「広島ブログ」

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2020年12月

2020年12月31日 (木)

12月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

   農園の近くの豊栄・四季彩館にお餅を取りに行って農園に帰る途中で、突然パッと車を横切ったので撮影できなかったが、キジの親子と出会った。オスはいなくて母鳥と一回り小さい子どもだった。しばらくオスを見ていなかったのだがちゃんと生活しているらしい。農園が管理しているため池からは鴨が2羽突然飛び立つのを見ることができた。ヒヨドリも数が増えてきた。年末は26日、27日、29日と農園に行く。作業はブルーベリーの剪定、草刈り竹や雑木の伐採、そして墓の掃除で農園行きは終了。正月飾り用のナンテンをバッサリ切って持ち帰る。30日から寒波が来る。31日は農園も2年ぶりに雪が積もりそうだ。

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12月26日(土)。4時前、里山の周囲の草刈りをしていると乾燥注意報と火の用心をスピーカーで流しながら消防車が通る。いつもこの道を通って帰る先に北分署がある。この日の音らしい音はこれくらい。

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12月27日(日)

①.里山の早生のブルーベリーの剪定。根元にひこばえがたくさん出ているので太いもの1~2本残してあとは切る。

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②.竹の伐採。切り倒すのはすぐだが後処理に手間がかかる。2m位の長さに切り、枝を払い1か所にまとめて朽ちるに任せる。

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③.そうこうするうちに夕方になりブルーベリー畑の向こうで水路の法面のススキの群落の野焼きが始まった。炎と煙が景色にアクセントを添えてくれる。時々眺めながら雑木を刈る。

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12月29日(火)

①.午後遅く農園委着いたので農作業はなしで農園の向かいの茶臼山の麓の墓掃除にいく。

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②.墓に行く途中の道沿いの桧の林の光の入る場所にはナンテン生えている。赤い実が鮮やか。

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③.エビネの株もとの落葉を払うと冬至芽が出てきた。来年春が待ち遠しい。

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④.墓掃除の帰りに親子づれに出会う。小さい子どもが自転車で、お母さんは走って通っていく。

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⑤.ブルーベリー畑。晩生の品種は落葉がすすむ。

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⑥.帰り道にある近所の農家の柿。寒さで実がしわしわになっている。

 

2020年12月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年12月30日 (水)

いのちとうとしの今年最後のブログです。

  私(いのちとうとし)が担当するブログは、今年が最後になりました。

コロナ過での一年は、かつて経験したことのない一年になりました。それでも、このブログを書くことによって、多くのことを学ぶことができました。

1月3日の「ヒロシマ 空白の被爆75年」は、中国新聞の元日の1面トップ記事を紹介しながら、最後に「私の『ヒロシマの空白』を埋める作業としてトライしてみたいと思います。年の初めに考えたことです。」とこの一年の抱負を書きました。

この抱負が「どれだけ実践できたのか」の答えを見つけることはできませんが、それでも私なりの「ヒロシマの空白」を埋める作業が、出来たように思います。ふり返って見たいと思います。

1月は「幟町国民学校―二人の被爆体験記」、「千田小学校の被爆樹木などを訪ねて」、そして3月に「原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女」でした。この「廣島第一県女」のシリーズは、広島市が計画した「平和大通りのにぎわいづくり」との関連から調べ始めました。

「千田小学校の被爆石」からは、広島県工の同窓会訪問に繋がりました。ここで、原爆ドームを描き続けた原弘司さんが、県工の卒業生だったことを知ることになりました。その縁に引かれたかのように4月のフジグラン前で行われた「『原爆の絵8号碑』の除幕式」で、原さんの絵に出会うことになりました。そして5月、6月に市内10カ所に設置された「原爆の絵碑」を巡り歩くことになります。それぞれの碑の由来をたどることで、新たなヒロシマと出会いました。安佐南区伴まで出かけることになりましたので、ちょっと大変でしたが有意義でした。

7月の「中国から贈られた被爆者支援カンパ」のシリーズは、余話も含めて5回になりました。ずっと気になっていたことを文章にすることができて本当によかったと今も思っています。

今年の原水禁世界大会は、コロナ感染のため、初めて体験するオンライン集会となりました。私も「碑めぐり案内」を担当することになりました。碑めぐり案内のビデオ撮りも一生懸命に準備しましたが、それを契機にした「市女の慰霊碑」、「義勇隊の碑」余話では、次々と新しい事実にたどり着くことができました。

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奥の深さを知ることになり、特に印象深く残っています。7月8月で終わらず、10月にも引き継ぐことになりました。

「ヒロシマ 空白の被爆75周年」に刺激されたわけではありませんが、「原爆犠牲者数」の曖昧さについては、広島のとどまらず長崎についても調べることができました。その結果、広島市の犠牲者に関連する資料は一部ですが修正することになりました。しかし、長崎の原爆犠牲者数の問題については、来年の課題として残りました。

10月に益田市匹見を訪れたことがきっかけとなり、島根県から学徒動員で広島の来ていた女学生が被爆していた事実を初めて知りました。私の母校出雲高校も、前進(戦前)は女学校でしたので、あの時期のことを調べてみたいと思います。

「原爆資料館『海外で暮らす被爆者』展示文の修正」が実現できたのも、このブログのおかげです。「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文」も、どうしても書き残しておきたい問題でした。この「銘文」が、きちんとした扱いを受けるようになるのかは、来年の課題として残っています。

「宇品線のモニュメントを訪ねて」も当初は2~3回で終わるつもりでしたが、8回にもなってしましました。

調べていけばいくほどに、また新たに調べたいことを生れていくことになります。その都度、その都度新たに事実を学ぶことができました。

休みなくブログを続ける事は、悩まされることが度々でしたが、ブログを担当したおかげで「私の『ヒロシマの空白』を埋める作業」も少しは深まったような気になっています。

この一年に感謝しながら、来年もまた頑張りたいと思います。

一年間お付き合いをいただいた皆さんありがとうございました。そして定期的に原稿を寄せていただいたイライザさん、あかたつさん、木原省治さん、遊川和良さん、そして毎月2本の原稿を必ず送っていただいた広教組の皆さん、その他にも地域の活動を知らせていただいた三原地区、府中地区のみなさん本当にありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

いのちとうとし

<編集者>もちろん、明日31日には、正真正銘の今年最後のブログとなる遊川和良さんの「12月のブルーベリー農園その4」を掲載します。

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2020年12月29日 (火)

山野上純夫著「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」を読む

毎日新聞の広島版に、2017年(平成29年)10月7日から今年2020年8月7日まで68回にわたって連載された毎日新聞終身名誉職員の肩書を持つ山野上純夫さんの「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想が、一冊の本となって出版されました。何回かの記事を読んでいましたので、連載終了後はまとまって出版されればよいなと思っていましたので、この本を紹介する12月1日付の毎日新聞広島版のその記事を見つけ、すぐに注文しました。

この連載記事のスタートを後押しされた当時の毎日新聞広島支局長の戸田栄さんは、連載の開始にあたり次のように記載されています。「広島での旧制中学時代に原爆に遭遇し、後の本社入社後は広島支局で復興期の取材をした山野上純夫氏とは、私が昨年春まで務めた広島支局長時代に知り合った。私が原爆で死亡した広島支局員の記録を調べ、連載記事にした際、激励と助言を受けた。当時から、山野上氏の被爆体験や広島での取材の逸話などを書いてもらいたいと考えており、ようやく実現した。」

その後に、山野上さんの経歴が書かれています。「1929年生れ。5歳の時に広島へ一家で移り住み、42年に広島高等師範学校付属中に入学。戦後の広島大を卒業し、53年に本社に入社した。学生時代のアルバイトを含め、52~59年、広島支局で働く。84年に本紙を定年退職後、宗教担当の編集委員としての実績を評価されて京都の宗教専門紙に入社。・・・現在京都市に在住」

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連載の第1回は、「授業中の被爆 校舎倒壊 同級生が即死 爆心地から1.4キロ、当時16歳」の見出しで、自らの被爆体験が綴られています。以降、「ヒロシマを通じて出会った人々から学んだことを思いつくまま」に記されたのです。例えば、佐々木禎子さんにまつわる話も「サダコの周辺」のタイトルで、6回にわたって記述されています。当時、新聞記事としては書けなかったことも記述されているように思いますので、貴重な資料と言えます。

実は、私は10年ほど前から山野上さんを知っていました。きっかけは、ドイツ・ポツダムの「ヒロシマ・ナガサキ広場」の慰霊碑建立を通じて知り合うことになったドイツ在住の被爆者外林(そとばやし)秀人さんと同級生だった山野上さんから連絡があったからです。「ヒロシマを生きて」の第6回からの3回は、外林さんのことが書かれていますが、その第8回「妹同士涙の交流 独に慰霊碑建てた友 死後、級友遺族の消息不明」では、私の名前も登場します。

と書きだすときりが無い程、この本は、盛りだくさんの内容が書かれています。私が初めて知るヒロシマも多く書かれていますので、機会を改めて紹介したいと思います。

ヒロシマを知る貴重な内容が書かれていますので、多くの人に読んでほしいのですが、簡単に入手することができません。この本が出版できたのは、山野上さんの広島高等師範学校付属中の3年後輩の一人で、あの日、同校の近くで被爆して家族3人を失った高知在住の植野克彦さんの「体験を次世代に伝えたい」との申し出と費用負担があったからです。ですから、印刷部数は500部です。

植野克彦さん(旧制中澤)と山野上さんとの69年ぶりの再会の様子は第37回(2019年1月18日掲載)「友の消息求め① 同期会で69年後再開 母が発見、高知へ連れ帰る」に詳しく書かれています。意識不明の大やけどを負った植野さんは、母に奇跡的に発見され、母の郷里の高知へ引き上げ高知で活躍されたそうですが、広島では長い間消息が不明だったようです。その二人が再開したのが、被爆から69年経った2014年1月に開催された同期会だったのです。植野さんは「私たちの被爆体験を広く知ってもらうためにも、ぜひ残したい」と山野上さんと連絡を取り、自費で出版することにされたのです。しかし本の奥付には、「私家版」という文字と「著者山野上純夫」と書かれているだけで、植野さんの名前は、どこにも記載されていません。

注文から数日後に届いた「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」の入ったレターパックには、植野さんの手紙が同封されていました。こう書かれていました。「元来販売する心積もりはなかったのですが、広く、且、関心のある方に読んでいただける方法として、100部販売することにしたのです。反響が大きく対応に追われている状況です」。その後、戸田栄さんからのメールで知ったのですが、100部を希望者に提供することになったのは、戸田さんの強い勧めもあったようです。

私の植野さんへの注文は電話でした。その電話で「原水禁の運動に関わっている」ことや「外林さんとのこと」を話したからでしょう、届いたレターパックには、書籍と手紙の他に植野さん自身に関わる新聞記事のコピーがたくさん同封されていました。そのほとんどは、植野さんの被爆体験に関わる記事でしたが、「安保法制違憲訴訟」の原告として頑張っていることや外林さんことが書かれた新聞記事もありましたので、植野さんのことも身近に感ずることができました。

植野さんは、毎年8月6日の式典に参加するため広島に来ておられる(今年は欠席)ようですので、来年の来広時には、お会いして直接お話を聞くことを楽しみにしています。

いのちとうとし

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2020年12月28日 (月)

「呉市広町の昭和史」発刊―広郷土史研究会

12月の中旬、中国新聞に、呉市広の「広郷土史研究会」が、これまでの研究成果をまとめた「呉市広町の昭和史」を発刊したという記事が掲載されました。

早速、事務局に電話を入れ、送本していただきました。翌日には私の手元に届きました。

同封された「ご案内」によれば、広郷土史研究会は、「終戦直後、米国占領政策が落ち着いた昭和24年に当時、広村時代の元助役、神谷伊津造によって設立されました。終戦後、何もかも不足する中で、教育によって地域を立て直そうと公会堂前の『教育第一』の石碑の前で、第一回広地区教育祭を行い現在も続いています。この教育第一の考えを学ぶため広郷土史研究会を続けたのです。(中略)広郷土史研究会は、その思いを引き継ぎ現在も活動しています」と、設立の経緯が記載されています。長い歴史を持つ研究会のようです。

実は、私はこの研究会のことを数年前から知っていました。というのは、かつての職場(NTTデータ)の友人が、OB会の時にこの研究会のことを話してくれていたからです。

と前置きが長くなったのですが、新聞記事を読んで私が注文しようと思ったのは、友人から聞いていたこともありますが、その新聞記事には、「呉市広町の昭和史」には、戦前に呉市広にあった「広海軍工廠の歴史」が記載され、その中には「女子挺身隊や学徒動員の歴史」「学徒動員の体験記」が掲載されていると紹介されていたからです。この「学徒動員」の言葉が気になったのです。

「広海軍工廠に派遣された学徒動員」については、10月4日付のブログ「なぜ益田高等女学校の生徒は被爆しなければならなかったのか」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/10/post-b8ef53.html)で、少し紹介していたからです。その日のブログの主題は、島根県の益田市にあった益田高等女学校の生徒が被爆することになった経緯でますが、最初に学徒動員された場所が、この呉市広の「広海軍工廠」だったことを書いています。その時から、広海軍工廠に動員された益田高等女学校の生徒について、もう少し何か知る手がかりはないだろうかと思っていましたので、「呉市広町の昭和史」の発刊を知り、すぐに注文したのです。

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届くとすぐに、関連すると思われる個所を調べてみました。関連する章は2つあります。

その一つは、「8.広海軍工廠・第十一海軍航空廠女子挺身隊」の章です。ここに書かれているのは、廣村立廣実科博治塚高等女学校の生徒たちに関わる研究結果だけです。次の「9.学徒動員生の体験手記」には、7人の体験手記が掲載されています。ちょっと期待をしました。しかし、広高等女学校以外の学校名は、広島県内の庄原市の尋常高等小学校卒業の徴用工、可部高等女学校の学徒動員、私立婦徳高等女学校(熊野町に設立された学校:いのちとうとし注)の学徒動員、芸陽高等女学校(豊田郡中野村、現大崎上島町:いのちとうとし注)卒業の女子挺身隊の名前が出ているだけです。

結局今回入手した「呉市広町の昭和史」には、残念ながら期待した益田高等女学校の学徒動員に関わる記事を見つけることはできませんでした。

広島原爆戦災誌を調べていて気になっていたことを今回も感ずることになりました。軍都広島、軍港の街呉(広を含む)には、軍事関連施設が多くあっただけに、広島県外からも学徒動員によって派遣されていた生徒がいたはずなのに、その記録は、どこにも見つけることができないということです。敗戦が色濃くなった時期に、軍事関連施設で働くため県外から動員された人々、特に生徒たちの歴史が、どこにも記載されていないのは何故だろう、この歴史を掘り起こすことは大切な仕事のはずだということを改めて考えさせられました。

いのちとうとし

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2020年12月27日 (日)

説明責任を果たさない安倍前首相

一昨日、衆参議院運営委員会で、安倍晋三前首相が首相在任中に行った「桜を見る会前夜祭の夕食会の費用補填問題」に関し、国会答弁に誤りがあったと訂正、謝罪し、各委員からの質疑が行われました。衆参それぞれ1時間の委員会開催でしたが、安倍前首相の説明に納得した国民は、ほとんどいないと思います。

テレビの中継を見たわけではありませんので、全てのやり取りを承知しているわけではありません。今日は、マスコミではあまり取り上げられていないと思われることで、私が疑問に感ずることを少し述べてみたいと思います。

第一は、安倍前首相は、どの国会答弁に誤りがあったのか、具体的に説明していないことです。12月21日に衆議院調査局は、立憲民主党からの調査依頼を受け調査した結果として「33件の答弁で118回の『虚偽答弁』があった」と回答しました。その内訳は、「①事務所の関与はない②ホテルの明細書はない③補填はない」の3パターンの調査の項目で、①は70回、②が20回、③が28回の計118回の「虚偽答弁」があったというものでした。

ここで私が指摘したいのは、テレビや新聞の報道で知る限り、安倍前首相が、この衆議院調査局が指摘する118回の虚偽答弁について、全てを認めているようには思われないのです。「国会の答弁に誤りがあった」というのであれば、最初にやるべきことは、具体的に「いつのどの答弁が誤りであり、正しくは・・・であったった」ということを一つひとつ明確にすべきです。国会におけるすべての質疑は、議事録として残っているのですから、どの部分が誤りであるか明確にすることは、簡単なことです。その一つ一つについて、きちんと「修正箇所」を明示し、修正内容を示すのが、当然やるべきことだと私は思っています。残念ながらそれが行われた形跡は全くありません。野党の質問でも、その点を明らかにする質問はなかったように思います。そこを明らかにしなければ、いくら「答弁の訂正」と言っても、何が訂正されるべきことなのかが不明のままです。その結果によっては、衆議院調査局の調査自体も問われることになるからです。

全体で1時間という短い時間での質疑ですので、「そこまで質問していたら時間が足りない」ということかもしれませんが、「虚偽答弁」を質していくというのであれば、まずここから出発するのは当然のことです。そのためには、安倍前首相に、委員会前に「虚偽答弁」と「修正・訂正内容」を明示させるべきでした。そのことは、「虚偽答弁」を行ってきた安倍前首相が最低やるべきことだったはずです。

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第二は、118回にも及んだ(衆議院だけ)「虚偽答弁」によって奪われた、野党の質問時間の問題です。例えば内訳の「①事務所の関与はない」と関わる「虚偽答弁」は、70回にも及んでいます。安倍前首相が「関与を否定」する答弁を繰り返したために、当時野党の質問者は何度も同じ質問を繰り返さなければならないことになってしまったのです。もし、最初の質問で「事務所の関与」を認めていれば、他の69回の質問をする必要はなかったのです。衆議院調査局が調査した期間は、2019年11月~203月までですから、「虚偽答弁」が行われた委員会のほとんどは、国会の委員会の中でも最も重要な予算委員会だったということになるからなおさらです。

国会では、質疑者の持ち時間はあらかじめ、決められています。その限られた時間の中で、どれだけ多くの課題について、質疑を進めていくのかが、委員には問われることになります。質疑者にとっては、一分一秒が大切な時間になります。テレビ中継される委員会で、答弁が不十分だったときに理事の委員が、議長席に詰め寄り風景を見られることがあると思います。その場面(いつもではありませんが)で時々、委員長が「速記を止めてください」と声を上げることがあります。この声がかかった時には、質問時間の経過がそこで中断することを意味しています。それは、一人ひとりの質疑者にとっては、本当に貴重な持ち時間になっているからです。

ここで私が言いたいことは、安倍前首相の「虚偽答弁」の繰り返しによって、質疑者の貴重な持ち時間と言うか議員として果たすべき、仕事を奪われてしまったということです。「偽証答弁」は、後で修正することができたとしても、安倍前首相の「虚偽答弁」によって奪われてしまった議員の質問時間は、絶対に取り戻すことはできません。一昨日の安倍前首相の発言、答弁を聞いていても「偽証答弁に対する謝罪」はあったかもしれませんが、この貴重な質問時間を奪ったことに対しての謝罪は一言もありませんでした。私は、質問時間を奪ってしまった責任は、極めて重いと思っています。このことだけでも、議員辞職するほどの責任があると考えています。

「118回の偽証答弁」と書いてきましたが、それはあくまでも衆議院での数字です。当然のことですが、安倍前首相が衆参両院で釈明したように、参議院でも同じように「虚偽答弁」をくり返しています。辻元衆議院議員は「100回を超える偽証、だから国会議員を辞任すべき」と迫ったのですが、安倍前首相の国会での偽証は、100回どころか200回を超えていると思われます。これでも「責任をとらないのか」と厳しく問われるのは当然のことです。

マスコミ報道では触れられていない私なりに疑問だと感ずる問題点を指摘してきましたが、ホテルからの明細書問題も含め、疑惑は深まり解明されなければならない問題が残ったままです。安倍前首相が繰り返してきた「虚偽答弁」の責任は極めて重いものです。安倍前首相は、これらの疑問に対し、誠意を持って国会の場に置いてきちんと説明すべきです。野党がそれを求めるのは、当然のことです。

いのちとうとし

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2020年12月26日 (土)

「生まれた時から被爆者」の出版

母親のおなかの中で原爆に遭った被爆者たちの組織「原爆胎内被爆者全国連絡会」が、被爆75周年の節目に発刊するため準備してきた証言集「生まれた時から被爆者~胎内被爆者の想い、次世代に託すもの」が、12月25日日付で発行されました。

原爆胎内被爆者全国連絡会が、証言集を発行したのは、2015年の「被爆70年に想う」に続き2回目です。私も、連絡会のメンバーで編集委員の一人である岡純児さんから紹介を受け、入手しました。

最も若い被爆者、生まれた時から被爆者と言われている胎内被爆者の証言を集めようと全国に呼びかけ、埼玉、東京、岐阜、長崎、沖縄など広島を含め15都府県から、前回の15編を大きく上回る42編(当初の目標は50編)の体験記が集まっています。うち広島は21人から寄せられています。

原爆投下直後の家族の体験や、病気や差別に苦しんだ自身の半生、核兵器廃絶に向けた活動など、「いのち、くらし、こころ」に何らかの被害を受けている胎内被爆者の生きてきた証が、自由に率直に語られています。

この体験記の冒頭には、胎内被爆者のうちでも、最も若い被爆者と言われている「原爆小頭症被爆者」について書かれた証言5編が掲載されています。多くは、「原爆小頭症被爆者」とその家族を支援してきた人たちの手記ですが、その中に母親戸田ユキエさんの手記「私と娘の被爆体験記」があります。この体験記は、1987年7月頃原爆被害者相談員の会の「ヒバクシャ」第20号に掲載されたものの転載ですが、心を打つ内容です。筆者の戸田さんは、5年前94歳で亡くなられてそうですが、残された娘さんは、74歳となった現在も作業所に通所され、ディサービスを利用されているそうです。

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胎内被爆者は、母親の胎内で被爆した人たちで、広島の場合は1946年5月31日までに生まれた人が、被爆者健康手帳の交付対象となっており、被爆者健康手帳の区分では、4号被爆者となっています。「最も若い被爆者」と言われる胎内被爆者数は、2020年3月末現在全国6879人(うち広島市内は2,422人)で、一年前よりちょうど100人少なくなっています。その内、原爆小頭症手当の受給者は、17人で昨年より1名減っています。

ちなみに被爆者(被爆者健康手帳取得者)全体の数は、2020年3月末現在で全国136,682人(うち広島市44,836人)で、前年から比べると9,162人減少しています。

少し気になりましたので、被爆者全体に占める胎内被爆者()の比率を調べてみました。10年前と比較しようと思ったのですが、手元に12年前(2008年3月末)の資料しかありませんので、この二つを比較してみました。

胎内被爆者が、被爆者全体に占める割合は、12年前は3.5%でしたが、今年3月末では5.4%と1.9%増大しています。胎内被爆者の比率が増大しているのは当然の結果ではありますが、被爆者の高齢化が進む中、胎内被爆者が果たすべき役割への期待は、ますます大きくなっているといえます。

今回の証言集「生まれた時から被爆者~胎内被爆者の想い、次世代に託すもの」の発刊を機に、活動が広がることが期待されます。

いのちとうとし

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2020年12月25日 (金)

2020年を振り返って

毎月10日と25日に「新・ヒロシマの心を世界に」を書かせていただきました。2回×12か月で24回、そして番外編が1回ありましたから、計25回となります。

振り返って今年1月10日は、「2020の課題を考える」という題で書いていました。この時点では、新型コロナウイルスなど全く想像も出来なかったですね。深く静かに感染が拡大していたのでしょうが、そしてこの時点でも、たぶん誰かは知っていたのではと思ってもいます。

手元のスケジュール表を視れば、2月19日に九州からやってきた修学旅行生に、平和公園碑めぐり案内のガイド役をしています。この時には新型コロナウイルスは話しにはなっていましたが、修学旅行は実行されました。2月末に京都と高松で用事がありましたが、この時は主催者が相当に気を付けて会場入り口でマスク・消毒を準備されていました。まだマスク不足の時で、貴重な存在だったように思います。

1月10日のブログでは「2020の課題を考える」という題名で書き、NPT(核拡散防止条約)の再検討会議があることや、核兵器禁止条約のこと、被爆75年のこと、原発再稼働問題、エネルギー基本計画、上関原発が計画発覚から39年になること、地球温暖化問題などという中味でした。

まさかの新型コロナウイルスで、NPT再検討会議は延期になり、被爆75年の原水禁大会もオンラインが主になり、多くの会議はZOOMという初めて聞いた形式になりました。

上関原発のための予定地ボーリング調査は、準備作業を11月4日から開始するとして地元の漁師さんたちを中心にした監視・抗議行動で、中国電力は何一つ作業が出来ないまま、12月14日に「海が荒れる」という理由で中止を明らかにしました。中国電力上関事務所の内富恭則広報部長は「理解を得て安全に調査できるよう取り組む」と話したと報道されていましたが、上関原発建設問題が公けになって約40年、結果として理解が得られなかった現実を直視すべきではないでしょうか。「理解を得る」という言葉を何百回聞いたことでしょうか。

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中国電力株主総会入場前、支援者にあいさつする筆者

内部被曝の問題に詳しいフリーライターの矢ヶ崎克馬さんが、ある対談の中で次のように話していました。長い対談の中の一部ですが、一つには日本市民の特徴として「具体的に知り、判断し、行動していく」ということの水準の低さを指摘し、その理由と思われることについて、いわゆる「受験本位の学力」教育で、内容を楽しむ「心を躍動させる学習」授業が、展開できていないことと併せて深刻です。日本人は感覚での好き嫌いは述べることができても、論拠をあげて(理由を説明して)事柄を批判する能力に乏しいといわれるゆえんです。

とても興味深い指摘だと思いました。

友人から「ちょっとだけ愚痴を聞いてくれ…」と、メールを送ってきました。日本人ですが現在は外国で暮らしています。

そのメール、一部は省略しますが難病を患っている人です。その内容は次のようなものです。

患者のフェイスグループにいくつか入っています。日本のが2つ、アメリカのが1つ。日本のグループは百人ほどで、アメリカのは数千人規模です。でもどちらも投稿したり反応したりする人は限られているのですが、それでもアメリカのグループに質問したり、投稿すると返事がどっさり返ってきます。感想や、意見や、自分の経験や・・・それが日本のグループはシーンとしていて、既読にはなっているのに反応がない場合がほとんど。「日本のグループも活発な意見交換の場になって欲しい」。これ国民性?アメリカのグループではメッセージでの議論があったりして、とても興味深いです。正面からの対立を恐れない人たちなんでしょうね。アメリカ人の場合、それで対立しても別に2度と口を利かないというわけでもない。

根底での信頼関係が成り立っていれば、少しの喧嘩というか議論は、克服できると思うのですが、皆さんいかがでしょうか。コロナ禍の中、面と向かって議論をすることが難しくなっていますが、自らの考えの「基準(尺度)」を持つこと、そのための前提は「知る事」だということを強く感じています。

これで20年の私の担当は終わります。来年は議論が活発化し、難しい時期ですが触れ合える年にしたいものです。

木原省治

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2020年12月24日 (木)

藤登弘朗さんの水彩画「被服支廠」

先日、わが家に宅配便が届きました。品名には「ガクブチ(絵)」と書かれています。早速紐をほどきました。ご依頼主の欄には、藤登弘朗さんの名前が書いてあります。

包み紙を開けると段ボール箱が出てきました。段ボール箱の蓋を開くと、きちんと額装された「被服支廠」を描いた水彩画が、入っています。

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添えられた手紙には、「いつも何かとお世話になっています。この一年間被服支廠の保存を願って過ごしてきました。小さな作品ですが、ご笑納くださればうれしく思います。」と書かれています。

ご笑納どころか、ありがたく拝受することにし、お礼の手紙を返送することにしました。

藤登弘朗さんと私の出会いや関わりについては、47日のブログ「『被爆75年・あの日を忘れない』藤登弘朗水彩画展始まる」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/04/post-3f9136.html)で、詳しく紹介していますのでここでは省略しますが、12~3年のお付き合いになります。

藤登さんが描かれた「被服支廠」の水彩画については、1週間ほど前の12月15日付の中国新聞で「被服支廠 水彩で描く 広島の藤登さんが30点」として紹介されています。その記事を読み「藤登さん、今度は被服支廠でがんばっておられるな。『4月に予定されている個展開催のときにはぜひ案内してください』と連絡を取らなければ」と思ったばかりのところに届きましたので、本当にびっくりしました。

記事にはこう書かれています。

「アマチュア画家の藤登弘郎さん(84)=広島市安芸区=が、保存活用を巡り議論が続く『旧陸軍被服支廠(ししょう)』(南区)の水彩画を約30点仕上げた。県内最大級の被爆建物と向き合い、犠牲者に思いを寄せる。来年4月に開く個展で披露する。

 赤れんがの重厚な外観や、爆風で曲がってさびた鉄扉―。被爆直後に被災者が収容され、多くの人が亡くなった室内も描いている。昨年末、4棟のうち3棟を保有する県が『2棟解体、1棟外観保存』の原案を発表したのを機に、年明けから絵筆を握った。

倉庫群の周辺を歩き、被爆証言や新聞記事を読み込むなどしてイメージを膨らませた。『建物の前に立つと、犠牲者への弔いの気持ちが湧く』。原爆を耐え、年月を経たれんがの質感を出そうと、色使いも工夫を重ねたという。」

10月に開催された「ヒロシマ平和絵画展」にも、他の作家たちの作品に交じって、藤登さんが描かれた「被服支廠」の水彩画が何点かあったことを思い出します。

仕上がった約30点のうちの貴重な1点を送っていただいたのですから、大切に飾らなければならないと思います。

大詰めを迎えている「被服支廠」の保存問題、藤登さんの「世界的に貴重な建物。壊せば全てが無になる。存在を広め、全棟保存へつなげたい」との思いが、実を結ぶことを願わずにはいられません。「全棟保存」は、もちろん私たちの強い願いでもありますが。

なお来年の藤登弘朗さんの個展「旧陸軍被服支廠から原爆の悲惨さを」は、4月21日から「旧日本銀行広島支店」で開催されることになっています。

いのちとうとし

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2020年12月23日 (水)

12月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

今年の冬至は21日。前日までの土日は寒い日がきて農園では2日ともうっすら雪が降り冬らしい景色と気温になった。晩生のブルーベリーはまだ落葉していないが葉の色は赤みが強い色から黒っぽいくすんだ赤色に変わってきている。21日からは気温も緩んで少し暖かくなっているがいつまでつづくか。農園の近くの豊栄四季彩館では地元のもち米を使った餅がおいしい。師走なので正月用の餅を予約しにいったついでにつきたての平餅を買って昼めし代わりに頂く。腹持ちがいいし腹も張らないので農作業も動きやすい。

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12月19日(土)。

午後2時ごろまでみぞれ交じりの雨。板鍋山や茶臼山の上のほうは雪化粧だ。

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雨が上がってから里山の竹や雑木の伐採を行う。竹を切るのは竹専用ののこを使う。サクサク切れてなかな気持のよい作業。

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夕方5時前、降ったりやんだりの天気の中あちこちのブルーベリーの花芽にしずくがかかってきらきら光る。

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12月20日(日)。1~2センチの雪で農園についたころにはもう消えかかっていた。

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近くの池には薄い氷が張り

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その上にかかった雪が模様を描く。

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近くの田んぼののり面に植えてあるシバザクラはところどころに花が咲いているが、かえって寒々とした印象を受けてしまう。

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午後から農園の所有し管理している池の堰堤の草刈りを2時間ばかりかけて行った。

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檜や杉の林を抜けて農園に帰る。

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休憩後昨日に続き里山の雑木を切り、畑のブルーベリーを撤去した後に硫黄の粉をまいておいた。来春、土になじんで酸性の土壌になったらブルーベリーの苗木を植える予定。安芸区への帰りの国道2号線はすいていたのでいつもより早くついた。

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ところで12月は1996年12月7日にヒロシマの原爆ドームが世界遺産になった月でもある。我が家のリビングに飾られているミニカーの飾り台の中の一番上に世界遺産を記念して作られた缶ワッペンが広電の電車の模型とともに飾られている。息子の趣味で彼の考えでこの2つが飾られているのだが、核兵器禁止条約の発効が確定した意義ある年でもありここだけはしゃきっとした空気が漂う。

2020年12月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年12月22日 (火)

今年最後の三原地区と府中地区の19の日行動

三原の藤本講治さんと府中の小川敏男さんから、それぞれの地区で実施された2020年の最後となる「19の日行動」の様子が写真とともに届きました。


三原地区

不戦を誓い合った12.8。そして今年最後の「19日」行動となった12月19日,20人の参加者が「戦争させない」・「9条壊すな」・「止めよう改憲」・「経済よりもコロナ対策を」・「敵基地攻撃能力の保有は憲法違反」・「政治を変えよう」などプラカードを掲げてスタンディング。

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 高木武子三原市議ら6人がマイクを握り、「戦争は人の命を奪い,すべてを破壊する。子どもや孫たちの時代に二度とこのような悲惨な歴史を繰り返してはならない。」・「コロナ禍の中で今,政治がしなければならないことは,国民の命とくらしを守ることが最大の課題である」などと訴えました。来年もともにがんばりましょう! 

 

府中地区

時間は上下町のAコープ前が午後3時から、天満屋府中店前が午後430分からはじめていずれもリレートークとスタンディングを30分間行いました。上下町は雪(みぞれ)だったので傘をさして行いました。Aコープの駐車場には雪が残っていました。

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私が訴えたのは、次のような内容です。

75歳以上の人の病院での窓口負担に新しく2割負担が新設と報道されているが、これは新設ではなく1割負担が2割負担になるということ。これによって2割に該当する人は月平均約3000円(年平均34000円)の負担増になる。

・防衛省は過去最大の防衛費54000億円を計上し、8年連続の増加。厳しい家庭の経済状況の中でなぜ防衛費だけ増やす必要があるのか。防衛費を増額するよりコロナ対策に予算は使われるべきだ。

・中国新聞の時事川柳に、「我慢せよ言った総理が我慢せず」と載っていた。結局、コロナ禍の中で困難にあえいでいる国民の生活など見向きもせず、菅首相は連日大勢の人数で忘年会。こうした菅首相の政治姿勢が第3波のコロナにつながった。

・安倍元首相を引き継ぎ菅首相が進める戦争の出来る国は、老後に不安を与え、若者に不安を与え、さらにコロナ対策に不安を与えている。戦争の出来る国ではなく、国民の生活が一番の政治に変えるべき。やっぱり安保法制には反対する以外道はない。

今年最後の行動だったので、最後に石岡真由海さんが「今年はコロナ禍の中大変な一年でした。でも2020年はこんな年だったよねと言える日がきっとくるはずです。コロナに負けずにがんばりましょう。

一年間場所を提供していただきありがとうございました。市民の皆さんにお礼を言って、安保法制がなくなるまでがんばります。皆さん良いお年をお迎えください。」とあいさつして行動を終えました。

反応はいつもながら車の中から手を振ってくださったり頭を下げたりしてくださいます。多くは「なにしょうるんじゃろ」「おーやりょうる」と車から見て通られますが。


藤本さん、小川さん、いつも情報を寄せていただきありがとうございます。両地区が毎月粘り強く行動されている様子がよくわかります。国民の命を軽視する菅政権を終わらせるため、来年も引き続き取り組みを強めましょう。

いのちとうとし

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2020年12月21日 (月)

数字の意味を正確に理解しよう ――そのためにも、「リーダー」の役割が重要です――

数字の意味を正確に理解しよう

――そのためにも、「リーダー」の役割が重要です――

 

前回、12月1日には、「重症者」の範囲が狭過ぎるのではないかという問題提起をしました。東京都の採用している「定義」では、コロナ以外の患者さんたちへの「しわ寄せ」の大きさ・酷さが分らないことが問題なのです。

分り易い例として、『日刊ゲンダイ』の報道による11月18日の東京都発表の「重症者」数を取り上げました。それは39人です。しかし、厚労省が規定した「重症者」を数えると196人なのです。つまり、①人工呼吸器装着②人工心肺装置(ECMO)の使用③集中治療室(ICU)などに入室のいずれかに当てはまる患者196人なのです。倍数にすると約5倍です。その差は、ICUに入っている人が含まれているかどうかなのです。

ICUの数字が重要な理由の一つは、コロナ患者がICUのベッドで治療を受けることは、その他の病気でICUベッドを必要としている人には、そのベッドが回らないことになるからです。極端なケースを思考実験として考えると、(そんなことは現実にはあり得ないのですが、状況を理解するための「仮想」的な場合を考えます)、日本中のICUベッドが全て、コロナ患者のために使われたとすると、それ以外の病気、例えばガンとか脳梗塞等の重い患者さんは、ICUでの治療が受けられなくなってしまいます。

その中には当然、助けられたであろう患者さんも含まれることになります。医師の皆さんが心配している「助けられる命を助けられない」状況です。それは当然、「医療崩壊」の重大な局面なのですが、最近の感染状況がこの方向に動いているという警鐘が鳴らされています。

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皆さんお気付きのように、ここ数日間、各地で「医療崩壊」が注目されるようになりました。「医療崩壊は始まっている」(広島市医師会)、 「新型コロナウイルスによる医療崩壊は進行している」(大阪民主医療機関連合会)といった発言です。

これを、数字に置き換えて理解することが大切だとも思います。まず、日本国内のICUベッド数は、日本集中医療学会によると約7100あります。それに対して、12月19日に重症者数は598ですので、約600と考えておきましょう。

ただし、ここには東京都のICUベッドで治療を受けているコロナ患者数は入っていません。東京都の発表している重症者数は約60です。対して大阪が約150、そしてクラスターの発生で自衛隊の派遣を要請した旭川のある北海道が35という数字との比較も意味がありそうです。(これらの数字は、『東洋経済』オンラインのものを使っています)

東京の60の中には、ICUで治療を受けているコロナ患者の数は入っていませんし、この数字はネットで簡単に探せませんでしたので、『日刊ゲンダイ』の記事を元に、都の公表数の5倍を掛けたものが、ICUで治療を受けている人も含めた数字だと仮定します。

すると、東京都の「重症者数」は300、全国的な数字には、後240足す必要がありますので、大雑把に考えると、840人の患者さんがICUベッドか、それより重篤な患者さん用のベッドで治療を受けていることになります。また、新たなコロナ患者を受け入れる際、提供するための、特別に空けているベッドもあるようですが、それらも含めると、コロナ用ベッドの数は大雑把に900と考えても良さそうです。

つまり、ベッド数で考えると全ICUベッドの内、約13パーセントがコロナのために使われていることになります。

日本におけるICUベッド数も、集中治療を専門に行う医師の数も、余裕があるというのなら、これは心配する必要のない数字かもしれません。しかしながら、例えばドイツと比較すると、「人口10 万人当たりのICU は、日本が5.2 床であるのに対して、ドイツは33.9 床と、日本の6 倍以上の病床数が整備されている。(ドイツの)ICU の多さは、医療コスト高の要因として批判の対象となっていたが、今回の危機にはこれが医療崩壊の回避に寄与した。また、注目すべきは病院に勤める「集中医療専門医」の人数だ。全体数をみると、ドイツが8,328 人(2018年)に対し、日本は1,850 人(2019年)と大きく異なる(日本医師会調べ)。人口当たりでみると、日本の集中治療専門医とは、実に7倍の開きががある。」(NIRA オピニオンペーパー No. 54 | 2020 10 月 「ドイツのコロナ対策から何を学べるか」、著者は翁百合NIRA総合研究開発機構理事/日本総合研究所理事長)

つまり、各地で医師会や医療団体、そして個人としても医師たちが指摘しているように「医療崩壊」は起きつつある、という事実を受け止める必要が私たちにはあるということですし、その原因の一つが、これまで十分な数のICUベッドを確保して来なかった日本の医療政策にあるということなのです。

そして、「重症者数」から「ICU」を除外することで、この点が十分に伝わらないという二次的な弊害を作り出している行政の責任も問われなくてはなりません。

それに対して私たちに何ができるのかも、改めて確認しておきましょう。それは、コロナウイルスに感染しないようにすることです。そのための注意事項も手を変え品を変えて伝達されてきましたが、私たち一人一人が新たな決意でコロナに立ち向かう上でも、リーダーの果す役割が大切です。

今回はもはやそのためのスペースがありませんので、次回に回します。皆さんも健康に留意され素晴らしい新年をお迎え下さい。

[2020/12/21 イライザ]

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2020年12月20日 (日)

原水禁国民会議の被爆75周年記念事業「高校生『平和』の作文コンクール」の最優秀賞作品「本気なのか~『黒い雨』控訴を思う~」

原水禁国民会議は、被爆75周年記念事業として、「高校生『平和』の作文コンクール」を実施しました。

公募のテーマは「~戦争のない、飢餓も貧困もない、差別もいじめもない社会、『平和」な社会を作っていくためには、一人ひとりの命が大切にされるために、何が必要なのでしょうか。今を生きている私たちひとり一人の思いを、言葉にしてみませんか。~』でした。

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沢山の応募の中から、最優秀賞に2作品が選ばれました。その内の1作品は、福山市の盈進高等学校の酒見知花さんの「本気なのか~『黒い雨』控訴を思う~」でした。少し遅くなりましたが、その全文を紹介します。


 「『まどうてくれ。』これは、ふるさとや家族そして身も心も元通りにして欲しいという被爆者の悲痛な叫び」(二〇一五年広島平和宣言)

 八月十二日、広島への原爆投下直後に降った放射性物質を含んだ「黒い雨」を巡り、国の援護対象区域外にいた原告八十四人全員を被爆者と認めた広島地裁判決に対して、広島県と広島市、訴訟に参加する国が控訴した。厚労相は、「十分な科学的知見に基づいていない判決だ」と理由を述べた上で、援護対象区域について「拡大を視野に入れ検証する」と方針を示した。県と市は、被爆者健康手帳の交付を直接担当するために被告の立場だが、これまでもずっと対象拡大を求めており、国に控訴断念を要望してきた。だが、区域拡大も検討するとの国の回答を得て、最終的に控訴を受け入れたという。被爆七十五年。提訴から五年。原告の老いは進み、すでに十六人が亡くなった。どうして控訴か。なぜいま救済しないのか。

 原告の一人、石井隆志さん(八十三)は、十五歳の頃、背中の皮膚に炎症が起き、筋肉が隆起。切断する手術を三度受けた。大人になってもいつも体がだるく入退院を繰り返した。妻が家計を支えたが、それが「心苦しく、しんどかった」と語る。(七月三十日『朝日新聞』)

 同じく沖昌子さん(七十九)は、控訴を報道で知り、肩を落として、こう語った。「(勝訴は)ぬか喜びだった。」いま、引き続き裁判に参加するか悩んでいるという(八月十三日『朝日新聞』)。私は彼らの苦悩の人生と控訴に対する無念に、本気に応えなければならないと思う。

 被爆者の切明千枝子さん(九十一)に控訴について尋ねた。彼女の証言集『ヒロシマを生き抜いて』は、私と仲間が聞き取り、文字を起こして出版された。現在、私は、この証言集を英訳し、インターネットで世界に発信しようと準備している。切明さんは言う。

 「控訴に腹を立てている。『黒い雨』を浴びた知人も悲しんでいる。戦争や原爆の本当の恐ろしさを知らない行政の方には、被爆者の声が通らないのか。これ以上、被爆者が増えてほしくないと思っているのか。情けない。」

 私は中学一年から、真夏にも厳冬にも、一人の市民として市民の中に入り、核廃絶の署名活動の環に加わっている。昨年春、広島市などの援助も受けて、ニューヨーク国連本部で、被爆証言を中心に、英語でヒロシマ・ナガサキの反戦反核の魂を世界に訴えた。NPT第三回準備委員会に際して開かれた「ユースフォーラム」でのことだった。切明さんの平和への願いも盛り込んだ。

 私は、「核と人類は共存できない」と訴え続けた森瀧市郎を尊敬し、娘の森滝春子さんの生きざまに共感する。父と共に核実験に抗議する座り込みをしてきた彼女は、父の背中を追い、ヒロシマ・ナガサキの被害のみならず、フクシマを忘れず、ウラン鉱山で放射能を浴び、健康障がいに苦しむ人々など、世界中の核被害の実態を世に問うている。そんな彼女はいつもこう言う。「一人の人間の力は弱い。だから、人種も性別も年齢も関係なく、国境を超え、みんなで力を合せよう。」私はこの視点に学び、国連でのスピーチのテーマを「連帯」とした。スピーチ後、オーストラリアの三十代の男性が熱を込めてこう発言した。「君たちと一緒に行動したい。」連帯の環の広がりを肌で感じ、うれしくて身震いした。

 今年の広島平和宣言は、「連帯」がテーマだった。広島市長は、政府に対して、核兵器禁止条約への署名と批准を求め、世界が「被爆地ヒロシマの心に共感し『連帯』するよう訴えていただきたい」と述べた。でも私は、「連帯」を求めるなら、「被爆地ヒロシマ・ナガサキの心に共感し」と言ってほしかった。

 地元紙『中国新聞』は控訴に対して、「なぜ国は幅広く救済を決断しないのか。本気で救う気があるとは到底思えない」と主張した。(八月十三日社説)。でも私は、広島市も、本気で救う気があるとは到底思えない、と感じる。どうしてか。それは「連帯」と言いながら「福島」に言及しない平和宣言に疑問を感じているからだ。世界平和は、身近な人との連帯なくして実現し得ないと思う。隣の席でいじめられている人を見過ごして、平和や人権の確立を叫ぶ者を誰が信じようか。長崎平和宣言には今年もまた、「福島を応援する」という一文があった。だが、広島平和宣言には二〇一三年を最後に、「福島」の文字はない。

 私は被爆地で生まれ育った者として、「もう誰にも自分と同じ思いをさせてはならない」という被爆者の復讐と敵対を超えた素朴で崇高な思想を最も大事にしている。それを受け継ぎ、先人たちが築いた礎に学ぶ義務があると考えている私の行動基準は常に、この思想と「まどうてくれ」の悲痛な叫び声である。「人類生存のために核廃絶を成し遂げる。」本気なのか。私はあなたに、そうして自分に問う。

(この文章は、クラブの仲間と「黒い雨」問題に関する新聞などを読み込み、話し合った内容です。部長として私がまとめただけです)


〈編集者注〉酒見知花さんは、盈進高校の「ヒューマンライツ部」に所属しています。ヒューマンライツ部は、「手と手から」をテーマに、「中高生として地域や国際社会の平和と人権の環を広げるために貢献する」(サブテーマ)ための様々な活動(ハンセン病問題から学ぶ学習、「核廃絶!ヒロシマ・中高生による署名キャンペーン」など)を行っています。

いのちとうとし

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2020年12月19日 (土)

宇品線のモニュメントを訪ねてー余話その3   被服支廠、兵器支廠の引き込み線

今日もまた、11月29日の「宇品線のモニュメントを訪ねてーその3」のその後の調査報告です。この時私は、真ん中ほどに「1939年(昭和14年)当時の駅名の記載がないのは、やはり軍関係の施設があったからだと思えます。兵器支廠、被服支廠の両軍事工場からの物資の積み出し駅として使われていたはずです。」と記述しました。

少し時間が経って「兵器支廠、被服支廠からの物資の積み出しは一般駅からではなく、それぞれの支廠に引き込み線があり、そこから積み出されたはずだ」という、こんな当たり前のことにようやく気付き、当時の様子を記した資料はないかと、調べてみました。

わが家にある資料で簡単に見つけることができました。広島市郷土資料館が、「平成25年(20104年)度広島市郷土資料館企画展」として実施した「陸軍の三廠―宇品線沿線の軍需施設―」で発行した「展示解説パンフレット」に、当時の三廠(宇品陸軍糧秣支廠、広島陸軍兵器支廠、広島陸軍被服支廠)の建物配置図が、掲載されていました。

ここでは、兵器支廠と被服支廠の建物配置図を紹介します。

まず比治山の東側にあった広島陸軍兵器支廠です。このパンフレットには、大正10年(1921年)頃の兵器支廠内建物配置図(アジア資料センター作成)が、掲載されています。全体図です。

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宇品線とかかわりのある部分を拡大しました。

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この図の左側に走る宇品線に沿う形で、物資積み下ろし用の引き込み線があるのがはっきりとわかります。かなり長い「積卸場」が、はっきりと描かれています。この「積卸場」に向けて縦横にトロッコの線路(図では、「軽便軌道」となっている)が敷かれているのがわかります。ここから、大量の兵器や弾薬が積みだされ、修理の兵器が降ろされたのです。鉄道こそが重要な役割を担ったのです。このパンフレットには、「コラム陸軍兵器支廠大爆発」が囲み記事として掲載されていますが、この大爆発は、地図と同じ年の大正10年(1921年)8月8日だったそうです。「この事故により、近隣住民は避難に追われたり、飛散した弾丸や破片で家屋が破損ており、市民に与えた影響が強かったため、すぐに火薬庫の移転が叫ばれ始めました。」と紹介しています。その後「火薬庫移転」を求める署名活動も行われたそうですが、その結末は、また別の機会に紹介したいと思います。

次は、今全棟の保存を求めて運動が起こっている広島陸軍被服支廠です。この解説パンフレットには、以前にこのブログで紹介した橋本秀夫さんが作図された被服支廠構内図が、使われています。まず全体図です。

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宇品線とかかわりのある部分を拡大しました。

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よく見ると、この図には、「比治山駅」が明示され、そこから被服支廠の引き込み線が敷かれ、2本のプラットホームを経て、再び宇品線に繋がっていることが、わかります。兵器支廠と同じように被服支廠の各建物を結ぶようにトロッコの線路が敷かれ、2本のプラットホームで積卸されたものが、各工場に運搬され、倉庫(被爆建物として現存しているもの)に保管され積み出しが行われていたことがわかります。

全体図の右上には、兵器支廠の引き込み線も描かれ、そこには「兵器支廠上大河駅」と駅名まで記載されています。

この二つの支廠の引き込み線を見ていくだけでも、宇品線が戦争と深いかかわりを持っていたことが、よくわかります。逆に言えば、宇品線があったからこそ、その沿線に軍需施設が建設されたと言ってよいと思います。

兵器支廠の前身である「比治山兵器庫」が設置されたのは1907年(明治40年)です。

被服支廠の前身である戦地から返ってきた還送被服品の洗濯工場「陸軍被服支廠広島派出所」の建設が決定したのは日露戦争中の1905年(明治38年)1月、翌年11月に完成、そして1907年(明治40年)10月9日に「広島陸軍被服支廠」に昇格します。その後、両支廠とも拡大に拡大を続け、被爆、終戦を迎えることになります。軍都廣島の発展とともに宇品線の役割もますます大きくなっていたのです。

いのちとうとし

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2020年12月18日 (金)

『82年生まれ、キム・ジヨン』

2016年に韓国で出版されたベストセラー小説です。2018年に日本版が刊行されました。結婚、出産を機に仕事を辞めて、家事育児に忙しくしていたキム・ジヨンが、ある日他人が乗り移ったような言動をはじめるというところから始まります。

キム・ジヨンは、父方の祖母と両親、二歳年上の姉、五歳違いの弟と一緒に暮らしていました。温かいご飯の配膳される順番は男の子からと決まっている。女の子が生まれると謝らないといけない。一家をもり立てるのは男の子であり、それが一家の幸せであるということなど、キム・ジヨンが生まれて、学生時代、就職までの様々な性差別や不平等さが書かれています。

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韓国の話ではあるけれども、日本もあまり変わらないと感じる場面があります。

学生時代のことが書かれている部分では、学校給食の場面があります。ランチルームで出席番号順に配膳されるのですが、出席番号は男子が先になっているため、いつも食べる時間が遅くなり叱られるのは女子です。不公平だと感じながら,それを言っていいのか悩んだ末、自分の思いを伝えることで順番が変わったところなどを読むと、「おかしい」と思ったことをはっきり口に出して主張することで物事が変わっていくのだということを改めて感じました。

理由なく区別されることの生きにくさや不平等さに気づき、おかしいと思えば声をあげていかなくては何も変わらないとも思いました。

今年、映画化もされているみたいなのですが、小説とは少し内容が違うようではあります。中国地方での上映はまだされていないようですが、見る機会があればみたいと思っています。

M.I

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2020年12月17日 (木)

山内正之著「大久野島の歴史―三度も戦争に利用され 地図から消された島」

過日、大久野島から平和と環境を考える会代表の山内正之さんから、今月3日発行の自著「大久野島の歴史―三度も戦争に利用され 地図から消された島」が届きました。

山内さんは、夫婦で23年前から「大久野島の毒ガスの歴史を伝える活動」を続けておられます。

この本には、「謹呈」と書かれた山内さんの手紙が添えられていました。この本の出版への思いが綴られていますので、少し長くなりますが、引用します。

「何時も、お世話になっております。この度、明治から今日にいたる大久野島の歴史を紹介した『大久野島の歴史』を出版しましたので謹呈させていただきます。ご一読いただければ幸いです。

今まで、明治から現代まで、『大久野島の歴史』として一冊にまとめた本はありませんでしたので、体験者から聞かせて頂いた証言やボランティアガイドとして23年間、大久野島に通い続けて学んだことを含めて、大久野島の歴史としてまとめました。

戦争に利用された明治から昭和の時代、第2次世界大戦後から令和の時代への大久野島の歩みを紹介します。大久野島の歴史を学ぶ入門書として読んでいただけることを期待して作成しました。

御承知のように、大久野島の防空壕跡にはまだ毒ガス弾が埋設されたままです。大久野島の毒ガス被害者も、中国の毒ガス被害者も現在もなお、毒ガス被害で苦しんでおられます。また、1996年頃にはヒ素による島内の環境汚染が明らかになるなど、大久野島は現在も、戦争の影響を残しています。大久野島の戦争の歴史はまだ、現在進行形と言えます。

『前事不忘 后事之師』、これからも頑張って、大久野島の歴史を次世代に伝えていかなければならないと思います。」

これまで「地図から消された島」など、多くの大久野島について書かれた本が出版されましたが、長い歴史をまとめたものは、この本が初めてだと思います。また本のサブタイトルにあるように「毒ガス加害・被害の歴史」の両側面から語られた本です。

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山内さんは、「入門書として読んでいただければ」と書かれていますが、巻頭の写真資料や目次を読んだだけでもその内容の豊富さを知ることができます。本文中にも写真がふんだんに使われていますので、より理解が深まると思います。

特に後半(全体の半分)で、戦後の歴史が詳しく紹介されているのが特徴だと思います。添付された「資料編大久野島の毒ガス関連年表」も、1890年(明治23年)に「呉憲兵隊忠海文献事務を開始」から始まり、2017年の「4月シリア内戦でアサド政権側が毒ガス兵器を使用したとしてアメリカ軍がシリアの化学兵器貯蔵施設などをミサイルで報復攻撃」まで、丹念に調べて記載されています。また、毒ガスを製造した側、毒ガス被害を受けた中国人、それぞれ2人ずつの「毒ガスに関わる証言」も収録されていますので、ここを読むだけでも価値があると思います。

近年大久野島は、「兎と触れあうことのできる島」として多くの観光客が訪れていますが、このことにも山内さんは「まえがき」で次のように触れています。「兎に触れ合うために訪れた人たちも、この島で毒ガスを製造していた時代、この島では兎がたくさん飼育され、毒ガスの効力を確かめるための動物実験として使用され、多くの兎たちの命が奪われた悲しい歴史があることを知らない人が多い。現在の兎たちは戦争中、実験用に飼われていた兎たちの子孫ではありません。」

数年前、甥の子どもを連れて大久野島を訪れた時には、残念ながらこの話は全く頭にも浮ばなかったが思い出されます。

もう一つ、この本を手にして思い出したことがあります。原水禁世界大会で「加害の歴史に学ぼう」という企画を立案し、大久野島を訪れる「戦争とヒロシマバスツアー」を始めたことです。資料で確認できたのは被爆49周年(1994年)原水禁大会が最初ですが、企画した私の記憶では、その数年前だったように思います。数年前というのは、「戦争とヒロシマバスツアー」にはもう一つ、広島市内を回るコースがあったからです。大久野島を訪れるコースは、毎年すぐに予約でいっぱいになったのですが、市内を巡るコースは、参加者が少なく2回ほどで中止にしました。被爆49周年原水禁大会報告集には、市内のコースが記載されていませんので、数年前から始めたことは間違いありません。

大久野島を訪れるバスツアーは、竹原のみなさんの協力で今も続いています。

この本は、個人出版として発刊されたものですが、一人でも多くの人に読んでほしい本です。

いのちとうとし

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2020年12月16日 (水)

宇品線のモニュメントを訪ねてー余話その2 宇品線・駅名の変遷

今日は、11月29日の「宇品線のモニュメントを訪ねてーその3」で紹介した「上大河・兵器支廠前・比治山」の三駅の駅名変遷について、改めて検証します。

調べ直してみると、この駅名はめまぐるしく変遷していることがわかりました。それを教えてくれたのは、2012年7月に発行された「長船友則著『宇品線92年の軌跡』」です。これからの記述のほとんどは、この本「宇品線92年の軌跡」に記載されていることです。

宇品線の所有者の変遷

駅名が目まぐるしく変わる原因の一つが、宇品線の所有者の変遷があります。宇品線が、日清戦争の開戦とともに軍用線として敷設工事が始まり、17日間の突貫工事で8月20日に竣工し、大きな役割を果たしたことはすでに紹介しました。

日清戦争終結後、当時山陽本線を運営していた山陽鉄道が、陸軍省から線路を無代価で一年ごとの継続(ただし、有事の時は何時でも取り上げられる条件)で借り受け、昨日紹介したように、1897年(明治30年)5月1日から、旅客業務を開始し、1906年(明治39年)まで営業を続けます。この間に何度も軍の都合で、運休となったようです。1906年には、山陽鉄道株式会社が国有化され、陸軍、逓信両大臣の協議により鉄道作業局の所管となります。1919年(大正8年)8月には、旅客業務が廃止され、宇品線の名称が消え、貨物専用線となりますが、1930年(昭和5年)12月になって、芸備鉄道が、旅客業務を開始します。

1937年に芸備鉄道株式会社が、再び鉄道省に買収され、国有化され終戦を迎えます。そして、1949年に発足した日本国有鉄道(国鉄)が所有し、1986年10月1日に全線が廃止されます。国鉄が分割民営化されJRが発足するのが、1987年4月1日ですから、宇品線の最後は国鉄だったことになります。

駅名の変遷

広島駅と宇品駅とでスタートした宇品線ですが、1930年の芸備鉄道による旅客業務開始から、中間駅として大須口、東段原、被服支廠前、丹那の4停留所が設置され、翌1930年には、愛宕町、女子商業前、大河地蔵前の3停留所が追加設置されます。その後も人絹裏駅の設置や駅名変更などが繰り返されますが、ここからは「上大河・兵器支廠前・比治山」の三駅の変遷をたどりたいと思います。もう一度、11月29日に使った絵を掲載します。

2011291

同じ駅名が登場しますので、わかり易いように、広島駅からの距離ごとに駅名の変遷をたどります。

広島駅から2.4kmに設置された駅です。絵では、「上大河駅」となっています。

ここに最初の駅が設置されたのは、1932年9月で、駅名は「兵器支廠前」です。そして1937年の国有化の時「比治山」と変わり、1943年に休止となります。1947年3月に「上大河」で復活し、1972年に廃止になります。

次は、広島駅から2.7kmに設置された駅です。絵では「被服支廠前駅(戦後)」となっています。

この駅は、1930年12月に「被服支廠前」としてスタートします。1937年の国有化の時「上大河」となり、2.4kmにあった駅が「上大河」として復活した1947年に廃止になりました。ですから絵で(戦後)となっていますが、「被服支廠前」駅は戦後には存在していません。

次は、広島駅から2.9kmに設置された駅です。絵では、「比治山駅(戦前)」となっています。

この駅は、1903年に設置されますが、1919年8月に廃止となり、その後復活することはありませんでした。

わずか500mの間で、3駅の名称が複雑に使用されていることがわかります。そして戦後(1947年)には、兵器支廠跡(現広大病院)に広島県庁や広島財務局などが入居することになったことから、最終的に2.4kmの現広大病院正門前にあった駅に集約されたものと思われます。

この中で、特に興味を引いたのは、「兵器支廠前」と「被服支廠前」の駅名でしたので、広島県立図書館が所蔵する「時刻表復刻版」をさがしてみました。この両駅名が載った時刻表は「昭和10年十月」号の一冊だけでした。しかし、駅名が書かれているのみで肝心の時刻表はありません。

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この時刻表には、「人絹裏」駅もあります。

広島駅―宇品駅間の距離は、わずかに5.9kmしかありませんが、一番多い時は、9駅がありました。しかし所要時間はあまり変わらなかったようです。1934年(昭和9年)12月の時刻表には、「運転時間17分を要し」とだけ書かれていました。1946年(昭和21年)2月の時刻表では、中間駅が5駅しかありませんが、それでも時刻表の所要時間は、18分です。1964年(昭和39年)10月の時刻表でも中間駅は5駅ですが、所要時間は16分です。近距離路線だった宇品線の所要時間は、時代や駅数とはほとんど関わりなく16分から18分の所要時間だったようです。

調べてみると不思議なことに沢山であった「宇品線のモニュメント」を訪ねる散策でした。

いのちとうとし

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2020年12月15日 (火)

12月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

12月の中旬になっても天候に大きな異変もなく13日までは暖かい日が続いた。やっと14日になって寒さがやってきた。

カラスが残った柿をつっつく姿を見るくらいで小鳥のさえずりもあまり聞こえてこない。3段あるブルーベリー畑の地面は伸びた夏草がたちがれたり倒れたりしていてその下から背の低い雑草の緑がじわじわと広がっている。農作業は草をかりブルーベリーの枝の剪定を行う。冬至が近いので作業時間はすっかり短くなった。

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12月12日(土)。

①.農園の周囲でも草の野焼きが行われている。風の向きで煙がうすくたなびき後ろの茶臼山がぼんやりと見える。

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②.3段あるブルーベリー畑の2段目の草刈りをする。地面の雑草はいろいろだが、白菜や大根などの秋冬物野菜と一緒でクローバーの葉は青々としてよく伸びているし、黄色い花を咲かせるキジノムシロの葉っぱも見える。

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③.列の最後ののり面沿いの草刈りが終わったとたんてガス欠でエンジンがピタリッと止まった。偶然にしては・・・今日はもうおしまい。

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④.隣から野菜を頂く。白菜がとても太くて大きい。感謝。安芸の郷の給食にもおすそ分けした。

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⑤.里山の早生のブルーベリーの剪定を引き続き行う。

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⑥.庭のバラの蕾。寒くなるが花開くか。

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12月13(日)

①.晩生のブルーベリーでまだ葉がしっかり青い木はウッダードという品種。

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②.パウダーブルーという品種は実がいつまでも落ちずにしわがれるタイプ。

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③.ブルーベリーの木の根元の仁丹くらいの大きさの木くずがこんもり。木の中に虫が入っている。草刈り機のエンジンを止めてここの治療だけは殺虫剤を穴の中に吹き込んで処理する。

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④.春から伸びたブルーベリーのヒコバエ。安芸の郷で来年3月に切って挿し木苗に使うのでこのままにして冬を迎える。

2020年12月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年12月14日 (月)

宇品線のモニュメントを訪ねてー余話

11月22日から5回にわたって「宇品線のモニュメントを訪ねて」を掲載しましたが、今日はその余話です。

その一つは、「その1」で紹介した「平和橋」についてです。紹介した「平和橋」の写真は、現在の橋を写したものでした。台風被害に遭った古い鉄橋が、人道橋となり、その橋に付けられた名前が、「平和橋」だったことを紹介しました。

当時の様子を知りたいと資料をさがしたところ、1985年3月広島市企画調整局文化担当が編集し、広島都市生活研究会が発行した「河岸の戦後史 猿猴川」の中に1972年(昭和47年)3月に写した写真が掲載されていました。段原側から蟹屋方面を写しています。

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写真の説明文として次のように書かれています。「広島駅から上大河駅までの通勤列車の最後の便。左の平和橋は、宇品線の花崗岩のレンガ積みの鉄橋を利用して、昭和23年に作られた木造ミニ橋でスタートした。」

この説明文では、歩道橋の完成は、昭和23年(1948年)となっています。私は、「宇品線のモニュメントを訪ねて―その1」(11月22日掲載)で「1954年9月の台風」としていますので、改めて調べてみました。どの資料を調べて書いたのか今思い出せないのですが、「1954年」は、私の大きな誤りでした。

調べてみると、この鉄橋が壊れたのは、1945年9月17日に広島市を襲った枕崎台風によるもので、その後10m下流に新鉄橋が作られ宇品線は復活、1948年になって、役割を失った旧橋の橋脚を利用して幅1.5mの歩道橋「平和橋」が架けられたというのが正しいことがわかりました。

戦後は、建物やお店などの名前に「平和」が付けらることが多くあったといわれていますが、この橋に「平和橋」と名称がつけられたのもそうした風潮の一環だったと思われます。ちなみに平和大通りに架かる「平和大橋」が完成したのは1952年です。

もう一つは、宇品線の完成です。宇品線が、わずか17日間という短い期間で完成したことは、これもすでに「宇品線のモニュメントを訪ねて―その1」で紹介しました。いくら軍の命令とはいえ、あまりにもの速さに驚かされます。

「宇品線のモニュメントを訪ねて」を書くにあたり、手元にある安芸書房によって復刻された広島市の古い地図を開いてみることがありました。その一枚に「明治38年大新版 実地踏測廣島市街全図」があります。明治38年(1905年)は、宇品線が全線開通してから11年後です。その地図の「宇品線」が走る部分をコピーしました。

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「17日間の突貫工事で完成」が、なるほどとうなずける地図です。宇品線は、起点である広島駅から東に延びた後、急に右に曲がり、猿猴川を渡ると途中一カ所でゆるく左にカーブしてはいますが、ほぼ一直線に南進しています。「なるほど」という理由は、この線路の左右を見るとよくわかります。家が立て込んでいる今では全く想像することもできませんが、大きく右にカーブした後、線路が進む左右は全て田んぼのマークがついています。3分の2ほど進むと、地図では大河通と記載された土手の横を進んでいます。広島駅を出てすぐの愛宕町、荒神町では一部家の立ち退きが必要だったかもしれませんが、その他の場所では、軍命令ですから、土地の借り上げも簡単だったはずです。後は、土砂を投入し嵩上げさえすれば、一応の線路敷は、出来たと思われます。必要なのは、どれだけ多くの作業員を確保するかです。これも軍の命令ですから、確実に確保でき、作業を一気に進んだと思われます。もちろんほとんどが田んぼや干拓地ですから、軟弱地盤をどう強化するかが大変だったと想像できますが。少し難工事だったのは、先に述べた猿猴川に橋梁を家ける工事だったと思われます。

こうして完成し、日清戦争遂行に活用された宇品線ですが、仮設で作られた線路ですので、戦争が終結した翌年1896年(明治29年)12月から本施設工事が行われ、1897年(明治30年)4月に完成し、5月1日から1日8往復の営業運転が開始されました。この時、猿猴川に架かる橋梁の橋台が、石積みになったといわれていますので、仮設時は、木造であったことが想像できます。

次回の余話は、11月29日に紹介した「モニュメントMAP」の三つの駅名(上大河、被服支廠前、比治山)の調査結果を報告します。

いのちとうとし

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2020年12月13日 (日)

全棟保存を求めて―写真展 旧被服支廠の記憶

旧広島陸軍被服支廠の保存運動の中心的役割を担っている「旧被服支廠の保全を願う懇談会」が主催する「旧被服支廠の写真展」が、今月4日から12日まで袋町の広島市まちづくり市民交流プラザの1階展示室で開催されました。私も、最終日の昨日会場を訪れました。

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一年前、広島県が「旧広島陸軍被服支廠は1棟のみを保存し、他は解体する」という方針を明らかにして以来、多くの市民から「全棟保存」を求める声が上がりました。広島県原水禁も本年1月に「全棟保存」を求める要請書を提出しました。こうした動きを受け、広島県は、3月県議会において、原案を撤回し、1年間かけて再検討するという方針を明らかにしました。

そして広島県は、今年3月に倒壊の危険性があるとして撤去した実物のレンガ塀を用いて耐震性を調査しました。その結果、(これまでの3分の1程度の)耐震補強費用での修理でも、「震度6~7の地震で倒壊する恐れが低い」との簡易診断が出ました。これを受け、湯崎広島県知事は、前提条件の大きな変化を受け、有識者会議による詳細な検討と、保存策と活用案を分離して検討する可能性を表明しました。(以上は、写真展会場で配布された資料より引用)

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この写真展に展示された写真は、「旧被服支廠の保全を願う懇談会」が発行した「赤レンガ倉庫は語り継ぐー旧広島陸軍被服支廠被爆証言集―」に掲載されているものの一部が展示されましたが、拡大され、まとめて見ることができ大変良い写真展でした。

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 被爆者切明千枝子さん提供・保育所の風景

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四國五郎「わが青春の記録」より

 昨日で終了したのが残念ですが、広島市まちづくり市民交流プラザも、コロナ対策で14日(月曜日)からは、原則使用禁止となるようですので、この写真展も、もし1週間遅れの開催予定であれば、開催中止となっていたと思われますので、全日程開催できましたので、本当に良かったと思います。

「旧広島陸軍被服支廠」全棟保存をめぐる広島県の動きが、現在いまひとつ見えないところがありますが、写真展のタイトルにあるように「全棟保存」を実現させるため、この一年間の関心の高まりを大切にし、私たちの運動も強化しなければならないことを教えられた写真展でした。「一度壊されてしまったら再び元に戻すことはできない」ことを、声を大にして言いつづけなければなりません。

いのちとうとし

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2020年12月12日 (土)

新型コロナ感染と政策と責任と

2020年12月2日現在、コロナ感染者は全世界で新規感染者数491,420人、累計感染者数は63,360,234人(WHO発表)、国内は新規感染者数2,434人、累計感染者数153,488人(JX通信社発表)と、依然感染拡大が止まる気配を見せません。

新型ワクチンの話題はニュースになりますが、私たちが摂取できるまで、あとどのくらいかかるのでしょうか?また、副作用の心配は?まだまだ心配事が減る様子はなさそうです。

しかし、政府による様々な政策は果たして『功を奏している』のでしょうか?感染拡大が収まらない中での「Go To キャンペーン」、そして、海外からの観光客の受け入れ再開。「なぜ観光部門だけ?」と思わざるをえない政策ではないでしょうか。「案の定」感染者数は増加してしまいました。しかし、政府は、このキャンペーンを来年の6月まで延長するといいます。その後は、「オリンピック」。私は唖然としてしまうのです。

滑稽なのは、このキャンペーンを一時停止するか、休業要請を出すか、など多くの判断は各都道府県知事に一任されていることです。国が始めたキャンペーンに、『乗るか』『反るか』は各自が判断してほしいと。東京都知事が『はぶてる』のも当然かと思います。

一度、国が始めた施策を、「責任」だけは各自治体に丸投げする姿が、私には極端かもしれませんが、1939年に勃発した「ノモンハン事件」と重なる様に映ってしまいました。

戦時中、満州に日本陸軍最大とも呼ばれる部隊が編成されました。関東軍です。一時は47万人のも兵士が配置されたともいわれます。ノモンハン事件とは、モンゴル人民軍と旧ソビエト連邦軍対日本軍が引き起こした国境紛争です。

当時、国境があいまい(日本軍が勝手に主張する)である満州北部で、最大で日本軍2万5000人、ソビエト・モンゴル軍5万7000人が激突し、紛争ではなく、事実上戦争状態へと突き進むのでした。日ソ両軍が入り乱れ、激しい地上戦が繰り広げられ、81年経過しても、モンゴルの大平原には当時のおびただしい塹壕跡、不発弾、人骨さえも、そのままになっています。

結果は、日本軍の大敗退となり、多くの兵士の命が失われました。当時、昭和天皇直属にあった陸軍参謀本部(大本営)は、関東軍の暴走を止めるどころか、黙認していました。驚くべき事実は、このノモンハン事件へ至るまでに、たった一人の陸軍参謀が立案し、関東軍を丸め込み、大本営の命令にも従わず、敗北したという事実です。しかも、その参謀はその敗北の責任を、現地の師団長に押し付け、戦死または自決へと追いやったのでした。

あいまいな意思決定、そして情報を軽んじ、責任をなきものにした大本営。この事件の教訓は活かされぬまま、国民には伏せられたまま、1941年12月8日に開戦。さらに多くの罪なき犠牲を重ね、1945年8月15日に至ります。

さらに驚愕な事実は、この参謀は戦後も海外に潜伏し、戦犯を逃れ、あろうことか、1950年代には衆議院議員や参議院議員になり、国会に努めたという事実です。

作家の司馬遼太郎さんは、この事件を作品化しようと取材を続けましたが、「ばかばかしくなり」「日本人であることが嫌になった」と断念されたそうです。興味のある人は、NHKオンデマンドで、「ノモンハン 責任なき戦い」という特集番組があります。

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さて、かなり話の筋がずれてしまいましたが、現時点でこの世界規模の新型ウィルスの感染拡大に対し、今しなければならない事はなんでしょうか?「自助」?「公助」?「共助」?

私の私見ですが、今真っ先にしなければならないことは、責任のなすりあいや、防衛費拡充だのと言っていないで、医療関係機関や、医療従事者への予算措置や、福祉、子育てなどに早急に対応し、少しでも感染拡大の防止になる「命を守る施策」が必要でなないでしょうか?場当たり的な「現金支給」などではなく、本当に困っているところへの底支えが、全く措置されていないように見えてしまうのです。

熊雄

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2020年12月11日 (金)

新型コロナ対策への不信感 ――まず東京都は、「実態」に即した「重症者」数を発表すべき――

新型コロナ対策への不信感

――まず東京都は、「実態」に即した「重症者」数を発表すべき――

 

コロナ対策についての国や自治体の対応、そしてそれを報道するマスコミの対応が元で、かなりの混乱が生じています。多くの人が戸惑い、不安も増え、同時に、無知や傲慢さも広がっているようです。

国民の生命と生活に責任を持つことが憲法で決められている政府が、しっかりとその責任を果さなくてはならないことは言うまでもありません。しかし、出発点はやはり科学的事実です。

それを元に、マスコミも一緒になって、その事実を誰にでも分るように整理して説明することで、ほとんどの人が納得した上で国や自治体の対応に協力する態勢ができるのではないかと思います。

しかし、「誰にでも分る」の対極にあるような伝達の仕方や報道の仕方が目立ちます。今回はその一つを取り上げた上で、是非改善して欲しいというメッセージを皆さんとともに送りたいと思います。

《重症者数》

それは、東京都による「重症者数」の発表数です。まずは東京都による定義から始めます。

厚労省の定義では、①人工呼吸器装着②人工心肺装置(ECMO)の使用③集中治療室(ICU)などに入室――のいずれかに当てはまる患者を「重症者」としてカウントし報告するよう各自治体に求めています。この数字が大切な理由の一つは、重症化した患者の病状がさらに悪化して死に至るケースが多いからです。

 もう一つの理由として、重症者は治療が長期化しやすい上、医療機関の負荷につながることが挙げられます。重症者が急増すると、ベッドや治療器具、人手が足りなくなり、コロナ患者だけではなく必要な人に治療が行き渡らない「医療崩壊」につながり兼ねません。そうなる前に手を打たなくてはなりませんので、この数値には注目しなくてはならないのです。

 しかしながら、東京都は「適切に実態を把握するにはICU患者を含めない方がよい」との専門家の指摘を受け、都のホームページなどで公表する際は人工呼吸器かエクモを使用している患者に限定しています。

ここで問題になるのは、「実態」とは何を指すのかという点です。ここ数日、医師会も、現場の医師たちも警鐘を鳴らし、マスコミがこぞって報道しているのが「医療崩壊」です。そこに近付いていることが続けて報じられています。それは、コロナ患者の治療のための病床数と医療従事者数が足りなくなることを指します。薬剤や機材、その他の問題もありますが、議論を分り易くするために、ベッド数と医師や看護師の数ということに的を絞ります。

《医療崩壊》

しかも、「医療崩壊」の中で、強調されてきたのが、コロナ以外の病気に対する医療が適切に提供されているのかという点です。たとえば、救急車で運ばれて来た人が、ベッドのないことを理由に、あるいは看護師が足りないために、受け入れや治療を拒否されることが起り得るのです。さらに、通常なら余裕をもって行われる手術ができなくなり、その結果、助かる命まで助からなくなるという可能性です。

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コロナ患者の場合でも、重くなればICUでの治療を受けることになる場合もありますし、その他の一般の患者さんの場合でも、急性あるいは重篤な場合にはICU1での治療が大切になります。つまり、一般病棟の中でもある程度余裕をもって治療を受ければ心配のない患者さんたちよりは、優先度の高いケアの必要な人たちのためにICUはあるのだと考えて良いでしょう。

そして、コロナ患者の数が多くなり、「医療崩壊」を心配しなくてはならないという時、このICUのベッド数が足りなくなりつつあることも意味しているはずです。ICUで受け入れられる患者数に余裕があるのなら、問題のあるケースはICUで引き受けるという選択肢が残されますので、それは「医療崩壊」と呼ばれる状態ではないはずだからです。

事実、コロナ以前に比べて、ICUのベッドでコロナ患者が治療を受けている数だけ、そのため患者が利用できるICUのベッド数は減っています。つまり、コロナ以外の一般患者への「しわ寄せ」があるのです。そして、「医療崩壊」が問題にされる状態とは、その「しわ寄せ」分が、一般患者のICU利用に深刻な影響を与えているという事実を指しているのです。

となると、「医療崩壊」の実態を私たちが正確に理解するためには、この「しわ寄せ」の実数を知ることがどうしても必要です。

ICUを含めると本当の重症者数は5倍》

純粋に、「医学研究論文を書く」という立場からは、「重症」の定義が違っていることもあり得るでしょう。しかし、コロナについての私たち普通の市民や庶民が、「医療崩壊」という現実を理解するためには、ICUで治療を受けているコロナ患者の数を知ることも、必要不可欠であることを御理解頂けたでしょうか。

ちょっと古い数字になりますが、『日刊ゲンダイ』の報道では、11月18日の、東京都発表の「重症者」数は、39人です。しかし、厚労省が規定した「重症者」を数えると、196人なのです。約5倍です。その差は、ICUに入っている人が含まれているかどうかなのです。それも一週間後には、250人に増えています。

日常的に、二桁台の少ない数字を見せられ、それに染められている人たちの危機感が影響を受けていたとしても不思議ではありません。

その他、まだまだ問題はありますが、次の機会に改めて論じます。

[2020/12/11 イライザ]

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2020年12月10日 (木)

「基準地震動」が不合理とした大阪地裁判決

12月4日、大阪地裁は「基準地震動」の設定が不合理だとして、関西電力大飯(おおい)原発3・4号機の設置許可の取り消すという判決を下しました。素晴らしい判決です。

基準地震動の意味を書く前に、地震の強さの単位を簡単に説明しておきたいと思います。私たちに馴染みが深いのは、「震度」という言葉だと思います。震度1なら、僕のような鈍感な者には揺れていることが分からないという数字ですが、3以上ならほとんどの人が分かると思います。またマグニチュードというのもありますね。

ガルという、揺れの勢いを示す加速度の単位もあります。原発も含め住宅などでも、○○ガルの基準地震動に耐えられるというように決められています。この数字が大きくなれば、それに耐えられるような措置をしなければならなくなり、費用も掛かります。

この度問題になった大飯原発3・4号機は、856ガルという基準地震動が決められていました。原子力規制委員会がその数字を認め、大飯原発の再稼働にあたっては、それに耐えられるように工事をしたという関西電力の主張を認め、運転の許可を与えていたのです。言っておきますが、実際に実験を行って確認した訳ではありませんし、実験が可能ではありません。

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大飯原発が建設された当時の基準地震動は405ガルで、3・11後に700ガルとなり、18年3月時点で現在の856ガルとなったのです。丈夫になったなあーと思われるかも知れませんが、記憶のあるところでは00年の鳥取西部地震は1584ガル、16年の熊本地震は1740ガル、東日本大震災では2933ガルを記録しています。

ハウスメーカーがどれくらいの地震加速度に耐えるように住宅を作っているかを調べてみますと、三井ホームは4176ガル、住友林業は3406ガルと書いてありました。建築基準法で定められている数値は1500ガルです。

「原発は強固な地盤の上に作られ、大地震にも耐えられる」という意味の宣伝を電力会社などは行いますが、住宅の耐震基準よりも桁が違うほどの弱さなのです。

この度の判決では、「バラツキ」という言葉も問題にされました。同じ断層面積でも様ざまに地震規模はバラついていることを指摘し、平均値だけで評価したことについての原子力規制委員会の判断を「看過しがたい過誤、欠落がある」と厳しく指摘しました。

ちなみに島根原発2号機の再稼働にあたって、中国電力は基準地震動を820ガルとしています。その値になった主な根拠は、島根原発のすぐ南側を東西に走る宍道(しんじ)断層の長さですが、島根原発が建設された当初は、あそこには活断層は無いというのが説明でした。

「無い」と言っていたものが徐々に伸びてゆき、今では約39㌔メートルとしています。活断層というのは人間や植物のように伸びて成長するものなのでしょうか。最近ではこの宍道断層の西側に在る、約37㌔メートルの鳥取沖西部断層と繋がっているという主張をする学者もいます。

木原省治

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2020年12月 9日 (水)

「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」と「12.8不戦の誓いヒロシマ集会」

原爆ドーム世界遺産登録記念集会

12月7日は、24年前、原爆ドームが世界遺産リストに登録された日です。今年も7日の午後6時から原爆ドーム前で、核兵器廃絶広島連絡会議(連合広島、広島県原水禁、広島県被団協など12団体で構成)が主催する「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」が開催されました。

連合広島・長内さんの司会で始まった集会は、主催者を代表して連合広島久光博智会長があいさつ、県被団協、県原水禁、KAKKIN広島、連合広島の代表4人による花輪の献花、次に核兵器廃絶広島連絡会議の8団体代表による献水、続いて連合広島女性委員会亀井美砂子委員長から提案された「集会アピール」を、参加者全員の拍手で確認しました。全員での黙とうの後、広島県被団協の箕牧智之理事長代行からの閉会のあいさつが行われ、記念集会は終了しました。

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その後、参加者全員が菊の花を1本ずつ献花し、流れ解散となりました。コロナ過ということで、参加者は74人でした。あいさつされた二人の思いは、集会アピールに盛り込まれていますので、アピール全文を紹介します。


原爆ドーム世界遺産登録記念集会アピール

今から75年前の1945年8月6日午前8時15分、この広島に人類史上初の原子爆弾が投下された。

爆心地近くにあった広島県産業奨励館は、「原爆ドーム」と呼称を変え、その歴史とともに、ここに立ち続けている。

今から、24年前の1996年12月7日、「原爆ドーム」のユネスコ世界遺産への登録が実現した。

原爆の恐ろしさ、愚かさを後世に伝えるために、この「原爆ドーム」のユネスコ世界遺産登録に向けて、多くの市民や県民が一体となって、4年の歳月をかけて署名活動などの運動に取り組んだ。その熱い情熱の結集である、164万を超える請願署名が政府を動かし、世界遺産登録委員会の決定を手繰り寄せることとなった。

私たち、ヒロシマが求めてきたものは、「原爆ドーム」の建築物としての文化的価値の評価ではなく、「原爆ドーム」に刻まれた被爆者の慟哭と被爆の実相を世界の人々に伝え、核兵器の使用を決して許してはならないという警鐘を鳴らし続けることにある。

こうしたなか、核兵器の開発や製造、保有、使用を全面的に禁じる核兵器禁止条約の批准国・地域が条約発効の条件となっている50に達し、来年1月22日に条約が発効されることになっている。

しかしながら、日本は「日米同盟のもとで核兵器を保有する米国の抑止力を維持することが必要」として批准していない。

こうした状況だからこそ、ヒロシマの果たす役割は重い。

私たちは、「原爆ドーム」世界遺産登録の意義を再認識し、国内外の世論喚起を図るとともに、被爆の実相を着実に次代に継承していくなど、核兵器廃絶と世界の恒久平和実現に向けた運動を強化していかなければならない。

私たちは、75年前の惨劇を目の当たりにし、今もなお「核兵器廃絶と世界の恒久平和実現」を無言で訴え続ける「原爆ドーム」とともに、思いを共有する多くの人との連帯の輪をさらに広げ行動することをここに誓う。


 

12.8不戦の誓いヒロシマ集会

中国への侵略を強めていた日本が、アメリカ、イギリスなどとの戦争に突入した真珠湾攻撃から79年を迎える12月8日、コロナ過で開催も危惧されましたが、今年も「12・8不戦の誓いヒロシマ集会」が、参加者を絞って弁護士会館で開催されました。

2015年に憲法違反の「戦争法」を強行成立させて以降、安倍政権は自衛隊の海外派兵を常態化させ、戦力の肥大化・強大化を進めてきました。さらに安倍政権の継承を掲げて誕生した菅政権は、「敵基地攻撃能力保有」を含む安全保障政策の見直しを進め、戦争への道を歩もうとしています。

こうした情勢の中で開催された今年の集会の講師は、防衛ジャーナリストの半田慈さんでした。

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演題は「急浮上した敵基地攻撃~踏み超える専守防衛~」です。半田さんの話は、まさに演題のとおりでした。

安倍政権が、アメリカ・オバマ大統領と約束し進めたイージスアショアの配備計画がいかに杜撰なものであったか、そしてその配備停止決定後に進んだ代替案が、価格も上昇し、防衛省の説明も矛盾を深めるものであるにもかかわらず、安倍首相が敵基地攻撃への方向へと大きく政策転換を図ってきたことが説明されました。

そして、憲法改正が無理なので、閣議決定と法改正で、それまで「できない」とされてきた集団的自衛権行使容認へと進めた同じ手口で「先制攻撃を合憲・合法化」させようとしていることが指摘されました。防衛費は増大し、防衛装備も大きく変質し、すでに自衛隊には、敵基地攻撃の能力が備わっている状況もがあり、「専守防衛は風前の灯」となりつつある。それを止めるには、私たちの運動が重要なことが指摘されて、講演は終わりました。

講演後、集会アピールが採択されましたが、その最後の部分を紹介します。「私たちは、『銃口から平和は生まれない』という中村哲医師の言葉を重く受け止めます。『戦争が何をもたらすのか』を広く・深く訴え、平和と民主主義を守るための取り組みを広げるために活動を強化することを、侵略戦争開戦の日『12・8」に誓います」

閉会のあいさつは、先月「憲法を守る広島県民会議」の代表委員に初就任された山田延廣弁護士。山田さんは、「この政治を変えるためには、次の総選挙で自民党を過半数割れに追い込むこと以外にはない」と訴え、12・8不戦の誓いヒロシマ集会は閉会しました。参加者は、約80人でした。

いのちとうとし

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2020年12月 8日 (火)

12月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

しばらく雨の降らない穏やかな日が続く。農園のある場所は午後3時を過ぎると冷気がきて、農園を照らす日が陰る5時前にはさらに一段と寒さが増す。12月の作業は農園内の草刈りと早生のブルーベリーの剪定。単調な作業が春まで続くが日々変化する周りの景色に溶け込みながら動く。

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12月5日(土)。いい天気。

①.早生のブルーベリーは農園の里山側で栽培している。周囲には杉や檜や栗やエゴノキやドングリの木、竹などが生えている。葉が落ちたので枝やヒコバエの剪定を始める。そのペースはゆっくりで。他には畑のブルーベリーの列の間の草刈りを始めた。

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②.ためておいたブルーベリーの枝をまとめて束にして森の工房みみずく・生活介護に持ち帰った。短く切ってサンタの人形を作る材料になる。

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③.農園の冷凍ストッカーからブルーベリーを持ち帰りジャムに加工した。ホーロー鍋いっぱいで1時間余りとろ火で煮詰めたあと翌朝に500g入りの瓶に詰めた。4個分あった。このブルーベリーは9月中旬に収穫した実なので酸味が少なく水分たっぷりの仕上がりになった。

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12月6日(日)。日中暖かくいい天気。

①.夕方用があるのでいつもより早く出かけた。11時ころのブルーベリー畑は日が冬日の光がブルーベリーの葉に反射してきらきらしている。

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 ②.畑のブルーベリーの間の草刈りをするのだが、ブルーベリーの葉が地面や、

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③.刈る草の上に落ちており、回転する草刈り機の刃を当てると草と葉が混ざり合ってもじゃもじゃパラパラ交じり合う。

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④.この日は終日草刈り機使うので1時間くらい使ったら手を休めて他のことをしたりしている。イチゴのランナーの苗が生えているので掘り上げて来春トマトを植える予定の小さい畑の畝を立てている場所に植え替える。実がなればラッキーだが。

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⑤.庭の様子。

 ・夏中元気に咲いてくれたカクトラノオもこの花でおしまい。

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 ・マユミの実

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 ・八重咲の椿のつぼみ。もううっすら桃色がのっている。

2020年12月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年12月 7日 (月)

やっと実現した第23代高校生平和大使の広島研修

第23代高校生平和大使の広島研修が、5日、6日の二日間、広島市内で開催されました。

今年の高校生平和大使は、コロナ感染拡大の影響を受け、各都道府県での選考も遅くなり、例年6月に行われていた結団式も開催できずに来ました。もちろん、8月に実施していた高校生平和大使の最も大切な行事、1万人署名活動で集めた署名を届けるための国連欧州本部訪問も、今のところ実現の見通しが立っていません。

こうした厳しい状況が続いてきましたが、高校生平和大使のどうしても一堂に会して、交流したいとの強い思いが実り、4回も延期を繰り返してきましたが、ようやく「広島研修」ということで実現したものです。

今年の高校生平和大使は、全国で500名余りの応募の中から、28名が選ばれました。今年初めて兵庫県で、高校生平和大使が誕生しました。これで全国16都道府県へと広がりました。

今回の広島研修には、広島県の高校生平和大使3名(梶原百恵さん・福山市立福山高校、柚木優里奈さん・広島大学付属高校、楠康生さん・修道高校)など、28名中26名が参加しました。欠席となった長崎の代表2名は、長崎県教育委員会が「部活による県外の高校との交流は禁止」するとの通達を出したため、参加できなかったそうです。ただ、長崎県からは、県独自の活動として「ハワイ」と「韓国」への派遣平和大使となっている2名が参加しましたので、参加者は合計28名でした。

開会前に、参加者全員で記念写真の撮影です。

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第1日目の研修は、予定の午後1時半きっかりに、第21代高校生平和大使の下久保理子さんの司会で、スタートしました。最初は、小早川健高校生平和大使派遣委員会代表世話人のあいさつです。研修の最初は「被爆者のお話し」を聞きます。「被爆者のお話」は、元資料館館長の原田浩さんです。自らの被爆体験のみならず、被爆後今日までの核兵器をめぐる動き、運動などが紹介されました。次に、高校生平和大使OP・第18代の井上つぐみさんの話です。井上さんの話は、高校生平和大使としての自らの体験、特にジュネーブ・国連欧州本訪問の様子が、当時の写真をふんだんに入れたパワーポイントを使いながら、詳しく語られました。国連欧州本訪問の実現が難しい第23代高校生平和大使が、どんな思いで聞いていたのかなと複雑な気持ちで、この話を聞きました。長崎から参加し、2018年と、19年にノルウェーに派遣された中村涼香さん、第21代の山西咲和さんからは、高校生平和大使の任期を終えた後も、活動を続けていること、高校生平和大使終了後の活動の受け皿として、きちんとプラットホームを用意していることの報告と一緒に活動を続けようとの呼びかけがありました。

この3人の話しで、高校生平和大使後も多くの人が、現役の平和大使の活動をサポートし、それぞれが工夫をしながら、継続して活動を続けていることを知ることができたと思います。

休憩をはさんで、高校生平和大使派遣委員会共同代表在間秀和弁護士の「高校生平和大使に期待する」、同じく共同代表の平野伸人さんの「高校生平和大使の歴史と役割」の講話がありましたが、詳細は省略します。

私がこの広島研修に参加して感動したのは、この後始まった各県の活動報告です。語りたいことが沢山あったのでしょう。予定の時間をオーバーしましたが、豊富な内容でした。同行した各県のサポーターのみなさんも登壇します。 

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昨年までの結団式は、高校生平和大使に選ばれた直後に開催されていましたので、一人ひとりの発表は、「選ばれてこんなことをしたい」という「決意表明」でした。しかし、今年は違いました。一番遅く選ばれた人でも、すでに3カ月余りが経過していますので、それぞれが工夫をしながら署名活動を取り組んできた経験が、次々と発表されます。コロナ禍で、街頭署名ができなかった人も多かったようです。でも、「地域の平和集会に参加して呼びかけた」「自分の学校内で呼びかけた」「母校の中学校に出かけ、お願いした校長先生のおかげで、署名が広がった」などなど困難な中でも多様に取り組んでいることが次々と報告されました。さらに、新潟県、奈良県の大使は、「空襲被害のことも学び、その追悼式で署名を呼びかけました」と、地元の戦争被害と向き合ってきたことも報告されました。静岡の大使からは「焼津に高校生ビキニ事件研究会を作り、身近な核被害の問題を取り組むことなしました」、東京の大使は「ユーチューブでナガサキオンライン修学旅行を企画しました」との報告もありました。長崎で、オンラインでの署名を集めるために作られた「QRコード」を活用して署名を集めたという報告が、複数の県からありました。もっと時間があれば、と思わされる貴重な報告の連続でした。

一日目はこれで終わりです。残念ながら夕食をとりながらの交流会は、中止です。

二日目は、午前8時15分に平和公園・資料館前に集合し、まず慰霊碑への黙祷です。

ここで、三組に分かれて、広島の被爆二世の案内で、平和公園のフィールドワークを実施しました。

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そして最後は、あらかじめ予約していた広島平和祈念資料館見学で、今回の「広島研修」が終了しました。第23代高校生平和大使にとっては、待ちに待った全員が一堂に会する場だったと思います。それを象徴するように、すべての日程が終了後、これからも連絡を取り合って活動を続けようと、携帯番号などを交換している姿が印象的でした。

いのちとうとし

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2020年12月 6日 (日)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその5

今日は、最後の宇品線モニュメント「宇品駅」です。

パークゴルフ場の南端を過ぎると宇品線は、大きく右(西方向)にカーブします。私が、このブログを書くために参考にした広島市郷土資料館発行(2018年刊)の「宇品港 広島の海の玄関の物語」には、ちょうどこのあたりから北方向に延びる宇品線の様子を写した写真がありました。

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線路が堤防の内側に作られ大きくカーブしている様子がよくわかります。写真をよく見ると陸軍被服支廠の建物が映っています。その奥に写っている小高い山が、比治山です。同じような場所から私も写真を撮りました。

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頭上に東西に延びる高速道路が通っています。このあたりから高速道路は、旧宇品線の跡の上に作られているように思えます。その高速道路の下に作られた道路を西に進みます。高速道路の宇品インターチェンジ入口交差点の南西角に目指す「宇品駅」モニュメントがあります。ここのモニュメントは、プラットホームと広島陸軍糧秣支廠倉庫の壁の一部、同倉庫の写真がついた原爆被災説明版で構成されています。

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当時日本一長かったといわれた宇品駅のプラットホーム(貨物ホーム:560m)は、高速道路建設工事が始まる前までこのモニュメントの場所よりやや北側に東西に長く伸びて残っていたのですが、今はまさにモニュメントとしてほんの一部が残されているだけです。宇品駅の貨物ホームが、560mもの長さがあったのは、山陽線を走ってきた貨物列車をそのまま横付けして一挙に荷役作業が行えるようにするためです。

広島陸軍糧秣支廠の倉庫も、軍需品を大量に送り出す宇品港にはどうしても必要な建物だったのです。このモニュメントのすぐ南隣は、宇品中央公園です。ここは戦前、戦時における軍隊・物資等の船舶輸送を指揮統率した「陸軍運輸部船舶司令部」があった場所ですから、宇品駅モニュメントともに、戦前に宇品線がどんな役割を果たしてきたのかを、私たちに教えています。

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宇品中央公園には、陸軍運輸部船舶司令部跡を示すモニュメント以外に、「そうらも みなともよははれて」の歌詞が刻まれた唱歌「港」の歌碑や、「宇品凱旋館建立記念碑」などが建っています。一つ気になった碑があります。公園の南東角に建つ「平和の礎」碑です。表面には「ありし日に 君と遊びし 砂の浜 ここに建つなり 平和の 祈り」の文字が刻まれています。

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裏に廻ってみました。裏面にはこう刻まれています。

「先の大戦の後においても、強制抑留された本県出身の多くは この地宇品港から出港した この軌跡をここに刻み 世界の恒久平和と宇品港が国際平和港として発展することを祈念してこの碑を建立する  平成6年12月吉日 全国強制抑留者協会広島県支部」

この文章の後、戦後の抑留者の人数が刻まれた銅板も取り付けてあります。残念ながら、この文章には宇品港から出港した兵士による侵略戦争の様子は、全く触れられていません。ただ、抑留された兵士たちが、軍港宇品から送りだされたことを読み取ることはできると思います。私の父も、宇品港から出兵したのではありませんが、シベリアに抑留された一人ですので、この碑が、ちょっと気になりました。

宇品中央公園を後にし、道路を南にわたり宇品波止場公園に行きました。この公園は、港を管理する広島県が管理する公園です。ここを訪れた時は、最初のみるのは「陸軍桟橋跡」です。長く伸びた桟橋に、やや西に傾いた太陽の光があたっていました。

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 桟橋を進むと、一部ですが当時の石組が残されています。

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この桟橋、現在は「六管桟橋」と呼ばれているようですが、この桟橋の歴史を刻んだ説明版があったのですが、ずいぶん汚くなっており読みにくいのですが、「この桟橋は、戦時中多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国をむかえ」たことが、古い写真とともに書かれています。

他にも「陸軍桟橋跡記念歌碑」や「海と島の博覧会」のシンボルタワーなどがありますが、これらの紹介は、今回は省略します。

陸軍桟橋(現「六管桟橋」)を見て、今回の宇品線モニュメントめぐりを終わりにしようと思い引き返そうとすると、この公園の入り口付近(「陸軍桟橋跡記念歌碑」のすぐ隣)に設置された宇品線のモニュメントが目に入りました。

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このモニュメントは、宇品駅の切り替え用のポイントを中心に構成されています。レールが上に曲げられているのは、宇品線の終点を意味しているのでしょうか。

ようやく宇品線のモニュメントを訪ねる散策は、終点に着きました。

いのちとうとし

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2020年12月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その19)

ベトナム人技能実習生の「事件」報道に寄せられる思い

今年の3月5日にアップした「その10」で、「多発する技能実習生に関わる事件、事故」について取り上げましたが、私の住む東広島市で残念な「事件」が起きてしまいました。1112日、ベトナム人技能実習生スオン・ティ・ボットさんが乳児遺体遺棄の疑いで逮捕され、123日に乳児殺害の疑いで再逮捕されました。

報道を耳にしたとき、「えっ」、という驚きと同時に、「起きてしまった」といういたたまれない思いに襲われました。最初の報道から半月余り経ちますが、私と同じ思いに駆られた多くの方から毎日のように電話やメールをいただきます。

「スオンさん、大丈夫ですか」、「私に何かできることはないですか」という気遣いから、「私の地域にも技能実習生がいる。とてもよそ事ではなく私たちの問題と思う」、「(スアンさんは)思い悩み、苦しんでいたと思う。(自分たちに)何もできなかったのかと考える」、「自分を含めて、市や会社や地域など、まわりがなんとかできなかったのか」、「(このままだと)また同じようなことが起きる」と心配される方々・・・・。

異口同音、どなたもスオンさんを気遣い、なぜこうしたことが起きてしまったのか、防ぐことはできなかったのかという悔しさとともに、自らの問題、課題と受け止めておられます。私は一面で、“ほっ”としました。なぜなら、東広島市が2018年に実施した「市民満足度調査」で、外国籍市民が増えていることに対する市民の意識が、「外国の言葉や文化・習慣を知る良い機会になる」(36.9%)を上回り、「治安が悪化する可能性はないか不安」と答えた人が37.8%でトップを占めていたからです。

「コロナ禍」で追い込まれる技能実習生

しかし、「コロナ禍」で解雇されたり、過酷な勤務や劣悪な待遇から逃れた(失踪)技能実習生が、生活に困窮して起こしてしまった窃盗などの「事件報道」は後を絶たず、「何にしに(日本へ)来た!帰れ!」などの書き込みが増えていると言われています。

現在、技能実習期間が終了し在留期限が切れ、帰国を待っている外国籍市民が2万人余りいます。「コロナ禍」で解雇された技能実習生は3,964人(東京新聞、11月24日)と言われていますが、実数はそれよりはるかに多いと思います。

残念ながら「コロナ禍」は、まだまだ収まりそうになく、むしろ年末年始にかけて「第3波」の勢いは増しそうです。「いのち尊し」、何よりも人の生命に勝るものはなく、「go-toキャンペーン」を一時止めるなど経済活動を抑制してでも爆発的な感染拡大を抑え、行政改革の名のもとに削り取られた医療・介護・福祉分野を再生するための施設整備とヒューマンパワー(エッセンシャルワーカー)支援に全力を挙げることです。しかし、菅政権は「go-toキャンペーン」を来年6月まで延期するなど、「国民の生命よりも経済優先」に突き進んでいます。

こうした中で起きた今回の「事件」は、決して一人の技能実習生の問題ではなく、また東広島市に限った問題ではありません。

とは言え、「内外から選ばれる国際学術研究都市」を標榜し、人口の4%を越す外国籍市民を含めて「だれ一人取り残さない」という理念のもと、「SDGs未来都市」をめざしている東広島で起こったことは、真剣かつ深刻に受け止めなければならないと思っています。

 

問われる国際交流、多文化共生の真価

下の記事はお読みなった方も多いと思いますが、11月28日の『中国新聞』の『広場』に投稿された記事です。

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先ほども紹介しましたが、様々な思いを寄せてくださる方々と、「スオンさんを励まし・包む行動」を起こし、少しづつその輪が広がっています。

そうした人たちと一緒に、今回の「事件」を通して私たちが問われている課題を考え、行動を起こしてゆきたいと考えています。

誰一人、無関係な人はいません。どれほど彼らや彼女たちに私たちの日々の暮らしや地域の経済が支えられているか、意識されていないだけです。もはや、彼らや彼女たちを抜きには社会も経済も成り立たなくなっています。

朝の食卓に上るパンや惣菜からお弁当やお菓子などの食料品、広島名産の牡蠣や魚介類、大根や広島菜などの野菜。手軽に買い物ができるコンビニで対応してくれている人たち、道路建設や法面整備などインフラを支えている建設現場で働く人たち、住宅からビル建設の現場で働く人たち・・・・。

私たちのまち東広島市だけに限ったことではなく、日本国中、どこでも見られることです。しかし、私たちの意識は「外国人(よそ者)」であり、「技能実習生(出稼ぎ者)」のままです。事実は、同じ地域に暮らし・支え合う「隣人」であり、同じ職場に働く「仲間・同僚」です。

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2009年から毎年開催しているベトナムの正月、「テトを祝う会」。

私は、初めてベトナムを訪問してから30年になります。長くベトナムとの交流や国際交流活動に携わり、様々なイベントや「ベト味(ベトナム料理)教室」、「“ベトナムがく”しみん講座」などの交流を重ねてきました。

昨年度からは、地域住民とその地域に働く技能実習生や住んでいる留学生との交流を通して、最も身近な地域から継続した交流(隣人関係)が築けるきっかけ作りとしての「しみん講座」を各町に出かけて開いてきました。志和町でも今年3月22日の開催予定で、様々な方面に呼び掛け準備を進めていましたが、残念ながら「コロナ禍」で中止せざるを得ませんでした。「もし、開けていたなら・・・・」と考えてしまうのは私一人ではないと思います。

改めて技能実習制度を問い直す

今回の「事件」を通して、改めて「国際交流って何なのだ」と考えさせられています。日本籍市民と外国籍市民が集い、「楽しかった」、「交流が深まった」で留まっていては駄目ということです。〔お互いが困ったときに、本当に力になり、支え合える関係〕ができてはじめて、国際交流をやっていると言えるのだとつくづく思います。

一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会(HVPF)の役割が問われていると痛感しています。

行政も、「多文化共生」「誰一人取り残さない」・・・と、崇高な理念のもと様々な努力がされていますが、残念ながら、今回の「事件」が起きてしまった。技能実習生の一人が起こしたのではなく、私たちや行政を含めて「起こさせてしまった」という認識が何よりも大切だと思います。

福祉にしろ、国際交流や外国籍市民に対するサポートにしろ、「待ち受けサービス(申請主義)」と横軸が通っていない「縦割り行政」がまだまだ克服できていない証でもあります。もっともっと、人とお金をかけ、アウトリーチをかけなければ、残念ながら同様な問題は再び起きてしまうと思います。

今年2月の(その9)から7月の(その14-1)まで7回、「技能実習生」を取り上げましたが、そうした自己反省に立ち、あらためてこの問題を考えて見たいと思います。

(2020年12月5日、あかたつ)

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2020年12月 4日 (金)

12月の3の日行動

「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、昨日午後5時30分から本通電停前で、今年最後となる定例の「3の日行動」を実施しました。10月26日夕方から実施した「臨時国会開会日街宣」以来です。

今月の街宣行動の大きなスローガンは「 ・「と暮らしを守るコロナ対策を ・GO-TO止めて医療充実 ・安倍元総理の証人喚問を」を三つです。3枚の横断幕が準備されました。

安倍政権を継承するといって発足した菅政権が誕生してから2か月半が過ぎましたが、菅首相が国民の前に立つことは、全くと言ってよいほどありませんでした。コロナ感染がこれだけ拡大し、深刻な事態になっているにもかかわらずです。

長妻藍 さんの司会で、午後5時半ちょうどから街宣がスタートしました。12月のこの時間は、すでに日も落ち、暗い夜空となっています。

最初は、コロナ過での国民生活がどれほど大変になっているかです。とりわけ深刻な状態が続くのは、医療現場です。人と物資不足、感染の心配をしながらも懸命に医療崩壊を防ごうと努力している医療現場からの生の声は、煙崎久美子(広島県医労連)さんです。

自殺者が出るほど深刻になっているのが働く人たちの生活・雇用です。次の弁士は、貧困問題を取り組んでいる寺本佳代弁護士が「コロナと女性」問題を訴えました。非正規雇用者が多い女性達から届く声が紹介されました。

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次は、私がマイクを握りました。私が最も訴えたことは、発足以来2か月半余りたった菅政権の政治姿勢です。

「自助、共助、公助」を強調した菅総理、コロナ感染が拡大しても、言うことは「自粛」だけです。まさに「自助」です。コロナの感染が不安な国民は、一人ひとりが自分にできる「自粛」をしています。私が演説しているすぐ前の交差点には、帰宅を急ぐ多くの人の姿がありました。マスクをしない人の姿を見つけるのが難しいほど、マスク、マスクです。この「自助」に政治がどう応えるのかが重要なのですが、強力に推進するのはGO TO政策のみです。GO TO政策がすべて悪いというつもりはありませんが、今国民が求めているのは、「いのち」の問題です。医療崩壊が近いといわれる、医療をどうするかではないでしょうか。以前の街宣でも私はこう訴え続けてきました。「次の感染拡大に備えて、十分な医療体制を準備することこそ、いま政治がやること、やらなければならいことです。」残念ながら、準備どころか、この臨時国会でも、その具体策を聞くことができません。問題は、何を優先しなければならないかだと思います。そして、国民の不安にこたえる具体的に政策を示すことです。

これほどに厳しい状況に進んでいるにもかかわらず、国民に向けたメッセージは何一つ発せられないのが、菅政権です。国民に説明責任を果たさないのは、コロナ問題だけではありません。学術会議の会員6名の任命拒否問題、安倍前首相の桜を見る会前夜祭問題、そして最近発覚した吉川前農水大臣への大臣室での500万円提供疑惑、もちろん河井夫妻の買収問題もそうです。吉川前農水大臣も河井克行衆議院議員も菅総理の直近中の直近の人たちです。自らの問題でもあるのです。説明責任を果たしてください。

そして菅さんにどうしても問いたいことがあります。「菅さん、あなたは今のコロナの感染状況をどのように考えていますか。深刻な事態だと受け止めていますか」明日(4日)で事実上国会が閉会します。初めてとも思える菅総理の記者会見が行われると思います。これら一つ一つについて、国民に分かるように説明してほしいと強く願います。

私が街頭から訴えたことはこんな内容でした。

私の次は、河井問題を取り組んでいる山根岩男世話人。

最後のまとめは、共同代表の石口俊一弁護士。それまでの弁士の話を紹介しながら「来年こそ、憲法が活かされた政治を実現しましょう。そのためにも民主主義を取り戻しましょう」と呼びかけて、今年最後の「3の日」街頭行動は終了しました。

参加者は、ちょうど40人でした。

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終了後帰宅すると参加者からこんなメールが、写真とともに届きました。「今日私たちが持っていた『安倍元総理の証人喚問を』の横断幕は、老いも若きも通行人がとてもよく見てくれました。署名はないのかという人、うなずいて通る人もいました。」

いのちとうとし

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2020年12月 3日 (木)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその4

今日は、黄金山通りから南にある「宇品線のモニュメント」を紹介します。

「線路モニュメント」を見た後、広島南警察署前交差点を渡ると、右手に「たんな」と書かれた駅表示板を見つけることができます。丹那駅を示すモニュメントです。

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広島駅からの距離は、3.8キロです。1904年に新設されたときは、200mほど南だったようですが、この駅は1919年に廃止となりましたが、同名の「丹那駅」が、1930年に新たにこの位置に設置され、1966年に上大河駅以南の旅客業務が廃止になった時、この駅も廃止となります。

この駅表示板には、かつての「丹那駅舎」の写真が付けられています。

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「丹那駅」のモニュメントと次の「下丹那駅」のモニュメントの間の宇品線の跡には、「ポッポ宇品線花と農の会」が管理する花壇が並んでします。かつては、このあたりの線路跡にはタチアオイが植えら、季節には見事の花を咲かせていました。しかし、その後だんだんと雑草が生い茂るようになり、地元からの整備を望む声が上がるようになったそうです。この声を受け広島市は、この土地を所有している国に要望し、広島市が委託管理することになり、10年前(平成22年)公園整備が進められました。もともと宇品線は開通時、干拓堤防(現在は海岸通り道路)の内側(西側)に、堤防土手よりも低く線路敷きが作られていました。しかし、この公園整備では、線路跡に嵩上げの盛り土が入れられましたので、当時の線路跡の面影を見ることはできません。整備された公園の花壇は、線路をデザインして作られています。以上は、南区役所地域おこし推進課に電話をかけて聞いた話です。

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それでも、かつての線路跡をうかがわせることはないかと、西側にある道路に降りてみました。ここから見ると、一番下に当時の土台石、そして嵩上げされなかった部分の線路跡、その上段に花壇部分があります。少しわかり難いのですが、下の写真です。

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さらに痕跡をさがしていますと、こんなブロックを見つけました。

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たまたま見たテレビで知ったのですが、このマークのブロックは、線路と道路などの境界を示すために建っていたものです。

次のモニュメント「下丹那駅」をめざして南進すると、今度は芝生の植わった「パークゴルフ場」が目に入ります。ここも10年前に整備されたものです。花壇があった場所と比べると一段と低くなっています。南区区役所によれば「線路跡は凸凹があったので、少し土を入れて整備しました」とのことですので、線路跡そのものではありませんが、道路より低いところに線路があったことを偲ぶことはできます。

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私が訪れた時にも数人のグループでグランドゴルフを楽しんでおられました。私が訪れた5日後、11月22日(日曜日)に「パークゴルフ場10周年」と銘うった大会が開催されたそうですので、この人たちも参加されたと思います。成績は?

長く伸びるパークゴルフ場のちょうど中間あたりに「しもたんな」と書かれた駅表示板がありました。昭和2年(1927年)に走っていた電車の写真もあります。散歩で通りかかった人が、眺めていました。

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「下丹那」駅は、1934年に「人絹裏」駅として新設されましたが、1937年の国有化に伴い「下丹那」と改称されました。そして1943年10月に休止され、その後復活することはありませんでしたので、戦後には存在しなかった駅です。この駅から広島駅までの距離は、4.7キロです。

最初に付けられた駅名「人絹裏」に興味が湧きましたので、駅名の由来を調べてみました。現在、パークゴルフ場の西側は、マツダ宇品工場西地区の敷地が広がっています。この場所には、1934年(昭和9年)10月に「錦華人絹広島工場」が作られ操業を開始しました。この「錦華人絹広島工場」で働く人たちの通勤者用の駅として、工場の裏門入り口付近に新設されたのが「人絹裏」駅だったのです。その後、この工場は1941年に設立された大和紡績に吸収され、「大和紡績宇品人絹工場」と名称が変わります。そして駅が休止された年の1943年2月には、「陸軍船舶部」に接収されます。1945年8月6日の被爆では、建物の被害が軽微だったため、翌日には3000人から4000人の負傷者が避難し、8月9日には臨時陸軍野戦病院(第1陸軍病院宇品分院)を設置され、約6000人以上が収容されたという記録が残っています。1945年10月に陸軍から返還され再び大和紡績の工場となるのですが、1961年(昭和36年)1月に敷地、建物の大半が松田工業(現マツダ)に売却され、現在(マツダ宇品工場)に至っています。このマツダ宇品工場西地区にあった被爆建物は多くが解体され新しい建物となっていますが、その敷地の真ん中ほどにあった陸軍船舶部の「講堂」だけが今も「被爆建物」として現存しています。後日、工場の西門付近から、少し遠めでしたが写真を撮りました。

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今度の散策では、もう一つの被爆建物を知ることになりました。グランドゴルフをしていた一人からいろいろとお話を聞いたのですが、その中で被爆建物の話が出てきました。その建物は、マツダ宇品工場西地区の敷地(旧宇品線の西側)の東北角(ここだけ塀に囲まれていない)に、並んでいる5棟の平屋住宅です。1棟に5戸の住宅があります。かつてはもっと多くの住宅が建っていたそうです。

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話していただいた方は地元の町内会長でした。「私は戦後ここに住むことになったのですが、この建物は、錦華人絹広島工場の社宅として建てられたものなので、間違いなく被爆しています。」とのことです。現在は、マツダの所有となっていますが、今も三分の一ぐらいが使用されています。

今回も長くなりましたので、今日はここで終わりにし、あと一つ残った終着駅の宇品駅モニュメントは、次回紹介することにします。

いのちとうとし

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2020年12月 2日 (水)

戦争をさせない三原市民集会

戦争をさせない三原市民行動が主催する「戦争をさせない三原市民集会」が、11月29日の午後2時から三原市中央公民会で開催されました。

毎月19日行動を続ける「戦争をさせない三原市民行動」は、毎年1回、情勢を学ぶ場として「学習交流会」を開催していますが、コロナ禍の今年も開催することになりました。事務局を担う藤本講治さんからの誘いを受け、私も参加してきました。参加者は、目標とした人数を少し下回ったようですが、地区労センター、部落解放同盟、9条の会などから52名が参加しました。

今年の講演テーマは、「日本国憲法公布から74年、改めて、今、平和を考えるーSTOP!改憲発議 戦争法廃止反対闘争から―」です。講師は、「戦争させない・89条壊すな!総がかり行動実行委員会運営委員」で、戦争をさせない1000人委員会・平和フォーラム共同代表の勝島一博さん。

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勝島さんは、2012年の自民党憲法改正草案発表以来進んでいる憲法破壊と戦争できる国づくりの流れを詳しく時系列にまとめたレジュメを準備され、参加者に配布されましたので、聞く側にとって非常に理解しやすい講演となりました。ここでは、その大きなタイトルだけ紹介します。

1、第二次安倍政権のもとで進められた憲法破壊と戦争できる国づくりを継承する菅政権。

 特にここで強調されたのは、武器輸出問題と攻撃型の防衛装備、そして防衛費の増大です。

2、平和憲法を守る取り組み。

 この一年間、憲法審査会で実質的改憲論議を行われなかったこと。その中で続けた「19行動」をはじめとした総がかり行動実行委員会の取り組みの紹介。

3、陸上イージス計画の中止に伴う新たなミサイル防衛体制の構築と日米一体化を許さない取り組み。

 日本を守ると言いながら、その実質はアメリカ防衛を担う計画であることに注目を。

4、憲法違反の敵基地攻撃能力の保有を許さない取り組み。

 1956年の政府見解「急迫不正の侵害が行われ、ほかの手段がない場合に限り『法理的に自衛(専守防衛)の範囲』を紹介し、現状がいかに「専守防衛」の枠を大きく逸脱しているかを厳しく指摘。

5、日本学術会議の会員人事への菅政権の介入を許さない。

 その背景に「学術研究と軍事の一体化」を狙う政権に対し、日本学術会議が出した「軍事研究を拒否」する声明があることを解説。

そして最後に「安倍・菅政権に終止符を!衆議院選挙で与野党逆転を!」と訴えて、勝島さんの講演は終わりました。

レジュメの最後には、2015年4月28日京都新聞夕刊「現代の言葉」に掲載された京都大学山室真一教授の「いずれにしても戦後70年を経て日本人が戦場で命を奪い合う日が近づいている。粛々と。」が紹介してありました。

その日を迎えないために、私たちが今何をすべきか一人ひとりの決意が問われた講演でした。

集会の最後に、藤本講治さんから「戦争をさせない三原市民行動」のこの一年間の取り組みの報告と今後の行動提起がありました。取り組みの報告では、「19日行動」街頭宣伝活動が、三原駅前で毎月きちんと5年間取り組まれてきたことやその行動をつなぐための「三原市民行動通信」が毎月発行されていることが印象に残りました。今月も19日(土)午後1時半から実施される街頭宣伝活動に「一人でも二人でも参加しよう」との呼びかけがありました。

元気をもらうことのできた「戦争をさせない三原市民集会」でした。

いのちとうとし

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2020年12月 1日 (火)

民意を反映しない日本の選挙制度・その2 ――比例代表制を基本にしたドイツ式に変えましょう――

民意を反映しない日本の選挙制度・その2

――比例代表制を基本にしたドイツ式に変えましょう――

 

早いものでもう師走です。一年の総括をきちんとした上で、希望に満ちた新年を迎えるための準備をしたいのですが、大きな問題ばかり目に付いて、ややもすると悲観的な気分になりかねません。でもそんな時こそ外に目を向けて、現実に機能している「成功例」から教訓を得てみたらどうでしょうか。

「大きな問題」の一つが選挙制度であることは、前回も確認しました。民意の反映という点では全く機能していない制度です。その「小選挙区比例代表並立制」については、8月に何回か問題点を指摘しましたが、重要な点ですので、再度、取り上げておきます。

 

この選挙制度の致命的欠陥が、得票率と占有議席率の乖離であることは、良く知られているのですが、何度も選挙を重ねるうちに、このことについての怒りが小さくなり、何となく「諦め」ムードに流されているような気がします。再度グラフを掲げますので、この点について、改めて考えて頂ければ幸いです。

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[クリックすると画像が大きくなります

]

《ドイツ式の比例代表制度》

それでは、民意を反映させるためにはどのような選挙制度が良いのでしょうか。答は勿論、比例代表制度です。政党の得票率に従って、議席を配分するのです。ただし、これを全国一律に行うのはかなり難しいので、地域・地域の特色を生かす工夫が加えられているのが、ドイツ式です。「小選挙区比例代表併用制」とも呼ばれています。

選挙の際、有権者は2票投じることができます。一票は政党の選択です。この票の割合に従って、全国会議員の配分が行われます。仮に、国会議員数が100人だったとしましょう。その中で、第一党の得票率が40%だとすると、その党が40議席を獲得します。二票目は、その議席に誰が座るのかを決めるためのものです。これは全国を、一票の格差ができるだけ少なくなるように設定された「小選挙区」の中で、自分の住む選挙区の個人候補者に入れます。

具体的な数としては、小選挙区数は、国会議員の数の半分と決められています。つまり、50選挙区です。そして、その50の選挙区の当選者は自動的に国会議員になります。これで50議席に座る人が決りました。

ここで「超過議席」という制度も使われます。たとえば、比例代表の選挙では議席が獲得できなかった党の候補者がどこかの選挙区で当選したとすると、その候補者は自動的に国会議員になり、国会の議席はその分増やされるのです。同様に、党の獲得議席より小選挙区の当選者の方が多い政党は、小選挙区の当選者全てが自党の国会議員になるのです。そして、国会議員の数は超過した分だけ増えることになります。

残りの議席は、各党が準備した選挙人名簿の順位に従って、党ごとに分けられます。「誰が」という部分が少し複雑ですが、基本的には、各党の議席数が、全国の得票率に従って決められるという制度ですので、日本の制度よりははるかに民意を反映します。

そのことを分って頂くために、格好のサイトがあります。「中高生のための公民教室」というタイトルで、分り易く政治や社会の解説をしているサイトですが、その中の「ドイツの「比例代表併用制とは?」という回です。

2014年の日本の選挙で投じられた票数を元に、もしドイツ式の「比例代表併用制」だったら各党がどれくらいの議席を獲得できたのかを計算しています。そこに現れている結果が、本来の民意をほぼ正確に反映しているのです。計算を簡単にするために、東京都の結果だけ示されていますが、我が国現行の並立制では67%の議席を奪ってしまった自民党は、ドイツ式の場合は44パーセントにしかなりません。

このように具体的な数字を見ることで、選挙制度を変えなくてはならない、いや変えて行こう、と感じて下さる方が増えることを期待しています。

[2020/12/1 イライザ]

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