広島被服支廠と出雲
10月4日のブログ「なぜ益田高等女学校の生徒は被爆しなければならなかったのか」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/10/post-b8ef53.html)で、島根県立益田高等女学校生が広島で被爆したことを取り上げましたが、その時からずっと気になっていたことがあります。
私の出身校・島根県立出雲高等学校の前身は、県立今市高等女学校です。気になっていたのは、今市高等女学校も益田高等女学校と同じように広島方面に学徒動員されていたのではないかということです。
先日、母校に電話をし、「当時のことを書いたものはないですか」と問い合わせました。「『出雲高校70年史』(出雲高校は昨年創立100周年を迎えた)に記載があるかもしれませんので、調べて返事をします」。数時間後に電話があり、「学徒動員のことが、数ページですが記載があります。広島方面に行ったという記載はありませんが、『西浜の海岸に塩汲みに行かされました。』『学徒報国隊となり広島陸軍被服廠の軍属に任命され』などが記載されています」との回答です。「広島陸軍被服廠」という言葉にびっくりしましたので「該当するページをコピーして送っていただけませんか」とお願いしたところ、翌日該当する12ページ分のコピーが郵送されてきました。
そこには、昭和19年(1944年)に、女子挺身隊が結成され、兵庫県川西航空機工場などに動員されたことや伊丹市から出雲市へ疎開した東洋航空機工場の動員生活についての回想文が掲載されています。
その後に「学校が工場に」と小見出しの付いた文章が続きます。「昭和19年7月、広島被服廠から軍の学校工場に指定され、3,4年生と専攻科生は軍属扱いとなり、縫製作業にあたることになった。校舎の大半は、工場となり・・・工場には一般家庭から調達されたミシン200台を並べ、動員生徒750人の手で、日産約4000点の軍衣料(シャツ、ズボン下、背負袋等)を製造した。」と書かれています。今市高等女学校の生徒は、広島には来ていませんでしたが、学校が広島被服廠の工場となり、そこで懸命に働いていたのです。私の母校と「広島被服廠」の深いつながりを初めて知ることになり、思いがけないことでびっくりしたのです。ここで働いていた大竹さんの回想文には、作業の様子と共に当時の雰囲気が次のように書かれています。「朝礼は戦陣訓を唱える事ではじまり、一日の生産目標が示された。終礼は『海ゆかば』の斉唱の後、その日の戦果(生産高)の発表があった。教室毎に競争させられ、戦地で戦っている覚悟で生産高と上げる事が国に忠誠を盡すことと毎日訓示されていた。」(原文のまま)
広島被服支廠の工場となった今市高等女学校時代の校舎
この「学校工場」も終戦間際の8月4日には、敵機の空襲に備えるため周辺の三小学校への分散が進められ、生徒たちは4工場に通うことになり、最終的には8月23日に解除となったようです。
さらに読み進むと別の意外な事実を知ることになりました。それは建物疎開です。大都市から始まった建物疎開が、終戦も近くなった7月9日には、島根県でも命令が出され、出雲市でも250戸の目標が立てられてようです。校名になっている「今市」は、出雲市の中心部、商店街が密集する地域の地名です。建物疎開の対象となったのは、この今市地区だと思います。完了目標は、8月20日だったようですので、実際に建物疎開作業がどこまで進んだのかわかりませんが、こんな田舎の都市にまで空襲の危険が迫っていたというのですから、戦争の継続などあり得なかったのです。この建物疎開が実際にどう進んだのかを、出雲在住の同級生に依頼し調べてもらうことにしました。
さらに最後のページまで読み進むと、はっとする1行が目に入りました。最初に紹介した「塩汲み」のことが書かれていた野田瑞代さんの手記に「広島に原子爆弾が落とされ終戦となりましたが、次兄は大社中学から呉の軍需工場に学徒動員で働いていましたので安否を気遣ったり」の一文があったからです。呉の軍需工場で働いていたというのであれば、終戦後故郷に帰るためには、益田高女の生徒と同じように広島駅を通過したはずですので、この生徒たちも入市被爆したことになります。調べてみたい事実です。大社中学(現在は大社高校)は、出雲大社のある大社町(現在は出雲市に合併)にある男子校ですが、戦後の学制改革の中で、その一部が、今市高等女学校に編入され、母校る出雲高校として発足していますので、全く無縁なことで無い気がします。ひょっとすると出雲高校の卒業生の中に、被爆者がいたかもしれないのですから。
どれもこれも、初めて知る戦争と出雲のかかわりでした。
いのちとうとし
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