズオン・チュン・クオック議員

20世紀だけでも、ベトナムは多くの国から侵略され、長年にわたって国を失い、幾多の戦争を経てきた。もし過去に囚われていると私たちベトナムは、誰と共生していけばいいのだろうか。

ベトナムは過去を忘れないが、いつも未来に向かわなければならない。なすべきことは、その過去の中に元々あった事実をそのまま保ちながら、共に新たな架橋をして乗り越え、現在の利益のために、深淵を貴重な教訓として見ることである。」

よく、日韓関係や日中問題を引き合いに、「ベトナムは、過去のことには拘らず、未来を優先している」と言う人たちがいます。そのような人は、自分たちに都合の悪い歴史を無かったものにしようという人たちだと思います。安倍政権に続く菅政権も、嘘・誤魔化し・強弁・説明責任忌避、隠蔽・改竄体質を引き継いだ「未来を指向できない政権」です。

「未来志向」という意味を考えながら、8月10日に予定している「枯葉剤60年~あらためて問う!エージェントオレンジ~」の準備を進めています。

最後に二人の心に響く言葉の一節を紹介し、今号を閉じたいと思います。1983年に広島を訪れたローマ法王ヨハネ・パウロ二世の「平和アピール」:「過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。」 1985年、ヴァイツゼッカー大統領のドイツ連邦議会での「敗戦40周年記念演説」:「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」(「荒れ野の40年」)

(2021年5月20日、あかたつ)

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2021年5月19日 (水)

広島朝鮮初中高級学校の教育環境充実のためのクラウドファンディング

広島朝鮮初中高級学校に充実した教育環境を!実現するためのクラウドファンディングにご協力ください。

 

1946年4月16日に大竹の地で始まった広島朝鮮初中高級学校は、今年416日に創立75周年を迎えました。

2010年、すべての子どもたちに学ぶ権利を保障するために制定された「高校無償化制度」から2013年2月に朝鮮高級学校だけが除外されました。それを受けて、それまで支給されていた自治体からの助成金がストップしてしまいました。

授業料を値上げし、学校運営を図ってきましたが、コロナ禍にあっては保護者の負担も大きく、卒業生や支援者の方々からいただくサポートを受けてもなお、十分な学校運営を行うのが困難になってきています。

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そのような中で、広島朝鮮初中高級学校に通う子どもたちは、未だに冷暖房設備のない教室で学んでいます。特に高級学校は、全国に10校ありますが、冷暖房設備がないのは広島だけです。

昨年は新型コロナウイルス感染症の防止対策で8月にも授業が行われたため、生徒たちがふらふらになりながら授業を受けたそうです。中には気分が悪くなった生徒もいました。年々暑さが厳しくなっていますから、冷暖房設備は、学校に欠かせない設備になっています。

そこで、「広島朝鮮初中高級学校創立記念行事実行委員会」と共同で、広島朝鮮初中高級学校の各教室に冷暖房設備設置を目標に、必要な約700万円のうち300万円をクラウドファンディングで集めることになりました。

「クラウドファンディング」は、多くの人たちの協力を得るため、門業者が立ち上げるインターネットサイトを通して、クレジット決済もしくは郵便振込で募金を呼びかける方法です。このクラウドファンディングは、5月7日(金)に開始し、6月30日(水)まで行います。

今年の夏までに冷暖房設備を設置し、教育環境を充実させ、広島朝鮮初中高級学校で学ぶ子どもたちの命を守るためにも、ご協力くださいますようお願いいたします。

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具体的な方法は下記のとおりです。

―――――――――――――――――――――――――――――――

READYFORのホームページ https://readyfor.jp/projects/62736

から必要事項をご記入ください。(なお、必要事項の入力方法は「広島朝鮮初中高級学校に充実した教育環境を!ヒロシマキャンペーン」のFACEBOOKページに掲載しています。)

 

インターネットからが困難な方は、下記の口座に振り込んでください。

広島朝鮮初中高級学校に充実した教育環境を!ヒロシマキャンペーン 振込口座

ゆうちょ銀行 記号 15100 番号 56408631

(他行からの振り込まれる場合 店番 五一八(ゴイチハチ) 普通 5640863)

名義 広島朝鮮初中高級学校創立記念行事実行委員会 

 

「広島朝鮮初中高級学校に充実した教育環境を!ヒロシマキャンペーン」の呼びかけ人代表は、次の四人です。 

呼びかけ人代表

 佐古正明(広島県平和運動センター議長)

  足立修一(広島無償化裁判弁護団長)

  金子哲夫(日朝友好広島県民の会会員・元衆議院議員)

  村上 敏(民族教育の未来を考える・ネットワーク広島代表) 

 

不明な点の問い合わせは次のとおりです。082-261-0028 yakudou75.hiroshima@gmail.com

―――――――――――――――――――――――――――――――――

いのちとうとし

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2021年5月18日 (火)

藤居平一さんとの出会い

昨日のブログを書きながら思い出したことがあります。藤居平一さんとの出会いです。

その出会いは、1992年に実施された参議院選挙です。この選挙は、自衛隊の海外派兵を初めて認める「PKO法」(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法))が、同年6月15日に国会で強行採決された成立した直後に行われた国政選挙です。この選挙には、様々な困難がありましたが、広島では「ヒロシマの心を国政に届ける」との強い思いで、栗原君子さんを擁立し、選挙を戦いました。

その選挙事務所に、激励に来ていただいたのが、藤居平一さんでした。

藤居さんは、1916年生れですから、当時76歳です。藤居さんは、若いとには、スイマーとして活躍され、長身だったようですが、晩年には長く糖尿病を患い、70代を超える頃から体が衰え、やせてしまわれたそうです。ですから私がお会いした時の印象は、やせ気味で、少し足が弱っている感じを受けたことを覚えています。栗原さん選挙事務所は、エレベーター無いビルの3階でしたので、健常者でも上り下りするのが大変でしたので、藤居さんにとっては、なおさらな事だったと思います。もちろん帰りには、タクシーに乗られるまで付き添ったのですが。

その頃は、藤居さんの姿を原水禁運動や被爆者運動の場で見ることはありませんでしたので、最初に訪れられた時は、どういう人なのか全く知らず「被爆者の方が応援に来ていただいた」くらいにしか受け止めていませんでした。確か、出された名刺に「藤居銘木 会長」の肩書があったと記憶していますので、原水禁運動や被爆者運動と関連付けて考えることはできなかったのです。「応援しているから」の一言と何枚かのチラシを持ち帰られたことを覚えています。そしてカンパの1万円を渡していただきました。この1万円カンパは、その後事務所を訪れる度に手渡されました。

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2度目の訪問だったでしょうか、コピーした資料の入った紙袋を持参指し、「勉強する気があれば読みなさい」と手渡されました。あともう一回持参されたと思います。選挙の最中でしたので、受け取りはしたものの、目を通すことはありませんでした。その紙袋の中味が、今にして思えば「原水禁運動や被爆者運動の初期のころ」の貴重な資料だったのです。その時にもまだ、藤居さんがどんな人なのかを充分には理解できていませんでした。

藤居さんは、その後何度か選挙事務所に来られたのですが、一度も原水禁運動や被爆者運動の話を伺うことはありませんでした。宮崎安男さんや近藤幸四郎さんから教えられて藤居さんのことを詳しく知ったのは、選挙が終わったのちのことです。申し訳ないことに、いただいた貴重な資料も今どこにあるのか、不明です。

藤居平一さんは、その4年後の1996年に逝去されました。あの出会いは実に貴重で大切なものだったにもかかわらず、何一つお話を聞くことが出来なかったというか、聞こうとしなかったのです。今となっては、取り戻すことのできない時間です。痛恨の思いを抱いています。

ただ今なら私が聞きたいなと思う藤居平一さんの証言は、昨日紹介した「広島平和科学」の19号、20号と、広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術センター(現在は、付属国際放射線情報センター)発行の「資料調査通信」(1981年から1984年)「まどうてくれ 藤居平一聞き書き(聞き手 宇吹暁)」として残されています。私は、「資料調査通信」の全冊を所有していますので、改めてじっくりと読み返したいと思います。そして機会があれば、その一部でも紹介したいと思います。

藤居平一さんのことを知るためにだれでも入手可能な本「まどうてくれ 藤居平一・被爆者と生きる」(著者大塚茂樹)が、2011年に発刊されています。

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ただ、私が藤居平一さんのことを取り上げる契機となった中国からの救援金のことが、残念ながらこの本では「第2回原水爆禁止世界大会で巨額の救援金を提供した」と不正確に記載されています。その上、「中国からの救援金と原爆医療法成立との関係」については、全く触れられていませんので、運動の歴史を学ぶときには、少し注意して読まなければいけない部分もあります。でも藤居平一さんの人柄を知り、藤居さんと一緒に運動した被爆者の思いを知ることが出来る本ですので、ぜひ一度読んでみてください。

いのちとうとし

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2021年5月17日 (月)

原爆医療法の成立を急がせた中国からの被爆者救援金

 

第1回原水禁世界大会(1955年)に参加した中国代表団から贈られた被爆者支カンパ5万元(約720万円)について、昨年7月13日からこのブログ(中国から贈られた被爆者支援カンパ その1ー原水禁世界大会への中国代表団の参加 : 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))で、「余話」を含め5回にわたって連載しました。

その時、書くことをためらったことがあります。それは、森瀧市郎先生が、1985年に中国を訪問されたとき語られた「そのお金で被爆者はどれだけ救われたことか。外国から慰問金が届くのに、政府は何をしているのかと世論が高まり、それがきっかけとなって、その翌々年に原爆医療法が成立したのです」や、森瀧先生の日記をもとにしてまとめられた「ヒロシマ40年森滝日記の証言」では、「中国の援助は、被爆者に対する日本政府の関心を呼び起こし、『原爆医療法への大きな力となったはず』と森瀧さんは強調する。」と書かれていることです。このことを書くのをためらったのは、この「中国からの援助金が原爆医療法の成立の力となった」ということを裏付ける資料を見つけることが出来ずにいたからです。

ところが、最近そのことを裏付けるといってよい資料を見つけることが出来ました。その資料は、広島大学平和科学研究センターが1996年に発行した「広島平和科学19号」に掲載された「原爆医療法制定のころ―藤居平一氏に聞く」です。藤居平一さんは、自身は被爆者ではありませんが、原爆で父を亡くし、民生委員として被爆者援護に関わり、第1回原水禁世界大会の開催に尽力し、1956年に結成された日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の初代事務局長に就任し、森瀧市郎先生などと一緒になって原爆医療法の制定に尽力されています。「原爆医療法制定のころ―藤居平一氏に聞く」は、広島大学の船橋 喜恵教授(当時)が、藤居さんに行ったインタビューをまとめたものです。

学ぶことはたくさんありますが、今日は、森瀧市郎先生の言葉を裏付ける「中国代表団から被爆者支援のために送られた救援金が原爆医療法成立に影響した」ことを証言する紹介します。

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国会請願活動であいさつする藤居平一さん

「1956年(昭和31年)5月に広島被団協(いのちとうとし注:広島県被団協は、日本被団協よりも3カ月早い5月27日に結成された)をつくるときに、来年までに援護法をつくるという確信をもったのも、これがあったからです。この確信をもたせたのは中国からの救援金です。自民党が震えあがったんです。香川県選出の代議士で厚生省関係の人がおりましたが、彼のところへ頼みにいったら中国からの救援金をすぐ中国へ返してくれ、すぐ法律をつくるからといいました。そんなことはできません。もらった救援金を返すような失礼なことはできやせんです。もしそれで法律がでけんなら、でけんでええという態度で接しました。震えあがっとりました.、じゃから落城間近かだと思ったのも確かです。」(原文のまま)

この藤居さんの話に続いて、このインタビューに同席していた宇吹暁さん(広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センター)が、次のように語っています。「厚生省も最初は広島と長崎の原対協だけを対象に試験的に金をだしとりましたが、次いで広島県と長崎県へと広げ、県内の保健所を通じて検診を行うようになります。藤居さんの側から見れば、要求が認められたようにみえるんですけど、厚生省の原調協(1953年に作られた原爆症調査研究協議会のこと)からみれば、全く別の論理で広げていくわけで、両者ちょうど重なるわけです。今度は広島・長崎両県だけでなく、全国に広げる予算を組むんですが、その実施の段階で医療法ができるので、結局は全国的に行われるようになります。(略)もし原水禁運動がなければ、あくまでも調査費がずっと全国化したと思います。」

これで、森瀧先生が言われた「中国の援助は、『原爆医療法への大きな力となったはず』」ということが、どういうことなのかを理解することが出来ましたし、広島市の原対協に200万円寄託したことがどんな意味を持っていたのかを改めて確認することが出来ます。

藤居さんの証言とともに、宇吹さんの発言を紹介したのは、「検診」と「調査費」という言葉に注目する必要があるからです。当時厚生省は、医療費ということを全く考えていなかったことがわかります。

この壁を乗り越えたのは、中国からの救援金だけではありません。当然のことですが、広島、長崎両市や原水爆禁止署名運動に立ち上がった被爆者の人たちの懸命な努力があったからです。

いのちとうとし

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2021年5月16日 (日)

最近の健康法 ――冬の間サボっていたのですが再開しました――

最近の健康法

――冬の間サボっていたのですが再開しました――

 

健康維持のため、25年以上、朝の「ウォーキング」を続けてきました。元々、歩くのは好きだったのですが、小選挙区制反対のために毎日のように会っていた仲間の一人、故旭堂南陵さんの体験がきっかけで、意識して毎日歩くようになりました。南陵さんは、当時旭堂小南稜でしたが2006年に南稜を襲名、昨年70歳で亡くなられています。

「毎日20分歩くだけで、体調と体重の管理が上手く行った」というのが彼の言葉でしたが、その後いろいろ試みて、朝一番に大体1時間歩くことが習慣になりました。

それが25年以上続いたのですが、数年前から歩く速度が落ちていることに気付きました。老化現象ですし、「フレイル」と呼ばれることもあるようです。

その対策として何があるのか調べてみたのですが、ただ歩くだけでは脚の筋肉の強化にはつながらないという結論に達しました。加えて「筋トレ」をする必要があるようなのです。

屋内のジムで、様々な機械を使っての筋トレも良いのですが、出来れば屋外の方が快適です。そこで思い出したのが中学時代、サッカー部で毎日のように頑張っていた階段の上り下りです。学校の裏の亥鼻(いのはな)神社の石段は、おそらく100段くらいあって、それを駆け足で何度か上り下りしていたのです。

それと同じくらいの数の石段が家の近くにありました。佐伯総合スポーツ公園です。昨年の春頃から階段の上り下りを始めました。流石に走っての上り下りは無理ですが、かなりの運動量になります。その石段の写真を御覧下さい。

まず、駐車場に車を止めてそこから登り始めるのですが、第一段階の石段です。

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下が18段、上が17段、合計35段です

この上に「中央広場」があります。そこから上への階段です。

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ここも、下の部分と上の部分に分かれていますが、それぞれ30段で計60段です。

この階段を上ると上には大型遊具があります。子ども連れのお父さん・お母さんに大人気です。そこからさらに上に行くと、最上段には陸上競技場があります。そこまで行くのには次の階段を上らなくてはなりません。

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ここは全部で30段です

ということで、全部合わせると125段です。途中の中央広場にはいくつもベンチがあるのですが、それを使って、腕立て伏せと腹筋の運動をしています。それも勘定に入れて、駐車場から始まって、階段の上下と途中の運動をして駐車場まで戻るのに最初は12分かかりました。それでも秋には8分でこなせるようになりました。それを続ければ良かったのですが、冬に入って怠け心に勝てなくなり、一時中断しました。意外に脚力が伸びなかったのも理由の一つです。

春になり、また階段の上下を再開しました。少し「筋トレ」らしく、足首にそれぞれ1kgのウエイトを巻き付けています。

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ちょっとスピードは落ちましたが、それでも往復一回で10分のペースです。無理をしないように、これを4回、つまり40分の筋トレを続けています。

上手く行くと、夏頃には歩くスピードが「スイスイ」と言えるほど速くなっているはずです。

[2021/5/16 イライザ]

 

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2021年5月15日 (土)

5月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

ブルーベリーの剪定作業が遅れながらも続けている。もう受粉が進行中なので枝を鋸できるとボロボロパラパラと白いブルーベリーの花が落ちてくる。ブンブンとミツバチの羽音が聞こえキジの鳴き声に加えてトンビの鳴き声が聞こえる中での作業だ。田植えの機械の音も聞こえる。初夏の農園はにぎやかさを増す。一方山野草は初夏の気持ちよさを見る人にアピールしているみたいだ。でもよく見ないと見過ごしてしまう。

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5月8日(土)。農園に一人泊まるので夕焼けを見ながらの剪定作業となった。トンビの声はこの杉林から聞こえる。巣を作ったのかも。

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明けて5月9日(日)。黄砂のため朝日もぼやけている。

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農園が管理している池の見回りに行く、池には鯉が1匹いて悠然と泳いでいる。

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池の法面のマムシグサも鎌首のような頭を持ち上げている。

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ホウチャクソウを発見。近くにホトトギスも発見。昨年のこの時期に数年ぶりに草を刈ったのだが、そうするといろいろな山野草に出会えることになった。

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5月11日(火)。ブルーベリーの剪定を終日行う。

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早生のブルーベリーの実も少しずつ膨らんでいる。

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5月14日(金)。終日ブルーベリーの剪定を行う。作業中聞こえるのはオスのキジとトンビの鳴く声。合間に9日に行った池を見回る。池の法面にアザミが咲きだす。

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杉や桧を植えてある林の中バイカイカリソウを発見。

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ブルーベリーの畑の中にアヤメも発見。ジャーマンアイリス、スイセンに続いて庭の花壇から畑にやってきたらしい。

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畑の法面のオオタニウツギが開花。ウノハナももうすぐだ。

 

2021年5月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年5月14日 (金)

「今日は何の日?」

朝からいい天気です。

大竹市阿多田島にフェリーで向かいます。

島に着くと漁船に乗りかえて、海に浮かぶ釣り堀へ。

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 それを打ち破るように聞こえてきた轟音。

音のする方を見ても、すでにそこには何もなく、

キョロキョロと空を見回すと、遥か先に2機の戦闘機が並んで飛んでいました。

 

「そうか。ここは岩国基地のすぐそばだった。」

 それからは、ひっきりなしに轟音が続きます。

 

憲法第十三条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

第二十五条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

多くの人の権利を奪って、命を奪うための戦闘機の訓練が優先されている今日は、憲法記念日。

  

ふじわら

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2021年5月13日 (木)

花盛りの被爆樹木センダン

一昨日夕方、NHKの「お好みワイド」を見ていたら、白神社前の平和大通りの被爆樹木センダンを紹介していました。

広島市のホームページには「被爆樹木は現在でも爆心地から概ね半径2km以内に約160本残っている」と紹介されていますが、センダンの木で残っている被爆樹木は、この1本だけです。

近くにある木ですので、翌日さっそく見に行ってきました。天気予報では、午前中から雨が予想されていましたので、雨が降る前にと思い午前9時過ぎに現地を訪れました。

朝から曇がびっしりの空模様のため、「青空の下での写真」とはなりませんでしたが、何枚か写して帰りました。

今まで気付かなかったセンダンの花ですが、すぐ見つけることが出来ます。一つの花は、わずかに1cm足らずの5弁の小さな花ですが、沢山の花を咲かせていますので、下から眺めると薄紫に見えます。

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落下した花弁をよく見ると、表が白で真ん中に花柱があります。裏側はピンク色で、とてもかわいく見えます。この花が結実し、秋には黄色い実をつけるそうです。

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センダンは、とても大きく育つ木ですので、周りの被爆樹木の中でも一番高く、見上げる程大きく伸びています。

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「花の香りは甘美なバニラのようなチョコレートのような香り」と紹介する記事がありましたが、この日は香りを嗅ぐことはできませんでした。愛宕池周辺を掃除されていた方に聞いたところ「曇り空の今日は、あまり香りが広がっていませんが、天気の良い日には、強い香りが広がっていますよ」ということでした。訪れた日が悪かったようです。

この白神社前の平和大通りには、旧国泰寺の愛宕池を取り囲むようにセンダン1本、エノキ2本、ムクノキ3本、クロガネモチ5本、カキの木1本の計12本の被爆樹木が、葉を茂らせて今も元気な姿を見せています。市内でも、被爆樹木がこれほどまとまって残っているのは、ここだけだと思います。爆心地からは、530mの距離ですので、被爆した時樹は、地上部がほとんど焼けたようですが、見事に再生しています。愛宕池、今は水がありませんが、この池の水というか水分が、樹木の命を守り、被爆樹木として生き残ったように思えます。

ここには、センダンだけでなく、市内で唯一残っているカキの木の被爆樹木もあります。

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隣接する白神社の境内(爆心地から490m)にも3本の被爆したクスノキが残っていますので、被爆樹木探訪では、ぜひ訪れたい場所です。

いのちとうとし

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2021年5月12日 (水)

改正されても問題が残る国民投票法

昨日5月11日、衆議院本会議において「憲法改正手続きに関する国民投票法改正案」(以下「国民投票法改正案」という)が一部修正されて可決し、参議院に送付されました。マスコミは、これによって国民投票法改正案は、今国会中に成立することが確実になったと報道しています。

今回の改正内容は、主に公職選挙法に合わせるもので、①駅や商業施設でも投票できる「共通投票所」の設置②期日前投票時間の弾力化③投票所に同伴できる子どもの範囲の拡大など7項目となっています。

今回の改正案採択にあたって、立憲民主党が提案した「政党のスポットCMやインターネット広告の規制、運動資金の規制」など「法制上の措置が必要なものは3年以内に法改正する」という付則を盛り込むことが受け入れられました。スポットCMやインターネット広告の問題は、国民投票法が成立した時(2007年)から「問題がある」と言われてきたことですので、自民党が「3年以内に法改正をする」ことを約束したのですから、一定の成果だとも言えます。ただ「約束した」と言っても、今後の検討のあり方がどうなるのかは予断を許しませんので、しっかりと監視する必要があります。

今日私が問題にしたいことは、成立以来一度も実施されたことのない国民投票であるにもかかわらず、なぜ修正しなければならないのか(今回が2度目)です。

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5月6日、衆議院憲法審査会で採決

 国民投票法が成立した2007年は、第1次安倍内閣の時代です。法案が採決される時から、多くの問題点が指摘をされていました。それを端的に表しているのが、参議院で法案に18項目もの付帯決議がついてようやく採択されたことです。その付帯決議の中には、今回修正案採決で付則として加えられた「広告」の問題も、「13 テレビ・ラジオの有料広告規制については、公平性を確保するためのメディア関係者の自主 的な努力を尊重するとともに、本法施行までに必要な検討を加えること。」ときちんと入っているのです。

私は、当時(2007年)から「すぐに憲法改正のための国民投票が実施される状況でもないのに、18項目もの付帯決議をつけなければならないほど問題のある法案の採決はすべきでない。もっと時間をかけて慎重に論議して、法案にきちんと盛り込むべきだ」と指摘しました。決して「国民投票法が成立しなければ、憲法改正ができない」という理由からではありません。国の基本である憲法を改正のための手続きを定める国民投票法ですから、当然国民が平等の立場で意思表示できるような中身を持った法案でなければならないと考えているからです。

当時は与党第1党だった自民党はもちろんですが、野党第1党だった民主党も賛成に回って18もの付帯決議が付けられた欠陥があるとわかっていた国民投票法の採決が、なぜか強行されてしまったのです。大事なことは、「『憲法改正ありき』の姿勢で、問題を残したまま採決を急いだ」誤りをきちんと反省することです。その反省抜きに憲法審査会の論議が進むとしたら、再び誤りが繰り返されることになると危惧せざるを得ません。

国民投票法に残る問題点は、決してCM問題だけではありません。例えば、当時の付帯決議の第6項には「低投票率により憲法改正の正当性に疑義が生じないよう、憲法審査会において本法施行まで に最低投票率制度の意義・是非について検討を加えること。」となっているにもかかわらず、この最低投票率制度について論議が深められてということを聞いたことがありません。

この他にも日本弁護士会が今でも指摘しているように「①原則として各項ごと(場合によっては条文ごと)の個別投票方式とすること②公務員・教育者に対する運動規制は削除されるべきであること③発議後国民投票までの期間は最低でも1年間は必要であること」などなど、検討すべき事項の多くが残っています。

改憲を目指す勢力は、今回の国民投票法改正案が成立すれば、次は具体的な「憲法改正案に基づく論議を始めるべきだ」と言っていますが、とんでもないことです。どうしても「憲法改正」がしたいのであれば、「国民投票法」の残された課題を全てきちんと正すことを先に行うべきです。

いのちとうとし

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2021年5月11日 (火)

我が家の花々 ――手入れが行き届かなくて申し訳ないのですが――

我が家の花々

――手入れが行き届かなくて申し訳ないのですが――

 

『ワシントン・ポスト』紙のオリンピック批判、特にIOC批判を取り上げようと思っていたのですが、日本のマスコミが一報はしてもほぼ無視状態であることも同時に考えなくてはいけませんので、もうちょっと本格的な情報収集が必要です。時間が掛かりそうですし、心に「漣」も立っていますので、まずは心を落ち着けたい思いで、我が家に咲いた花を特集することにしました。時間や枠取りが思うようには行きませんでしたので、本物はもっと美しいことをお断りしておきます。

最初は椿です。3月21日に撮影しました。毎年見てはいたのですが、今年は何故かその美しさが目立ちました。

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次は梅です。二本あるうちの一本ですが、気付いた時が少し遅すぎたようです。同じく3月21日です。

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そして水仙です。去年より広い範囲で花が咲きました。その中の一本です。3月末に撮りましたが、まだ蕾です。

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そしてこちらはロシアンオリーブ。英語だとRussian Oliveです。つまりロシアのオリーブ。木そのものはずいぶん大きくなりましたし、小さいですが実も生ります。4月17日撮影。

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これは石楠花。木は小さいのですが、もっと大きくなるのでしょうか。4月20日撮影です。

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最後に5月10日に撮った花です。長い間モッコウバラだと思い込んでいたのですが、本当は「浪花イバラ」でした。一番元気が良くて、数も多いのですが、こんなに生命力があるとは思いもしませんでした。

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今年はもう少し丁寧に手入れをしたいと考えています。

 [2021/5/11 イライザ]

 

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2021年5月10日 (月)

島根原発2号機の「再稼働」を止めるために

2013年12月25日クリスマス、中国電力は原子力規制委員会(規制委)に対し、島根原発2号機の規制基準適合審査(再稼働)申請を行いました。この時点から規制委の審査開始とされますが、中電はその前月の11月には島根原発から30キロ圏内の自治体に対し、申請することの事前了解を得るため説明行脚を行いました。

安全協定上は松江市と島根県からは「了解」を得なければなりませんが、その他の出雲・安来・雲南・米子・境港・鳥取県への説明は「サービス」でしかありません。中電に対しこれらの市・県からは、中電が松江市や島根県との間で締結しているのと同一の安全協定の締結を迫られました。しかし、中電は最後まで頑なに同一の安全協定を拒み今に至っています。

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中電申請の2日後の12月27日には、東北電力が宮城県女川2号機の申請を行い、福島原発事故後は遠慮していた「B(沸騰水)型」が相次いで申請を始めていくことになります。

女川の方が、島根より早く「合格」が出ましたが、まだ再稼働にはなっていません。女川は被災原発ということで、「まさか」という気持ちを持っていましたが、翌年には南海トラフの巨大地震が想定される中部電力浜岡原発4号機が、再稼働申請するなどまさに恥も外聞もない状況となりました。

福島原発事故後に実際に再稼働した原発は、すべて「P(加圧水)型」です。福島原発がBだったので、Bのどこが再稼働の先頭になるかが、この業界の大きな関心事となっています。

島根の申請から約7年半、改めて島根の問題点を考えてみました。原発には共通する問題点がたくさんありますが、あえてその事はここでは書かないことにします。

まず一つには、地震の問題です。島根原発の南側約2キロにある宍道断層の長さです。島根原発1号機が建設された当初は、宍道断層は無いとされていましたが、最終的には39キロに改められました。地震の危険性が高くなると、原発の「安全対策」は強化されなければなりません。その尺度となるのが「基準地震動」で、申請時の600ガルから820ガルに上がり、当然対策費用も上昇していきました。

この宍道断層、その東側にある鳥取県沖西部断層と繋がっているという懸念が付きまといます。また規制委が先月4月21日に見直した、新たな地震評価、断層などの痕跡が地表に現れない「未知の震源」による地震について、その評価手法を加えています。この問題について島根原発の規制委判断はどうなったのか、その点に疑問があります。

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次に自治体同意の問題です。最初にも書きましたが、安全協定上、中電は松江市と島根県からの了承を得れば再稼働は可能となります。しかし他の30キロ圏内の自治体の了承を得ることなく、再稼働に踏み切るような強引なことはしないでしょうし、させてはなりません。

そしてなんといっても、いわゆる避難計画です。避難元自治体~島根県・鳥取県~広島県・岡山県~避難先自治体という複雑な県間防災協定の中、これが実効性のある形で運用できるかという問題です。規制委にいわせれば、避難計画は審査対象ではないと逃げるでしょう。そう言うだろうということを知った上で、この3月に原水禁エネルギー政策提言作成委員会が発表した、「第3次原水禁エネルギー政策の提言」が明らかにしている、「原子力防災制度の実効性を審査する第三者委員会制度の創設」を求めるとともに、現状の問題点を避難元にも避難先にも問題提起することだと思います。コロナ禍の中、相反する感染防止対策と原発避難対策の矛盾を明らかにしていくことも重要です。避難者を受け入れることになる、岡山・広島両県の同意も必要だと思います。

もちろん火山や津波の問題もあります。

以前、「ケンカの仕方」という雑文を書いたことがありますが、勝つために一番大切なことは、「勝つのだ」という気持ちになることだとしました。これは「最後の総会屋」と呼ばれた、広島市生まれの小川薫の言葉です。彼が出席した最後の株主総会は、中国電力でした。凄まじい威力のある人でしたが、ミーハーの僕は総会が終わった時、軽くあいさつを交わしたのを今でも鮮明に覚えています。目標が定まらないケンカは、ストレスになるばかりです。

木原省治

    
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2021年5月 9日 (日)

学徒動員と原爆被爆その6-鳥取県への帰郷の路(中部地区)

4月14日に掲載した「学徒動員と原爆被爆その5-鳥取県への帰郷の路」では、鳥取県立鳥取工業高等学校の「創立三十周年記念誌」に掲載された「学徒勤労動員の思い出」を紹介し、鳥取県東部の学校が、呉の動員先から帰郷の路が、「呉線三原経由」だったことを紹介します。

さらに「鳥取県中部の倉吉市内の学校(倉吉中学など)の帰路が判明していませんが、地理的にみると同じ経路をたどり、鳥取駅から山陰線で倉吉に帰郷したと予測されます」と推定の経路を記載しました。

しかしどうしても気になりましたので、改めて「鳥取県中部の学校の帰郷経路を記載したものはないでしょうか」と鳥取県立図書館に追加の調査をお願いしていました。先日、その調査結果として、鳥取県立図書館から下記のメールが届きました。短い文章ですので、全文紹介します。

「断片的な事実となるかと思いますが、以下ご案内いたします。『日本海新聞』の連載企画『鳥取県の学徒勤労動員』(平成138月~平成178月、河辺収著)において、鳥取県中部関係の記事を確認しましたのでご連絡いたします。

平成17814日付の連載(第536号)『呉・広海軍工廠/従事した仕事(11)』に由良の育英中学校の帰郷記事が見えます。

8月17日に呉駅で切符を購入。翌18日呉発糸崎行き、翌19日岡山発伯備線にて、伯耆大山駅経由、由良駅着です。

井上金臣先生の日記を利用されたことが、731日の第534号に記載が確認できます。」(原文のまま)

ここに出てくる由良の育英中学校からは、昭和19年9月21日の日本海新聞によれば、215名が、動員派遣されたことがわかりますので、私が調べようと思っていた学校の一つということになります。由良育英中学校は、現在県立鳥取中央育英高校となっていますが、学校は由良駅のすぐ隣にあります。

Photo_20210508163301コナン駅の愛称が付けられた現在の由良駅

この由良駅は、由良駅は山陰本線の倉吉駅から米子方面(下り)に二つほど寄ったところの駅です。米子までは直線距離で38キロ余り、鳥取までは直線距離で43キロのところに位置していますので、まさに鳥取県の中間に位置する駅ですので、鳥取県の中部地区にある駅と言えます。

予測したとおりに、鳥取県から呉に学徒動員された生徒たちのうち、中部の学校も東部の学校と同じように、帰郷路は、呉線三原経由だったことが確認できました。

やはりと思うと同時に、この学校は、経路として米子駅の東隣の伯耆大山駅を経由しているにもかかわらず、なぜ米子駅で下車する米子工業は、なぜ芸備線木次線経由で帰郷したかという疑問が起こります。残念ですが、今までに知ることのできた資料からでは、この疑問を解くのは困難です。解けない疑問ですが、一つ疑問が解明できると何故か新たな疑問が湧いてくるのが、今回の調査です。いつかこの疑問も解明できればと思っています。

ところで、このメールに出てくる「日本海新聞の連載企画『鳥取県の学徒動員』」に興味が湧きます。メールでは、この連載は「平成138月~平成178月」に連載されたことになっていますが、さらに詳しく調べてみると「第1部が13号、第2部が20号、第3部が19号、第4部が33号、第5部が38号」で、計123回という長期の連載企画だったようです。かなり細かなところまで調べられていると思いますので、全部目を通したい気になります。一冊の本にまとめられているとよいのですが、残念ながら一冊の書籍にはなっていないようです。時間があれば、全部の紙面を読んでみたい気がしますが?

それでも、今回は鳥取県立図書館のおかげで、新たな事実を学ぶことが出来ました。

いのちとうとし

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2021年5月 8日 (土)

5月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

農園での作業のメインはブルーベリーの剪定と草刈り。今年は5連休だったが雨も降ったりして順調とまではいかなかった。また3日の午後には近くでブルーベリー園を始めた家族がいて防鳥ネットを張るのが初めてなので棟上げ感覚で援農に行った。4日の午後1時過ぎ農園の家の縁側で作業の準備をしているとゴンと音がした。窓ガラスに小鳥がぶつかって即死。胸の羽がオレンジがかった黄色の野鳥でネットで調べたらオスの「キビタキ」だった。東南アジアから5月頃にくる渡り鳥で巣作りの最中だったようだ。残念。安芸区の我が家には燕が巣作りを始めて家じゅうの話題になっていて鳥たちとの出会いや別れが連休中の体験。

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5月1日(土)。5連休が始まる。農園のブルーベリーのある場所は3段ある田んぼを転作した所とそのそばの里山で松くい虫の被害で木を切った後の2か所がある。1日からのブルーベリーの剪定は2段がすみ一番下の3段目に取りかかる。いい天気だ。

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5月2日(日)。剪定した枝を1か所に積み重ねる。冬と違って、切った枝にはたくさんの花ついている。この日は家族を返して農園に一人泊まる。7日にこの枝は2人の友人が援農で全部燃やしてくれた。感謝。

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5月3日(月)。朝起きて農園を巡回。辺り一面霧が立ち込めている。姿は見えないがオスのキジが鳴く声が響く。

①ブルーベリー畑。

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⓶里山のブルーベリー園に入る手前の畑。ジャーマンアイリスがぽちぽち咲きだしている。

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③小高い里山のブルーベリー園から見える水が張られた田んぼ。

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④里山のブルーベリー園の中の所どころにクモの巣が張られている。霧の水分がついて朝日でキラキラして浮かぶ、

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5月4日(火)。3段目の畑の草刈りを1日から毎日少しづつ行う。スミレやレンゲがあると刈らずに残しておくようにした。これから種が出来れば増えてくれるとの期待感からだ。同時並行でブルーベリーの剪定を続ける。

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農園近くの田んぼはもう田植えが始まっている。今年のサクラの開花は早いが田植えは毎年この連休に行われる。人々の仕事の都合が優先のためだろう。

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5月5日(水)。朝から雨で午後雨が上がったので一人安芸区の自宅を出発。ブルーベリーの剪定は枝に水滴がたっぷりあってできないので先週植えたブルーベリーの苗木の株もとにモミガラを巻き竹の杭を立てて紐で縛ったりの雑用を数時間行う。早生のブルーベリーの実が顔を見せている。

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夕方の西日に浮かぶエビネの花。もう少し背が高くなりそう。

 

2021年5月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年5月 7日 (金)

フライフィッシング同行記

今年もゴーディンウィークの一日、友人のフライフィッシングに同行し、若葉が芽吹いた渓谷の景色と綺麗な空気を満喫してきました。訪れた場所は、廿日市市吉和の中津谷川の支流小川川のフライフィッシング専用の釣り場です。

釣り場は、10のゾーンに区切られ、一つのゾーンには、一組の釣り人しか入れません。すでに数組の釣り人が渓流に入り釣りを楽しんでいました。

私たちがめざす一番奥の10番のゾーンへ行く途中で、まず私のためのタラの芽の採取です。毎年タラの芽を採取する場所です。手の届く高さにあるタラの芽はすでに採取されていますので、高枝バサミでなければ採取できない高い位置のものを採取します。

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15分ほどで、二人で持ち帰ることのできる量が採取できました。その一部です。

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今年広島県の桜は、全国で一番早く咲きましたが、ここには、今が盛りと花を咲かせている一本がありました。

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来る途中でも吉和に入ると、散り始めかなという山桜を何本も目にしましたので、吉和の開花時期は例年通りだったようです。

タラの芽採取が終わると、車でさらに奥に進みます。山仕事の為だと思われますが、渓流に沿って車が通れる道が整備されています。友人が釣りをする一番奥の10番のゾーンは、他のエリアと比べるとずいぶんと長いゾーンになっています。毎年この10番のゾーンに入りますが、今年は、今までよりも奥からスタートすることになりました。そのため道路から渓流に簡単に降りることが出来ませんので、今年は釣りの様子を少し遠めから見ることになりました。

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釣り始めてすぐにアタリがありました。水際まで降りられないので、遠景からの写真になってしまいましたが、24~5センチのゴギです。ゴギは、中国山地の標高700m以上の渓流に生息するイワナで、最も大きくなっても30センチぐらいのようです。

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午前中1時間半、昼食後1時間の釣りで、釣果は殆どが24~5センチぐらい大きさで、ゴギ、アマゴ7~8匹でした。フライ占用のこの川は、キャッチアンドリリースがルールとなっていますので、釣った魚はすぐに川に戻すことになります。これより小さなサイズの魚は、すぐにリリースしていますので、実際にもっと多く釣り上げています。エサは、友人が手作りしたフライです。

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釣りのできない私は、芽を吹いたばかりの木々を眺めながら渓流沿いを散策です。

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名前の分かりませんが鳥のさえずりが聞こえます。キツツキの音も響きます。渓流沿いの路には、様々な花が咲いています。この黄色い花いたるところに咲いています。

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花の名前をスマホのアプリで調べようとしてのですが、電波が届かない場所で、残念ながら調べることが出来ませんでした。ハチが蜜を集めにやってきます。

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他にも「スミレ」とわたした勝手に思っている花やワサビの白い花も咲いています。木々の間には、フジの花も沢山目にすることが出来ました。

好天に恵まれ気温も高くなり、今年も楽しい一日を過ごすことが出来ました。

いのちとうとし

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2021年5月 6日 (木)

何故ワクチン接種が遅れているのか ――これから発生する被害のかなりは「人災」と言えるのではないでしょうか――

何故ワクチン接種が遅れているのか

――これから発生する被害のかなりは「人災」と言えるのではないでしょうか――

昨年の4月初めから5月まで、コロナについての情報をできるだけいろいろな方法で集めました。最終的にはネットから優れた情報や最新のデータを得ることができましたので、それらをまとめて、何とか全体像をお伝え出来たのではないかと思います。

それから一年、政府の対策は一向に進んでいないようです。それでもオリンピックを強行するという方針だけは揺るがないようですので、オリンピック・パラリンピックとコロナとの関連を軸に、現状を切り取っておきましょう。

一年前にこのブログで皆さんにお伝えした内容を、以下かなり単純化して議論をするつもりです。その前に、一年前にも皆さんに是非読んで頂きたいと考えていたTomas Pueyo氏の一連のサイトを紹介した記事も念のため紹介しておきます。より詳しい説明がありますので。

Pueyo氏の結論は、コロナの感染が起きたら、まずは「ハンマーで叩く」ように、「ガツン」とした手段で感染の防止をする、つまり「ロックダウン」のような措置を取るということです。その後は、その措置をある程度は緩めて通常の社会生活に近付ける。しかし再度、感染が広まったら、最初の「ハンマーで叩く」までの状態になる前に感染予防の措置を強める、というものです。これをPueyo氏は、「ダンス」と呼んでいます。

そして、最終的にコロナを鎮圧するためには、ワクチン接種か、有効な治療法の発見しかない訳ですので、各国の政府としてはこれらの開発を奨励する必要がある、というものでした。

その後、12月にはイギリスでファイザー社のワクチンが承認され、日本では2月に承認されています。その他にアストロゼネカ社やモデルナ社のワクチンも承認申請中です。政府も「ワクチン接種」を奨励しているように見えますが、誰の目にも明らかなのは、ワクチンの絶対量が足りないという事実です。

にもかかわらず、マスコミが強調しているのは、「皆さん、ワクチン接種をして下さい」ですし、そう言われたら、すぐ申し込んで接種して貰いたいと思うのが人情です。でもワクチン接種申し込みの手続きをしようとしても「電話がつながらない」、「市役所では受け付けない」、「個々の病院には連絡しないで下さい」等々といった理由で、接種の「受け付け」さえままならないのが実情です。

自治体の答えは「ワクチンが届いていない」ですし、調達量が少ないからだということは明らかです。次のグラフを御覧下さい。(クリックすると、大きく鮮明になります。)

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日本経済新聞の「チャートで見る接種状況 コロナウイルス」から

 

そして、4月末の接種済みの人数は、約250万人です。人口1億2千万人として、約2パーセントです。各国との比較をすると、次のようになります。

Photo_20210505212601

https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/vaccine.html?n=j&s=y

 

接種率が10パーセント以上の国から日本に旅行する、あるいは何らかの目的で、例えばオリンピックに出場するためにやって来るのには躊躇するような数字です。

この他にも、中国やイスラエルなども接種率は高いので、日本の低さが目立ちます。コロナの「頼みの綱」はワクチンということ、そして昨年11月頃からワクチンができることは分っていたのですから、製薬会社と交渉して自国民に接種できよう準備をしていたのはどの国も同じでしょう。日本もそんな努力をしているという印象を与える報道はありましたし、まさか、今ほど酷い状況になるとは当時、一般市民は考えもしなかったでしょう。しかし、専門家や政府の担当者なら当然、先を読んで自国民のためにワクチンの必要量を確保すべきだったのではないでしょうか。

もし他国とワクチンの「取り合い」になったとしたら、コロナ禍でもオリンピック・パラリンピック開催を国策の最優先事項にしているとしか見えない日本政府なら、「オリンピック・パラリンピックを開くためには、日本国民への接種が優先さるべきだ」という主張をするくらいはしないとその本気度は示せなかったのではないでしょうか。

今月初めに開かれた、オリ・パラのテスト大会を兼ねた飛び込みのワールド・カップ (W杯) には、オーストラリア選手の姿はありませんでした。選手派遣をしなかった飛び込みのオーストラリア連盟は、「W杯に先立って予防接種はできなかった。現時点で公正で安全な五輪予選イベントの開催は不可能というのが私たちの立場です」と述べています。ワクチンの確保へさえ十分にできていない日本サイドのコロナ対策では選手を送れないという判断です。

世界の厳しい判断が示されるにつれて、組織委員会でもそれなりの対応をしています。例えば、4月28日に更新版が公表された選手向けの「プレーブック」には、関係者には毎日PCR検査をすることが盛り込まれています。

しかし、一年前の日本政府は、PCR検査数を増やすべきではないことを、三つの理由を挙げて主張していました。次の三つです。

(1) 検査の精度が高くないこと。

(2) 検査のためには多くの人手が必要であること。

(3) 陽性者が増えると、医療関係者の負担が増え、医療崩壊につながること。

日本政府が忘れていても、これが日本のコロナ対策の基本であることは知れ渡っていますし、オーストラリアと同じく、どの国も自国の選手の命や健康を最優先するでしょうから、日本側のコロナ対策が本当に信頼できるものなのかどうかは丁寧に検証するでしょう。そして、上記の三命題は時間の経過によって改善される性質のものではないことも併せて判断の材料にするはずです。

 今からでは遅いかも知れませんが、一年前に日本政府、あるいは専門家が決断すべきだったことは、

 (a) コロナ対策としては、次のようなシナリオを国民と共有すること。つまり、最初のハンマーの効果が現れた段階から、「ダンス」の段階に入って、感染の拡大と抑制という山と谷を繰り返すことになる。それは、ワクチン接種が全国民に行き渡るまで続くので、それまでの時間稼ぎに必要不可欠な国民的協力をしてもらうために、「山」から「谷」への明確な移行基準を国民と共有する。

(b) 医療体制の整備は勿論、経済を回してゆくために必要な環境を整えておくこと。例えば開店自粛や時短の協力者への補償する覚悟をしっかり示すこと。

(c) 何としても他国に先駆けてワクチンを確保すること。

このような判断ができるだけの材料は一年前にはなかった、という反論が出てくるかもしれません。でもそんなことはありません。昨年の2月末には、北海道で二人の10代の感染者が出たこと、そして全国1700以上ある自治体の中で二つの自治体が小中学校の休校を決めたという事実から、「全国一斉休校」という大胆な決断のできる政権だったではありませんか。それに比べれば、(a)(b)(c)は皆、きわめて合理的かつ論理的な結論です。できなかったはずはないのです。

 ゴールデン・ウイークが終り、おそらくこれからの感染者数は急激に増えると予測されています。その内のかなりの数は、一年前に政府の不作為によって起きたと考えても良いということになります。つまり、コロナのせいというよりは、「人災」に分類されるべきなのです。

 [2021/5/6 イライザ]

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2021年5月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その23-3) 日本の姿勢が問われる「出入国管理及び難民認定法」改正

― 政府案・野党共同案、審議はじまる ―

前回、前々回に続き、現在国会で審議されている「入管法」改正について取り上げます。416日の衆議院本会議で政府改正案の主旨説明が行われました。前回も述べましたが、政府案は難民認定申請が3回目以降の申請の場合には送還できるようにすること、退去命令に従わない者への罰則を新設するなど多くの問題を持っています。国連理事会の恣意的拘禁部会も4月初旬に「改正案は国際的な人権基準を満たしていない」と再検討を求める書簡を日本政府に送っています。

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4月21日、衆院法務委員会で安富潔(慶應義塾大学教授・法務省第7次出入国管理政策懇談会座長代理)、柳瀬房子(NPO法人難民を助ける会会長)、市川正司(日弁連元人権擁護委員長)、児玉晃一(弁護士)4人の参考人の意見陳述に続き質疑が行われ、本格的な審議が始まりました。その詳細な紹介は省きますが、児玉晃一弁護士の最後の訴えが印象的でしたので、紹介します。


最後に議員の先生方にお願いを申し上げます。こちらにいらっしゃる議員の先生方、一人でも多くの人を幸せにしたいという志を持たれ本当に大変な日頃の職務に就かれていると思います。人権外交に関する超党派議連ができていると報道で聞きました。人権は普遍的な価値だから国内の問題に限らず、外国の市民を助けるために日本の国会議員の先生方が力を尽くそう、そういう趣旨と受け止めています。非常に崇高なことだと思います。であれば、日本にいる外国人の人権にも是非目を届けていただきたい。

私には夢があります。国籍や在留資格とかに関係なく、すべての人が家族と一緒に暮らす、迫害の恐怖から逃れる、不当な身体拘束から解放される、あるいは収容されていても適切な医療を受け、命を維持できる。いわば、当たり前の世界をが、私の夢です。残念ながら今回の法案は、この夢とは真逆の方向に向かっていると思います。

私はこの法案が通って、笑顔になる外国人の姿がまったく思い浮かびません。むしろ、既に苦痛に満ちている状況にあるのに、苦痛をさらに加える、そういう内容になっていると思います。先生方へのお願いは、一人でも多くの人を幸せにしたい、笑顔にしたい。このようなお気持ちをお持ちの皆さんだと思います。

与党とか野党とか関係なく、本当に多くの人を幸せにするためには、どういう法改正が必要なのか、妥当なのか、そこを改めて立ち止まって考えていただければと思います。以上から、私はこの法案に反対します。

(録画放送から筆者が掘り起こしました)

なお、5時間半余りの委員会の様子は次のURLで見ることができます。

https://live.nicovideo.jp/watch/lv331484154

―野党共同案の内容―

下の図表は野党(立憲民主党・共産党・国民民主党・沖縄の風・れいわ新撰組・社民党)が共同提案した「入管法改正案対案」の全体像です。図表上の「現行法」に対する「本法律案」部分が野党案です。まず、「難民等の定義」を「補完的保護対象者」として、前回も紹介しましたが「ノン・ルホールマンの原則」対象者を、迫害を受ける可能性がある国へ送還してはならないという原則が明記されています。

次ぎに、難民認定の公平・中立性を確保するために、政治的中立性をもった独立行政委員会(難民等保護委員会)を新設し、認定主体を現在の法務大臣から移行するとしています。そのことによって、これまで一時庇護上陸や仮滞在などの許可などを含め、入国審査官の裁量権によるところが大きかったものを独立行政委員会が審査・通知を行うことで公平性を担保しようというものです。

また、現行法では在留資格のない外国人を全て収容するという枠組を撤廃し、収容は逃亡の恐れのある場合に限ることや、不法在留者のうち一定の要件を満たした人には定住者の在留資格を与えるなど、国連が求める「国際的基準」に沿った内容になっています。

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【注】上記の図は、クリックすると拡大して見れます。

―関心・世論を高め「政府案」を排し、野党共同案で国際基準の入管政策を―

 616日の会期末まで一ヶ月余り、入管法改正案をめぐる国会審議は極めて重要な時期です。421日の与党議員の質問・意見を見て、果たして児玉晃一弁護士が訴えられた姿勢で審議に臨むのだろうかと極めて不安になりました。審議時間だけ重ね、強行採決というパターンを許してはなりません。

母国で起きた国軍のクーデターで家族や友人など大切な人が生命の危険に晒されいる在留ミャンマーの人たちだけでなく、多くの外国籍の人々や関係者、そして国際社会が注視しています。国会審議に合わせて国会前行動も続けられています。世論を高め、政府案を排し、野党案で国際基準の入管政策を実現させましょう。

(2021年5月5日、あかたつ)

 

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2021年5月 4日 (火)

74回目の憲法記念日

74回目の憲法記念日を迎えた昨日5月3日、戦争をさせない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会が主催する「2021平和といのちと人権を!5.3ヒロシマ憲法集会」が、今年はオンライン集会で開催されました。

「5.3ヒロシマ憲法集会」は、昨年コロナ対策で中止を余儀なくされましたので、今年は2年ぶりの開催となりました。当初屋内での集会を準備しましたが、コロナ感染が拡大しているということで、オンラインでの集会開催に変更されました。

今年の記念講演の講師は、前広島市長・ヒロシマ総がかり行動実行委員会共同代表の秋葉忠利さん。「コロナ過と憲法 私たちはどんな社会を希求するのか」のタイトルで1時間半の講演でした。

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秋葉さんの話は「私たちが思っている以上に深刻な事態が進んでいる。」からスタートしました。そしてその背後に「必ず憲法違反があること」そして「その違反を許しているのは、憲法99条がある」と指摘され、その具体的な事例が紹介されました。その第1が「安倍首相による全国一斉休校」の問題です。「自然災害に対するその場限りの対策」「核兵絶に対する日本政府の態度」などなどです。こう書いていくと、このブログの読者には、このブログでイライザさんが何度か指摘・紹介された事柄だということがわかると思います。そしてこれらにどう対処するのか?です。「こんな思いは他の誰にもさせたくない」という広島の運動から学ぶことが大切だというが、過去の運動を紹介しながら提起されました。

これ以上の紹介は、私の能力を超えますのでここで終えますが、最後の一番大切なこと「政権を奪取するための2021ビジョンを持ち、出来ることは何でも実行しよう」と呼びかけて講演は終了しました。

オンライン集会でしたが、戦争をさせないヒロシマ1000人委員会(平和運動センターや原水禁など)は、広島会場(自治労会館)と東部会場(労働会館「みやび」)の2会場を視聴会場として準備し、参加を呼びかけました。また総がかり行動実行委員会が準備した弁護士会館へは、県原水禁、県護憲のみなさんが参加し、秋葉さんの講演を共有しました。私は、主会場となった弁護士会館に参加しましたが、この会場には33人の参加がありました。この他にも各地区がそれぞれ視聴会場を設け、参加を募りましたが、この貴重な講演を何人の人が聞いてくれたかなとちょっと気がかりです。。

個人でのオンライン参加もありましたが、一堂に集結して講演を聞くことは、連帯感を醸成することが出来て良かったと思います。もちろん、コロナ対策を充分行ってですが。

ところで、弁護士会館から帰宅途中で、一本の電話が入りました。「今日の県民文化センターでの集会はどうなったのですか。会場に行ったのですが?私以外にも何人かの姿がありましたよ」「会場に実行委員会の人が誰もいませんでしたね」と。県民文化センターを使っての講演会からオンライン集会に変わった事情を一応は説明しましたが、充分周知できずご迷惑をおかけした人たちがおられました。本当に申し訳ありませんでした。主催者の一員として、この場を借りてお詫びします。

この他の憲法記念日の取り組みとしては、毎年憲法を守る広島県民会議が、「輝け9条活かそう憲法!」の新聞意見広告を毎年実施していますが、今年も多くの皆さんの協力を得て、昨日の中国新聞11面下段に掲載しることが出来ました。

さて国会では、衆議院憲法審査会で「憲法改正手続きを定めた国民投票法改正案」を巡って、自民党を中心に連休明けにも強行採決するのではないかと言われています。今回の改正案は、駅や商業施設への投票所を設けることなど、投票率を上げるための内容が盛り込まれていますが、国民投票法の問題点はそれだけなのかが問われています。日を改めて、この問題を取り上げたいと思いますが、2007年の成立時は、参議院では18項目の付帯決議が付されたように、採決を急ぐあまり多くの問題点が残されたままになっています。「平和主義」だけでなく私たちの基本的人権である自由と権利を保障する憲法が、こうした問題を残したままで「改正ありき」で、憲法改正が進めてよいはずがありません。

憲法記念日を契機に、一人ひとりの国民が「憲法」に向き合ったほしいと思います。

いのちとうとし

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2021年5月 3日 (月)

平和の鐘

今年のフラワーフェステバルの会場の一つとなる旧広島市民球場跡の北側、ハノーバー庭園の南側にある「平和の鐘」のことをどれだけの人が知っておられるでしょうか。私も今まで気にして見たことはありませんでした。ところが思いがけない出会いから、この「平和の鐘」について調べることになりました。

「平和の鐘」と名の付く「鐘」は、世界各地に、日本全国に、そして広島市にもいくつかあります。広島市内では、平和公園内にある「平和の鐘」がよく知られていますが、今日は、このハノーバー庭園南側にある「平和の鐘」について紹介します。

「思いがけない出会い」と言ったのは、先日、平和運動センターへ行くため旧市民球場後を自転車で移動している時のことです。旧市民球場跡地とハノーバー庭園の間で、数人の市の職員が何か調べている様子が目に入りました。一旦は、通り過ぎようと思ったのですが、気になったので、そばに行き「何をされているのですか」と訊ねてみました。

「今、芝生の養生の具合を調べているのですよ。ここにある平和の鐘の周りの土を掘り起こし、周囲の斜面に芝生を植えたので、それがきちんと育っているのか調べに来たのです。」

よく聞いてみると、ハノーバー庭園の南側に立っている「平和の鐘」の柱の下部分が、土盛りによって埋まっていたので、作られた当時の地面まで戻すため盛り土を取り除いたため、その周囲の土手が崩れないようにと芝生を植えられたそうです。確かに、よく見ると柱の下の部分が、土に埋まった跡でしょうか白くなっています。

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「響け!平和の鐘 実行委員会」ホームページより

市の担当者の話が続きます。「この『平和の鐘』は、これまでただ一回平和公園以外で開催された1949年の平和祈念式典の際、広島銅合金鋳造会が広島市に寄贈されたもので、当時焼け跡に残った金属を集めて鋳造したものです。鐘の音は、あまりすんだ音色ではないと聞いています。」と教えていただきました。「平和の鐘」の傍らにはある説明版を後で読むと、「ただ一回平和公園以外で」の部分を除いて、同じ内容のことが記載されています。

さらに市の担当者からは「1949年以降は、長くこの鐘は鳴らされていませんでしたが、数年前からある団体の人たちによって、8月6日に鳴らされるようになりました。」とのこと。

後で、もう少し詳しいことを知りたいと団体の連絡先を問い合わせたところ、団体「響け!平和の鐘 実行委員会」のホームページ(hiroshima-peacebell.org)を紹介されました。

「響け!平和の鐘 実行委員会」のホームページを見ると、詳しい情報が書かれていますので、その一部を紹介します。

「塔の高さは、9メートル。第3回広島平和祭(現在の平和記念式典)で一度だけ鳴らされた後使われることがなく、ながく忘れられた存在でした。戦後すぐの混乱と資材不足のなかで、『原爆死没者の霊を慰めるため』『命をかけて』鋳造した鐘です。中央公園の片隅で、戦後の広島の復興を見守ってきた生き証人でもあります。」

印象に残るのは、「焼け跡に残った金属を集めて鋳造された」ということです。多くの平和の鐘がありますが、こうした由来を持つ鐘はこの鐘だけではないでしょうか。これだけでも様々な人の思いがこもった鐘だということが理解できます。ですからこの鐘の上部には「英文でノーモアヒロシマズと平和の象徴の羽ばたき」が刻み込まれています。

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ホームページには、制作の経緯が写真入りで詳しく書かれていますので、ぜひ読んでいただきたいと思います。

活動の紹介には「わたしたちは、その存在に気づいて、平成27年(2015年)から毎年86日にこの鐘を撞く活動をはじめました。」と書かれています。

昨年の式典の様子が「第6回 響け!平和の鐘祈念式を次のとおり開催しました。(略)あいさつ文『被爆者の魂の響きが二度と途切れないよう頑張りましょう』を代読。黙祷に続いて、提唱者の船越聖示さんが『この鐘こそが浜井信三元市長の魂のこもった平和の鐘であり、大事に継承していきたい』とあいさつ。その後、実行委員会メンバーと参加者が順次点打し、来年の祈念式を約束して解散しました。」と紹介されています。

「浜井信三元市長の魂のこもった」という言葉が出ていますが、それをうかがわせる経緯がホームページには次のように書かれています。「鐘の形は、当初釣り鐘型が予定されていたが、浜井信三広島市長が『世界の平和を祈るのだから、外国人にもなじめるものを』とベル型にしたと伝えられています。」

平和の鐘祈念式は、8月6日の午前9時30分から午前10時までの30分間実施され、参加者は、約20人だったようです。前年2019年の第5回の式典は、合唱団を含め約100人が参加した(第4回は約150人参加)と記されていますので、例年はもっと参加者は多いようです。

今回もまた新たな被爆後の歴史を知ることになりました。

いのちとうとし

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2021年5月 2日 (日)

ミャンマーの犠牲者の追悼をし、ミャンマーの平和の為にー追悼キャンドル集会

2月1日、ミャンマーの国軍がクーデターを起こし、3カ月が過ぎました。クーデターに抗議し民主化を求める市民に対し、警察や国軍などの治安部隊が発砲し、少なくとも759人(4月30日現在現地の人権団体の発表)の犠牲者が出ています。そして4000人を超える市民が逮捕拘留されたといわれています。

広島でも、3月23日に原爆ドーム前で「Save Myanmar ミャンマーを救え」との思いで、犠牲者の追悼のための集会が実施されました。その様子は、3月28日のこのブログ「Save Myanmar(Burma)ミャンマー(ビルマ)を救え―原爆ドーム前集会: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介しましたが、その集会を呼びかけた仏教者だけでなくキリスト教者など宗教者の呼びかけで、4月28日の午後7時から、同じ原爆ドーム前で「ミャンマーの犠牲者の追悼をし、ミャンマーの平和の為にー追悼キャンドル集会」が行われました。

集会開始前に、ミャンマーから送られてきた「犠牲者200人の写真」が並べられ、その周りがキャンドルで囲まれました。

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開会のことばの後、まず仏教式の追悼法要が行われました。お経の合唱の後、追悼のことばが述べられました。この集会の意義が理解できますので、その一部を紹介します。

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「本日ここに、原爆ドーム前に有縁の人々参集して、去る2月1日、ミャンマー軍が起こしたクーデターに対し、非暴力・不服従の抵抗の中、不条理にもそのいのちを奪われていったミャンマー(ビルマ)市民の人たちに思いを馳せ、追悼のお勤めを致します。(中略)今、仏教の信仰を持つミャンマー市民の人たちはそのお釈迦様の教えに従って、非暴力・不服従に抵抗を続けてこられました。その中で生命を奪われていったことは、誠に無念の思いであります。私たち日本の仏教徒全員が、『他の人が害するのを容認してはならぬ』という言葉にもっと忠実であるならば、殺される人はもっと少なかったのではないかと思います。追悼とは、亡き人の願いをたずねることです。その願いは、非暴力・不服従でミャンマー軍と闘っているその市民の横に立ってほしいということでありましょう。『軍にミャンマー市民を殺させないで』という声を心にきざみ、私たち日本の仏教徒もあなたたちと同じ道を進みたいと思います。これから、ここに殺されたミャンマー市民の願い、そして仏様の願いを私たちの誓いとするお経「重誓偈」をお勤めします。」そして読経が行われました。

続いて、キリスト教式の追悼が行われました。カトリック、カソリック合同です。讃美歌の合唱の後、聖書の朗読、そして「とりなしの祈り」が続きました。

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その後、ミャンマーからオンラインでの訴えがありました。その言葉をきちんとメモすることが出来ませんでしたので、ここでは詳しく紹介することはできませんが、「多くの市民の命が奪われていること、自分たちもいつ逮捕拘留されるかわからない状態にあるが、抗議の行動を止めることはできない。ミャンマーで起きている事実を知ってほしい、そしてミャンマーを助けてください」という内容の呼びかけでした。

最後に「今後の行動」が呼びかけられました。①毎月1日の15時から30分間、原爆ドーム前で街宣やチラシ配布をし「Save Myanmarの行動」を行う②三次で行った写真展「ミャンマー(ビルマ)で何が起こっているの?」の各地での開催③オンラインMeetingの開催④ミャンマーや日本国内の活動と連携して必要に応じて集会を開催するなどを確認して集会を終えました。33名の参加がありました。

最近は、ミャンマーの報道が少なくなっていますが、いまも軍・警察による市民への弾圧が続いている事実を忘れてはいけません。ミャンマーと歴史的にも経済的にも深い関係にある日本の姿勢が今問われています。

昨日(5月1日)に、最初のチラシ配布などの街頭行動が行われましたが、私は予定していた別の行事があったため参加できませんでしたので、その様子を報告することが出来ません。来月は参加して様子を紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2021年5月 1日 (土)

小選挙区制度の問題点 ――「純粋に」案理候補に投票した人の権利はどうなるのか――

小選挙区制度の問題点

――「純粋に」案理候補に投票した人の権利はどうなるのか――

 

このブログにコメントをお寄せ下さっている「匿名希望」さんから、とても大切な問題提起がありました。

4月1日の記事に対してのコメントです。

「贈収賄関係なく、案里さんに、投票した有権者の権利は、どうなるのですか。案里さんに、議員になって欲しいと、願った有権者の意思表示は?」

 これは、「死票」と呼ばれる大問題です。つまり、選挙で意中の候補に投票したけれど、その候補が落選すると、自分の投じた一票を国会や地方議会で反映してくる議員がいないということになってしまうのです。一票が「死んだ」のです。

 純粋な思いで案理候補に一票を投じた有権者の意思が国会では反映されなくなりましたが、それは、これまで長い間、野党に投票したけれどその票は国会では反映されない、これは大きな問題ではないかと主張してきた野党支持者の言い分でもあるのです。

 少し複雑になりますが、小選挙区制度を推進した人たちは、「中選挙区では死票が多い」ということを選挙制度を変えるための理由として挙げています。しかし、理論的にも小選挙区制度導入後の実績としても、小選挙区制度で死票が増えることは紛れもない事実として認められています。

 この点については、2020年の811日の本ブログで取り上げています。

 「そこを再度読んで下さい」で終わりにしても良いのですが、クリックして頂く手間を省くためにも、そして大切なことは何度でも繰り返すべきだと信じている私の立場からも、一部抜粋して再掲します。

 2015年の時点では、小選挙区制の弊害は広く理解されていました。しかし、それから5年経った今、危機感はどこかに消えてしまい、小選挙区制を廃止してより良い制度を導入しようといった声もほとんど聞こえなくなってしまいました。身近な所での政治の腐敗に対処するだけで時間もエネルギーも使い果たしてしまい、選挙制度にまで目が向かなくなってしまったのだと思います。

しかし、社会構造の本質を忘れては、どんな改革も不毛に終りますので、「定期的に」問題提起をしています。今回は、何故小選挙区制が駄目なのかについて、ザっとお浚いしておきましょう。

 まず、小選挙区制導入の立役者として何時も挙げられるのは三人です。当時衆議院議長だった土井たか子さん、自民党総裁だった河野洋平さん、総理大臣だった細川護熙さんです。小選挙区関連法案が衆議院で可決され、参議院では否決という結果になった時、本来はこの法案は廃案になるのが憲法59条の本則です。しかし、両院協議会を開くことも許されていますので、両院協議会が開かれ、その結果は不調、つまり協議会としての結論はなく、廃案になるはずでした。その際に、土井さんが河野・細川の二人を招いて妥協案を作るよう指示し、その結果が今の小選挙区制なのです。

 その一人、河野洋平さんの反省の弁が注目されました。それは、もう一人の立役者だった土井たか子衆議院議長(当時)お別れの会(20141125)での次のような言葉です。

 最後にあなたに大変申しわけないことをした。おわびしなくてはならない、謝らなければならない大きな間違いをした。

 細川護煕さんと2人で最後に政治改革、選挙制度を右にするか、左にするか、決めようという会談の最中、議長公邸にあなたに呼ばれた。直接的な言葉ではなかったけれども、「ここで変なことをしてはいけない。この問題はできるだけ慎重にやらなくてはいけませんよ」と言われた。あなたは小選挙区に対して非常な警戒心を持たれていた。

 しかし、社会全体の動きはさまざまな議論をすべて飲み込んで、最終段階になだれ込んだ。私はその流れの中で小選挙区制を選択してしまった。今日の日本の政治、劣化が指摘される、あるいは信用ができるかできないかという議論まである。そうした一つの原因が小選挙区制にあるかもしれない。そう思った時に、私は議長公邸における土井さんのあの顔つき、あの言葉を忘れることができません。

 当時の首相で、河野氏と共に、葬り去られるはずだった小選挙区制を復活させ、導入した細川護熙氏も導入は誤りだったことを認め、あまつさえ、自分はずっと中選挙区制度が良いと思ってきたのだ、と朝日新聞のインタビューで述べているほどです。

これだけで、小選挙区制の罪状は明らかなのですが、とは言っても、客観的な数字も掲げておきましょう。説得力のあるデータの内、得票率と議席の獲得率の乖離がやはりこの選挙制度の歪みを最も忠実に反映しています。まずはグラフを御覧下さい。

  31

この4回の選挙全てにおいて、自民党は過半数には達しない得票率で、70パーセント以上の議席を占有しています。特に、2012年の選挙では、4割そこそこの得票率で8割近い議席を獲得しているのですから、自民党支持者の意思は、野党支持者の意思の約二倍の価値があることになります。

 「一票の格差」が問題にされるときには、選挙区内の人口を比較して、人口の少ない選挙区と多い選挙区では、一票の価値に差があることが問題にされるのですが、それと同様に、得票率と獲得議席との乖離もやはり「一票の格差」として議論されるべきですし、違憲であるとの問題提起がなされるべきだと思います。

これとほぼ同じ意味を持つのが死票の問題です。誰かに投票したのに、その票が生きなかったケースですが、これも、50パーセント近くですし、2012年には53パーセントです。その年の自民党の得票率は43パーセントですので、有権者が投票した通りに当選者が決っていれば、その年には、野党全体として自民党より多い議員が誕生していたのですから、政権は野党が握ることになっていたはずです。

 


選挙の年


得票率   


議席獲得率


死票


死票率


2005年


48


73


3300万


49


2009年


47


74


3270万


46


2012年


43


79


3163万


53


2014年


48


76


2540万


48

 

この点については、有権者の意識も高く、小選挙区制では民意が反映されない事実を認識しています。内閣府が定期的に行っている、国の政策への「民意の反映程度」のグラフです。小選挙区制が導入されたのは、1994年、つまり平成6年ですが、それ以降、「反映されていない」が増え、「反映されている」の減っている様子がはっきりと表れています。

32

 こう見てくると、小選挙区制という選挙制度の結果は国民の意思を反映していないどころか、大きく歪めていることが分ります。そして、今見てきたようなデータからは、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて」と憲法で定めている、「厳粛な信託」とは大きくかけ離れた形で権力の委託が行われていることが分ります。つまり、この制度は憲法違反です。

[2021/5/1 イライザ]

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