憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか・その2 ――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――
憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか・その2
――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――
このブログで10月1日に問題提起したのは、日本の子どもたちの多くが、「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっているのではないかということでした。9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんによる問題提起に、私なりの視点で答えてみたかったからです。
それは、『法学セミナー』9月号に「論説」として掲載して貰った拙稿の一部を引用したものでしたが、是非その全体をお読み頂きたく、前回は、論説の最初の約3分の1だけ引用しました。憲法を「数学書として読む」とはどのような読み方なのかの解説と、裁判所の判例や通説・定説では、99条の憲法遵守義務が、「法的義務」ではなく「道徳的要請」だと解釈されているという問題点についても言及しました。
今回は、その続きですが、論説の中心部分でもあります。
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『法学セミナー』2020年9月号62ページから69ページまでの内、64ページから69ページまで。
- 憲法の否定は許されない
99条の解釈については、「置換禁止律」違反だけでなく、憲法全体で「義務」という概念がどのような位置を占めているのか、そしてそれが誰に課されているのかという点からも、二つの重要な問題が生じている。
一つは、校則であっても、数学の公理系であっても、ある一定のルールを定めた「体系」がある場合、その存在意義を損なわないために最低限必要なことは、その体系中のルールを「守る」というメタ・ルールが存在することである。「義務」を「道徳的要請」に薄めてしまっては、例えば、校則の最後に、「これを守るかどうかは道徳的要請なので、拘束力はありません」と付け加えるのと同等の意味になってしまう。つまり、論理的には、その体系の存在そのものを否定することになる。裁判所の判決が憲法を否定してしまうことは、当然、許されない。
次に、義務が課せられている対象に注目しよう。対象は、二つある。一つは「天皇」、もう一つは「公務員」である。最初に「公務員」を取り上げよう。99条によって義務を負わされている公務員が、自らの義務について、「それは義務ではなく道徳的要請だ」と言って責任を回避することは許されないはずだ。
「法の支配」とは、言葉の意味を尊重し論理的な推論によって得た結論によって合意を形成し、また権力の行使を許された公務員は、それを濫用しないためのルールに縛られて仕事をするという枠組に依存する。その枠組が機能するためには、公務員に負わされた「義務」が義務として機能しなくてはならない。その「義務」の意味を希釈することは、「法の支配」という枠組の中に「力の支配」を持ち込むことになるからだ。これも論理的には、憲法の否定だと考えられる。
安倍政権の言動はじめ、現実の政治の世界には、その結果としか考えられない多くの事例がある。これらについては『数学書』の「付論2」を参照されたい。
次に、「義務」を課されているもう一つの対象、天皇について考えよう。『数学書』でも論じたように、この中で、天皇に課されている「義務」を判決も通定説も無視してしまっているのは、理解に苦しむだけでなく、憲法における天皇の位置付けという視点からも問題である。それも一因となって、天皇に関するいわゆる憲法論は、実は憲法とは関係のない歴史や伝統、政治的イデオロギーについての議論として行われる傾向があって、空回りしているきらいがある。この点については、稿を改めて論じたいが、「天皇に課された義務」をその通り読むことで次のような結論に至ることだけは指摘しておきたい。
何より、憲法上の天皇の位置付けが明確になる。それは、99条からの論理的帰結として、天皇には「憲法の守護者」としての役割が与えられているということである。以下その結論の要点である。(拙著のIV部に相当する)
- 「憲法遵守義務」は国事行為ではなく、「義務」である。天皇に関するすべての行為を「国事行為」だと決め付けるのではなく、天皇についての規定を天皇の権利と義務という形に論理的に整理し直すべきである。
- 仮に、天皇が99条違反をして、憲法に従わなかった場合には、天皇はその地位を剥奪される。
- 公務員、特に内閣が憲法違反を犯した場合にも、内閣が憲法を遵守している場合にも、天皇には、それとは独立した形で憲法を守る義務があり、またその義務を果す上では内閣の助言や承認は必要ではない。
- つまり、天皇の存在そのものが、内閣と公務員が憲法を遵守しなくてはならないというメッセージの発信をしており、また憲法そのものの人間的具現化になっている。
憲法では、天皇について、このように明確な姿を描いている。それを全く無視してしまっているこれまでの憲法論は、憲法の持つ素晴らしさの大きな側面を生かしていないと言って良いだろう。
- 憲法は死刑を禁止している
憲法を「論理的に読む」ことから、比較的簡単に得られる結論の一つを、『数学書』では「定理A」と呼んだ。それは、「憲法は死刑を禁止している」という命題である。憲法12条、13条、25条のそれぞれが、独立した形で死刑を禁止している。しかし、昭和23年の最高裁判所の判決 ( 「判決」と略す) は、死刑が合憲だと述べている。(最大判昭和23年3月12日 刑集2巻3号191頁)。これも明確に「憲法マジック」である。以下、憲法12条、13条、そして25条に続いて、 [定理A]を証明する。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(以下略)
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(以下略)
- [定理A]の証明
これら三つの条文から、独立に[定理A]が導かれるので、そのうちの一つ、25条を取り上げて証明する。他の二条についても同様の議論が成り立つ。
25条では、「生活を営む権利」が保障されている。「生活」とは、生きている人間が日常的な活動をすることを意味する。その際に、「生きている」という前提がないと、条文の意味がなくなってしまう。さらに、25条は 「公共の福祉に反しない限り」という例外規定にも縛られていない。
25条の (そして12条、13条も)、主体は「国民」である。その中には犯罪を犯した人も含まれている。その人に死刑が科されるかどうかの判断にもこれら三つの条文が関わってくる。さて、仮に国家が、犯罪者に対して死刑を執行したとしよう。その行為は許されるのだろうか。
第25条については、「最低限度の」という限定的な条件が付けられてはいるものの、「生活」は「生活」である。生きていなくては生活できないことは自明であり、その「生」を奪うことは「生活を営む権利」の侵害であり、25条違反だ。
その他の条文からも同様な結論が得られ(*)、憲法は少なくとも3か条においてそれぞれ別の立場から明確に死刑を禁止していることになる。Q.E.D (**)
(*)13条の例外規定については、『数学書』の第四章を参照のこと。
(**)Q.E.D. とは、ラテン語のQuod Erat Demonstrandum(かく示された)の略で、多くの数学書では、証明が終ったことを示す記号として使われている。
かくして、死刑については、素直に字義通りかつ論理的に憲法を読む立場と、最高裁判所による確定判決という立場から、それぞれ正反対の結論が出てきた。では、どちらを採用すべきなのだろうか。
通常の法的枠組を尊重すれば、当然「判決」が最終的判断になる。となると、死刑が合憲であることに疑いの余地はなくなる。同時に、憲法を字義通りに、そして「論理的に」読むこともゆるがせにできない。
その視点から、[定理A]の証明と「判決」とを比較しておこう。 [定理A]の証明は今お読み頂いた通りで、簡単明瞭である。そして、死刑が違憲であるという「証明」は、誰が証明しても、誰がその趣旨を説明してもその結果や論理的筋道には全く影響がない。小学生がこの証明を掲げて、その正当性を訴えられることにこそこの立場の強さがあると言って良いだろう。それは、この「証明」が純粋に客観的存在だからである。
このように、誰にでも分る形で死刑が禁止されていることを憲法は示しているのだから、それとは正反対の結論を主張する側からは、最低限、何故、[定理A]の証明をそのまま認めることができないのかを、論理的に説明する義務があるのではないだろうか。これは今からでも遅くはない。
- 最高裁判決の問題点
最高裁による昭和23年の死刑についての判決の、要の部分を引用しておこう。
もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに,憲法第31条によれば,国民個人の生命の尊貴といえども,法律の定める適理の手続によつて,これを奪う刑罰を科せられることが,明かに定められている。すなわち憲法は,現代多数の文化国家におけると同様に,刑罰として死刑の存置を想定し,これを是認したものと解すべきである。
詳細は『数学書』の第5章をお読み頂きたいのだが、この「判決」の推論には、論理的には穴がある。一つには、13条で使われている「公共の福祉に反しない限り」を必要条件ではなく十分条件として扱っている点である。そして、この字句を、論理通りに必要条件と読んだ場合には、それに続いて吟味されるべき可能性の全てについての場合を尽さずに、死刑を「当然予想している」という結論になってしまっているからだ。31条における「適法の手続き」も、必要条件を十分条件と読み換えている点で、同様の非論理性が問題だ。
となると、「判決」の持つ力は、論理とか説得力によるものではなく、最高裁という「権威」に依存していると考えざるを得ない。これを、確定していない地方裁判所の判決である場合や裁判所以外の場、たとえば国会における議員の発言や、閣議決定、または学界における専門家の発言等と比較しても、最高裁の判決であるという事実は決定的な意味を持つ。
我が国の法的枠組が、憲法を出発点として、三権分立の原則に従って、また法的な整備を重ねた結果として機能してきたことを蔑ろにするつもりはないが、こうした積み重ねも、より広い立場で俯瞰すると人間による知的営為の一部だ。知的営為の一部としての正当性から考えると、ある命題を主張する主体によってその説得力が変るものと、つまり「権威」があるかどうかが判断基準の一部になるものと、どのような主体が主張してもその説得力には変わりのないものとの間で、どちらを採用すべきかと問われれば、それは客観性において優れている方だという答になるのではないだろうか。
- 自衛隊は違憲である
次に、多くの子どもたちが憲法を学ぶ際に遭遇する「憲法マジック」とその結果、生じるジレンマとフラストレーションから見て行こう。私たちの世代がそうだったのだが、子どもたちが小学生として初めて憲法を読むとき、関心を持つ条文の一つが9条であることは言うまでもない。そして、改めて条文を読むと、自衛隊が憲法違反であることは明白である。また、現実に存在する自衛隊が、「陸海空軍その他の戦力」であることは誰でも知っている。しかし、憲法では持ってはいけないことになっているのだから、立派な「憲法マジック」だ。念のために条文を掲げておこう。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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以下、10月1日の引用につながるのですが、出来ればその部分を再度お読み下さい。下線をクリックするとそのページに飛びますので。
[2020/11/11 イライザ]
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