善応寺(ぜんのうじ)
鳥居とお寺の関係が気になり、翌日(7日)再び善応寺を訪ねました。
私が訪ねた時、運よく和尚(おしょう)さん(臨済宗の呼び方)が帰ってこられたところでした。「本堂の中を見せていただくことはできませんか」とお願いしたところ、「鍵を持ってきますからちょっと待ってください」と、こころよく本堂に入らせていただきました。
本堂に入ると、鳥居とお寺の謎が解けました。本堂の中、右側には御本尊の十一面観世音菩薩像、左側には稲荷大明神が並んでお祀りされていました。
お寺の本堂に入って、初めて体験する形式です。江戸時代には、神仏融合のお寺が多くあったと聞いていましたが、明治初期の「神仏分離」「廃仏毀釈」運動によって、こうしたお寺は無くなったと思っていましたので、ちょっとびっくりです。
ここで善応寺(善能寺)について、「新広島八十八カ所霊場巡拝のご案内」のホームページを引用しながら紹介したいと思います。「如意山善応寺」は、臨済宗のお寺で、新広島八十八カ所霊場巡拝第71番の札所になっています。慶長九年(1609年)福島正則の信仰によって「禅応寺」の名前で開山しました。その後寛政十年(1798年)に、伏見稲荷大社の分霊によって、鍛冶稲荷神社が祀られました。そして寺名が善応寺と改名されました。明治初期の「神仏分離」「廃仏毀釈」運動と無住時代が続いたため、廃寺同然になったようですが、昭和10年(1935年)に新しい和尚さんを迎え再建されましたが、10年後に原爆にあい、本堂は壊滅、和尚さんも爆死されました。戦後は、昭和24年(1949年)頃から再建の話が起こり、昭和27年(1952年)7月に再建されました。鍛冶稲荷神社があったために、その関係者の尽力が大きく、いち早く本堂が再建されたといわれています。
もう一度本堂内の様子に戻ります。左側の稲荷大明神側の上に、額に入れた古文書が架けられています。全文を解読することはとてもできないのですが、寛政10年に出された「鍛冶大明神安鎮」の許可状のだということがわかります。先に紹介した年号がこれで証明できます。本堂内の稲荷大明神側には、御幣を掲げた祭壇があり、その奥には、ガラス戸があるだけで、ご神体らしきものは見当たりません。しかし、このガラス戸の裏、本堂の外に稲荷神社の社が建っていますので、ご神体はそこにまつられているようです。祭礼の際には、このガラス窓が明けられるのだと思います。本堂を出て裏側に廻って撮った写真です。
本堂では、もう一つ大切なものを目にしました。本堂内右側壁には、毎年12月8日に行われる吹子(ふいご)祭の写真が架けられていますが、それに並んで少し古い町内会の集合写真がかかっています。
写真には手書きで「皇紀二千六百一年 謹賀新年 左官町婦人常会創立」と書かれ、かっぽう着姿の女性たちが60名余りが映っています。最前列には、子どもの姿もあり、前列には男性の姿もあります。皇紀二千六百一年は、西暦では1941年ですから、広島に原爆が投下される4年8カ月前の貴重な写真です。どういう経過をたどってこの写真が残っていたのか、これも知りたいことです。と同時に、この写真を見ながら、「ここに映っている人は、全て左官町町内会の人たち。このうち何人の人が、原爆の犠牲にならずに生き残ることができたのだろうか」ということを考えました。その一方で、「このうちの何人のお名前が、犠牲者芳名に刻まれているだろうかと」いうことも気になりました。できる事なら写真の一人ひとりのお名前を調べ、犠牲者芳名と照合することが出来ればと強く思います。本堂の中に入れていただいたおかげで、貴重な写真に巡り合うことができました。
こんなことを考えながら、一つ気になることができました。それは、昨日紹介した「原爆供養塔」の建立が1951年であるのに、このお寺の再建は、1952年となっていることです。既にお寺の再建が決まっていたため、「原爆供養塔」が、その前の年に建立されたのでしょうか。このあたり事情を和尚さんに聞いたのですが「私は生まれた頃のことですので、わからないのですよ」との返事でした。「左官町婦人常会」の写真のことも同じ返事でした。残念ながら詳しいことを知ることはできませんでした。
昨日紹介できなかったのですが、善応寺は、被爆時にこの地にあったお寺ですので、境内には被爆した墓石などが沢山あります。「鍛冶稲荷神社」の額がかかった鳥居も「明治35年10月」の文字が刻まれていますので被爆しています。
墓石などは、「原爆供養塔」から左側に塀に沿うようにしてずらっと並んでいます。途中で折れたと思われるもの、台は欠け、「石ハネ現象」の墓もあります。
善応寺は、原爆遺構や慰霊碑を紹介した本でも、掲載されていないものが多くありますが、一度はぜひ訪ねてほしい場所だと思いました
いのちとうとし
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