学徒動員と原爆被爆その3-帰郷への道
これまで2回にわたって紹介した呉海軍工廠へ動員された島根・鳥取両県の学徒動員の生徒たちが、終戦とともに動員解除となり、どんな経路をたどって帰郷し、被爆することになったのかが今日のテーマです。
動員出発時の実態は、地元の新聞に掲載された記事によってある程度知ることが出来たのですが、帰郷時の様子をまとめて知ることのできる資料は、今のところ見つけることが出来ていません。そこで、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が所有する被爆体験記から学徒動員者の体験記を探すことにしました。
島根県関係は、先に紹介した「島根県原爆被爆者協議会結成50年史」の他に「松江八束地区原爆被爆者協議会」「島根県原爆被爆者協議会浜田支部」「同温泉津支部」「益田市原爆被爆者の会」が発刊した被爆体験記が所有されていました。
一冊一冊丹念に探すと、幾編かの学徒動員者の体験記を見つけることが出来ましたが、帰郷の経路が書かれているのは僅かでした。それでも、私の知りたい情報は得ることが出来ました。広島駅に着いた時の様子も書かれていますので、一、二紹介します。
浜田高等女学校の生徒だった米山建子さんの手記です。
「8月15日に終戦になり、学徒は動員解除となって、一刻も早く帰省するように指示があり、その夜のうちに準備して、16日の早朝狩留賀寮を後にして、呉線吉浦駅より汽車で、広島駅に午前11時ころ着きました。広島市内は見渡す限り焼け野が原で、皆呆然として言葉もなく、爆弾の物凄さを感じました。芸備線乗り換えの汽車はいつ来るとも知れず、屋根もないホームで炎天下のどが渇きじっとしておられず、水をさがして近辺を歩き回り、やっと曲がりくねった水道管を見つけ回りのものを取り除いて、皆で水を飲み、時を過ごしました。夕方6時ころ汽車に乗り、備後落合まで行き、そこで一夜を明かし、翌17日、木次線山陰線と乗り継いでふるさと井田へ帰りました。」
この手記によれば、芸備線、木次線、山陰線を乗り継いで、浜田に帰ったことがわかります。もちろん松江などに帰った人もこの経路をたどっています。
被爆後の広島駅構内
一方で山陽線経由で帰郷したという手記もあります。教員補充のため8月12日に除隊になり帰郷した益田高等女学校生の渡辺環香さんの手記です。
「迎えに来られた先生に連れられて8月12日、広島駅に降り、山陽線の列車を待ちました。終戦間近い戦況の中で列車も駅も大混雑。軍公務優先で、私達は乗ることもできず夜を迎えました。原爆投下間もない広島駅は屋根もなく裸電球があちらこちらに下がっていて、その薄暗い明かりの下には全く人とも思えない姿の人が固まり、うずくまっているのです。(中略)小郡から山口線に乗り換え、戦争の傷跡も少ない静かな山々に迎えられて、乙女らしい明るさが徐々に戻ってきました。」
山口県境の益田ということだからでしょう渡辺さんは、山陽線、山口線経由で帰郷しています。
ただ、二人とも広島駅からの線路は違っていても、呉から広島駅経由で帰郷したことに違いはありません。島根に帰郷する人たちは、全て入市被爆することになったのです。
次は鳥取県関係ですが、私が見た被爆体験記は3冊ありましたが、学徒動員者の体験記は1編しかありませんでした。米子工業学校の木村朝春さんの手記です。
「8月15日夕方、工廠長から任務を解かれ、学徒は即帰郷せよとの命令。寮を焼け出され荷物は何もなく、風呂敷包み一つ、どこでも寝られる枕替わりであった。
8月16日夜、広島駅に到着。芸備線の列車が無く、その夜は野宿。17日朝になりびっくり。駅前の市街地は一面焼け野原。電車、バスの残骸が点々と見えるだけ。駅及び駅前には、被爆者があふれ、手、足、顔に包帯をした人、この人たちはまだ元気な方々で、、、、、
17日昼前芸備線の列車に乗車。貨物車(郵便車)に乗り、山陰線に乗り換え米子到着、帰省した。」
この手記から、鳥取県でも西部地区の学校は、広島駅を経由し、芸備線、木次線、山陰線を乗り継いで帰郷したことがわかります。島根に帰郷する人たちと同じように入市被爆しています。この手記には、その後被爆者健康手帳を取得する経過も記載されていますが、その内容は明日紹介します。
ところでこの手記には、米子工業学校からの動員人数は「92人」と書かれていますが、「学徒動員と原爆被爆その2」で紹介した日本海新聞には、「150人」と書かれています。どちらが正しいのか、調べるすべがありませんが、気になる数字です。
残念ながら、鳥取市を中心とする県東部からの学徒動員者が、どの経路をたどったのかを示す資料を見つけることが出来ませんでした。
先日に紹介した鳥取敬愛高等学校社会部が、前年には自校の前身「鳥取高等家政女学校の学徒動員」のことを調べていたようですので、学校に電話で問い合わせたのですが「被爆問題は、調査していません。ただ因美線を使ったと聞いています」ということでした。岡山経由で帰る時には、呉線三原経由も考えられますので、広島駅を通過したのかどうか、今のところ確認できていません。
この帰郷の経路がはっきりしていないことが、被爆者健康手帳の取得と大きな関係があることがわかりましたが、その内容は明日報告します。
いのちとうとし
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