学徒動員と原爆被爆その4-被爆者健康手帳の取得
島根県の被爆者健康手帳所持者は、2020年3月末現在、直接被爆者(1号)が249人、入市被爆者(2号)が436人となっており、全国では珍しく入市被爆者が多いことを1月27日のブログ「入市被爆者が多い島根県の被爆者」で紹介しました。
その大きな要因が、「島根県から2000人近くの学徒動員があった」ことだということが、これまでの調査で明らかになりました。
そこで気になったのが、「いつ頃から入市被爆者の被爆者健康手帳取得が増えたのか、その要因となったのは?」ということです。そこで被爆者健康手帳の取得状況を調べるため広島原爆資料館資料室に行き、毎年広島市が発行する「原爆被爆者対策事業概要」を調べました。この「原爆被爆者対策事業概要」が最初に発行されたのは1965年(昭和40年)ですが、全国の都道府県ごとの「被爆者健康手帳所持者数」が掲載されるようになったのは、1975年(昭和50年)からです。毎年その年の3月末現在の人数が発表されますので、1975年の数字は、1974年(昭和49年)度分ということになります。
島根県のその年の直接被爆者は、1464人、入市被爆者は621人です。直接被爆者(1号)は、資料のあるかぎりでは、この年が最も多い人数で、それから毎年わずかですが減少し続けています。
ところが、入市被爆者は、毎年増え続けています。1978年には、前年から63人増え、以後1984年まで毎年50人を超える人数で増え続け、7年間で合計597人増えています。その間に亡くなられた方もあることを考えると、実際の取得者はもっと多かったことになります。特に1981年の入市被爆者の手帳取得者は195人も増加しています。
その結果、1984年には、直接被爆者の人数(1266人)と入市被爆者の人数(1288人)が逆転し、それが現在も続いています。入市被爆者の手帳所持者も、1992年(平成4年)の1,432人をピークに、それ以降毎年減少していきます。ちなみに、全国の被爆者健康手帳取得者数が最大になったのは、1980年度で、その人数は372,264人です。
学徒動員で広島に動員された人数が多かったことが、入市被爆者が多くなった原因ですが、後で紹介する同じぐらいの人数が動員された鳥取県と比べて圧倒的に島根県が多いのはなぜか、なぜこの時期からなのかです。
その一つのヒントが、吉田文子さんの被爆体験記に記載されていました。吉田さんは「県立浜田高女勤労学徒報国隊員」として動員されていますが、その体験記の最後の部分に「あの動員頃から半世紀を経た今、同じ釜の飯を食べた仲間は50代の頃から、毎年、各地で同窓会をもっては、当時を偲んでいます。」と書かれています。50代と言えば、被爆後35年、1980年頃になります。この同じ時期に、入市被爆者の手帳取得者が増えているということは、同窓会などで情報が共有されたからだと想像できます。1985年に発行された益田市原爆被爆者の会の体験集「ピカ」には、当時の益田市の被爆者実態として「直接被爆者109人、入市被爆者137人」と、特徴的な実態が記載されています。体験記も益田高等女学校の学徒動員者の体験記が冒頭に掲載されています。
三刀屋中学から学徒動員された泉忠敬さんの体験記にも、同窓会で情報を得たことと共に「平成2年(1990年)12月4日付で申請し、翌年2月2日に手帳交付を受けました。もし同窓会に出席していなかったら…。本当に感謝しています。」と記されています。
鳥取県原爆被害者協議会の被爆体験記
同じように同窓会が契機となったことは、鳥取県の米子工業学校で動員を体験した木村朝春さんの体験記にも記されていました。「平成元年(1989年)2月11日、卒業後44年経過した年に(還暦)60歳を記念して、機械科の同期生会を開催した。その時、Y君が被爆者に該当するらしいという。Y君、T君が中心となり米子保健所、米子工業学校、県会議員などを尋ねたが資料説明がはっきりせず、最終的に県議会議員が知事に質問。該当することを確認。応用化学科、電気科にも話しかけ、3科合同で被爆者健康手帳を取得。米工生74名(県内51名、県外23名)が取得した。」
この様子は、鳥取敬愛高等学校社会部が行った米子工業学校卒業生へのアンケートにも記載されています。このことを証明するように鳥取県の1989年(平成元年)の入市被爆者の手帳取得数が、前年まで一ケタ台だったものが「66人増」になっています。たった一人の情報提供が、同窓会の場を通じて、多くの被爆者健康手帳取得を促したことがわかります。
しかし、こうした例があるにもかかわらず島根県以上の生徒が学徒動員によって広島に派遣されていたにもかかわらず、鳥取県では入市被爆者の手帳取得者数は1989年の339人が最大ですから、島根県の1,432人とはあまりにも大きな開きがあります。
なぜ、これほどの違いができてしまったのか、解明すべき課題が残りました。少し時間をかけて調べてみたいと思います。
いのちとうとし
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