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2020年12月29日 (火)

山野上純夫著「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」を読む

毎日新聞の広島版に、2017年(平成29年)10月7日から今年2020年8月7日まで68回にわたって連載された毎日新聞終身名誉職員の肩書を持つ山野上純夫さんの「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想が、一冊の本となって出版されました。何回かの記事を読んでいましたので、連載終了後はまとまって出版されればよいなと思っていましたので、この本を紹介する12月1日付の毎日新聞広島版のその記事を見つけ、すぐに注文しました。

この連載記事のスタートを後押しされた当時の毎日新聞広島支局長の戸田栄さんは、連載の開始にあたり次のように記載されています。「広島での旧制中学時代に原爆に遭遇し、後の本社入社後は広島支局で復興期の取材をした山野上純夫氏とは、私が昨年春まで務めた広島支局長時代に知り合った。私が原爆で死亡した広島支局員の記録を調べ、連載記事にした際、激励と助言を受けた。当時から、山野上氏の被爆体験や広島での取材の逸話などを書いてもらいたいと考えており、ようやく実現した。」

その後に、山野上さんの経歴が書かれています。「1929年生れ。5歳の時に広島へ一家で移り住み、42年に広島高等師範学校付属中に入学。戦後の広島大を卒業し、53年に本社に入社した。学生時代のアルバイトを含め、52~59年、広島支局で働く。84年に本紙を定年退職後、宗教担当の編集委員としての実績を評価されて京都の宗教専門紙に入社。・・・現在京都市に在住」

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連載の第1回は、「授業中の被爆 校舎倒壊 同級生が即死 爆心地から1.4キロ、当時16歳」の見出しで、自らの被爆体験が綴られています。以降、「ヒロシマを通じて出会った人々から学んだことを思いつくまま」に記されたのです。例えば、佐々木禎子さんにまつわる話も「サダコの周辺」のタイトルで、6回にわたって記述されています。当時、新聞記事としては書けなかったことも記述されているように思いますので、貴重な資料と言えます。

実は、私は10年ほど前から山野上さんを知っていました。きっかけは、ドイツ・ポツダムの「ヒロシマ・ナガサキ広場」の慰霊碑建立を通じて知り合うことになったドイツ在住の被爆者外林(そとばやし)秀人さんと同級生だった山野上さんから連絡があったからです。「ヒロシマを生きて」の第6回からの3回は、外林さんのことが書かれていますが、その第8回「妹同士涙の交流 独に慰霊碑建てた友 死後、級友遺族の消息不明」では、私の名前も登場します。

と書きだすときりが無い程、この本は、盛りだくさんの内容が書かれています。私が初めて知るヒロシマも多く書かれていますので、機会を改めて紹介したいと思います。

ヒロシマを知る貴重な内容が書かれていますので、多くの人に読んでほしいのですが、簡単に入手することができません。この本が出版できたのは、山野上さんの広島高等師範学校付属中の3年後輩の一人で、あの日、同校の近くで被爆して家族3人を失った高知在住の植野克彦さんの「体験を次世代に伝えたい」との申し出と費用負担があったからです。ですから、印刷部数は500部です。

植野克彦さん(旧制中澤)と山野上さんとの69年ぶりの再会の様子は第37回(2019年1月18日掲載)「友の消息求め① 同期会で69年後再開 母が発見、高知へ連れ帰る」に詳しく書かれています。意識不明の大やけどを負った植野さんは、母に奇跡的に発見され、母の郷里の高知へ引き上げ高知で活躍されたそうですが、広島では長い間消息が不明だったようです。その二人が再開したのが、被爆から69年経った2014年1月に開催された同期会だったのです。植野さんは「私たちの被爆体験を広く知ってもらうためにも、ぜひ残したい」と山野上さんと連絡を取り、自費で出版することにされたのです。しかし本の奥付には、「私家版」という文字と「著者山野上純夫」と書かれているだけで、植野さんの名前は、どこにも記載されていません。

注文から数日後に届いた「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」の入ったレターパックには、植野さんの手紙が同封されていました。こう書かれていました。「元来販売する心積もりはなかったのですが、広く、且、関心のある方に読んでいただける方法として、100部販売することにしたのです。反響が大きく対応に追われている状況です」。その後、戸田栄さんからのメールで知ったのですが、100部を希望者に提供することになったのは、戸田さんの強い勧めもあったようです。

私の植野さんへの注文は電話でした。その電話で「原水禁の運動に関わっている」ことや「外林さんとのこと」を話したからでしょう、届いたレターパックには、書籍と手紙の他に植野さん自身に関わる新聞記事のコピーがたくさん同封されていました。そのほとんどは、植野さんの被爆体験に関わる記事でしたが、「安保法制違憲訴訟」の原告として頑張っていることや外林さんことが書かれた新聞記事もありましたので、植野さんのことも身近に感ずることができました。

植野さんは、毎年8月6日の式典に参加するため広島に来ておられる(今年は欠席)ようですので、来年の来広時には、お会いして直接お話を聞くことを楽しみにしています。

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