国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文―その3
追悼祈念館の地下1階から地下2階につながる「追悼空間スロープ」には、すでに紹介したように6枚に分割して銘文(以下「説明文」という)が掲げられています。ここでちょっと説明が必要です。なぜ、銘文と説明文とを混在して使っているのかです。これから紹介する最終案が印刷された資料の冒頭には、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文」とはっきり「銘文」と書かれていますので、私はずっとこれが「銘文」だと思っています。しかし、手元にある途中経過が書かれた資料には、「説明文」という言葉が度々登場しますので、これからは他の銘文と区別するため、「説明文」を使うことにします。
これからが本論です。
説明文は、被爆者団体との協議を経て最終案がまとまったのですが、当初案(2001年6月28日)からは、6枚のうち4枚が修正されています。大きく修正されたのは、その中の3枚です。ここでは、その中でも大きく修正された3枚について紹介します。最終案(現在掲示されているもの)と当初案の全文を記載し、広島の被爆者が何にこだわったのか、何を大切にしたのかを考えてみたいと思います。
1枚目は、スロープに入ると最初に目にする説明文です。まず最終案です。
日本は、20世紀の一時期、戦争への道を歩み、そしてついに昭和16年(1941年)12月8日、アメリカやイギリスとの間に戦端を開き、太平洋戦争に突入しました。戦争は、アジア太平洋地域を主な戦場として戦われましたが、やがて日本の敗色が濃くなり、アメリカ軍機による日本各地に対する爆撃が始まり、沖縄も戦場となりました。このような戦況の下、昭和20年(1945年)8月6日、人類史上最初の原子爆弾という、かつて比類のない強力な破壊兵器が、広島の街に投下されました。 |
当初案は、こうです。
昭和16年(1941年)12月8日、日本は、アメリカ合衆国などとの間に戦争を開始し、太平洋戦争に突入しました。戦争は、太平洋諸島及びアジア諸国を戦場としていましたが、やがて日本は敗色が濃くなり、アメリカ軍機による日本各地への爆撃が始まりました。そして、昭和20年(1945年)8月6日、人類史上最初の原子爆弾が、広島の街に投下されました。 |
この説明文の大きな修正は、3つです。一つは、冒頭の「日本は、20世紀の一時期、戦争への道を歩み」です。当初案に対し「突然に原爆が落ちたという印象をぬぐえない」という指摘があり、それを受け修正されました。二つ目は「沖縄戦」が加わったことです。それは「広島、長崎、沖縄」の連帯を強く意識したいたからです。そして三つめは、原子爆弾が「比類のない強力な破壊兵器」だということを明記したことです。はっきりと「人道に反する」とは入れることはできていませんが、「許しがたいもの」だということは表現されました。
次の大きな修正は、3枚目の「どんな人たちが被害者になったか」の記述です。まず最終案です。
原子爆弾が投下されたとき、広島には35万人前後の人々がいたと推定されます。これらの人々には、当時日本の植民地であった朝鮮半島の出身者が多数あり、また、中国出身者も含まれており、その中には半強制的に徴用された人々もいました。中国や東南アジア出身などの留学生、アメリカ軍捕虜なども含まれていました。 |
当初案です。
原子爆弾が投下されたとき、広島には35万人前後の人々がいたと推定されます。これらの人々には、多数の朝鮮半島などの出身者も含まれ、その中には徴用された方々もいました。また、中国や東南アジア出身の留学生、アメリカ軍捕虜などの外国人も含まれていました。 |
ここでも大事な修正がされています。まず「朝鮮半島が植民地であった」ことを明記しました。この修正は、朝鮮人被爆者協議会李実根会長の発言が大きかったようです。さらに「強制連行」という言葉使われていませんが、当時「半強制的に徴用された」中国人がいたこと、そしてその人たちが原爆の犠牲になったことにきちんと触れています。この言葉を入れたのは、当時広島で中国人の強制連行、強制労働の問題が熱心に取り組まれていたからだと思います。最終案では、原爆の犠牲者は、日本人だけではなかったことをきちんと書いた説明文となりました。
今日のブログで大きく修正された3枚全てを紹介する予定でしたが、長くなりましたので、一番本質的で重要な修正が行われた最後の1枚については、明日紹介することにします。
いのちとうとし
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