旧日本軍朝鮮半島出身軍人・軍属死者名簿
昨年、宇品線の時刻表を調べるため県立図書館を訪れた時、目に入り気になっている本がありました。その本のタイトルは「旧日本軍朝鮮半島出身軍人・軍属死者名簿」です。気になった第一は、「この中に朝鮮半島出身の軍人・軍属で原爆の犠牲になった人の名前があるのではないか」ということでした。この本は、1346ページに及ぶ大冊です。一応ざーっと目を通したのですが、死亡日が「1945.8.6」となっている戦死者の名前をその時には見つけることができませんでした。
ずっと気になっていましたので、改めてこの名簿を調査するために県立図書館を訪れました。本当は借りて帰ってゆっくり調べたかったのですが、「貸出禁止」の本でしたので、館内で調べるしかありません。
一人ひとり調べる前に、そもそもこの本は、どんな資料をもとに作成されたのかが気になったものですから、本の終わりの付された解説を読むことからはじめました。と言うのも、この本は「菊池英昭編」と、個人によって編集されたものだったからです。しかし、解説部分の冒頭に「『非徴用死亡者連盟簿』(韓国財務部)の特徴」と小見出しがついた一節があり、そこにはこの名簿作成の「元資料が何か」がきちんと記されていました。少し長いのですが、理解を深めるため大切だと思う部分を引用します。
「韓国政府は、1971年1月、日本政府に対し、日本国によって軍人・軍属に召集または徴用され、死亡した者の名簿の交付要請を行った。71年9月4日、日本政府は要請にこたえるため名簿を引き渡した。日本政府は、南朝鮮(原文のまま)に『名簿』を引き渡した後も、名簿の公開を拒絶してきた。現在この『名簿』は、韓国政府の『政府記録保存所』で電算入力作業を終え、ホームページ上で、名前、生年月日、本籍地、死亡場所を入力し、検索することができる。2万1692名分となっている(金哲秀『朝鮮人軍人・軍属死亡者名簿の分析』)。『被徴用死亡者名簿』を編集したのは、韓国政府財務部である。この『被徴用死亡者名簿』のもととなった資料は、日本国政府から韓国政府にわたされた。この資料の名前は『旧日本軍朝鮮半島出身者死亡者連名簿』と思われる。『被徴用死亡者連名簿』の各道の冒頭に、“旧日本軍朝鮮半島出身者死亡者連名簿”と表示されているからだ。」
この文章いよって、この本は、日本政府から渡された「旧日本軍朝鮮半島出身者死亡者連名簿」をもとに韓国政府が作成した「被徴用死亡者連名簿」を菊池さんが編集されたものだということがわかります。
その一部をコピーしました。
見難いかもしれませんが、これを見ると、かなり詳細に一人ひとりの死亡状況を日本政府が把握していたことがわかります。別のページでは、死亡月日が、1946年になっている人もいますので、混乱の中でも日本政府が、記録していたことがわかります。朝鮮半島出身者に対する徴兵制が実施されたのは1944年からですから、当然のことですが、死亡時期は、1944年、45年となっています。この名簿を見れば、日本が、日本人の軍人・軍属に行った補償を朝鮮半島出身者にも行おうとすれば、すぐにでも実施が可能だということがわかります。
前置きが長くなりました。私が調べたかったことは、「広島に投下された原爆によって亡くなった朝鮮半島出身者が、この名簿の中に何人いるだろうか」ということでした。以前は、見つけることができなかったのですが、先に紹介した解説文の中ほどで「李鍝公殿下」の名前を見つけましたので、原爆犠牲者の名前が最低でも一人はあると思い、陸軍の8404名分を一人ひとり調べていきました。
名簿は、出身道毎(例えば、李鍝公は京畿道)に記載されていますので、丹念に探すしかありません。その結果、広島で原爆の犠牲となったことが明らかな人は、李鍝公を含めて7名でした。ただ李鍝公以外の名前は、全て創氏改名による日本名で記載されています。読みにくいかもしれませんが、上の資料の右から2番目の安村龍赫さんは、広島基町病院で亡くなっています。この部隊歩兵76連隊の他の兵士(左側につづく)は、「ミンダナオ島で死亡」となっていますので、病気か怪我治療中のため、広島基町病院に入院していた被爆したと考えられます。広島基町病院と記載されていますが、陸軍病院ではないかと思われます。「中国軍管区輜重補」には2名の名前があります。
7名の名前を見つけることができたのですが、「本当にこの7人だけだったのか?」「なぜこの7人の名前だけ残っているのか?」という新たな疑問が出てきます。少しでも原爆被害の実相にたどりつきたいと思ったのですが、その難しさを改め実感させられました。
一方で、わずかに7名かも知れませんが、軍人・軍属の犠牲者名簿の中に、原爆で犠牲になったことが明らかな名前が記されていることがわかりましたので、私がこだわっている日本人の軍人・軍属の原爆犠牲者の名前を明らかにできる資料があるのではないかという希望を持つこともできました。これからの課題です。
いのちとうとし
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