「広島ブログ」

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2021年3月 | トップページ | 2021年5月 »

2021年4月

2021年4月30日 (金)

4月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

24日の土曜日に農園に行き夕方まで作業してそのまま泊まり翌朝早くから農作業を行った。家族は日帰りで農園に通う。もう遅い霜の心配もなく、晩生のブルーベリーの花もあちこちで咲き始める。畑の草が日に日に伸びてきているので農園に行くたびに草刈り作業を交えながらのブルーベリーの剪定が続く。親戚の方の草刈り援農も25日からスタート。援農といえば23日に2人の友人が剪定したブルーベリーの枝を燃やす作業で来園。とても感謝。5月も剪定作業が続く予定。

214301

4月25日(日)。

前日から農園に一人泊まる。早くに目が覚めるので明け方の農園を巡回。里山のブルーベリー園から眺める朝日。5時50分頃だ。すでに水を張った水田に光が反射する。オスのキジが遠くで鳴く声が聞こえる。

214302

日が射してぽっかりと浮かぶエビネの花。

214303

ジャーマンアイリスを植えている畑の中にイチゴが生えている。花が咲いているので実がなるのが楽しみ。

214304

この日から3段あるブルーベリー畑の一番下の畑の剪定を始めるのでまずは草刈り。

214305

そのうち家族が農園に来て剪定作業を始める。

214306

この時期に咲きだす野の花がキジノムシロ。

214307

4月27日(火)。

剪定が遅れているのでこの日も農作業に行く。ブルーベリーの花が膨らんできている中の剪定となる。ミツバチも飛んでいる。

214308

このブルーベリーの木は高さ3m近くある。姿形がとてもいい。(晩生のホームベル)

214309

4月29日(木)。

朝から午後3時過ぎまで農園は雨。ジャーマンアイリスを植えている畑の梅の木の実も随分大きくなっている。

2143010

雨が上がってからブルーベリーの苗木を20数本植える。土が雨で水分をたっぷり吸っているので都合がいい。場所は3段あるブルーベリー畑の一番上の畑で枯れた所に追い植えした。

2143011

近くの田んぼにも田植えに備えて水が張られた。雨あがりの法面のシバザクラが鏡の水面に重なりしっとり静かにたたずむ。

2021年4月30日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月29日 (木)

ベトナムの歴史(その3)ベトナム語表記法の歴史

中国語と漢字文化の強い影響

 3月20日の「ベトナムの歴史(その1)ベトナムってどんな国?: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で、ベトナムには86%を占めるキン族(ベト族)のほか53の民族が暮らしていることを紹介しました。ベトナム語はキン族(ベト族)の母語でベトナムの公用語です。先に見たように、中国との長い歴史的関わりから、中国語と漢字文化の強い影響を受けています。隣国、カンボジアは主要民族であるクメールが母語になっておりクメール語とも呼ばれています。古くからインド文化の影響を受けていることからパーリー語、サンスクリット語に似ていると言われています。他の東南アジアでも大陸の国々の多くがインド文化の影響を受けていますが、ベトナムは例外的と言えます。

 漢字圏のベトナム語の表記は漢字ですが、対応する漢字がない場合は、漢字を応用した独自の文字、チュノム(Chữ Nôm:𡨸喃)が使われていました。

フランス人宣教師によるラテン・アルファベット表記、チュ・クオック・グー

 17世紀に入り、その漢字表記に変化が起こります。1619年にインドシナに布教に赴いたフランス人宣教師、アレクサンドル・ドゥ・ロード(Alexandre de Rhodes)が、チュ・クオック・グー(Chữ Quốc Ngữ)と呼ばれるベトナム語のラテン・アルファベット表記を考案し、1651年に『ポルトガル語-ラテン語-ベトナム語辞典』を編纂しました。しかし、このチュ・クオック・グーは、もっぱら宣教師のベトナム語習得用と布教用に使われ、ベトナム人に普及することはありませんでした。

Photo_20210427155001

上:チュ・クオック・グー 下:漢字

Photo_20210427155201

カンボジア語(クメール語)

フランス植民地支配とチュ・クオック・グー

 それが大きく変わったのが19世紀に入ってからのフランスによるインドシナの植民地化です。それまで中国王朝からの度重なる侵略を受けつつも、なんとか独立王朝を維持していたベトナムですが、中国・清の力が衰えてきた1800年代後半に、「カトリック宣教師団の保護」を名目にフランスがスペインとともに中部ダナンでベトナムへの攻撃を開始し占領します。1847年にフランス艦船がダナン港に侵入、ベトナム艦船を砲撃。1857年にはダナン上陸、1861年のサイゴン侵攻とベトナム南部(コーチシナ)を制圧、1887年までにベトナム全土を支配し、フランス領インドシナ連邦を成立させました。この間の戦いは「コーチシナ戦争」と呼ばれています。

Photo_20210427155301

フランス時代のサイゴン大教会(聖マリア大聖堂)

フランスの植民地支配は、その後1940年9月~1945年8月までの日本軍の侵攻支配を除き、1954年5月の「ディエンビエンフーの戦い」で敗退するまでの約100年余り続きます。

 フランスの植民地政策とともに推し進められたのがベトナム語表記のチュ・クオック・グー化です。学校ではフランス語のカリキュラムが導入され、これまで使っていた漢字は禁止、代わりにアルファベットを使ったチュ・クォック・グーによるベトナム語表記のみが許されました。さらにフランスは1906年にインドシナ大学を設立し、高等教育をすべてフランス語で行うなど、フランス同化政策をベトナム国民に強いたのです。

 アイデンティティー確立・民族独立とチュクオックグー

 一方、過酷なフランスの植民地支配に抵抗する闘いが知識人や労働者、農民へと広がってゆきました。そうした人びとの中からも、チュ・クオック・グーを蛮夷の文字として単に排斥するのではなく、受容することで識字率を高め、話し言葉と書き言葉を一致させ民族としてのアイデンティティーを獲得し、民族独立を勝ち取ろうという動きも出てきました。

 このような経過をたどりながら、194592日、ホーチミンの発した「独立宣言」で成立したベトナム民主共和国によって、漢字・漢文によるベトナム語表記は廃止され、もっぱらチュ・クオック・グーのみのベトナム語表記になり、今日に至っています。

民族の歴史や文化に大きく関わる言葉や文字表記の変遷をみても、決して民族としての誇りやアイデンティティーを失うことなく、柔軟かつ大胆に未来志向で対応するベトナムらしさを感じます。

あれッ!日本語とよく似ている!

長くなりましたが、語彙(い)も発音もよく似ている言葉を「下表」に紹介します。

私は、この話をするとき右欄の「感謝」(ありがとう)をよく紹介します。感謝の意を伝えるとき「カムーン」と言います。ベトナムでは漢字で「感恩」と書きます。すなわち、恩を感じていると言う意味です。まだまだ、たくさん有ります。皆さんも調べてみてください。

Photo_20210427155601

次回からは、歴史を追いながら日本との関わりを紹介する旅を進めたいと思います。

(2021年4月29日、あかたつ)

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月28日 (水)

選挙から感じ取ったこと

4月25日は衆参の補欠・再選挙の投票日だった。自宅の周りには選挙ポスター看板がたくさんあった。小学校・中学校も高校もあり、またバスが通る道路があることで、選挙看板は出かけるごと出会う。

1_20210427162201

いつも思うことなんだけど、選挙ポスター看板に貼られてない立候補者は誰だろう?今回、広島県の再選挙には6人が立候補したと新聞に書いてあった。でも投票日まで私が看板で見たのはたった3人!残り3人は誰?彼らは何を有権者に訴えているの?

看板(正式には、「選挙ポスター掲示場」)は、選挙管理委員会が管理しているはずだが?投票日まで立候補者の名前も公約も掲示しない選挙掲示場の前を通り過ぎる度に「選挙管理委員会は選挙について何を管理なさっているの?」と思った。

 

選挙については、小学校から学ぶだろう。参政権として選挙権と被選挙権があると教えているはず。今の時代では、参政権は平等だと誰も認めている。この前、最高裁判所は選挙権の1票の差を是正するように判断を出した(是正になったかどうかはここで話すつもりはない)。しかし、被選挙権は平等だろうか?どう考えてもそうだと思えない。広島県の場合、6人が立候補したのは確かだ。新聞を見ていなかったら立候補者が何を公約にあげたか全く知るところがない。公約を知らないまま、いや名前さえ知らないまま投票日を迎えるなんて、ホンマカ!

 

私が韓国で経験した選挙はどうだったか?選挙管理委員会は立候補者(党や無所属を問わず)から提出された選挙ポスター・チラシなどを一括して印刷し、ポスターを選挙掲示場にはり、公約のチラシを全有権者に郵送する。また、テレビなどの討論番組を組んだりする。選挙管理委員会は選挙活動全てが平等になるようにすることが仕事であり、かつ公正公平な選挙ができるような審判の役割をするのも選挙管理委員会だ。

各新聞は1面に次のような見出しを載せっていた。

「衆参3選挙 自民全敗」(毎日)「衆参3選挙 自民が全敗」(朝日)「衆参野党3勝」(読売)「衆参3選挙 自民全敗」(中国)-2021年426()1

私には野党勝利・自民全敗より、主権者の負けと読めてくるのはなぜだろう。

李昇勲

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月27日 (火)

35年目の「チェルノブイリデー座込み」

旧ソ連現在のウクライナのチェルノブイリ原発事故から、35周年となる昨日、広島県原水禁は、平和公園慰霊碑まで1987年以降続けている「チェルノブイリデー座込み」(昨年はコロナの影響で中止)を午後0時15分から30分間実施しました。コロナ過でしたが、33名の参加がありました。

Photo_20210426144001  

日本政府、電力会社は、チェルノブイリ原発事故の教訓を生かすことなく、原発の「安全神話」を言い続け、東京電力福島第1原子力発電所事故を発生させました。

福島では、現在も多くの人が避難を余儀なくされていますが、チェルノブイリでは、原発事故による強制避難などによって住めなくなった村が188もあります。その村々の名前を記憶に残すため、10年前(事故後25周年)に作られたチェルノブイリ記念公園に村の名前を刻まれた188枚のプレートが掲げられているそうです。そこにはフクシマのモニュメントも作られています。

Photo_20210426144002

この記念公園で、その後4月26日には被災者たちが集まり式典が行われているそうですので、節目の今年も実施されたと思います。

35年目を迎えた昨日の座込みでは、下記の「チェルノブイリディーアピール」を自治労の山本加奈子が読み上げて提案し、参加者全員の賛同で採択されました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「4・26チェルノブイリデー」アピール

チェルノブイリ原発事故から35年が過ぎました。放射能による人体と環境への深刻な被害は今なお続き、被曝によると見られる分泌系や血液系疾患などの慢性疾患や新生児の先天性疾患が報告され、事故原発から30㎞圏内への立ち入りは厳しく制限され、人々を苦しめ続けています。

一方、「チェルノブイリのような事故は起きない」と宣伝され続けた日本では、10年前の2011311日、福島第一原発においてチェルノブイリと同じレベル7の事故が引き起こされました。

事故を軽く見せたい日本政府は、避難区域の除染で住民の帰還を進めようとしていますが、健康への不安とすでに新たな生活拠点で生活再建が行われていることもあり、帰還は10年を経過した今もなお進んでいません。

何より今後数十年はかかると言われる事故処理も、貯蔵プールにあった核燃料の取り出しこそ一部で始まったものの、メルトダウンによって溶け落ちた核燃料の取り出しは全く手つかずの状態です。その上に、あろうことかタンクにたまり続けている処理水(放射能汚染水)の処分をめぐり多くの国民や漁業関係者が断固反対する中、放射能汚染水の「海洋放出」を閣議決定しました。

私たちは、チェルノブイリを、そして福島を、原発事故被害者の痛みを決して忘れてはなりません。それは、「核と人類は共存できない」ということを改めて教えているからです。

安倍政権を引き継いだ菅政権も、原発に依存してきた歴代の自民党政権の責任を取らないばかりか、多くの国民の反対の声を無視し、再び原発政策を推進し再稼働を強行しています。加えて、2050年「脱炭素社会」をめざすとして原発の再稼働・新設の動きも注視する必要があります。

原発事故で起こった事実を忘れた時、再び過ちを繰り返すことになります。安全神話の行きつく先に原発事故があったことを決して忘れません。脱原発への道こそ、私たちが歩むべき道であり、すべての原発の再稼働・新増設に反対します。

新たなヒバクシャを作らせないためには、「核絶対否定」の道しかありません。

私たちは、人類史上はじめて原子爆弾の惨禍を被ったヒロシマから訴えます。

 ◆チェルノブイリ原発事故を忘れてはなりません!

 ◆福島第一原発のような事故を二度と起こさせてはなりません!

 ◆原発の再稼働・新増設を許してはなりません!

 ◆新たなヒバクシャを生み出してはなりません!

 ◆全ての原発被害者への補償と救済を強く求めます!

 ◆放射能汚染水の「海洋放出」の閣議決定の撤回を求めます!

 ◆ノーモアヒバクシャ、ノーモアチェルノブイリ、ノーモアフクシマ

                             2021年4月26日

                 原水爆禁止広島県協議会

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月26日 (月)

政府の基本姿勢は? ――主権者たる国民を「尊重」することなど全く念頭にない――

政府の基本姿勢は?

――主権者たる国民を「尊重」することなど全く念頭にない――

 

「自然災害から学ぶ」シリーズで問題にしたのは、大災害の被災者に対する政府の基本的姿勢でした。それは、私有財産に公費を投じる施策は取らないというものです。私たちが、このことを明示的に知らされたのは、1995年の阪神淡路大震災の時でした。

そこから、被爆者援護についての政府の基本的な姿勢である「受忍論」へと発想が展開して行きました。それは、「戦時には、国民が被害を受けても政府は何もしなくて良い」と言い換えることができます。これは、1980年のいわゆる基本懇の意見として示されましたので、個人的にはこちらを出発点として政治を考えてきました。

「戦時には」という限定が付いているのですから、「平時」には、政府が国民のために施策を展開し生活を助けることは当然だ、という前提があると普通は考えますよね。ですから、阪神淡路大震災後の政府の方針、「自然災害により個人が被害を受けた場合には、自助努力による回復が原則」は受け入れ難いものでした。

25

阪神淡路大震災時のボランティア Taken on 18 January 1995    photo by Nezumi

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kobe34.jpg

 

しかし、「被災者生活再建法」ができ、地震等の災害時に政府が被害者に差し伸べる手が少しずつ改善されて行く様を見て、少しは希望が湧いてきたのですが、東日本大震災と福島第一原発事故後の対応で、日本政府の本質は変わっていないことを改めて認識せざるを得なくなりました。

「受忍論」では、「戦時」には政府は国民を見捨てると宣言し、論理的な帰結として、「平時」には政府が責任を果すと約束したのだ、と私たちは理解したのです。戦争責任についての政府の立場を受け入れた訳ではありませんが、政府の姿勢について正確に理解しつつ、憲法に則っての私たちの権利の主張のためには、まず政府の立場を正確に論理的に理解する必要があるからです。

しかし、「平時」には政府がその責任をきちんと果すはずだという私たちの期待・理解は裏切られました。地震の被害を含めて、「自然災害」による犠牲は「原則個人」が負担するという、つまり「平時」でも政府は責任を持たなくても良いという責任回避の姿勢が、堂々と表に出て来たのです。

政府の基本姿勢については主権者である私たちの力で正してゆく必要のあることを再度強調しつつ、それでも政府の立場を論理的に整理して行くと、この段階では次のようになります。「戦時」における国民の犠牲は、国民が「受忍する」。「平時」の内、自然災害による国民の犠牲は、原則国民個人が負担する。となると残されている、自然災害以外の災害、つまり人工的な原因による災害については政府が責任を果すという立場が出てくるのだと期待してしまいます。

現実はどうだったでしょうか。福島第一原発の事故は、東電や政府によると「想定外」であり、30ほどの訴訟においても、政府の責任はないという主張がなされています。地方裁判所レベルでの裁判所の判断は、分れています。とは言え、結局、日本政府は国民の被る被害について、何もしないというのが基本姿勢だという結論にしかなりません。

「戦時」には責任を取らない、「平時」でも自然災害は個人の責任、そして人為的災害にも責任は取らないのですから、論理的には、この結論以外はあり得ないのです。

さて、憲法に戻ると、一番大切な条文の一つは13条です。

13条  すべて国民は、個人として尊重される。

「尊重」するのはだれかと言えば、当然、権力を持つ為政者です。日本政府は当然その中心です。しかし、どんな状況でも国民の犠牲には関心を持たないという基本姿勢は、13条の規定である、国民を「個人として尊重」する、という義務とは対極にあると言わざるを得ません。

これを変えるための有効な手段が選挙です。

そして、(これを書いている今日) 4月25日に行われた広島県の参議院再選挙では、午後9時ころ発表された中国新聞の出口調査では、野党候補の宮口氏が優勢とのことですので、北海道と長野の補欠選挙と合わせて、自民党が全敗です。

憲法に則った、特に平和を重んじる政治が実現するための第一歩になることを心から祈っています。 

[2021/4/26 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2021年4月25日 (日)

4月26日はチェルノブイリ原発事故の日

 4月26日はチェルノブイリ原発事故の日ですね。 昨年は広島・長崎から75年、今年はチェルノブイリから35年、そして福島原発事故から10年という年となりました。

 

40年以上前から、原発・エネルギー関連の新聞切り抜きをしていますが、日本で初めてこの事故が報じられたのは86年4月29日です。共同通信からの記事ですが、「ソ連原発事故か」との見出しに「北欧3国で強い放射能」の小見出し、本文は「28日スウェーデンなど北欧3国の一部地域で強い放射能が観測され、3国の当局者はソ連の原発で放射能漏れ事故があったのではないか、としている」と4段2行で書いています。

 事故後にソ連は無くなり、チェルノブイリ周辺地域はロシア・ベラルーシ・ウクライナの3国となりました。原発そのものはウクライナに在るのですが、三つの国が交わるところとなります。

Photo_20210424215401

あれから35年、コロナ禍で実際に現地を視察することが不可能になっている中、たびたび現地を訪れている友人も同様で、行けない状態です。

私は事故後10年経った年とその翌年に、現地を訪れる機会がありました。日本にやってくる現地の人と交流することもありました。しかし、今は詳しい状況が分からないからこそ、とても心配です。

世界中をコロナがまん延している中、チェルノブイリ事故被害者には二重の被害が襲っているようです。特にベラルーシの人たちが心配です。ベラルーシの政治体制が悪い状況にあるために、人びとはそれに対する抗議行動に参加する必要もあるようです。

数少ないのですが、現地から届いたメッセージには次のように書いてありました。「先日は数百人が逮捕されました。平和的に抗議をした人びとに、多額の罰金が課せられ、拘置所に10日以上も拘留されます。8月9日(昨年)には、不正な選挙と警察の暴力に平和的抗議をした約3万人の人びとが拘束されました。私も多くを書くことはできません。抗議のシンボルの白・赤・白の旗をアパートに掛けているだけでも、見つけられたら罰せられます」と。

原発を持っていなかったベラルーシですが、昨年11月7日の、それもよりによって革命記念日という祝日に、ベラルーシ初の原発が稼働しました。しかし、3日後には故障によって停止したのです。周辺のリトアニア、ラトビア、ポーランド、エストニアはこの原発からの電気の購入は拒否するとしています。

チェルノブイリ原発は、今後最低でも100年間はこの状態を維持し、原発の状態が「安定」するのを待っているそうです。「安定」とは放射能半減期が経過することです。

それに引き替え、福島第一原発はどうでしょう。たった10年しか経過していないのに、原発事故など無かったかのようにする、臭い物には蓋をする、国民を忘れさせる。汚染水は海へ流す、出来もしないのに廃炉を40年で実現するという、放射線量が20㍉シーベルトでも戻ってこいという、この感覚チェルノブイリより断然遅れています。

チェルノブイリ事故が起こった時、日本政府が言っていた「あれはソ連のような遅れた国だから起きたのだ…」との言葉、そっくりお返ししたい気持ちです。

今年3月ウクライナ政府は、チェルノブイリ原発をユネスコの世界遺産に登録する手続きを始めたことが明らかになりました。その理由は「悲惨な事故を後世に伝え、再発防止を訴えるため」としています。この心構えの方が立派だと思います。現在、放射能の脅威を訴える世界遺産は、広島の「原爆ドーム」とマーシャル諸島の「ビキニ環礁」が在ります。

木原省治

【広島県原水禁からのお知らせ】広島県原水禁は、例年通り4月26日午後0時15分から30分間、慰霊碑まで「チェルノブイリデー」の座込みを行います。ぜひご参加ください。

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月24日 (土)

府中地区の4月「19日行動」と藤登弘郎さん、ガタロさん二つの「陸軍被服支廠絵画展」

府中地区の「19日行動」

「安保法制に反対する府中市民の会」恒例の19日まちかどツアーは、今回「選挙に行こう」の横断幕やプラカードを掲げ、スタンディングとリレートークを行いました。上下Aコープ前では、6人が参加し午後3時30分、府中天満屋前では、10人参加し、午後5時からそれぞれ30分間の街頭宣伝を行いました。

Photo_20210423090501

002_20210423090601

今月のまちかどツアーは、参議院再選挙の期間中ですので、弁士は「今回の再選挙にかかる高額費用について」「暮らしを支える政治の実現のために投票を」「脱金権政治」「ご家族や近所の方誘い合って投票所までの交通手段がなく投票を諦めている高齢者を選挙に連れて行って欲しい」など、選挙の関わる問題を訴えました。

私たちが、まちかどツアーを行った19日現在では、期日前投票は前回と比べて4万人以上少ないそうです。そうしたこともあり、この選挙に県民は関心がないと巷で言われていますが、それとは違う反応がありました。上下Aコープ前では車窓から手を振ってくれる人のなんと多いこと!県選管スローガンの#だまっとれん、その気持ちを是非1票に託して投票して欲しいですね。

そんな思いを込めて訴えた今月の「19日行動」でした。

 

二つの「陸軍被服支廠絵画展」

現在、広島市内の2か所で陸軍被服支廠を描いた絵画展が、開催されています。

一つは、広島市南区民文化センター2階ロビーで開催されている広島在住画家ガタロさんの「被服廠を描こう 活かそう 絵画展」です。

20210420_122045

20210420_110022

知人の勧めで昨年11月頃から、安佐南区長束の自宅から自転車で陸軍被服支廠に通い続け描いた約20枚の水彩画が展示されています。私が展覧会を訪れた時には、会場にガタロさんがおられ、師である四國五郎さんのこと峠三吉さんのことなどを話していただきました。会場には、自らの水彩画とともに、四國五郎さんが被服支廠で働いていた時のことを書いた手記や、峠三吉が、被爆直後の被服支廠で見た惨状を詠んで詩も展示されています。ガタロさんは「被服支廠の内実を知ることで、広島の歴史を学んでほしい」と話しておられました。

もう一つは、旧日銀広島支店で開催されている「旧陸軍被服支廠から原爆の悲惨さを -旧陸軍被服支廠建物の絵30点~平和への祈りを込めて-  藤登弘郎水彩画展」です。

20210422_111034

20210422_110906

藤登さんのことは、このブログでも何度か紹介したことがありますが、勤めていた銀行を定年退職後、被爆者への弔いの気持ちを抱きながら被爆建物や被爆樹木、被爆地蔵など被爆の事実を伝え残すものを水彩で表現してこられました。今回は、広島陸軍被服支廠のことを「もっと知ってほしい。そして全棟残してほしい」と願って昨年1年を通じて描いてきた30点の作品が展示されています。昨年の展覧会「被爆75年 あの日を忘れない」では、被服支廠の絵は4点しかありませんでしたので、その後精力的に描かれたことがわかります。藤登さんによれば、「私が絵を描き始めたころは、約100件あった被爆建物が、現在は86件にまで減ってしまいました。だから、被服支廠は全棟残してほしい」という思いで描いてきたとのことでした。

私が会場を訪れた時「私はここに住んだことがありますよ。昭和33年頃広大医学部の看護学校の生徒だった時、ここが宿舎だったんですよ」と懐かしそうに見ておられる女性の姿がありました。

二つの展覧会とも、最終日は明日25日です。それぞれ作者の強い思いがこもっていますので、ぜひ今日、明日の間に訪れてほしい展覧会です。

いのちとうとし

【編集後記】府中地区のまちかどツアーの報告は早く届いていたのですが、今日になってしまいました。原稿を書いていただいた石岡真由美さんにお詫びします。

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月23日 (金)

4月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

16日には安芸区矢野東にある安芸の郷の建物「森の工房AMA」の屋上のブルーベリーが10数本枯れているので補充の必要から、ブルーベリー農園にある掘り上げてもいい木を持ち帰ってもらった。森の工房AMAに持ち帰りその日に植えることができた。結構あわだしい作業だった。剪定が遅れているので平日にもブルーベリーの剪定作業を続ける。キジが農園によく来る週で何回も見かけた。

214231

4月16日(金)

① 安芸の郷の事業所の一つ森の工房みみずくから利用者と職員が農園のブルーベリーを掘り上げて持ち帰りその日に屋上に植える作業をしに来園。森の工房AMAの屋上のブルーベリーが⒑数本枯れたのでその補充が目的。

214232

② 農園では友人2人が援農。剪定した枝を燃やしてくれた。並行してブルーベリーの剪定を続ける。

214233

4月17日(土)

田んぼから転作したブルーベリー畑でメスのキジがしずじずと散歩(写真中央)

214234

4月18日(日)

① 里山のブルーベリー園に入るところにウワミズザクラとヤマザクラが咲いている。(写真中央)

214235

② 白くて長い花穂が春光に浮かぶ。

214236

③ 2段目のブルーベリー畑の剪定を続ける。

214237

4月20日(火)

① ブルーベリー畑のタンポポはもう綿帽子に。

214238

② 農園の周辺の田んぼは田植えに備えてもう水が張られている所もある。

214239

4月22日(木)

① 午後からのブルーベリーの剪定で農園に行ったのだが里山のブルーベリー園の入口あたりでオスのキジが夕方帰るまで動き回っていた。どっちが住人か分からない。

2142310

② 早生のブルーベリーの花が開花。ミツバチが受粉してくれている。結実への期待からか羽音がうれしい。

 

2021年4月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月22日 (木)

「今こそ、憲法と民主主義・いのちと暮らしを守る政治を求めていこう」-三原の4月「19日行動」

三原市民行動の定例「19日行動」は、419()1730分から三原駅前に17人が参加して街宣活動を実施しました。今月の街宣の柱は,一つは,53日の憲法記念日を前にして改めて憲法の三原則(国民主権,恒久平和主義,基本的人権の尊重)を確認し合い,平和憲法の大切さを訴えること。二つ目は,参議院広島選挙区再選挙の真っ最中ということを考え,河井前法相夫妻の公職選挙法違反・大規模買収事件など政治不信を招いた「金権政治NO!・菅政権NO!」を突きつけ,政治を変えようと訴えること。こうした視点で6人の弁士がスピーチを行いました。

4月の市議選で再選を果たした寺田元子議員は,「みなさんと戦争法廃止を闘いながら憲法を暮らしの隅々に活かしていく。国政,市政ともに小さな暮らしのつぶやきを拾い集めてその声を届けていくために,みなさんとともに闘いながらがんばって行きます。今回の再選挙,政治を変えていく射程距離に入っている。だれもが生きていくことが幸せに感じる社会,その一歩一歩をみなさんと歩んでいこう。」と訴えました。

安藤志保市議は,「みなさんにとって政治は身近でしょうか。憲法や法律はみなさんにとって身近ですかと投げかけ,憲法や法律を決めている国会議員,だれを選ぶのか。私たちの選択,私たちの暮らしにとって身近で大きな影響を与えている。その一つとして本郷町に建設されようとしている産業廃棄物最終処分場問題です。憲法や法律,条例によって私たちの毎日の生活を守ることが可能になる。私たちが議員をだれを選ぶのか。大切な一票を投じてもらいたい。」と訴えました。

高木武子市議は,「政治を変えることはできないのではないかと考えていませんか」と問いかけ「政治は政治家が変えるものではない。一人ひとりの選挙権を行使することで日本の社会は変えられる。あきらめることが一番私たちの生活を脅かすことになる。東京電力福島原発のタンクに溜まり続けている放射能汚染水を海に流すことを決めた政府。風評被害など生活に影響が出る。私たちの生活と政治が深くかかわっている。子どもや孫まで人間らしい生活が守られるよう,今回の選挙,投票に行きましょう。」と訴えました。なお,安藤・高木議員は23日をもって議員を勇退されます。

Img_1897

戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会共同代表の山田延廣弁護士は,「参院再選挙の意義について,憲法の理念は個人の尊厳,一人ひとりを大切にすること。そのためには民主主義をきちんとさせ,平和主義,平和でなければ幸せになれない。この原理・原則,ところが河井夫妻による選挙買収事件,選挙で金を買う。議席を金で奪う。原理・原則に違反している。金権政治を阻止することが民主主義を成就することになる。もうだまっておれない。投票に行こうとみなさんに訴えたい。」「菅首相の訪米,民主主義国家を共有したと言えるのか。日本は憲法9条があり専守防衛であり,他国に戦争を仕掛けたり戦闘行為をしないという理念,約束事で政治を行っている。しかし,安保法制が成立したことにより集団的自衛権行使による自衛隊の海外派兵,アメリカとともに戦闘行動を取ることが可能になるなど日本の防衛政策は大きく変わってきた。軍事力を行使して犠牲を被るのは市民である。このことは先の太平洋戦争でよくわかっていることである。私たちは立ち止まって,どうして9条が作られたのか,どうしてこの国は二度と戦争をしないと誓ったのかを思い出すべきだ。」「今の矛盾した政治,それを打破し社会的に弱い人の立場に立って政治を変えようとする市民の代表者である候補に一票を投じることによって,広島から政治を変えていきましょう。」と訴えました。

Img_1892

本郷処分場建設差し止め原告団共同代表の三島弘敬さんは,「産業廃棄物最終処分場の建設で三原の水道水が汚染されようとしている。水源・いのち・くらしを守るため建設差し止め裁判を行っており,広島地裁が差し止め命令を出した。6年に及ぶ住民の長い取り組み,市民の42,555名の反対署名や517人の裁判原告と応援団の願いが司法に届いた。今後,予想される本裁判に向けて引き続き支援をお願いしたい。」と訴えました。

最後に,まとめに立った岡崎敏彦さんは,「安保関連法が成立して5年が経っているが,この間の政治状況の中で戦争法ということが明白になった。自公政権にレットカードを突きつけよう。当面する広島の再選挙,県選管の作成したキャッチコピー『だまっておれん』私たちの気持ちを代弁してくれているスローガンである。私たちは主権者としてこの選挙,一票を投じていきましょう。本当に暮らしが守られる政治の実現に向け,がんばり抜こうではありませんか。」と訴えて,街頭行動を終了しました。

藤本講治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月21日 (水)

自然災害の歴史から学ぶ (4) ――政府の姿勢を問うと、「受忍論」に戻ってしまいます――

自然災害の歴史から学ぶ (4)

――政府の姿勢を問うと、「受忍論」に戻ってしまいます――

 

前回、最後に問題にしたのは、大災害の被災者に対する政府の基本的姿勢でした。それは、私有財産に公費を投じる施策は取らないというものです。しかし、阪神淡路大震災後、世論の力で1998年に「被災者生活再建法」ができました。とは言えその法律には大きな欠陥がありました。まず、遡及適用がなされませんでした。つまり、阪神淡路大震災の被災者には適用されなかったのです。またこの法律が支給したお金は、住宅の再建には使えないどころか、補修にも使えない、基本的には住宅関連の費用に充てることはできなかったのです。つまり、本来の目標とはかけ離れた法律だったのです。しかも、最大の額が100万円でした。

何故、このように非人間的な対応になってしまうのかを知るには、当時の村山富市首相の発言、「自然災害により個人が被害を受けた場合には、自助努力による回復が原則」が役立ちます。

ここで論理的な立場から問題にしたいのは、「自然災害により個人が被害を受けた場合には」です。特に「には」です。その他の場合とは違って、自然災害という原因で個人が被害を受けた場合、という特定がされているからです。

こんな特定の仕方をされるとすぐ頭に浮かぶのが、1980年12月に「原爆被爆者対策基本問題懇談会」、略して「基本懇」が発表した意見書です。これまで何回も取り上げていますが、日本政府ならびに日本社会を牛耳ってきた人たちの基本的な考え方を忠実に示している文書ですので、これに対抗する枠組みが我が国にしっかり定着するまで、打破すべき対象として繰り返し掲げます。

****************************

Photo_20210420210401

**************************************

このような、戦争肯定とその被害に対する開き直りを、恥じることなく言語化した人たちが誰だったのかも記憶し続けなくてはなりません。

委員(全員故人)は、

茅誠司・東京大名誉教授(座長)

大河内一男・東京大名誉教授

緒方彰・NHK解説委員室顧問

久保田きぬ子・東北学院大教授

田中二郎・元最高裁判事

西村熊雄・元フランス大使

御園生圭輔・原子力安全委員会委員の7人

茅、大河内の二人は東大の総長を務めた人たちです。日本政治を動かしてきた官僚組織・制度や日本の思考の元となる学問の世界、その他にも財界や産業界等、いわゆるエスタブリッシュメントを構成するエリートたちを育ててきた人たちです。

改めて、この「基本理念」を読み直したのですが、今回も腹の立つことに変りはありません。先月も一通りの批判をしましたが、毎月一回は腹を立てていることになります。再度お読み頂ければ幸いです。

先月問題にしたのは、「国をあげての戦争」という部分に注目して、せめてそれが真実であるのなら、つまり、国民投票なり世論調査に基づいて全国民の意思を確かめ、その結果、「戦争をしよう」ということになったのであれば、その戦争の結果生じる犠牲を「一般の犠牲」として、全国民が等しく「受忍」するという論の立て方は、それなりに論理的だと考えられるという点でした。

しかし、主権は国民にはなく天皇にあったのですから、「国家の意思」と国民の意思とは別物だったのです。

本論に戻りましょう。1998年の「被災者生活再建法」から始まって、国の施策も徐々に改善されていることは事実です。しかし、2007年に二度目の改正がされたこの法律には、まだ大きな問題が残されているのです。

この法律の趣旨は、災害によって引き起こされた被害から生活を再建するための「支援金」を支給することなのですが、それは「基礎支援金」と「加算支援金」の二本立てになっています。「基礎」の方は、住宅の壊れ具合で決まるのですが、全壊の場合には100万円が支給されます。「加算」は、住宅の再建方法で決められます。新築や購入だと200万円で、補修だと100万円ということになっています。

大きな問題点は、このお金が「補助金」ではなく「見舞金」だということです。つまり、国の大方針である「私有財産の価値を高めるために公費は使わない」には反していないのです。住宅の再建や補修のための「補助金」ではなく、「家が全壊して大変でしたね、お見舞い申し上げます。その印です。」という趣旨なのです。

実はそれにもメリットはあります。実際にかかった費用が支給額より低くても、全額支給されという点です。建設や修理のための補助金ではなく「見舞金」だからです。

このような形で法律を作る国の姿勢は、「被爆者援護」施策における国の姿勢と並行しています。基本懇の基本理念でも被爆者援護法制定後の援護の実態を見ても、「戦争による犠牲は国民が受忍すべき」という基本方針は変えていないからです。

基本理念では、持って回った言い回しで、放射線による被害が戦争の結果生じ、それに対して国の責任があるのだとは明言していないのです。ですから被爆者に対する援護も、戦争と被爆者の被った被害・犠牲との因果関係を認めているのではなく、戦争の結果生じた犠牲に「相応」する形で、それに対する補償に「相当」する措置を行うという、分り難いけれど戦争責任を避ける表現になっているのです。簡単にまとめれば、お金に換算すれば「相当」する額を出しているのだから、「何故」出すのかという点にまで文句を言うなということです。

「被災者生活再建法」では、被害に「相当」する金額を「見舞金」として支給することにしたのと同型の、論理のすり替え、「最後はお金でしょ」という人間の尊厳無視の姿勢です。

1994年、被爆者援護法が制定されたとき、それを無視して法律を作った政府に対して、国の戦争責任に基づく国家補償を求めていた被爆者たちの気持を代表する言葉が残っています。広島県被団協の理事長だった伊藤サカエさんによる、「せめて線香の一本でも供え、悪かったと言ってほしい」です。日本政府が主権者である国民一人一人を尊重する気のないことを余すところなく伝えています。

 [2021/4/21 イライザ]

 

[お願い]
この文章の下の《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2021年4月20日 (火)

ベトナムの歴史(その2)ベトナムの国名

歴史上最初の統一国家、阮(グエン)王朝が命名

ベトナム(Việt Nam)は漢字では「越南」と書きます。これは18025月、ベトナム全土を初めて統一した王朝であり、また最後の王朝となったグエン(阮)王朝の初代皇帝、ザーロン(Gia Long:嘉隆帝)帝が付けたものです。それまでのベトナムは紀元前111年から938年までの1000年余にわたり中国に支配された時代と、その後900年におよぶ中国に対する抵抗と朝貢の独立王朝時代で、統一国家ではありませんでした。

ちなみに、阮朝の首都は多くの歴史的建造物を残すベトナム中部の世界遺産のまち、古都フエ(Huế)です。

Photo_20210419080501

フエ:王宮内を見学 2013年「第8時平和友好訪問団」

ザーロン帝は全土平定の報告とともに、清王朝に国号(国名)をNam Việt(南越)にしたいと願い出ますが、認められず、やむなくViệt Nam(越南)にしました。そこには今日に至るベトナムと中国との長い歴史的怨讐が横たわっています。これらについては、のちのち紹介してゆきたいと思います。

 

「南越」(Nam Viet)を認めなかった清朝

紀元前3世紀頃の中国は、春秋戦国時代で皆さんもよくご存知の秦(しん)の始皇帝が活躍した時代です。その強大な秦朝も始皇帝の死去後、急速に衰え、秦王朝に反逆した秦の将軍・趙陀(ちょうだ)が、紀元前203年、中国南部に「南越国」(Nam Việt)を建てました。南越は今の広東を首都に、広大な中国南部一帯を支配し、秦朝滅亡後に成立した漢朝も悩ませました。

中国にとって南越(Nam Việt)は好ましくない国名なのです。南越国は漢の武帝によって滅ぼされた紀元前111年まで92年間続きます。以降、938年までベトナムの中国支配が続くことになりますが、これらも後に紹介します。

時代は下り2000年の時を経た1802年、初めてベトナム全土を統一した阮王朝が、ベトナムの独立を内外に宣言する国名:「南越」(Nam Việt)を名乗ることを快く思わない清王朝は認めませんでした。やむなく、ザーロン帝は国名を「越南(Việt Nam)にしましたが、清王朝に対する正式文書には越南(Việt Nam)を用い、それ以外では「大南国」(Dai Nam)や「大越南国」(Dai Việt Nam)を使うなど、面従腹背の姿勢を貫いていました。

Photo_20210419080701

(出典:ウィキペディア「南越国」)

上の地図で、赤く塗ったところが南越国です。赤い囲みが現在のベトナムです。

このあたりも、ベトナムの反骨で、粘り強くて、他からの圧力になかなか屈しないというしたたかな一面を窺うことができます。

次回は、「ベトナム語の表記の歴史」を紹介します。

 

(2021年4月20日、あかたつ)

【編集者記】18日の「広島市議会・政策立案検討会議傍聴記―その1」で記載した「核兵器禁止条約」に関する意見書の採択状況について、広島市議会事務局に問い合わせました。その結果、「両意見書とも全会派共同提案なので、全会一致で採択されています」とのことでした。政策立案検討会議の委員は、1名を除き3期以上の議員ですので、両意見書とも賛成だったということになります。1期の1名は、2019年4月の選挙で初当選していますので、2017年9月29日の採択には関わりがありませんが、2020年10月27日の意見書の採択では、賛成されていることが確認できました。(いのちとうとし)

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月19日 (月)

広島市議会・政策立案検討会議傍聴記―その2 「原則」のため、次々と葬られる市民の意見

昨日、「原則に従って」の言葉で、前文に「核兵器禁止条約の発効」が挿入されないことになったことを紹介しました。15日の政策立案検討会議では、何度もこの言葉が飛び出しました。「原則」と言われても傍聴している人たちには、何を意味しているのかすぐには理解できなかったのですが、実は、昨年12月の政策検討会議で重要なことが確認されていました。「原案を全会一致でつくったのだから、今後修正にあたっても全会一致で行う」ということです。

今回の政策立案検討会議では、この「原則」が原因で、午前中の検討作業は50分ほどで休憩せざるを得ない事態に至ったのです。この「原則」なるものがあったため議論が紛糾し、ついに委員の一人が「大事なことが修正されないのなら、もうこんな会議に参加する意味はない、私が委員を辞退する」と発言し退席したため、午前中の協議が進まなくなったのです。そこに至る経緯を簡単に紹介します。

Photo_20210418130001

意見の対立は、一番初めの検討事項から始まったのです。それは、前文の冒頭にある「昭和20年8月6日」という表現に「西暦の1945年を併記してほしい」という市民の声に対する検討の時に起りました。賛成意見が多数だったにもかかわらず、反対の理由は違いますが3人の委員が強行に反対したため「併記しない」ことになってしまいました。その余韻が残ったまま、3項目の「広島市の都市像である『国際平和文化都市』を記述すべきだ」という声の検討に入ったのです。一人の委員から「広島市の基本なのに、なぜこの言葉が入れられないのか」と繰り返し厳しく意見が開陳されたのですが、結論は「意見が違うので原案のまま」と市民の声を取り上げようとする意見は取り入れられませんでした。ここで怒りが沸点に達し、前述のような事態になったのです。私もこのやり取りを聞いていて、「こんなことも修正できない検討会議って、何のために開かれているのだろう」と強く思いました。

それでも何とか午後1時から再開されましたが、当該委員は欠席との扱いでスタートしました。段落ごとの検討が始まりました。中には、私も「入れる必要はないな」と思わざるを得ない意見もありましたが、ただ一項除いて、いずれも「記入しない」「そのまま」の結論ばかりです。私も何時になく熱心にメモを取ったのですが、余りにもあきれる検討会議の論議でしたので、項目ごとの論議内容の紹介は省略します。唯一の修正は、第6段落の最初の文言「しかしながら、被爆75周年を迎え」という表現を「被爆75周年が過ぎ」に変更したことです。これは変更というより、時系列を考えれば、市民の声が無くても原案提示の時点で直しておくべきか所ですから、修正と言えるものではありません。しかし、この声に対しても、最初は反対意見があったことをぜひ紹介しておきます。

結局、前文に対し28項目を超え、多岐にわたって市民の意見が寄せられたのですが、その声は全く無視されてしまったということです。この「原則」がある限り、市民の声は取り上げられることは無理だろうと予測していましたが、残念ながらその通りの事態が進行してしまいました。議会にとって一番大事な「可能な限り市民の意見を尊重し、取り入れる努力をする」という姿勢が全く感じられないということです。

なぜ「修正しない」という結論が次々と出るのかです。その原因は、もちろん考え方の問題もありますが、私は、次回からの条文ごとの検討が念頭にあるからだと思っています。市民からの意見に対し賛成する委員がどんなに多数でも「原案の修正を認めるような妥協は絶対しない。譲らない」という姿勢を貫くことで、今後予想される検討事項の中でも、たとえ多数の賛同があったとしても、「全会一致が無い限り修正させることが出来ない」ということを実績として残した置く必要があったからに違いありません。次回の政策立案会議でそのことが証明されると思っています。

今回の検討状況を見る限り、残念ながら「原案が修正されることはほぼない」ことが予測できますが、県原水禁の意見がどのように扱われるかを見届けなければなりませんので、次回もきちんと傍聴しようと思っています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月18日 (日)

広島市議会・政策立案検討会議傍聴記―その1 入れられなかった「核兵器禁止条約の発効」-広島市平和の推進に関する条例

15日に開催された広島市議会の政策立案検討会議の傍聴記です。広島市議会は、今年1月15日から2月15日までの期間で「平和推進に関する条例(仮称)の素案」(ここでは全文紹介できませんので、広島市平和の推進に関する条例(仮称)素案に対する市民意見募集(募集終了) - 広島市公式ホームページ (hiroshima.lg.jp)を参照してください)に対する市民の意見を募集しました。この意見募集に対し、607人・団体から1043件の意見が寄せられました。寄せられた意見に対し、政策立案検討会議の考え方を示すことになっていますので、そのための検討が行われています。

3月18日に意見募集後最初の政策立案検討会議が開催され、その会議では「多くの意見が集まったので、この意見に対する検討を行う」ということとし、予定していた2月議会での採択は延期し、政策立案検討会議で引き続き協議することが確認されました。そいて今月1日に開催された第2回検討会議では「なぜいま条例が必要なのか」など基本的な考え方に関する意見について検討されました。そして第3回目となる今回の検討会議からは、いよいよ本論への意見の検討が始まりました。

今回は「前文」に対する意見について、それぞれ段落(8段落)毎にまとめられた意見に対して、協議が進められました。

段落ごとに、数項目の意見が寄せられていますので、その一つ一つの検討が進められました。その数28項目にもわたりますので、特徴的なことを紹介したいと思います。

順番どおりではありませんが、今日は、今回の検討で一番論議となり、傍聴者を唖然とさせ、私自身も耳を疑った第7段落の検討を紹介します。第7段落の原案は「今日、核兵器の廃絶に向けては、世界的にその機運は高まっているものの、実現までにはいまだ多くの課題がある。」です。

この項には、前文の中でも市民の最も多くの意見が寄せられました。その多くは「今年1月22日に発効した『核兵器禁止条約』について言及すべきだ」という声です。広島市民から見れば、当然の意見です。必ず挿入されると誰しもが思ったこの文言ですが、「意見が分かれたので、原案のまま」ということで、「核兵器禁止条約の発効」の文言は入れないことになりました。30名ぐらいいた傍聴席から、ため息が漏れます。

20210415_100058

少し論議の状況を紹介します。順不同ですが、入れなくてもよいという人たちの主張です。「『機運が高まっている』のなかに含まれているのだから必要ない」ここまでなら、まだ「そんな意見もあるのかな」という感想です。次に出たのがびっくりする意見です。「明確に反対。日本が批准する事にも反対。核兵器が違法となる条約を批准することは、日米安保条約の1条、2条にも関わることなので絶対反対。」さらに同じ委員からこんな意見も飛び出しました。「批准国の中には、中国の人権弾圧を支持する国が6つも入っている。」もう一人の反対意見は「発効したからと言って機運が高まっていることにはならない。条約で核兵器は、法律違反になったが、実効性があるのか。どうしても書かなけれればならない事なのか」です。今日は、各委員の発言への私の論評は避けますが、広島市議会は、国連で「核兵器禁止条約」が採択された2017年9月29日には「核兵器保有国を含む全ての国に対し核兵器禁止条約の早期発効を求める意見書」を採択しました。そして同条約の批准国が批准に必要な50カ国に達した2020年10月27日には、日本政府に対し「核兵器禁止条約の実効性を高めるための主導的役割を果たすことを求める意見書」を採択したはずです。反対の意見を述べた委員は、当時この意見書採択に反対したのでしょうか。

もちろん「入れるべきだ」とする委員も多数いました。例えば、原案では「入れない」ことに賛成だった人の発言です。「案を検討する過程では、いろいろな意見があった。私も入れなくてよいと思っていたが、今は、発効した事実があるので、事実をきちんと書くべきだと思うようになったので、入れることに賛成です」。この検討会議は、9人で構成されていますが、「核兵器禁止条約の発効を入れるべきだ」との意見が、半数以上の委員から、繰り返し意見が出ました。しかし結論は「核兵器禁止条約の発効の文言が入れない」ことになったのです。なぜそうなったのか?それは、この文言の挿入に最も強く反対した委員のこの一言があったからです。「原則に従ってやってください。」

実はこの「原則に従って」の言葉が、この政策立案検討会議では重要な意味を持つことになるのですが、それは明日紹介します。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月17日 (土)

広島朝鮮初中高級学校 創立75周年記念行事

広島朝鮮初中高級学校が主催し、民族教育の未来を考える・ネットワーク広島、 日朝友好広島県民の会、広島無償化裁判を支援する会の三団体が協力する「広島朝鮮初中高級学校 創立75周年記念行事」が昨日午後6時30分から東区の広島朝鮮初中高級学校体育館で開催されました。朝鮮学園でも、昨日の午後、生徒たち全員で「75」の一文字を作り祝ったそうです。

広島県内に初めての朝鮮学校の初等学院が広島県大竹市に創設されたのは、ちょうど75年前の昨日1946年4月16日でした。翌1947年には、一気に17校に増えたといわれています。県内各地に創設された朝鮮学校では、紆余曲折がありながらも75年間広島の地で民族教育が行われてきました。朝鮮人同胞の手でつくられた朝鮮学校は、在日朝鮮人のみなさんにとって、希望の砦でもあったといえます。しかし、その歴史は、決して順風満帆ではありませんでした。子どもたちへの差別事件は、後を絶ちませんでした。特に、日朝関係が悪化するとそうした動きが強まりました。

この歴史の中で、日本政府による度重なる弾圧や差別があったことを忘れてはなりません。その中でも特に、2010年に導入された高校無償化制度から、朝鮮高級学校だけが排除されたことは、その象徴ともいえる事案です。政治とは無縁ともいえる子どもたちに対し、教育とは全く関係のない政治的な理由で、この制度から除外したことは、政治によるあからさまな差別であり、全体に許されるものではありません。

広島朝鮮学園と卒業生らが「国が朝鮮学校を高校無償化の適用から除外したことは違法」だとして処分取り消しを求めて広島地裁の控訴したのは、2013年8月1日でした。その後広島地裁は、2017年7月19日に不当判決を出し、控訴審である広島高裁も2020年10月16日に不当判決を言い渡しました。それに対し、学園と原告109人が直ちに上告し、現在、 最高裁判所での闘いが続いています。

本来なら「創立75周年」という節目の年ですので、お祝いムードで記念行事が行われるのが当然ですが、裁判係争中ということもあり、昨日の記念行事は「広島無償化裁判の意義」を考える集会となりました。

20210416_183653

集会は、民族教育の未来を考える・ネットワークひろしまの森崎賢司さんの司会で始まり、最初に李昌興学園長が開会のあいさつ、続いて明治学院大学教授鄭栄桓(チョンヨンファン)の「無償化裁判の本質から見えたもの、 そしてこれからの闘い―民族教育の存続と発展のために―」と題した記念講演。鄭栄桓さんは、まず「高校無償化制度は、外国人を主たる対象とする全く新しい制度を作りながら、なぜ朝鮮高校だけが排除された。政府が認めるとしながら排除するのは新しい差別だ」とし、さらに「無償化法は生徒の権利。受給する権利がある生徒を差別するのであれば、差別する側がその理由を説明すべきだ。当時のマスコミの論調の中に、『朝鮮学校も学習内容などが変わったのだから』という論調があったが、学校の変化を理由に、国を批判することは、これまでの差別を認めることになる」と話されたことが、印象に残りました。さらに「朝鮮学校は問題だよねと言う意識はどうやって作られてきたのか」と問題提起され、戦前、戦後を通じてくり返された朝鮮学校への差別の歴史が詳しく紹介されました。あらためて朝鮮学校の歴史を学ぶと同時に、日本政府が進めてきた民族教育権侵害の歴史を学ぶことが出来た講演でした。

集会は、その後、原告、2021年3月卒業生、生徒、弁護団が、それぞれの思いをリレートーク。支援団体を代表して「民族教育の未来を考える・ネットワーク広島」の村上敏さんの連帯のメッセージと続きました。そして「今後の行動提起」として、最高裁に対し「公正公平な判決を求める署名」と各人の「ハガキ行動」が提起され、全力で取り組むことが参加者全員の拍手で確認されました。最後に再び、李昌興学園長がたち、閉会のあいさつを行い、集会は終了しました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2021年4月16日 (金)

自然災害の歴史から学ぶ (3) ――災害対応にも政治にも「論理」を持ち込もう――

自然災害の歴史から学ぶ (3)

――災害対応にも政治にも「論理」を持ち込もう――

 

既定事実を無理矢理、押し付けようとするとき、為政者は「分り易い」喩えや理屈で説得しようとする癖があります。福島の第一原発の汚染水についての麻生副総理・財務大臣の発言が典型例です。汚染水を、処理済みとは言え海洋放出することに何の問題もないと強調するために、「別にあの水飲んでもなんてことないそうですから」と宣うた。

そこで論理に登場して貰うと、「だったら、飲んで見せて」、「飲み水と同じなら、何故捨てなくちゃいけないの?」等々、究めて当たり前の結論です。

それに対して、麻生副総理が論理的な対応をするのであれば、一番簡単なのは、「汚染水」を飲んで見せることでしょう。「飲んでもなんてことない」のですから。それで、政治的な責任が果たせるのであれば安いものです。

018

これは、カフェラテですから飲んでも大丈夫

でも、十中八九、飲まないでしょう。安部・菅政権の常套手段、そして歴代自民党の常套手段は「白を切る」ことだからです。つまり、「答えられない」のです。論理的には破綻していることを、「答えない」という行動を通して認めてはいるのですが、それだけではなく、その事実を認めない上に、最初の言葉、つまり「飲んでもなんてことない」が嘘だったことも認めないのですから、何重にも人を馬鹿にしています。

それでも、政党の支持率では自民党が一番多いのです。その理由は全く理解できませんが、それを変えるのはやはり選挙です。手始めに、今月の参議院選挙で自民党候補を落とすことから始めましょう。とは言ってもこのブログを読んで下さっている方には、釈迦に説法なのですが、あまり関係のないような場でも話を選挙に持って行って、河井夫妻のことや麻生副総理のこと等、遣り切れない思いであることを伝えるという作戦はどうでしょうか。

自然災害について遣り切れない思いをした記憶はたくさんあるのですが、その一つとして阪神・淡路大震災後の復興についての国の対応があります。自宅が倒壊して住めなくなった人は20万人以上に上りました。全壊が104,906戸、半壊が144,274戸、全焼が7,036 戸、半焼が96戸という数字が、ウイキペディアには載っています。

しかしながら、我が国の法的な立場は伝統的に、私有財産に公費を投じる施策は取らないというもので、当時の村山富市首相は「自然災害により個人が被害を受けた場合には、自助努力による回復が原則」と言っています。

つまり、ローンを組んでようやく建てた家が地震で倒れてしまっても、再び自力でローンを組んで家を建て、地震でなくなってしまった家のローンと新しい家のローンの両方を払い続けるのが原則だったということです。

義援金や自治体からの援助もありましたが、やはり国の責任で、主権者である国民の窮状を救うのが筋であるという多くの国民の声を受けて、ようやく1998年になって「被災者生活再建法」ができました。「自助努力による回復が原則」から、市民の生活にようやく目が向いたのですが、それでも多くの問題がありました。

まず、この法律は遡及適用がされなかったのです。つまり、阪神淡路大震災の被災者には適用されなかったのです。これって、あまりにも冷たい、非人間的な対応ですよね。

さらに、住宅の再建には使えないどころか、補修にも使えない、基本的には住宅関連の費用に充てることはできないものだったのです。しかも、最大の額が100万円でした。

そんな中で、大きな一歩になったのが、2000年10月に、鳥取県西部地震の後、片山善博知事 (当時) が「鳥取県西部地震被災者向け住宅復興補助金」という制度を作ったことでした。その結果、住宅再建に公金が使えるようになったのです。国のレベルでもこの法律の後追いをして、法的にも徐々に整備がされてきました。

このような政治の貧困 (それに風穴を開けた片山元知事の様な例外のあったことも重要ですが―――) が、なかなか改善されない背景を考えてみると、そこに再び、「受忍論」の影がチラつくのです。その点を検討する上で、やはり「論理」を持ち出さなくてはならないのです。以下は次の機会に。

 [2021/4/16 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2021年4月15日 (木)

4月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

4月も半ば。農園では姿は見えないがキジがしきりにケーンケーンと鳴いている。10日の土曜日は夕方家族を帰らせて、一人農園に泊まることにした。11日の農園は霜が降りていて寒い朝だった。今春最後の冷えと霜かも知れない。ブルーベリーの剪定をひたすら続けている。

214151

4月10日(土)里山のブルーベリー園周辺でヤマツツジが咲きだした。いつもバッサリ切って持ち帰り飾る。

214152

4月11日(日)は一人前日から農園に泊まり込んだので朝の農園の様子を見回る。ブルーベリー畑は霜が降りている。

214153

ブルーベリーの花芽と新芽にも霜がついている。

214154

朝日を受けて野の花のカキオドシや

214155

ソラマメの花や

214156 

石垣のスミレも色合いが凛々しい。

214157

ブルーベリーの剪定の前に1時間ほど畑の富有柿の剪定をした。上に伸びている枝ばかり残した。たくさん実がついてほしいが。

214158

畑のブルーベリーの剪定を始める。木の向こうに座っているアマガエルと目が合う。寒い朝だったので日向ぼっこで温まるのを待っているのかじぃーとしている。

214159

剪定場所は3段ある畑の真ん中の段に取りかかっている。午後からは気温が上がり青空が広がる。

2141510

剪定が遅れているので4月14日(水)にも農園に行った。下から見上げるとブルーベリーの枝にぶつぶつと花芽がついているのが見える。

2141511

1株からたくさんの花が咲いているのはスミレ。花は小さいが見飽きない。野で観るに限る。

2021年4月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月14日 (水)

学徒動員と原爆被爆その5-鳥取県への帰郷の路

一月ほど前の3月2日に掲載した「学徒動員と原爆被爆その3-帰郷への道」で「先日に紹介した鳥取敬愛高等学校社会部が、前年には自校の前身『鳥取高等家政女学校の学徒動員』のことを調べていたようですので、学校に電話で問い合わせたのですが『被爆問題は、調査していません。ただ因美線を使ったと聞いています』ということでした。岡山経由で帰る時には、呉線三原経由も考えられますので、広島駅を通過したのかどうか、今のところ確認できていません。」と紹介し、翌日の「学徒動員と原爆被爆その4-被爆者健康手帳の取得」では、最後に「島根県以上の生徒が学徒動員によって広島に派遣されていたにもかかわらず、鳥取県では入市被爆者の手帳取得者数は1989年の339人が最大ですから、島根県の1,432人とはあまりにも大きな開きがあります。なぜ、これほどの違いができてしまったのか、解明すべき課題が残りました。少し時間をかけて調べてみたいと思います。」と書きました。

その後、鳥取県の「帰郷の道」を調べたいと鳥取県立図書館に「何か資料はないでしょうか」と調査をお願いしていました。少し時間がかかったのですが、先日のその調査結果がメールで届きました。そのほとんどが、被爆体験記による情報でしたが、その中で1件だけ「学徒動員」に直接関係する資料がありました。

Photo_20210413165701

鳥取県立図書館

鳥取県立鳥取工業高等学校の「創立三十周年記念誌」(1968年9月刊)に掲載された「学徒勤労動員の想い出」と題した吉田豊さんの体験記です。少し長いのですが、該当するか所を引用します。「十五日天皇陛下の終戦の詔書。動員解除。もはや一日も早く引揚げたい、代表者をもって再度に亘って交渉の結果、五日後の八月二十日学徒勤労動員解除の命令が下った。いよいよ引揚げ準備一〇〇人余りの生との勤労手当食費の精算等々一人で処理するとなると仲々つらい全員健康で残留者がなかったことがよかったし、生徒諸君もよく協力して呉れた。全員毛布と食器を土産にもらい、呉線で糸崎駅に到着、これより岡山廻りで帰る予定なのだが、来る列車はどれも九州方面からの軍人その他帰還者で超満員ばかり。なんとかして帰らねばならない一心で危険とは思ったが全員屋根のない貨物列車の石炭の上に乗せ岡山に到着点呼の結果欠員のないのに安堵。因美線は牛の乗る貨物車で無事全員を鳥取駅に待つ学校長並に父兄の手に渡したときのことは私の生涯の思い出である。」この体験記を書かれた吉田さんは、学徒動員された生徒ではなく、引率の教職員の一人で、交代のため8月6日の朝鳥取を出発し、呉に入っておられます。途中広島を通ったかどうかの記載はありません。

この学校の生徒は、これまで私が調べた中では、他の学校よりは遅く8月20日に帰郷の途に就いたようですが、私が知りたかった帰路について「呉線で糸崎駅に到着、これより岡山廻りで帰る予定」「因美線は牛の乗る貨物車で無事全員を鳥取駅に待つ学校長並に父兄の手に渡した」と書かれています。因美線は、岡山から津山を経由して鳥取を結ぶ路線です。

先に引用した同じ鳥取市内にあった「鳥取高等家政女学校」の生徒も「因美線を使った」という証言がありますので、鳥取県東部の学校は、呉線で三原方面に行き、岡山駅を経由して帰郷したことになりますので、鳥取県から呉市に動員された学徒動員の半数は、入市被爆することがなかったことになります。鳥取県中具の倉吉市内の学校(倉吉中学など)の帰路が判明していませんが、地理的にみると同じ経路をたどり、鳥取駅から山陰線で倉吉に帰郷したと予測されますので、広島駅を通過して鳥取県に帰郷した人は、さらに少なかったと思われます。

ほぼ同じ人数の生徒が学徒動員によって呉海軍工廠に動員された島根県と鳥取県ですが、入市被爆者の数に大きな開きがある理由は、その帰路にあったことが確認できます。ただ当時は、下記のような「混乱した交通事情」があったようですから、それを考えると「確定した」と断定することはできません。

その体験記の一人は「救護活動のため」入市被爆しています。「8月7日早朝 鳥取駅発、因美線経由、八日市に入る(一泊)、8月8日早朝 八日市出発、矢賀駅下車(「汽車が広島まで行かない為」)、徒歩で広島市内へ」。もう一人は、軍人です。「8月5日 陸軍経理学校受験のため鳥取連隊の下士官に引率され、伯備線、芸備線を経由し広島市に入り、堀川町の旅館に泊まる。被爆の後、国鉄宇品線が動いており被災者と共に宇品港経由で金輪島の施設に収容。3日間過ごす。8月9日 広島駅から芸備線(西城で1泊)、因美線経由で鳥取に生還。」。混乱した交通事情の中で、様々な経路をたどっていることがわかります。

鳥取県の学徒動員の帰路が全て確認できたわけではありませんが、鳥取県立図書館の協力によってかなり事実に近づいたような気がしています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月13日 (火)

ライラックの花が咲きました―被爆者の森

3月12日のブログ「被爆者の森」の植栽と樹名板の取付け: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した北海道の樹木ライラックの花が咲きました。

宮口はるこ候補の街頭演説の応援に来ていたMさんから「被爆者の森のライラックの花が咲いているよ」と教えられ、早速現地を訪れました。

きれいな花が咲いていました。

20210411_165847

植樹されてちょうど1カ月。2~3年の成木で樹高はわずか1メートルしかありませんでしたので、まさか今年花をつけるとは想像もできませんでしたで、沢山の花が咲いているのを目にした時は、ちょっとびっくりでした。しっかり根付いたのでしょう。まだ蕾がありますので、もう少し長く花を楽しむことが出来そうです。

ただ、北海道の木として植樹されたライラックですので、これまでにも何度が枯れたことがあるようです。春の訪れも早かった今年、夏の厳しさが想像されますので、何とかこの勢いで乗り切ってほしいと願うばかりです。

このライラックと一緒に植樹された富山県のアスナロ

20210411_170329

高知県のシラカシの木も元気な姿を見せていました。

20210411_170727

私たちには、うっとうしいと思われた日曜日ごとの雨が、この木々には適度の水分補給となったようです。

被爆者の森には何本か花をつける木がありますが、私が訪ねた時には、奈良県の県木スギの代木として植えられた八重桜が、今満開となっていました。

20210411_170129

春と言えば桜ですが、京都府からはシダレザクラが贈られてきています。訪れた時は、すでに開花の時期は終わっていましたが、よく見るとわずかに数える程の花が残っていました。

20210411_170503

満開時には、見事に咲き誇っていただろうと想像できます。このシダレザクラ、3月の植樹の様子を見ている時、ちょうど散歩で通りかかった女性二人からこんな話を聞いたことを思い出しました。「毎年見事な花を咲かせてくれるので楽しみにみていたのですが、数年前ですが、枝がバッサリと切り取られて無残な姿になったのですよ。桜を切るなんて」この桜は、緑地帯の一番車道側に植わっていますので、広がった枝が、歩道を覆うようになったため伐採されたのでしょうが、毎年花が咲くのを楽しみにしていた人たちにとっては、残念なできごとだったようです。

被爆者の森ができてから30年余りがたち、木々もすっかり大きくなっています。そのため、当時は予測できなかったと思いますが、隣の木との間隔が狭くなり、窮屈そうな木も目に付きます。その1本が、広島県の県木モミジです。

20210412_101145

隣のカシワ木の枝が、覆いかぶさるように伸びてきており、いびつな形に成長しています。今はまだ、カシワの木も芽吹いたばかりですが、葉が茂るとさらにおおわれた様子になると思います。こうした姿を見ると、適度の剪定を行いながら、管理することが大切だと思います。枯れた木、樹名板の管理とともに、「被爆者の森」全体をどう管理し、次代にどうつなぐかが課題となっているように思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月12日 (月)

立憲民主、国民民主両党代表が来広―宮口はるこ候補を応援

参議院広島県選挙区再選挙の選挙戦が始まって最初の日曜日となった11日、立憲民主党、国民民主党の代表が、共に推薦する宮口はるこ候補の応援のため広島入りし、街頭から支援を訴えました。

立憲民主党の枝野幸男代表は、広島市の安佐南区と中区の2か所、国民民主党の玉木雄一郎代表は、広島市中区と福山市でそれぞれ街頭に立ちました。同じく推薦する社民党福島みずほ党首は、8日の出発式に参加しました。

私が応援に行ったのは、午後3時半から両代表がマイクを握った金座街入り口での街頭演説会です。

最初にマイクを握ったのは、立憲民主党の枝野代表。

20210411_153246

 「コロナ、第4波。無為無策の政治の失敗と言わざるを得ない。今のやり方では、感染を止めることはできない。ゼロコロナ戦略、台湾、ニュージランドですでにできているのに、〃島国の日本でなぜできないのか。一人ひとりの暮らしに目が向かない政治が続いてきるから。暮らしを守る政治に変えなければならない。再選挙の根っこは、同じ仲間内の、身内だけ良い思いをさせるだけで、県民一人ひとりに目が向いていない政治が続いていること。宮内さんが勇気をもって立ち上がってくれた。その思いを共有し、政治の流れを変えよう。主役である県民の底力を示すことが出来るかどうかにかかっている」と支援を訴えました。

次に国民民主党の玉木代表が登壇。

20210411_155259

1年9カ月前の参議院選挙の最終日に同じ場所に立ったことを紹介しながら「自民党は出直し選挙と言うが、党も本人も全く総括していないのに、なぜ出直しですか。政治の流れを変える。広島からその烽火を上げよう。命と健康を守るために政治を変えよう。小さな声を届けるために立ち上がった宮口さんを国会に送って下さい。この選挙を世直し選挙にしましょう」と呼びかけました。

二人の応援を受けて、力を得た宮口はるこ候補の演説にも力が入ります。聞くたびに内容も力強さも加わっています。聴衆からも「よっしゃ」「そうだ、そうだ」「がんばれ」の声が飛びます。

20210411_153117

ただ少し残念に思ったのは、両代表と宮口はるこ候補が揃って立つことがなく、3人そろい踏みのシーンが取れなかったことです。両代表のそれぞれの日程もあったと思いますが、野党が結集している姿を見せるためにも次回の応援演説ではぜひそのシーンを実現してほしいものです。

枝野代表は、金座街での演説に先立ち午後2時からフジグラン緑井前で街頭演説に立ったようです。フジグラン緑井前は、私も何度も街頭演説をした場所ですが、買収で失職した河井夫妻の地元中の地元。枝野代表の演説にも力が入ったことがうかがわれます。一方玉木代表は、金座街から福山市に移動し、午後5時から行われたJR福山駅前での街頭演説に臨みました。福山市は、宮口はるこ候補の地元ですので、大きな声援が送られたものと想像できます。

残された選挙期間は、ちょうど二週間。立候補表明が少し遅くなった宮口候補、追い上げる選挙戦、支援者の輪を広げて走りぬいてほしいと思います。

広島での選挙結果は、国政への大きなインパクトを与えますから、絶対に負けることのできない選挙です。がんばれ宮口はるこ候補!

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月11日 (日)

自然災害の歴史から学ぶ (2) ――6・29豪雨災害――

自然災害の歴史から学ぶ (2)

――6・29豪雨災害――

 

自然災害の歴史を繙き、それに対してどのような対策が取られてきたのかを検証しています。前回は、明治以降に起きた地震で、死者数からどのくらいの被害があったのかを年代順に整理した表を見てみました。

その中でも関東大震災の被害の大きさに胸を突かれました。亡くなった方が10万人を超えているのですから、東日本大震災と比べると、正に桁が違うのです。そして、その内の9割が、火災によって亡くなっています。

となると、東日本大震災に関係のある事柄での「9割」が頭に浮かびます。それは、東日本大震災で亡くなった方の9割が溺死だということです。つまり、津波で亡くなっているのです。さらに亡くなった方の内、3分の2は、60歳以上の方なのです。

このように数字から数字へと連鎖を辿ることでも、自然災害の形が見えてくるように思います。連鎖を辿らなくても一つ一つの災害を客観的に把握するためには数字が役立ちます。

 その中でも忘れられないのは、市長就任直後に起きた「629豪雨災害」です。被害の状況、そして広島市の対応は次の図を御覧下さい。

  629

その日の午後、開会中の市議会の議場が突然雷雨の音に包まれ、人の声が聞えるようになるまでかなりの時間がたったくらい、それまでに経験したことのないような豪雨が降り始めたことを覚えています。

 被害状況は、報告を受ける度に拡大し、夜には自衛隊の派遣を依頼しましたが、遅きに失したのかもしれません。30日には現地の視察もしましたし、市としての対応にも追われましたが、とにかく消防を初めてとして全職員が力を合わせて頑張ってくれました。

私個人としても、その時点では事後的な対応しかできませんでした。しかしこれほどの惨事になった原因を確かめて、それに対する「事前」の対策を取れないものかとも考えていました。

 それは、次の年に実現しました。通称、「土砂災害防止法」が制定されたからです。それについては、4年後の防災の日、つまり91日付で市の広報誌に掲載された記事の一部をお読み下さい。

 

「それ以上に忘れられないのは、4年前の629日の、梅雨前線豪雨による災害です。死者20名、負傷者45名、全半壊家屋203戸といった甚大な被害を広島市にもたらしました。

その直後に関谷勝嗣建設大臣(当時)が視察に来てくれましたが、一日も早い災害復旧と、今後これほど大きな被害を出さないための対策をお願いしました。大臣は直ぐに手を打つことを約束してくれましたが、特に、「こんなに山ぎりぎりのところにまで家を建てることは止めるべきだ。法的な規制が必要だ。」と強く主張されたことが印象的でした。

その結果、通称では「土砂災害防止法」という画期的な法律が一年後にできました。629日に起きたような土砂災害を防止することを目的とする法律ですが、分り易く説明すると、危険が起こりそうな地域についての調査を行い、「警戒区域」と「特別計画区域」を指定する。特に「特別警戒区域」については、その区域内に新たに家を建てないようにしたり、既に建っている場合には移転、あるいは現在の建物の建て替えや構造補強によって、被害を最小に食い止めるというのがこの法律の内容です。

しかし、個人の責任で別の住居を探して移転したり、自宅の建て替えや構造の補強を行うとしたら、経済的負担だけでも大変です。国からの支援策という形で、解決できないものか、機会ある毎に要望を続けています。

しかし、個人でできることも多くあります。例えば、安佐南区の伴地区では住民の自主的組織である自主防災会が中心になって「防災マップ」を作りました。

内容は、危険区域の表示や、いざ災害が起きた場合、水や食料、災害復旧のための道具がどこにあるのか、避難の際に、一人では避難できない例えば一人住まいのお年寄りがどこに住んでいるか等、実際に役立つ情報が中心になっています。

このような地図は、地域を熟知したその地域の住民の皆さんでなくては作成できないものです。皆さんの協力で素晴らしい物を作って頂きましたが、それが全国的にも認められ、消防庁の災センター長表彰を受ける栄誉に輝きました。

もちろん地図だけでは十分とは言えません。市内では、各区毎に防災訓練も行っていますが、特に安佐南区では、毎年、泊り込みの防災訓練を行っています。今年は8月の3031日に行われますが、こうした形での、市民の皆さんの日頃からの努力が、万一災害が起きたときの備えとして大切です。多くの皆さんのこれまでの努力に感謝しつつ、今後の御協力をお願い致します。」

 

「特別警戒区域」では、三つの措置が取られることになったのですが、それも図で見て頂いた方が分り易いと思います。

  Photo_20210410234201

残念なのは、良い法律ができても予算措置が伴わないと実質的な効果はないということですし、「天災は忘れたころにやってくる」という寺田寅彦の言葉を裏切って、かなり頻繁に台風の被害や、2014年そして2018年と再三にわたる大きな土砂災害が起きてしまっていることです。

 [2021/4/11 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2021年4月10日 (土)

「規制の虜(とりこ)」

「規制の虜」という言葉があります。米国の経済学者が唱えた学説で、国(規制する側当局)が国民の利益を守るために行う規制が、逆に企業など「規制される側」に転換されてしまう現象を現わすものです。

まったくの素人だとは思いませんが、規制する側の知識よりも、それを所有している側の方が専門知識もあり、様ざまな経験やノウハウを持っているということで陥る現象です。分かりやすくいえば、規制される側が規制する側をバカにしているというか、甘く見られているという状況の中で起こることだと思います。お互いが癒着している状況の中では、ナアナアということで「見て見ぬふり」で済んだのでしょうが。

福島原発事故の前にはよく云われていましたが、国の原発行政が、規制する部門と、推進する部門が共存しているという中でも起こりました。

すでに亡くなられましたが、一級プラント配管技能士として20年間に亘り原発内で働いた経験を持っていた平井憲夫(ひらい のりお)さんが、「昨日まで農林行政を担当していた者が、明日から原子力を担当するようになる。こんなことがまかり通っているのですよ」と話されていたことを思いだします。

こういう国の政治構造だから、福島原発事故は起こったのだという指摘もあります。事故後に立ち上がって調査した「国会事故調査委員会」は、「事故は明らかに人災」とする報告書を提出しました。その報告書が指摘した扱いや対策は、まさに現在「行方不明」状態にあります。ただ福島原発事故後、新たに独立した立場で原子力規制行政を行う原子力規制委員会が発足しました。

Photo_20210409165701

しかし最近の動きを観ていると、「規制の虜」が復活してきたと思えてならないのです。その理由は福島原発事故から10年が経過したこと、10年までは大人しくしていたというか静かにしていた「原子力ムラ」が、頭を持ち上げてきたという感じです。

その現象は、第6次エネルギー基本計画の議論の様子を観察していると分かります。40年で廃炉という原則について、「20年でも30年でも運転継続を…」、「新増設も…」といった発言が相次いでいるのです。ほんとうに国民をバカにしているとしか思えません。

極めつけは東京電力柏崎刈羽原発での、ID不正使用問題、原発に取り付けられていた地震計が故障していた問題、テロ対策用の侵入検知装置の故障問題、それを原子力規制庁・規制委員会に報告も行っていなかったことです。

5月には原子力規制委員会から「合格」が出るのではとされていた島根原発でも、中国電力の用意した地震・津波などに関する総括資料に対し、表現が曖昧だとする意見が原子力規制庁から出て、中国電力は「やり直し再提出」というお達しを受けたのです。

まだ規制される側(電力会社)に、長年培われてきた「規制の虜」体質が抜け切れていないのでしょうね。

長年電力会社を観てきている者として思うのは、この体質はそう簡単には直らないでしょうね。

改めて国会事故調査委員会が報告した、7つの提言を伝えておきたいと思います。

1)規制当局に対する国会の監視

2)政府の危機管理体制の見直し

3)被災住民に対する政府の対応

4)電気事業者の監視

5)新しい規制組織の要件

6)原子力法規制の見直し

7)独立調査委員会の活用

 

最近、再び「規制の虜」に陥るのではないかという危惧が強くなっています。

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月 9日 (金)

だまっとれん。―参議院広島県選挙区再選挙告示

昨日(4月7日)、25日投票日で実施される参議院広島県選挙区再選挙が告示されました。私も、旧広島市民球場跡で午前9時半(何故か9時ではなく9時半からでした)から始まった結集ひろしまの宮口はるこ候補の出発式に参加しました。

「再選挙」、めったに聞かない選挙の名前です。すぐ頭に浮かぶのは、「補欠選挙」です。両方とも、議員の不足を補うための選挙ですが、呼び方が違うのはなぜかと、総務省のホームページを開いてみました。解説が掲載されています。「再選挙」は、長い解説になっていますので、ここでは今回の「再選挙」がわかりやすく解説されている「補欠選挙」の項を全文紹介します。

「選挙の当選人が議員となった後に死亡や退職し、しかも繰上当選によっても議員の定数が不足する場合に行われる選挙です。再選挙とは、その人がすでに議員であるかないかという点が違います。ただし、すでに議員であっても選挙違反などにより当選や選挙自体が無効となった場合は、再選挙となります。」

そうなのです。今度の選挙は、河井案里さんが「買収による選挙違反が確定し当選が無効になった」ことに伴う選挙ですので、「再選挙」となるのです。同時に実施される参議院長野県選挙区は、議員の死亡による欠員の補充選挙ですから、「補欠選挙」になります。

ところで、今日のタイトルに付けた「だまっとれん。」は、県選挙管理委員会が作成した投票を呼び掛けるキャッチコピーです。

20210408_105131

今回の選挙が、なぜ行われることになったのかを暗示し、選挙の意義を訴え、投票を呼びかける内容のように思えます。宮口候補の出発式の参加者の一人が「宮口さんのためのキャッチコピーのようだな」と言っているのが耳に入りましたが、その通りだと思います。このキャッチコピー「だまっとれん。」の言葉通り、広島県民一人ひとりが、「金権政治を正す」「金権政治は許さない」「自民党政治ノー」の意思をはっきりと示すことが出来るかどうかが問われる選挙です。

宮口はるこ候補の出発式は、結集ひろしまの代表佐藤公治衆議院議員のあいさつでスタートし、東京から駆けつけた立憲民主党、国民民主党、社民党の各党代表、そして連合広島久光博智会長のあいさつが続きました。

20210408_100457

それぞれの激励のあいさつを受けて、宮口候補の第一声。障害を持つ子どもの親として体験したことを紹介しながら「小さな声を国政に届ける役割を果たしたい」と国政への思いを語るとともに、今度の選挙の争点である「政治とカネ」の問題には、「河井夫妻は、何の説明もないまま、自分のことを他人のことに言う。県民は、情けない、恥ずかしいと思っている。金権政治にノーと言ってもらう大事な選挙。変える勇気を持ってほしい。」と強く訴えました。最後に、参加者全員による「選挙勝利」への決意を固める声をあげないでこぶしを突き上げる「ガンバロー」で終了し、選挙カーに乗り込み、街宣へ出発しました。

20210408_105541

出発式終了後、投票を呼び掛ける掲示板の写真を撮るため県庁前に移動しました。そこで目にしたのは、掲示板だけでなく横に立てられた「だまっとれん。」と書かれた幟です。看板に並べて県庁前の駐車場側には7枚、県庁北側の議会棟前には11枚の幟が立っています。お金を受け取った14人の県議会議員は、どんな思いでこの幟の前を通るのでしょうか。

県選挙管理委員会に問い合わせると「看板は県庁前の一枚だけですが、幟は430枚作成し、各市、町選挙管理委員会に送付しました」とのことでしたので、幟は県内各地で目にすることが出来ると思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月 8日 (木)

4月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

ここ最近は1週間に1度雨が降る。その間隔が土日に来ることが続いている。4日の日曜日は終日雨で農園行きはあきらめる。それでも農園の周囲には野の花が次々と顔を出していて、単調な作業をせかせか続けている気分をまぎらわしてくれる。剪定作業が中心だが今年は遅れ気味だ。ブルーベリーの葉もまだ小さく花もまだ開いていない。

21481

3日には農園のブルーベリー畑のお向かいに鯉のぼりが掲げられた。風はそよそよで泳ぐまではいかない。

21482

ブルーベリーの剪定を続ける。

21483

ブルーベリー畑の地面ではスミレも数は少ないが咲き始めた。

21484

毎年この季節にお目見えのムラサキゴケ。

21485

4月7日(水)。

草が伸びてきたので里山のブルーベリー園に行く道の草刈りを行う。

21486

一番上の畑の早生のブルーベリーの場所替えを数本行う。取りあえず一区切りつけた。

21487

道の向こうの田んぼの法面のシバザクラが満開。

21488

地面にはレンゲ、

21489

濃い意紫色のスミレ、

214810

花びらの小さなツボスミレなどがあちこちに咲いている。

 

2021年4月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月 7日 (水)

ヒロシマとベトナム(その23-2) 日本の姿勢が問われる「出入国管理及び難民認定法」改正-その2

― 極端に少ない難民認定 ―

2010

2011

2012

2013

2014

2015

2016

2017

2018

2019

申請数

1,202

1,867

2,545

3,260

5,000

7,586

10,901

19,628

10,493

10,375

認定数

39

21

18

11

27

28

20

42

44

認定率

3.24

1.74

0.71

0.18

0.22

0.36

0.26

0.10

0.40

0.42

(出典:出入国在留管理庁の統計を基に作成)

上表は2010~2019年まで難民申請数と認定数の推移です。10年間に申請者は7倍余り増えているにもかかわらず、認定率は10分の1に低下しています。

下図は主要先進国7カ国のうち、イギリスとイタリアを除く5カ国の2019年の難民認定数と認定率です。トランプ政権下で「移民排斥政策」が進められたアメリカですら296%ですから、日本の0.42%という低さは異様に映ります。

 

― 長期化する収容による人権侵害 ―

在留資格期限が切れて残留しているオーバースティや不法入国や不法上陸による不法滞在など在留資格がない人を、出入国管理庁(入管庁)の行政権限で全国の施設に収容しています。下表は入管庁の資料を基に作成した収容者数とそのうち6ヶ月を超える収容者数の推移です。6ヶ月以上の長期収容者が占める率は上昇傾向にあり、この数年は4割を超え、2019年には3年以上収監されている人も63名いました。

2012

2013

2014

2015

2016

2017

2018

2019

収容者数

1,028

914

932

1,003

1,133

1,351

1,494

1,054

6ヶ月以上の長期

353

263

290

290

313

576

706

462

6ヶ月以上の率

34.3

28.8

31.1

28.9

27.6

42.6

47.3

43.8

人身の自由を奪う収容行為は本来、裁判所の令状が必要ですが、入管の収容手続きは行政権限で行われています。いわば、警察官・検察官・裁判官・刑務官の役割を入管庁の行政職員が行っており、チェック機能が働かない上に入管職員の裁量に委ねられてしまっています。

長期収容されている人たちの中には、家族と一緒に長く日本で暮らしている人や、母国に帰国すると迫害や弾圧の恐れがあったり、生命が危険に晒されるなど、帰国したくともできない理由がある人たちが多いと言われています。いつ釈放されるか分からない不安など過度なストレスから健康を害したり、不幸にして亡くなるケースも後を絶ちません。

こうした扱いに抗議するハンガーストライキが各地で起こり、20196月には長崎の収容所でナイジェリア人男性が餓死しました。

Photo_20210403172101

(出典:朝日新聞DIGTAL、2019年8月21日)

2020年8月、国連人権委員会「恣意的拘禁に関する作業部会」は、日本政府に対し、こうした入管施設への収容という「身体の自由の剥奪は世界人権宣言、市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)に違反し、恣意的なもの」であり、「遅滞なく是正し、国際的規範に適合させるために必要な措置を講ずる」とともに、「出入国管理及び難民認定法を見直すよう」求めました。

※作業部会意見書(日本語訳)は下記からご覧になれます。https://migrants.jp/user/media/ijuuren/page/news/pdf/WGAD_Opinion_JPN_final.pdf

しかし、収容環境は一向に改善されず、今年36日にも名古屋の施設に収容されていた30歳代のスリランカ人女性が、体調変調にもかかわらず適切な医療措置を受けられず死亡するという「事件」が起きています。

 

― 政府「改正案」のひとつ、「監理措置」 ―

改正案の主な内容を見てゆきたいと思います。

一つには、「監理措置」の新設です。「送還時まで収容すること」を原則とする現行制度を維持しつつ、収容に代わる「監理措置」を新設するというものです。逃亡や証拠隠滅の恐れが低いことや「その他の事情」の条件を満たせば、300万円以下の保釈金で収容所を出て監理人(弁護士、支援者、家族など)の下で生活することが認められるというものです。

しかし、その対象者の範囲は曖昧なうえ、在留外国人にとって相当な金額である300万円が果たして準備できるのか疑問です。条件を満たすことは極めて困難と言わざるを得ません。こうした条件が満たされなければ、入管庁という一行政機関が、裁判を経ずして個人の身体的な自由を制限し続けることができる仕組みは、以前と何ら変わりありません。さらに、就労はできず健康保険にも加入できないなど、人権が保障されていません。

野党共同案では、退去強制令書による収容は、あくまでも送還の準備のために認められるものであり、送還の予定が立っていない外国人や、送還が法律上禁止されている難民申請者を収容することは、本来の日的外の収容であり、明確に違法であるとの立場から、「退去強制事由に該当すると思料される外国人の収容は、明らかに該当する場合であって、逃亡の恐れのあるときに限って、裁判官のあらかじめ発する収容許可状により、行うことができること」とされています。

そして、「収容許可状による収容期間は、10日以内とする。ただし入国審査官の請求があった場合、裁判官はやむを得ない事由があると認めたときは、10日を限り延長することができる」とされています。

こうした日本の入管制度(収容)に対し、国連人権委員会が是正勧告を出したことは前回述べました。加えて、憲法第1 8条が禁止する「意に反する苦役」や、拷間等禁止条約第1条第1項が禁止する「拷間」に該当するものであって、 この点からも明確に違法です。

次回(5月5日)も引き続き、「出入国管理及び難民認定法」改正について見てゆきたいと思います。

(2021年4月7日、あかたつ)

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月 6日 (火)

完全に舐められている私たち (3) ――官僚からも。でも私たちには憲法がある――

完全に舐められている私たち (3)

――官僚からも。でも私たちには憲法がある――

 

「完全に舐められている」シリーズを続けていますが、今回はその根底に憲法のあることを強調します。

 もう古いことになってしまっているようですが、先月の24日、まだ時短の要請が続いている中、厚労省の職員が銀座で (「また銀座かよ」という声が聞こえる) 深夜まで、「送別会」と称して大宴会を開いていたと言うではありませんか。日本中、官僚たちを除いて、大憤慨したはずです。

Photo_20210405215201

何年か前の昼間の銀座

 

老健課の課長が言い出しっぺで、「誰も止められなかった」という言い訳まで聞こえてくるのですが、それだけで終りにしてはいけません。あるいは、「外での飲食は控えて下さい」とお願いしている側が外で飲食、しかも大人数でするとは怪しからん、という受け止め方もあるようです。それもそうなのですが、もっと根が深いのではないでしょうか。

 そもそも、官僚、つまり公務員が給料を貰って生活できるのは、国民、つまり私たちのために働いているからです。主権者のためにです。給料を貰う条件として、「全体の奉仕者」として働く、という義務が課されています。それが憲法15条です。

 その義務を果たすためには、四六時中、どんな時にでもこの義務を思い出し、それに照らして自らの行動を律する必要があります。課長なら、課員に先駆けてその義務を全うするのが当たり前です。そして、課員は、課長がおかしな行動をとったのなら、課長と自分という関係ではなく、主権者と課長という関係を元に、主権者の代理として発言すべきなのです。そして主権者には公務員を罷免する力もあるのですから、そのことも考えた上で、上司であっても主権者目線で物を言う義務があるのです。

 法律の専門家はこのような直線的な議論はしないでしょう。法律ができたり慣例があるとそれらに縛られてしまうからです。でもいったん慣例を認め始めると、切りがありません。今回の送別会も「慣例」に縛られた結果です。そんなものに縛られないようにするためには、原点に戻って考えることなのです。

 もう一点、これはマスコミの罪も大きいことなのですが、この課長は「事実上の」更迭なのだそうです。そう報じられています。「事実上」とは何を意味するのでしょうか。それは、「良~く、底の底まで調べてみると、本当は更迭ではありませんよ」という意味です。ここでも私たちは舐められ馬鹿にされていますね。

つまり、今後の異動等の際には影響が出ず、退職金も減らされないし、天下り先もきちんと回ってくる、ということなのです。「官房付」等と聞くと訳が分りませんが、人の噂が消えるまではちょっと隠れておくということでしょう。その間、ほとんど仕事はないでしょうから、ただで給料を貰うということになってもおかしくはありません。

私たちが求めなくてはならないのは、何度も繰り返される「事実上」の更迭ではなく、正真正銘の更迭です。それは、憲法を守るという宣誓をして、仕事にありついた公務員誰しもが受けるべき処罰なのではないでしょうか。

 [2021/4/6 イライザ]

[お願い]
この文章の下の《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2021年4月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その23-1) 日本の姿勢が問われる「出入国管理及び難民認定法」改正

― 政府案・野党共同案、審議はじまる ―

開会中の第204国会に「出入国管理及び難民認定法改正案」(政府案)が提出され、野党(立憲民主党・共産党・国民民主党・沖縄の風・れいわ新撰組・社民党)も共同で「難民等の保護に関する法律案」と「出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律案」を提出、間もなく本格的な論戦が始まります。

政府の改正案は、法務大臣の私的懇談会である「第7次出入国管理政策懇談会」(第7次懇談会)が、2020年6月にまとめた「送還忌避・長期収容問題の解決に向けた提言」に基づいたものです。提言は「退去強制命令を受けたにもかかわらず、様々な理由により送還を忌避するものが相当数存在」し、「我が国にとって好ましからざる外国人の退去強制を没却する」として、「送還を促進するための措置」や「収容の在り方」について法改正を求めたものです。

一方、野党共同案は、日本の入管収容および難民認定制度が憲法や国際人権基準に違反している実態を立法根拠に提出されています。また国連の人権条約機関からも再三にわたり、入管法を国際人権基準に則った見直しを求める勧告を受けていたことなどを根拠にしています。

― 許されない!ミャンマー国軍による虐殺 ―

2月1日のミャンマー国軍によるクーデーターから2ヶ月、連日にわたる弾圧で数百名の尊い生命が奪われています。広範な人びとの不服従運動と国際世論の広がりにもかかわらず、国軍の残虐性は日増しに強まり、犠牲者は後を絶ちません。日本の各地でミャンマーの人びとによる抗議行動が展開されていますが、帰国すれば国軍の迫害や弾圧を受け、生命すら危うくなる可能性があります。

そんな危惧を抱くのは私一人ではないと思います。

ミャンマー国軍との「特別の関係」を重視し、国際的な国軍非難(制裁)に同調せず、事態解決への外交努力も見えない日本政府の姿勢は批判されるべきです。そして、日本に暮らすミャンマーの人びとと連帯した行動が求められていると思います。

― 「ノン・ルフールマン原則」に反する政府案

ところで、国際法上、迫害を受ける恐れがある国への追放や送還は禁止されています。「ノン・ルフールマン原則」と呼ばれ、帰国すると人権侵害を受ける恐れがある人は、いかなる場合であっても強制送還してはならないというのが国際的なルールなのです。いまの入管法では難民申請は何度でもでき、申請中は本国に送還することが認められていません。しかし、改正案では申請を原則2回までとし、3回以上申請した場合は相当の理由がなければ送還を可能にするというものです。「無期もしくは3年以上の実刑判決を受けた者」、また「暴力的破壊主義者等」の強制送還も可能とされています。

もし、仮に日本国内で国軍弾圧の抗議行動に参加した人が、本国に送還されたらどうなるでしょうか。

日弁連やアムネスティ・インターナショナル日本なども、「“ノン・ルフォーマン原則”に反する」と反対を表明しています。

Photo_20210403165901

(出典:NPO法人 難民支援協会)

2018年6月、法務省は東京オリンピック・パラリンピックに向けて「世界一安全な国」を創り上げるとして、不法滞在者の積極的な摘発を図ると表明しています。同じ時期の201 8年2月28日、法務省入国管理局長が「仮放免を許可することが適当とは認められない者は、送還の見込みが立たない者であっても収容に耐え難い傷病者でない限り、原則、送還が可能となるまで収容を継続し送還に努める」と指示文書を出しています。

国際法に反する入管制度と難民・移民政策の見直しが内外から求められている最中、「我が国にとって好ましからざる外国人」の「送還を促進」するという「第7次懇談会」答申に基づく政府提出の「出入国管理及び難民認定法改正案」は余りにも問題が多いと言わざるを得ません。

今回から幾度かに分けて、「政府案」、「野党共同案」、それぞれについて見てゆきたいと思います。

(2021年45日、あかたつ)

〈編集者〉つづきは、4月7日に掲載します。

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月 4日 (日)

4月の「3の日行動」―参院補選勝利に向けて

戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会が毎月午後5時半から実施している「3の日行動」の街宣活動を、今月は3日が土曜日ということで、午後2時から本通電停前で実施しました。今回掲げられた横断幕には、「4.25参議院再選挙 広島の良心を示そう!」「改憲&金権政治をストップ!」と書かれていました。

今月の「3の日行動」は、25日投票日で施行される参議院広島選挙区補欠選挙の告示日が5日後(8日)に控えるということで、立憲野党の統一候補として立候補が予定されている宮口治子さんを迎えての街宣活動となりました。

アイ女性会議の佐藤奈保子さんの司会で始まった街宣は、実行委員会の川后和幸共同代表のアピールでスタートしました。次にマイクを握ったのは、予定候補の宮口治子さん。福山市出身でフリーアナウンサーとして活動を続ける宮口さんの演説は、聞く人の心に響きます。宮口さんは、自らの自己紹介をしながら、特に障害のあるわが子との生活を通じた実感している誰もが生きやすい社会を作ることの重要性を強く訴えました。その視点は、コロナ禍での犠牲が全て弱者に押し付けられている現状を指摘しながら「そうした人たち、弱者にこそ光が当たる政治を実現したい」という訴えに繋がっています。そして「何の説明もないままに進む河井問題は重要な選挙の争点。小さな声を政治の場に届ける役割を果たしたい。ぜひ選挙に行ってください」と政治とカネの問題を訴えました。アナウンサーとしての経験が生かされた聞きやすい話でした。

Photo_20210403164501

次の弁士は、「河井疑惑をただす会」の特別ゲストとして、この日のために東京から来広された弁護士の郷原信郎さんです。郷原さんは次のように呼びかけました。「自民党は絶対に許せない。なぜコロナ過で国政選挙をしなければならないのか。すべて自民党が起こした問題。自民党の選挙資金にまつわる問題であるにもかかわらず候補者を擁立するなど、立てるなど、県民をばかにするのもいい加減にしろ、この選挙は有権者を愚弄するものだと言いたい。被買収者としての犯罪が問われるべき人が野放しになって選挙を行おうとしている。県民を代表して国会で働く人を選ぶ選挙。広島から政治を変えよう」と呼びかけました。

二人の演説を受けて、アイ女性会議の貴田月美さん、山田延廣、石川幸枝両共同代表がマイクを握り、ジェンダーの問題や、宮口さんとの政策協定を結んだこと、総がかり行動として全力で応援することなどを訴え、約1時間の行動を終了しました。参加者は、130人でした。

今回の参議院再選挙は、広島の良心が問われる選挙です。河井夫妻が議員辞職したといっても、説明責任を果たしたとはとても言えず、全ての実態が解明されたわけではありません。特に、自民党から異常とも思える税金からの政党交付機を含んだ1億5千万円もの巨額な選挙資金がなぜ提供されたのか、そしてその使い道についても、河井夫妻はもちろんですが、自民党からも何の説明をなされていません。それどころか二階自民党幹事長の全く人ごとのような「他山の石」発言に見られるように、自民党は全く責任をとろうとしない姿勢に終始しています。さらに、郷原さんの指摘されたように、被買収罪に問われるほどの罪を犯した自民党の自治体議員の責任もあいまいなまま(離党も議員辞職も求めない)もしている自民党広島県連にも自助能力が無いことが明らかになっています。

この重要な参議院再選挙に臨んで、ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、「市民と野党の共闘で政治の流れを変えよう」と宮口治子さんを支持し、支援することを確認しています。

投票日まで、今日を入れて22日しかありません。広島での勝利は、安倍、菅と続いた国民不在の自民党政治に終止符を打つことに直結しています。それぞれの持ち場で、各人ができる活動を強め、参議院広島選挙区再選挙に勝利させることを誓い合い、3の日行動を終えました。

いのととうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月 3日 (土)

できることから、ビーガンのススメ!

コロナ禍でSNS、特にインスタを見ることが増えました。猫や犬の殺傷処分について見ていると、ビーガンの投稿がよく出てくるようになりました。

 ビーガンの人たちは素晴らしいけれど、お肉は美味しいし、動物が動物を食べるのは自然なことだからと正直、自分には出来ないと思っていました。しかし、「犬や猫は家族と言いながら、肉食を続けるのは、種差別です。」という投稿にハッとさせられました。知ることを始める、きっかけをくれたその投稿に今は感謝をしています。

鶏卵用の鶏は全面が柵のケージに閉じ込められます。平らな所が全く無く柵に足が食い込みます。そんなケージの中で鶏は短い一生を、ただひたすら卵を産まされます。産めなくなれば乱暴に掴まれ袋に詰め込まれていく等々、目を覆いたくなることだらけです。知ってしまったからにはと、お値段高めの平飼いの卵を買いはじめました。が、平飼いであっても、オスは卵を産まず、食肉としては美味しくないため生後すぐにシュレッダーで殺されます。卵を食べるという事は、それに加担してしまうという投稿を見てしまい、食べる量を減らすことにしました。

 当たり前のことが当たり前ではない、とコロナでも思い知りましたが、大好きなカフェオレの牛乳!考えてみれば当たり前ですが、牛乳は仔牛のためのものです。それを横取りしている訳ですから…仔牛は生まれてすぐ母親から引き離され、これはペットショップで売られている犬や猫にも言えますが、母親は淋しい思いをしながら身動きすらできない所で、何度も人工的に妊娠させられ、殺される日まで閉じ込められています。当たり前のように買っていた牛乳のために…。

 親子が引き裂かれ、劣悪な環境に置かれるのは豚も鳥たちも同様です。猫や犬だけでなく、豚や牛たちも私たちと同じように感情を持ち、親子の愛情があります。当然、食べられるために生きている訳ではありません。その当たり前に対する想像力が全く欠けていた、見ようとしていなかったことに気づきました。

 環境問題からも肉食の弊害は言われています。CO2削減はもとより、肉食を減らすことで、飢餓で苦しむ人々に穀物を行き渡らせることができます。温暖化など地球環境は確実に悪化しており、多様性が失われた海では、数十年先には魚が取れなくなるとグリンピースの記事にありました。廃棄されるほど食料を浪費しながら、一方で飢餓に苦しみ続けている人がいる現代は、当たり前にしてはいけない異常な時代です。

 とはいえ、私自身、友人との外食が好きですし、急激にビーガンに移行することは体にも良くないので、できるところからビーガン生活を始めました。

そして驚きました!今の時代は多様な植物性たんぱく食品があるのです!

大豆ミートは、いろんなタイプがあります。チーズ風のシュレッド、ほぼチーズです。

41

4-1  

大豆の商品は多いのですが、ソラマメのハーキスはおススメです!プレーン味と書いてありますが、スパイシーで美味しいのです!野菜と炒めてもパスタにも合います♪

4-2

プラントフードは増えてはきていますが、日本ではまだまだ需要が少ないため、海外に比べると発展途上のようです。需要が高まれば、きっとお値段も優しくなるはずです!

 何においても言えることですが、知らないことは恐いことです。そして、知る中で出来ることが見えてきます。これからも出来ることを続けて広げていこうと思います!

Jun

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月 2日 (金)

広島平和記念資料館の歩み第2部展開催中

昨年の夏から始まった被爆75周年企画展「広島平和記念資料館の歩み」の第2部「8月6日のまなざしー資料を守り伝え続ける」が、2月27日から7月18日の会期で、広島平和記念資料館東館1階企画展示室で開催されています。2月23日に終了した第1部は、「初代館長 長岡省吾の足跡」を紹介するもので、資料館が開館するまでの歩みと開館初期の状況について紹介する内容でした。

今回の企画展は、第1部で紹介された後の1970年代から現在までの資料館の歩みを紹介する内容です。開館20周年にあたる1975年に大規模の改修工事が行われ、遺品や写真だけでなく、住友銀行広島支店の「人影の石」や広島陸軍被服支廠のレンガ塀などの大型資料が展示される様子などが、時系列的に写真で紹介されています。

Img002_20210401195801

その中には、昨年のリニューアルで撤去された「被爆した馬」の展示もありましたので、小学校の修学旅行で資料館を訪れた時強く印象に残ったことを思い出し、ちょっと懐かしい気持ちになりました。

説明文を読んでいて、ちょっと気になった展示がありました。一番最初に展示されている「平和祈念資料館施設原現状配置図」(1971年⦅昭和46年⦆11月1日現在)に付された説明文です。こう書かれています。「1955年(昭和30年)の開館から十余年を経た資料館では、次第に展示資料が増え、また、原子力の平和利用に関する展示も加わり、『雑然とした展示』との指摘を受けるようになりました。そのため、1967年(昭和42年)に原子力の平和利用に関する展示を除き、熱線、爆風、放射線など事象ごとのコーナーを設け、原爆投下化から時間的な経過に沿った展示方法に改善しました。」

よく知られているように、1956年(昭和31年)に全国巡回していた原子力平和利用博覧会が、5月27日から6月17日まで平和記念資料館で展示物を撤去し開催されました。その2年後には、広島復興大博覧会の会場にもなっています。説明文によれば、原子力の平和利用に関する資料(復興大博覧会で使った一部だと思いますが)が、1967年まで展示されていたことになります。私にとっては、意外な事実でした。

どんなものが、どこに展示されていたのか気になります。今回展示されている配置図(文字などが薄くて見難い地図ですので、ここでは表示しません)は、1971年当時のものですから、その中に原子力の平和利用に関する展示物の表示はありません。

この企画展全ての見学を終えて、資料館の学芸課を訪ね、1967年以前の「館内展示配置概略図」を見せていただきました。この「配置図」には、図が薄くなって見難いのですが、原子力の平和利用に関する資料が複数展示されていることが確認できます。一つは、入り口付近の「原子力の先覚者」というコーナーです。ここでは、キューリー夫人などが紹介されていたようです。さらに進むと、一番奥と思われるところに「原子力船模型」という表示があります。さらに北側の廊下部分の壁面に「原子炉等模型」と表示されています。私が小学校の修学旅行で資料館を訪れたのは、1960年ですので、その時には、これらの展示物はあったはずですが、全く記憶に残っていません。

原子力の平和利用に関する展示物は「館内展示配置概略図」上で確認できるだけです。残念ながら、当時の様子を写した写真は展示されていません。

説明文によれば、原子力の平和利用に関する展示物を除いたのは「雑然とした展示」が理由だと書かれていますが、それだけだっただろうかと思います。と言うのは、1960年代には、全国的に米軍 原 子力 艦 艇 寄港 反 対 運 動(佐世保では1964年から69年)があり、同じ1964年頃からは原発建設に反対する住民運動が各地で闘われるようになりました。ちなみに原水禁大会で、初めて原発問題が取り上げられたのは1969年の被爆24周年原水禁世界大会からです。こうした国内情勢も資料館の展示から「原子力の平和利用に関する展示」が除かれる理由になったのではないかと想像しますが、それをうかがわせる資料があるわけではありませんので、この問題はさらに調べてみたいと思います。

この特別展には、誰でも自由に持ち帰ることが出来るパンフレット(14ページ)が作られています。分かりやすくまとめられており参考になると思いますので、ぜひ参観して入手したら良いと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2021年4月 1日 (木)

完全に舐められている私たち (2) ――東電からも官僚からも――

 

完全に舐められている私たち (2)

――東電からも官僚からも――

 

「完全に舐められている」シリーズを続けようと思うと、その実例が毎日、「これでもか、これでもか」と現れますので、完結することはなくなってしまうような気がします。そうならないように、私たち主権者が責任を果さなくてはなりませんが、その結果が早く出ることを祈りつつ、今回は東電と厚労省の官僚を取り上げます。

 東電の柏原刈羽発電所の不祥事についてのマスコミ報道は、抑制の利いた表現で感心したのですが、これは皮肉です。これほどの不祥事を伝えるのに抑制を利かしてはいけないのです。

 言うまでもありませんが、原発と原爆は同じ原理でエネルギーを発生させます。原爆は、核分裂によって生じるエネルギーをそのまま放出させるのですから、技術的にはそれほど難しいことではありません。事実40年ほど前にも、プリンストン大学の学部4年生の書いた設計図が、「軍事秘密」だという理由で没収されるという事件がありました。物理学の専攻とは言え、そのレベルの勉強でできるということです。

Photo_20210331214001

それに対して原発は、同じ原理で発生するエネルギーを、原爆のように瞬間的に放出するのではなく、お湯を沸かせるくらいの低レベルで何時間も何日も続けさせるという技術なのです。複雑な装置が必要なのですが、問題は、この装置のどこかが上手く作動しないと、原爆の爆発にすぐつながってしまうという点です。そして、どの段階でも毒性の強い放射線が発生していることなのです。

 そんな装置がテロの対象になれば、核兵器で攻撃されるのと同等のあるいはそれ以上の被害を受けることはお分り頂けると思います。

 324日付の『東洋経済電子版』によると、

 「テロリストなど外部からの不審者の侵入を検知するための設備の複数が故障したまま、十分な対策が講じられずに放置されていたことがわかった。

 原子力規制庁の検査を機に、20203月以降、16カ所で設備が故障していたことが判明。そのうち10カ所では機能喪失をカバーする代替措置が不十分な状態が30日以上続いていた。」

 それだけではなく、原発の頭脳ともいえる中央制御室に、他人のIDを使って侵入した職員 (Aと呼びましょう) がいたことも報じられています。『新潟日報』の電子版によると、この職員Aは、他の職員のロッカーからIDを盗み出し、中央制御室に入ったようなのですが、入るまでに二回も警備の職員に怪しまれています。IDの写真とAの顔が一致しなかったからです。でも警備員は、そのままAを通過させています。しかも、二度目のときには、IDに掲載されていた電子情報まで書き換えさせていたということなのです。IDは、また元のロッカーに返されたとのことです。

 それが分ったのは、IDを盗まれた本人がそのことを知らずに職場に入ろうとして、認証の失敗が何度かあって「おかしい」ということでIDをチェックして貰い、記載情報が書き換えられていたため、認証されなかったことが分かったという報道内容です。

Aという職員も問題ですが、Aを見抜けず簡単に通してしまった警備システムそのものが、もう完全にアウトです。それも昨日今日始まったことではないでしょう。そんなセキュリティー・システムで今まで良く大事件が起きなかったのか不思議です。日本という国は善人ばかりが住んでいるのでしょうか。

そして仮に、このAが、日本に強い敵意を持つどこかの国のスパイだったとすると飛んでもないことになっていたはずですね。中央制御室からの操作で原発そのものを止めることもできるのですから、これはお分り頂けるでしょう。それだけの事件なのですから、抑制を利かせるのではなく、「もし」という仮定で警告を発しても良かったのではないでしょうか。

 ことによると、そんなことをすると、本物のスパイがこの不祥事に目を付けて、それこそとんでもない結果になるのを心配したのかもしれません。でも、手遅れです。この事件のもう一つ大きな「効果」は、日本の原発が本物のスパイにとって、いかに容易く侵入できる施設であるのかを、大々的に宣伝してしまったことです。

 それに対抗できるセキュリティー・システムを構築するのは、並大抵の努力では叶わない仕事です。福島の原発事故では、「自然」のせいにして、主要幹部の責任はないと公然と宣言しているくらいなのですから、今回も「悪いのは一人の職員」、事実上「更迭」しましたから、それで終わりでしょう、といった幕引きになるかもしれません。

 そんなシナリオが頭に浮かぶのは、厚労省の職員への「懲戒処分」と関連があるのですが、それは次の機会に。

 [2021/4/1 イライザ]

[お願い]

この文章の下の《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

« 2021年3月 | トップページ | 2021年5月 »