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2020年12月 3日 (木)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその4

今日は、黄金山通りから南にある「宇品線のモニュメント」を紹介します。

「線路モニュメント」を見た後、広島南警察署前交差点を渡ると、右手に「たんな」と書かれた駅表示板を見つけることができます。丹那駅を示すモニュメントです。

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広島駅からの距離は、3.8キロです。1904年に新設されたときは、200mほど南だったようですが、この駅は1919年に廃止となりましたが、同名の「丹那駅」が、1930年に新たにこの位置に設置され、1966年に上大河駅以南の旅客業務が廃止になった時、この駅も廃止となります。

この駅表示板には、かつての「丹那駅舎」の写真が付けられています。

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「丹那駅」のモニュメントと次の「下丹那駅」のモニュメントの間の宇品線の跡には、「ポッポ宇品線花と農の会」が管理する花壇が並んでします。かつては、このあたりの線路跡にはタチアオイが植えら、季節には見事の花を咲かせていました。しかし、その後だんだんと雑草が生い茂るようになり、地元からの整備を望む声が上がるようになったそうです。この声を受け広島市は、この土地を所有している国に要望し、広島市が委託管理することになり、10年前(平成22年)公園整備が進められました。もともと宇品線は開通時、干拓堤防(現在は海岸通り道路)の内側(西側)に、堤防土手よりも低く線路敷きが作られていました。しかし、この公園整備では、線路跡に嵩上げの盛り土が入れられましたので、当時の線路跡の面影を見ることはできません。整備された公園の花壇は、線路をデザインして作られています。以上は、南区役所地域おこし推進課に電話をかけて聞いた話です。

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それでも、かつての線路跡をうかがわせることはないかと、西側にある道路に降りてみました。ここから見ると、一番下に当時の土台石、そして嵩上げされなかった部分の線路跡、その上段に花壇部分があります。少しわかり難いのですが、下の写真です。

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さらに痕跡をさがしていますと、こんなブロックを見つけました。

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たまたま見たテレビで知ったのですが、このマークのブロックは、線路と道路などの境界を示すために建っていたものです。

次のモニュメント「下丹那駅」をめざして南進すると、今度は芝生の植わった「パークゴルフ場」が目に入ります。ここも10年前に整備されたものです。花壇があった場所と比べると一段と低くなっています。南区区役所によれば「線路跡は凸凹があったので、少し土を入れて整備しました」とのことですので、線路跡そのものではありませんが、道路より低いところに線路があったことを偲ぶことはできます。

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私が訪れた時にも数人のグループでグランドゴルフを楽しんでおられました。私が訪れた5日後、11月22日(日曜日)に「パークゴルフ場10周年」と銘うった大会が開催されたそうですので、この人たちも参加されたと思います。成績は?

長く伸びるパークゴルフ場のちょうど中間あたりに「しもたんな」と書かれた駅表示板がありました。昭和2年(1927年)に走っていた電車の写真もあります。散歩で通りかかった人が、眺めていました。

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「下丹那」駅は、1934年に「人絹裏」駅として新設されましたが、1937年の国有化に伴い「下丹那」と改称されました。そして1943年10月に休止され、その後復活することはありませんでしたので、戦後には存在しなかった駅です。この駅から広島駅までの距離は、4.7キロです。

最初に付けられた駅名「人絹裏」に興味が湧きましたので、駅名の由来を調べてみました。現在、パークゴルフ場の西側は、マツダ宇品工場西地区の敷地が広がっています。この場所には、1934年(昭和9年)10月に「錦華人絹広島工場」が作られ操業を開始しました。この「錦華人絹広島工場」で働く人たちの通勤者用の駅として、工場の裏門入り口付近に新設されたのが「人絹裏」駅だったのです。その後、この工場は1941年に設立された大和紡績に吸収され、「大和紡績宇品人絹工場」と名称が変わります。そして駅が休止された年の1943年2月には、「陸軍船舶部」に接収されます。1945年8月6日の被爆では、建物の被害が軽微だったため、翌日には3000人から4000人の負傷者が避難し、8月9日には臨時陸軍野戦病院(第1陸軍病院宇品分院)を設置され、約6000人以上が収容されたという記録が残っています。1945年10月に陸軍から返還され再び大和紡績の工場となるのですが、1961年(昭和36年)1月に敷地、建物の大半が松田工業(現マツダ)に売却され、現在(マツダ宇品工場)に至っています。このマツダ宇品工場西地区にあった被爆建物は多くが解体され新しい建物となっていますが、その敷地の真ん中ほどにあった陸軍船舶部の「講堂」だけが今も「被爆建物」として現存しています。後日、工場の西門付近から、少し遠めでしたが写真を撮りました。

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今度の散策では、もう一つの被爆建物を知ることになりました。グランドゴルフをしていた一人からいろいろとお話を聞いたのですが、その中で被爆建物の話が出てきました。その建物は、マツダ宇品工場西地区の敷地(旧宇品線の西側)の東北角(ここだけ塀に囲まれていない)に、並んでいる5棟の平屋住宅です。1棟に5戸の住宅があります。かつてはもっと多くの住宅が建っていたそうです。

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話していただいた方は地元の町内会長でした。「私は戦後ここに住むことになったのですが、この建物は、錦華人絹広島工場の社宅として建てられたものなので、間違いなく被爆しています。」とのことです。現在は、マツダの所有となっていますが、今も三分の一ぐらいが使用されています。

今回も長くなりましたので、今日はここで終わりにし、あと一つ残った終着駅の宇品駅モニュメントは、次回紹介することにします。

いのちとうとし

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