宇品線のモニュメントを訪ねてーその3
寄り道の「広島大学医学部・医学資料館」見学を終え、「モニュメントMAP」を頼りに、「ポッポ広場」をめざし医学資料館西側の真っすぐ南進する道路と進みました。ところが、「モニュメントMAP」をよく見ると、この間に3つの駅名(赤い○囲み)が書かれています。今度は途中下車して、この3つの駅名について考察したいと思います。
一番北側の駅が、「上大河駅」です。この駅は、「広大医学部」の正門付近にありました。広島駅からは、2.4キロの距離です。この駅が最初に設置されたのは、1932年(昭和7年)9月25日です。当時の駅名は「兵器支廠前停留場」。1937年に芸備鉄道から国有化され、駅名が「兵器支廠前」ではまずいと考えたのでしょうか、「比治山駅」に改称されました。燃料問題などあり、戦時中の1943年から一時休業状態になったようです。そして戦後、1947年に宇品線が旅客線として復活した際、「上大河駅」と改称し、開業したようです。戦後は、兵器支廠の跡に移転してきた県庁などの官庁、その後の広島大学医学部・病院や近隣の学校への通勤・通学のため多くの人たちが利用しました。1972年に宇品線の旅客業務が全面廃止に伴いこの駅も廃止されました。
3つの駅名と書きましたが、調べていくと別々に3つの駅があったようではないのです。駅の位置を変えながら、駅名も変遷していったことがわかります。1930年に最初の駅ができたのは、「広大医学部正門付近」ではなく、300mほど南(現在の2号線のすぐ南辺り)に「被服支廠前停留場場所」の駅名で新設されています。と書くと「兵器支廠前停留場」名は?という疑問が湧きます。わずか300mの距離の間に二つの駅が存在したとはちょっと考えにくいのですが、それぞれの支廠の荷物を積みだすために、別々の駅があったのでしょうか。この問題は解明できていません。戦前の古い地図(昭和14年作成:陸軍運輸部検閲済の印あり)を見ると、「兵器支廠」の南西部が、長く伸びその先端は、「被服支廠」の敷地に隣接していることがわかります。
この地図の真ん中ほどに宇品線を挟んで、右と左に上下しますが、大きな空白があります。右側が「兵器支廠」、左側が「被服支廠」の敷地です。ちょっと小さくて見えにくいかもしれませんが、その二つの敷地が接するところの宇品線に○印があるのがわかると思います。これが、駅です。ここから宇品線を上にたどると、地図が終わるあたりの宇品線上に○印があり、そこには小さく「女子商」と駅名が書かれています。ところが、先に紹介した○印には、駅名が書かれていません。宇品線を下にたどると次の○印にはきちんと「大河」と駅名が書かれています。1939年(昭和14年)当時の駅名の記載がないのは、やはり軍関係の施設があったからだと思えます。兵器支廠、被服支廠の両軍事工場からの物資の積み出し駅として使われていたはずです。
ところが、昭和15年(1940年)作成(これも、陸軍運輸部の検閲済の印あり)では、当該駅に「被服廠」の駅名が印刷されています。
ところで、先に1937年に「兵器支廠前」から「比治山駅」に改称されたと書きましたが、復刻された戦前の地図を見ても「比治山駅」と記された地図を見つけることはできず、「比治山駅」がどの位置にあったのか今のところで確認できていません。
こう書きながら、自分でも理解できなくなってしましました。いずれにしても、この「大河駅」に関わっては、戦前は駅名も駅の位置も複雑に変遷したのではないかと思うしかありません。今回のブログは、駅の変遷が主題ではありませんので、後できちんと調べて、整理してみたいと思います。
ここで主題である「宇品線のモニュメントを訪ねる」に戻ります。
次に訪ねたモニュメントは、「下大河駅」の後に作られた「ポッポ広場」です。ちょっと見つけるのに苦労しましたが、何人かに訊ねて無事に到着しました。
隣接する西旭町集会所の壁に取り付けられたる掲示板には「名前の由来」としてこう書かれています。「下大河駅は、昭和6年(1931年)11月から昭和41年(1966年)12月までの35年間にわたり、通勤・通学などの多くの人たちに利用され、地域の中心としてにぎわいました。平成13年(2001年)12月、この地域の人たちと南区役所が協働で広場をつくりました。地域の人たちは、この地が鉄道の駅だったことを記念し『ポッポ広場』と名付けました。 西旭町町内会・南区役所」
この広場の真ん中にレンガを埋め込み「蒸気機関車」が描かれていたようですが、今ではすっかり薄くなっており、残念ながら「蒸気機関車」を見分けることはできません。
駅名表示板のようなものはありませんでしたが、掲示板の最後に「お願い ここは、地域のみなさんが一緒につくった『わが町の広場』です。楽しい憩いの場として大切に使いましょう。」と書かれているように地域の人たちの大切な場所となっているようです。この下大河駅から広島駅までの距離は、3.3kmです。
次の訪れたのは、駅ではありませんが、旧宇品線道路と黄金山道路が交差する「広島南所前交差点」の左手前にある「線路モニュメント」です。
「線路モニュメント」は、宇品線から14.5m東側の広場に、当時の線路、踏切、遮断機、信号機、線路のポイントを手作業で切り替える分岐器、プラットホームなどが一カ所に集めて、作られています。屋外ですので少し傷んだ様子も見受けられますが、大切の保存されており、一見の価値がありです。
実際に自転車で散策した時には、わずかな時間で移動したのですが、ブログの中ではここにたどり着くまでに随分時間がかかってしまいました。次のモニュメントは、海岸通り沿いにある「丹那駅」ですが、ここから南方面は、次回以降にします。
いのちとうとし
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