広島市の平和推進条例案は、憲法や被爆者援護を無視 ――元々の根っこは「受忍論」にあり――
広島市の平和推進条例案は、憲法や被爆者援護を無視
――元々の根っこは「受忍論」にあり――
広島市議会が検討している「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」について、2月16日、2月17日、2月21日そして3月11日に取り上げました。今回もその続きですが、まず、条例の素案を読めるサイトを紹介しておきます。ここです。
前回取り上げたのは、「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」と同趣旨の条例を制定している国内他都市の場合、今回は苫小牧市、藤沢市、宝塚市の三市に限りましたが、その内容が広島市とはどのように違うのかを俎上に載せました。
これらの都市では、憲法や非核三原則への言及があるだけでなく、苫小牧と藤沢では、それが条例の中心的な位置を占めています。前回はその点を指摘しました。
今回は、それだけではなく、広島市の場合、何故「わざわざ」、つまり意図的に憲法や非核三原則を外したのかについて考えなくてはなりません。
市でも市議会でも、公的な文書を作成する際には複数のお役人が関わります。「官僚」と言っても良いのですが、その官僚が徹底的に訓練を受けているのが、「前例」と「横並び」についてのチェックです。
ある問題についての文書を作る際に、まず、これまでどのような文書が作られてきたのかについて歴史的なチェックを行って、出来る限り「前例」を踏襲するという方針を守ろうとするのです。そして、国の方針はどうなのか、そして他都市ではどのような文書を作っているのかについてもチェックを行い、国や他都市の実例に沿った方向で、つまりできるだけ「横並び」になるような文書を作ろうとします。
平和推進について、全国の都市をざっと眺めただけでも憲法や非核三原則を盛り込んで条例を作っているところが多いのですから、「前例」を踏襲し「横並び」を尊重する「無難」な案を作ろうと考えれば、広島市でも憲法や非核三原則を盛り込んだものになっても、誰からも文句を言われる筋合いはありません。(と書いてしまって気付いたのですが、実は、「誰からも」という点でどこかから文句を言われるかもしれないという「忖度」が働いたのか、あるいはもっと直接的に「圧力」が掛かったのかという点も、論理的には問題にしないといけませんね。)
しかし、こと平和に関しては、広島市の持つ歴史的・世界的な責任は大きいのですから、他都市にはないような「踏み込んだ」条例にしたいと考えるお役人や市議会議員がいても良いどころか、私たちにはそう期待したい気持があるのではないでしょうか。となると、ちょうど今年の一月に発効した核兵器禁止条約について言及したり強調したりしても、何の不思議もありません。
官僚としての仕事の流れからすれば、選んで当然だというよりは、選ばないとおかしいと思われる選択をしなかったのですから、それは、「意図的に」外したとしか考えられないのです。その「意図」は何なのかを考えたいのですが、そのためにも、「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」の中で触れられていない、もう一つのテーマが大切です。それは、被爆者援護です。
条例の素案では、前文で被爆者が味わってきた苦しみや悲しみ、そして痛みに触れています。「生き残った人々も,急性障害だけでなく,様々な形の後障害に苦しめられている。さらに,被爆者に対する結婚・就職等での差別により,後に,原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律の適用を受けることが困難になるなどの被害もある。また,放射性物質を含んだ黒い雨による被害の議論は,いまだに続いている」
であれば、現在も続いている被爆者の苦痛に対して、国としてまた広島市として何をなすべきかという方向性をきちんと示すべきなのではないでしょうか。被爆者や被爆二世、三世に対しての国の責任放棄について、市民、特に被爆者の代弁者として国に注文を付けるのも、市としての立派な仕事です。それが何故、この条例案には書き込まれていないのでしょうか。
答は、「受忍論」にあります。これが、今回の条例案の背後に隠れていると仮定すると、この条例案についてこれまで掲げてきた疑問が全て説明できるのです。
例えば、条例案の5条と6条で、平和に関しても、国家という権力が憲法や平和を踏み躙る可能性、特に戦争を始める可能性には口を閉ざしていること、市民に対しては「権威に対して従順でなくてはならない」(とまで言っていませんが、そうとしか解釈できません)という価値観を振りかざしている点、そして被爆者援護についての責任には頬っ被りするという姿勢の説明が付くのです。
「受忍論」とは、国の諮問に対して1980年に、「原爆被爆者対策基本問題懇談会」という有識者による意見書として発表された考え方の本質を表す言葉です。その後の国の被爆者施策は、この答申に沿って行われているという事実が大切です。この懇談会の委員は全員故人ですが、茅誠司・東京大名誉教授(座長)、大河内一男・東京大名誉教授、緒方彰・NHK解説委員室顧問、久保田きぬ子・東北学院大教授、田中二郎・元最高裁判事、西村熊雄・元フランス大使、御園生圭輔・原子力安全委員会委員の7人です。当時の我が国のエスタブリッシュメントそのものです。
結論は、「基本理念」という形で次のようにまとめられています。
これを、もう少し分り易く絵解きすると、日本国政府の持っている「戦争観」とは「受忍論」だということになります。その内容は次のとおりです。
- 戦争は国が始める
- でも、戦争による犠牲は、国民が等しく受忍しなくてはならない
- ただし放射能による被害は特別だからそれなりの配慮は必要
- しかし、一般戦災者とのバランスが大切
- 国には不法行為の責任や賠償責任はない
国の主張の歪みを理解するためには、「受忍論」を少し変えて、「国民主権受忍論」とでも名付けたいものに言い直すことが役立ちます。それは、「戦争は、主権者である国民の意思によって始められるものであるから、その結果生じる犠牲については、原因を作った主権者である国民が等しく受忍すべきである」という内容です。これなら、原因と結果というつながりから、それなりの理解は得られると思われます。
しかし、これは太平洋戦争 (第二次世界大戦、15年戦争等の別称もあります) には当てはまりません。主権者は国民ではなく、国民が戦争を始める力は持っていなかったからです。にもかかわらず、その結果として生じた、生命も含む犠牲については、国民が「等しく受忍」しなくてはならないというのが、国の立場なのです。これは、戦争という、国民にとって(そして国家にとっても)、最大限の犠牲が生じる出来事について、国が「支配し」国民が「支配される」という関係を描いています。戦争を起こした責任、そして生命や財産、その他の犠牲を国民に強いることになった反省も後悔も、もちろん賠償の意思も全く考慮されていないのです。
だからこそ、犠牲者に対する国の姿勢は、国の「恩恵」をどう分配するのかという経済的配慮が中心になってしまうのでしょう。
先ほど「疑問」として指摘したことの内、国が憲法や平和に対するコミットメントを蔑ろにする可能性に広島の条例案が口を閉ざしているのは、「受忍論」では国が戦争を始める権利を認めているのですから、その延長線上にあると考えると、それなりに筋は通っていることになります。
「市民が権威に従順であれ」は、そもそも「受忍論」が成り立つ上での大前提でしょう。また、被爆者の援護に言及がないのは、国の戦争開始の責任も不法行為への賠償責任も認めていないことからの帰結です。
ここまで深読みする必要はないのかもしれません。でもこれも、あまりにもお粗末な「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」案が何故出て来たのかを理解しようとする努力の一環です。さらに、「一般戦災」との関連、また福島での被害や犠牲との関連も重要です。こうした点も含めて、条例案の内容が改善されるか、撤回されて最初からやり直すかという結果になれば、もっと建設的なアイデアをいくつも提案したいと考えています。
[2021/3/16 イライザ]
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コメント
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2/16からの「広島市平和推進条例案」
スミマセン何かぼぉ~と目を通してしまいましたが、
今回の、
*受忍論
**直接的に「圧力」...
にハッと。
*恥かしながら知りませんでした😢
**こういう案はひな型でも半年ぐらいでは作れませんよね。
起案??の時点ではまだ山口県からの風は強かった🌬🌀
まさかこの4月から施行?? そして4月の参院補選は??
(いつも” !?! ”こと多く、学ばせてもらってます<(_ _)>)
投稿: 硬い心 | 2021年3月17日 (水) 12時14分
「硬い心」様
コメント有り難う御座いました。
「受忍論」は、戦争をしたい人には都合の良い理屈です。そして、論理的には、平時の「犠牲」には国が責任を持つことになるはずなのですが、福島の原発事故では、それも無視。結局、「国」は何も責任を取らないということが証明されました。
総理大臣以下、政府がいくら嘘をついてもそれで済んでしまう国になり果ててしまったのですから。
投稿: イライザ | 2021年3月21日 (日) 12時50分