被爆建物 宇品の千暁寺
広島市郷土資料館が、先週の土曜日(7日)開催したフィールドワーク「宇品・出島・新旧海岸散策」に応募したのですが、抽選に外れ参加できませんでしたので、当日の資料を手に入れるため同館を訪れました。フィールドワークのコースが書き込まれた資料を見ると、出島を出発したコースの途中に「千暁寺」の名前を見つけました。
懐かしい名前です。かつて社会党の衆議院議員だった大原亨さんの選挙では、必ず最終日に実施されたこのお寺での個人演説会の準備をしたことや大原亨さんの葬儀(199年4月)に参列したことを思い出したからです。千暁寺は、広島市郷土資料館から1.2Kmほど海岸方向に進んだ場所にあります。久しぶりというより20数年ぶりの訪問です。
2階に釣り鐘がぶら下がる大きな山門が目に入ります。釣り鐘は、戦時中に金属拠出され、戦後長く失われていましたが、親鸞聖人生誕800年の1974年(昭和49年)3月に鐘楼門とともに新鋳されています。
山門の右側に、千暁寺が被爆建物として登録されていることを示すプレートが貼り付けられています。
このプレートには、「本堂と納骨堂」が被爆したことが記されています。しかし、今は被爆建物として残っているのは、本堂だけです。
本堂の被爆状況について、広島市原爆戦災誌には、次のように書かれています。
「爆心地から4.3キロメートル。被爆時、住職は檀家の法事に行っていて無事であり、坊守は裏の空き地にて負傷した。原子爆弾の炸裂による爆風で、本堂の屋根が浮き上がり、周囲の壁・建具が落ちたり飛散したりした。庫裡も同じような状況で天井が落下した。被害は全体として半壊程度で、すぐにバラック式の修理をして、被爆死亡者の葬儀その他寺の活動を行った。7日、他の寺で修行していた長男が帰宅し、寺内に殺到した避難者の救護や、死亡者の供養を行った。」
ここには納骨堂については、触れられていませんが、山門を入ってすぐ右側に被爆建物として残りました。1990年4月の大原亨さんの葬儀の時には、確かにこの建物があったことを記憶していますが、今はその建物はなくなり、その位置には石碑が建っています。
見にくいのですが、石碑の右奥に二つの墓があります。右側が大原亨さん夫妻のお墓です。千暁寺の墓地は、元宇品にあるそうですので、境内にあるお墓は、お寺と深い縁この二基だけのようです。被爆建物の納骨堂は、老朽化が進み雨漏りがするようになり、床や棚の底が抜けるようになったため、2011年3月に安全性確保のため、やむなく取り壊されました。納骨堂に納められていた遺骨の中には、身元不明の遺骨も多かったようで、その遺骨は、西本願寺に移されて供養されているそうです。現在の千暁寺の納骨堂は、本堂の裏手に造られていました。
私には、千暁寺についてもう一つ知りたかったことがありました。それは、何時の頃のことか、誰から聞いた話か覚えていませんが、「戦時中、外地の戦場から宇品港に帰還した遺骨は、一度この千暁寺に納め供養の法要が営まれ、その後遺族による引き取りを待っていた」という話です。そのことを知りたくて、ちょうど境内の掃除を終え、帰宅されようとした中年の女性の姿を見つけましたので、問いかけてみました。「私はよく知らないのです。ご住職は不在ですが、坊守さんがおられますので、訊ねてみてください」と言いながら、わたしを庫裡に案内し、坊守さんを呼んでいただきました。初めて知ったのですが、「坊守」とは、ご住職の奥さんのことでした。坊守さんから聞いた話です。「詳しいことは、住職に聞いていただきたいのですが、おっしゃる通りです。戦地から帰還した遺骨は、ここで引き取りを持っていました。中には、石や紙切れ一枚の骨箱も多かったと聞いています。このお骨は、納骨堂ではなく、本堂の下に納められていたと聞いています。毎年ていねいに供養していました。はっきりと何時だったかは定かでないのですが、40年ぐらい前だったように聞いていますが、その遺骨は、東京の千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に納められたと聞いています。西本願寺では、8月15日とは別に追悼供養を毎年行っています」。帰宅して、千暁寺のホームページを検索すると、1986年(昭和61年)に本堂の修復をしたことが記載されていますので、この時に千鳥ヶ淵に移されたのではないかと推測されます。
しばらく境内を散策した後、千暁寺を後にしました。うかつなことですが、「千暁寺」の名前が、宇品港をひらいた「千田貞暁」に由来することを今回初めて知りました。
千田貞暁は、現在の千暁寺の地に、築港に先立ちその工事に携わる人々の宇品説教場を建設しました。その後1930年(昭和5年)に寺号が公認され「千暁寺」と命名されました。現在の本堂は、1935年(手話10年)に完成しています。千暁寺の前の道路・御幸通りも、宇品港築港工事の時、埋め立て工事の土砂や物資を運ぶ道として工事に先立って作られた新道です。ですから、今も左右の周辺の土地より高くなっています。
帰り道、少し回り道をして千田廟公園を訪れ、「千田貞暁像」を写してきました。
宇品にはまだまだ訪ねてみたいところが沢山あります。そして御幸通りの名前の由来や、宇品港築港の様子などなど、また機会があれば改めて報告したいと思います。
いのちとうとし
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