学徒動員と原爆被爆その5-鳥取県への帰郷の路
一月ほど前の3月2日に掲載した「学徒動員と原爆被爆その3-帰郷への道」で「先日に紹介した鳥取敬愛高等学校社会部が、前年には自校の前身『鳥取高等家政女学校の学徒動員』のことを調べていたようですので、学校に電話で問い合わせたのですが『被爆問題は、調査していません。ただ因美線を使ったと聞いています』ということでした。岡山経由で帰る時には、呉線三原経由も考えられますので、広島駅を通過したのかどうか、今のところ確認できていません。」と紹介し、翌日の「学徒動員と原爆被爆その4-被爆者健康手帳の取得」では、最後に「島根県以上の生徒が学徒動員によって広島に派遣されていたにもかかわらず、鳥取県では入市被爆者の手帳取得者数は1989年の339人が最大ですから、島根県の1,432人とはあまりにも大きな開きがあります。なぜ、これほどの違いができてしまったのか、解明すべき課題が残りました。少し時間をかけて調べてみたいと思います。」と書きました。
その後、鳥取県の「帰郷の道」を調べたいと鳥取県立図書館に「何か資料はないでしょうか」と調査をお願いしていました。少し時間がかかったのですが、先日のその調査結果がメールで届きました。そのほとんどが、被爆体験記による情報でしたが、その中で1件だけ「学徒動員」に直接関係する資料がありました。
鳥取県立図書館
鳥取県立鳥取工業高等学校の「創立三十周年記念誌」(1968年9月刊)に掲載された「学徒勤労動員の想い出」と題した吉田豊さんの体験記です。少し長いのですが、該当するか所を引用します。「十五日天皇陛下の終戦の詔書。動員解除。もはや一日も早く引揚げたい、代表者をもって再度に亘って交渉の結果、五日後の八月二十日学徒勤労動員解除の命令が下った。いよいよ引揚げ準備一〇〇人余りの生との勤労手当食費の精算等々一人で処理するとなると仲々つらい全員健康で残留者がなかったことがよかったし、生徒諸君もよく協力して呉れた。全員毛布と食器を土産にもらい、呉線で糸崎駅に到着、これより岡山廻りで帰る予定なのだが、来る列車はどれも九州方面からの軍人その他帰還者で超満員ばかり。なんとかして帰らねばならない一心で危険とは思ったが全員屋根のない貨物列車の石炭の上に乗せ岡山に到着点呼の結果欠員のないのに安堵。因美線は牛の乗る貨物車で無事全員を鳥取駅に待つ学校長並に父兄の手に渡したときのことは私の生涯の思い出である。」この体験記を書かれた吉田さんは、学徒動員された生徒ではなく、引率の教職員の一人で、交代のため8月6日の朝鳥取を出発し、呉に入っておられます。途中広島を通ったかどうかの記載はありません。
この学校の生徒は、これまで私が調べた中では、他の学校よりは遅く8月20日に帰郷の途に就いたようですが、私が知りたかった帰路について「呉線で糸崎駅に到着、これより岡山廻りで帰る予定」「因美線は牛の乗る貨物車で無事全員を鳥取駅に待つ学校長並に父兄の手に渡した」と書かれています。因美線は、岡山から津山を経由して鳥取を結ぶ路線です。
先に引用した同じ鳥取市内にあった「鳥取高等家政女学校」の生徒も「因美線を使った」という証言がありますので、鳥取県東部の学校は、呉線で三原方面に行き、岡山駅を経由して帰郷したことになりますので、鳥取県から呉市に動員された学徒動員の半数は、入市被爆することがなかったことになります。鳥取県中具の倉吉市内の学校(倉吉中学など)の帰路が判明していませんが、地理的にみると同じ経路をたどり、鳥取駅から山陰線で倉吉に帰郷したと予測されますので、広島駅を通過して鳥取県に帰郷した人は、さらに少なかったと思われます。
ほぼ同じ人数の生徒が学徒動員によって呉海軍工廠に動員された島根県と鳥取県ですが、入市被爆者の数に大きな開きがある理由は、その帰路にあったことが確認できます。ただ当時は、下記のような「混乱した交通事情」があったようですから、それを考えると「確定した」と断定することはできません。
その体験記の一人は「救護活動のため」入市被爆しています。「8月7日早朝 鳥取駅発、因美線経由、八日市に入る(一泊)、8月8日早朝 八日市出発、矢賀駅下車(「汽車が広島まで行かない為」)、徒歩で広島市内へ」。もう一人は、軍人です。「8月5日 陸軍経理学校受験のため鳥取連隊の下士官に引率され、伯備線、芸備線を経由し広島市に入り、堀川町の旅館に泊まる。被爆の後、国鉄宇品線が動いており被災者と共に宇品港経由で金輪島の施設に収容。3日間過ごす。8月9日 広島駅から芸備線(西城で1泊)、因美線経由で鳥取に生還。」。混乱した交通事情の中で、様々な経路をたどっていることがわかります。
鳥取県の学徒動員の帰路が全て確認できたわけではありませんが、鳥取県立図書館の協力によってかなり事実に近づいたような気がしています。
いのちとうとし
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