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2020年11月

2020年11月30日 (月)

11月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

数年ぶりに農園で虹を見た。オスのキジを見ることもできた。どちらもサプライズで週末農業へのご褒美なんだと受け止めることにした。ブルーベリーの紅葉はまだ続いていて道端で農作業をしていると止めた車の中から女性が降りてきて「この木は何という名前ですか」と尋ねられたのでクイズ感覚で「果物です」と答えると「えっ」。「そして大豆くらいの大きさの実がなります」と説明して「ブルーベリー?」という答えが返ってきた。それなりに広いブルーベリーの紅葉は人目を惹くようだ。

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11月28日(土)。

①.小さい畑がある。そこに種をまいた。左がキヌサヤエンドウ、右がソラマメの芽。

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②.1時過ぎ虹が突然現れた。

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③.とても大きい。

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11月29日(日)。

①.きらきら光るブルーベリー畑の向こうの道で散歩。この少し前にオスのキジを見ることができた。

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②.そのまた向こうの山すその竹は若緑色に光る。

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③.ブルーベリー畑の水路の清掃。草にまみれた泥を上げる。

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④.水路の横のブルーベリー畑の晩生のブルーベリーの場所替えのため木を掘り上げる。

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⑤.移植して枝を多めに切って根の負担を軽くする。

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⑥.里山のブルーベリー園の早生のタイプは落葉したので剪定ができる状態になった。

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⑦.農園に行く前に安芸区船越の自宅玄関に咲いている寒蘭を撮影。2年ぶりに咲いたが花軸が3本で出たのは初めてで華やかでにぎやかで見ていて飽きない。

2020年11月30日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年11月29日 (日)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその3

寄り道の「広島大学医学部・医学資料館」見学を終え、「モニュメントMAP」を頼りに、「ポッポ広場」をめざし医学資料館西側の真っすぐ南進する道路と進みました。ところが、「モニュメントMAP」をよく見ると、この間に3つの駅名(赤い○囲み)が書かれています。今度は途中下車して、この3つの駅名について考察したいと思います。

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一番北側の駅が、「上大河駅」です。この駅は、「広大医学部」の正門付近にありました。広島駅からは、2.4キロの距離です。この駅が最初に設置されたのは、1932年(昭和7年)9月25日です。当時の駅名は「兵器支廠前停留場」。1937年に芸備鉄道から国有化され、駅名が「兵器支廠前」ではまずいと考えたのでしょうか、「比治山駅」に改称されました。燃料問題などあり、戦時中の1943年から一時休業状態になったようです。そして戦後、1947年に宇品線が旅客線として復活した際、「上大河駅」と改称し、開業したようです。戦後は、兵器支廠の跡に移転してきた県庁などの官庁、その後の広島大学医学部・病院や近隣の学校への通勤・通学のため多くの人たちが利用しました。1972年に宇品線の旅客業務が全面廃止に伴いこの駅も廃止されました。

3つの駅名と書きましたが、調べていくと別々に3つの駅があったようではないのです。駅の位置を変えながら、駅名も変遷していったことがわかります。1930年に最初の駅ができたのは、「広大医学部正門付近」ではなく、300mほど南(現在の2号線のすぐ南辺り)に「被服支廠前停留場場所」の駅名で新設されています。と書くと「兵器支廠前停留場」名は?という疑問が湧きます。わずか300mの距離の間に二つの駅が存在したとはちょっと考えにくいのですが、それぞれの支廠の荷物を積みだすために、別々の駅があったのでしょうか。この問題は解明できていません。戦前の古い地図(昭和14年作成:陸軍運輸部検閲済の印あり)を見ると、「兵器支廠」の南西部が、長く伸びその先端は、「被服支廠」の敷地に隣接していることがわかります。

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この地図の真ん中ほどに宇品線を挟んで、右と左に上下しますが、大きな空白があります。右側が「兵器支廠」、左側が「被服支廠」の敷地です。ちょっと小さくて見えにくいかもしれませんが、その二つの敷地が接するところの宇品線に○印があるのがわかると思います。これが、駅です。ここから宇品線を上にたどると、地図が終わるあたりの宇品線上に○印があり、そこには小さく「女子商」と駅名が書かれています。ところが、先に紹介した○印には、駅名が書かれていません。宇品線を下にたどると次の○印にはきちんと「大河」と駅名が書かれています。1939年(昭和14年)当時の駅名の記載がないのは、やはり軍関係の施設があったからだと思えます。兵器支廠、被服支廠の両軍事工場からの物資の積み出し駅として使われていたはずです。

ところが、昭和15年(1940年)作成(これも、陸軍運輸部の検閲済の印あり)では、当該駅に「被服廠」の駅名が印刷されています。

ところで、先に1937年に「兵器支廠前」から「比治山駅」に改称されたと書きましたが、復刻された戦前の地図を見ても「比治山駅」と記された地図を見つけることはできず、「比治山駅」がどの位置にあったのか今のところで確認できていません。

こう書きながら、自分でも理解できなくなってしましました。いずれにしても、この「大河駅」に関わっては、戦前は駅名も駅の位置も複雑に変遷したのではないかと思うしかありません。今回のブログは、駅の変遷が主題ではありませんので、後できちんと調べて、整理してみたいと思います。

ここで主題である「宇品線のモニュメントを訪ねる」に戻ります。

次に訪ねたモニュメントは、「下大河駅」の後に作られた「ポッポ広場」です。ちょっと見つけるのに苦労しましたが、何人かに訊ねて無事に到着しました。

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 隣接する西旭町集会所の壁に取り付けられたる掲示板には「名前の由来」としてこう書かれています。「下大河駅は、昭和6年(1931年)11月から昭和41年(1966年)12月までの35年間にわたり、通勤・通学などの多くの人たちに利用され、地域の中心としてにぎわいました。平成13年(2001年)12月、この地域の人たちと南区役所が協働で広場をつくりました。地域の人たちは、この地が鉄道の駅だったことを記念し『ポッポ広場』と名付けました。 西旭町町内会・南区役所」

この広場の真ん中にレンガを埋め込み「蒸気機関車」が描かれていたようですが、今ではすっかり薄くなっており、残念ながら「蒸気機関車」を見分けることはできません。

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駅名表示板のようなものはありませんでしたが、掲示板の最後に「お願い ここは、地域のみなさんが一緒につくった『わが町の広場』です。楽しい憩いの場として大切に使いましょう。」と書かれているように地域の人たちの大切な場所となっているようです。この下大河駅から広島駅までの距離は、3.3kmです。

次の訪れたのは、駅ではありませんが、旧宇品線道路と黄金山道路が交差する「広島南所前交差点」の左手前にある「線路モニュメント」です。

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「線路モニュメント」は、宇品線から14.5m東側の広場に、当時の線路、踏切、遮断機、信号機、線路のポイントを手作業で切り替える分岐器、プラットホームなどが一カ所に集めて、作られています。屋外ですので少し傷んだ様子も見受けられますが、大切の保存されており、一見の価値がありです。

実際に自転車で散策した時には、わずかな時間で移動したのですが、ブログの中ではここにたどり着くまでに随分時間がかかってしまいました。次のモニュメントは、海岸通り沿いにある「丹那駅」ですが、ここから南方面は、次回以降にします。

いのちとうとし

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2020年11月28日 (土)

原爆資料館「海外で暮らす被爆者」展示文を交換

昨晩、閉館後の午後7時過ぎから、今月6日の「広島原爆資料館が『海外で暮らす被爆者』の展示文の修正を約束」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/11/post-9f3fd1.html)で紹介した「展示文」が新しいものに張り替える作業を行われました。

作業日程は事前連絡がありましたので、原爆資料館にお願いをし、この作業に立ち会わせていただきました。

入館者のいなくなった原爆資料館は、照明も少なくなっており、いつもと違う雰囲気を感じます。作業に入る前、古い展示文を写真に撮りました。。

いよいよ作業開始です。展示中のパネルが取り外されます。パネル枠ははめ込み式になっていますので、簡単に取り外されました。

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「展示文」は、パネルに紙で貼り付けられています。まずその紙をきれいにはがす作業です。両面テープで貼り付けられていますので、少し作業に時間がかかりました。台となるパネルの表面がきれいに拭われ、いよいよ新しい「展示文」の紙の貼り付けです。

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修正後の「展示文」が貼り付けられたパネルが元の位置にセットされました。

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これで作業が完了です。両面テープはがしに時間がかかったため、思ったより長くなり45分くらい作業時間がかかりました。新しくなったパネルを写真に撮ります。

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今日から新しい展示文を入館者のみなさんで読んでいただくことになります。「海外で暮らす被爆者」のパネルは、「被爆者援護施策の成立と拡充」のコーナーの左下隅にあります。一人でも多くの人に読んでほしいと思います。ただ「海外で暮らす被爆者」の展示文が大幅に修正されたことが、周知されていませんので、気づく人がどれだけいるかです。

昨日、知り合いの記者数人に「27日の夜に原爆資料館のパネルが交換されるよ」紹介したのですが、誰も知っていませんでした。

このブログに何回かにわたって紹介していますが、今回の「海外で暮らす被爆者」展示文の修正は、従来の内容を根本的に変更したものだと思っています。そうなるように要望し、変更することになったのですから。

私は、今回この問題では「文章がきちんと修正されれば、ことさら大きな問題にすることはない」との考えで、資料館や広島市と話し合ってきました。それは在外被爆者問題を語る時には、きちんとしておかなければならない重要なことだと思ったからです。だから1年半以上にわたって何度も問題提起しました。

ですから、原爆資料館は、今回のパネル交換に至った経緯やその内容について、自らがきちんと説明する責任があるはずです。その説明方法は、いろいろありますが、一般的な方法はマスコミへの情報提供によって、広く周知することだと思います。にもかかわらずマスコミへの情報提供は、行われていません。

もし、このブログで紹介していなければ、今回の修正を市民には知らせないままです。言い方は悪いかもしれませんが、都合の悪いことは、人知れず「こそっと」替えて、一件落着を図っているように思えて仕様がありません。それとも「こういう些細なことはいちいち説明しなくてもよい」と考えているのでしょうか。これでは、今回の修正の本質を理解していないことになってしまいます。

今からでも、きちんと市民に説明してほしいと強く思います。

いのちとうとし

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2020年11月27日 (金)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその2・ちょっと寄り道

前回、「次回は24日に掲載」と約束していましたが、うれしいことに原稿がたくさん届いたため、今日になりました。

「惜別宇品線記念碑」前で、緩やかに左にカーブした宇品線は、ここから真っすぐ南に延びています。次のモニュメント「ポッポ広場」を目指して進むことにしました。すぐに左手に広島大学病院の構内が広がります。門を入ってすぐ左手に、ちょっと気になるレンガ造りの建物がありますので、この建物を見学するため、途中下車ならぬ「寄り道」をすることにしました。

このレンガ造りの建物は、広島大学医学部・医学資料館です。

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1957年に広島大学医学部が呉からこの地に移転した時には、当時残っていた被爆建物である陸軍兵器補給廠の赤レンガ造り2階建ての建物が、校舎として使われてきました。近代的校舎や病院の建て替えのため次々と取り壊されたのですが、「懐かしい赤レンガの校舎を残したい」との声が上がり、1978年に11号館(大正4年(1915年)建造)を改装して、医学資料館として使用されることになりました。しかし1998年には、附属病院棟の建て替えのため、最後に残った被爆建物11号館も解体されることになりました。しかしこの建物は、被爆建物でもあり、被爆者の臨時救護所となった歴史的意義があるということで、新たに建設される「医学資料館」では、その外観を尊重し、被爆煉瓦や石材を再利用して建て替えられることになりました。そして1999年10月に、11号館を偲ばせるレンガ造りの建物が竣工しました。

ですから、この建物は、大きさこそずいぶんと小さくなっていますが、外観は、今保存をめぐって関心が高まっている陸軍被服支廠の建物と同じです。頂部には、ピクナル風装飾も付けられています。

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正面玄関左右の窓枠の下の煉瓦は、全体と比べると黒っぽい色をしています。ここに、白い石とともに被爆当時の煉瓦が使われています。

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医学資料館外の左側には、解体された11号館の一部を使いモニュメントが作られています。そこには、当時の写真がはめ込まれ、上記のような解説が付されています。

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モニュメントの裏側には、11号館で使われていた頂部のピクナル風装飾や玄関の上に取り付けられていた飾り、窓枠の周囲に使われていたと思われる長い石が、保管されています。

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このモニュメントと資料館の建物の間の芝生の空き地に、少し気になる石が積み上げられていました。モニュメントとは離れた位置にありますので、11号館のものではないようです。どこかの被爆石だと思われます。頭に浮かんだのは「ひょっとするとこの石は、たまたまその現場に居合わせることになった広大研究員の嘉陽礼文さんが、元安川から引き揚げた原爆ドームの被爆石ではないか」(後で調べると2015年11月のことでした)ということです。それを確かめるために、建物内の事務室の訪れました。資料館自体は現在コロナ対策ということで閉館になっていますので見学はできませんが、質問には答えていただけました。「元安川から引き揚げられたものは、あなたの左手後ろに展示しています。今は見学していただくことはできませんが。外の石も、嘉陽先生が、収集された被爆に関するもののようですが、わたしたちは詳しいことがよくわからないのです」

私が偶然にであった被爆石だということがわかりましたので、見学できませんので部屋の明かりはついていませんが、無理を言って展示コーナーの写真だけとらせていただきました。

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外に出て建物を一周すると、裏側には塀沿いや建物の軒下にびっしりと石とレンガが積まれていました。

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どこの被爆建物のものかはわかりませんが、解体されるという情報が入ると駆けつけて収集されたのだろうなと想像できます。気になったのは、この被爆したと思われる石やレンガがこれからどう活用されるのかということです。

この「寄り道」で改めて感じたのは、被爆建物「陸軍被服支廠」の4棟保存の重要性です。かつてこの「兵器廠」には12棟の煉瓦造りの建物があったようですが、全て解体された今では、その様子を知ることはできないからです。

ちょっと「寄り道」のつもりが長くなってしまいました。今日はここまでにします。次回は「ポッポ広場」をめざします。

いのちとうとし

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2020年11月26日 (木)

子どもたちにこそワークルールを学ぶ機会を!

11月23日、ワークピア広島で「ワークルール検定2020・秋(初級)」を受検しました。

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このワークルール検定とは、働くときに必要な法律や決まりを身につけられる検定制度で、一般社団法人 日本ワークルール検定協会が主催しています。

自分自身、これまで働くことに関するルールやそのルールを実現するためのさまざまな仕組みなどについて、十分学習しているとは言えない状況でした。ワークルール検定があることを知ったとき、これを機に学習してみようと思い受検することにしました。

まず、ワークルール検定のホームページを開いて、「初級検定の問題を解いてみよう」にある問題に挑戦しました。結果は半分しか正答することができず、検定の合格ライン70%には程遠い状況でした。

早速、通販サイトを利用して、日本ワークルール検定協会が編集している「初級テキスト」と「問題集」を購入し、学習を始めました。「初級テキスト」は、労働法総論、労働契約、賃金、労働時間・休憩・休日・休暇、雇用終了、労働組合法から構成されており、ポイントになりそうな箇所にマーカーを引くなどしながら繰り返し読んでいきました。

受検日が近づいてきたので、「問題集」に挑戦しました。全154問中108問正解、率にして70.1%。「このままでは合格はまずできない」という危機感をもって、ラストスパートをかけました。ただ、自分が苦手とするジャンルの問題には、再挑戦してもまちがえるということが何度もありました。

こうした不安を抱えながら、受検日を迎えました。さて、手ごたえは…。来月の発表をひそかに待ちたいと思います。

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現在、広島県の教育現場では、キャリア教育は推進されていますが、ワークルールについて学習する機会がほとんどないのではないでしょうか。

近年、「ブラックバイト」や「ブラック企業」が問題になっています。使用者がワークルールを遵守することは言うまでもありませんが、将来労働者として社会に出ていく子どもたちにこそ、小学校・中学校・高等学校と段階に応じたワークルールを学んでほしいということを、今回ワークルールを学習しながら強く感じました。

(まるちゃん)

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2020年11月25日 (水)

荻野晃也さんが残した『科学者の社会的責任を問う』

親しく付き合いをさせて頂いていた荻野晃也さん、今年6月29日、80歳で逝去されました。死期を予想しながらペンを走らせ、亡くなられた後、8月30日に遺稿として緑風出版から出された『科学者の社会的責任を問う』(定価2500円+税)という著書があります。

 頼まれた訳ではないのですが、この本の書評を書いていました。反原発新聞の11月号に掲載させていただきました。ぜひ皆さんにお勧めです。


 本の題名だけでは、見るからに難しいなあーという感じがしていた。しかし実生活や実践から書かれたものは違う。引き込まれるような読みやすさと、荻野さんの人物考察に興味を持った。

日本人のノーベル賞受賞者も多くなると、その名前を憶えていることは不可能だが、最初に物理学賞を受賞した湯川秀樹さんくらいは、なんとなく「すごい人」だと誇りに思っているだろう。

荻野さんも湯川秀樹博士に憧れて京大理学部に学んだ。しかし戦後、湯川博士は核兵器廃絶を訴えながらも、なぜ原発問題には「沈黙」していたのか。湯川博士の授業を受けながら、そのことに疑問を持ち「何故だろう」と自分自身にも問うてしまう。そこが何とも興味深かった。しかしそのことをズバーと言わないのが荻野さんの品性の良さか。

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そして四国電力伊方原発訴訟(1973年提訴、92年最高裁が住民側上告を棄却)の、特別補佐人として加わり、原発の危険性を50年間訴え続けた。この部分に登場されている人は、ほとんど私自身も知り合いだったから、とてもリアルであった。

広島との関わりの中では、1974年から放映されたNHK連続テレビ小説の「鳩子の海」、主人公の鳩子が、原爆に遭い記憶を失い孤児になり、成人して原研(日本原子力研究所)に勤める男と結婚しそして離婚するというストーリィである。この時代は、原子力発電の最盛期でもある。荻野さんの、この当たりのウラ話的な背景の話しはとても面白かった。「鳩子の海」といえば、上関原発建設計画のある山口県熊毛郡上関町の観光シンボルでもある。

この時代はなんといっても「平和利用」の最盛期時代。荻野さんは、そんな中でも反対を貫く「反骨精神」で、最後まで講師として定年退職された。定年後は「電磁波の危険性なら荻野」とまで形容されるほどの研究者として、電磁波の健康リスク問題では多くの本も書かれた。

今年6月に3年間のがんとの闘いの末、80歳で亡くなられた。地元の京都新聞は『末期がんの病床で原稿を校正した赤鉛筆。手の力が弱まり何度も落としたが、拾えるようにヒモを付けてある』と写真を入りの記事を載せた。

今年1月17日広島高等裁判所は、山口県民らが求めていた、伊方原発3号機の運転差し止め請求を認める仮処分決定をおこなった。この知らせを病床で受けた荻野さんは、とても喜んでおられたと思う。

「科学者の社会的責任」、荻野さんから私たちが引き継がなくてはならない。


木原省治

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2020年11月24日 (火)

民意を反映しない日本の選挙制度 ――アメリカの大統領選挙より酷いのでは?――

民意を反映しない日本の選挙制度

――アメリカの大統領選挙より酷いのでは?――

11月3日に投票されたアメリカの大統領選挙は未だに最終決着には至っていません。そして、「民主主義国家」であることを標榜する我が日本国でも、今月18日、つまり2020年11月18日、最高裁判所が昨年の参議院選挙は「合憲」であるとの判決を出しました。「一票の格差が3倍だった」にもかかわらず、です。

一見、この二つの現象は無関係のように見えます。特に、日本とアメリカという国の違いがあり、アメリカの場合は大統領選挙という特別の選挙ですので、その感が強いのですが、実は、これら二つの異常事態は、全く同じ構造をもち、同じ理由で混乱を来しているのです。しかも、その両者を簡単に解決できる素晴らしい薬さえあるのです。

《選挙人と大統領選挙》

今年の選挙が未だに揉めているのは、現大統領のドナルド・トランプ候補が負けを認めずに、あることないことを主張し、法廷での争いも数多く手がけ、トランプ支持の市民たちを挑発していることが大きな原因です。同時に、大統領選挙の制度そのものに不備のあることも、同時に見て行く必要があるのです。まず、制度としてどのようなものなのかその概略です。

アメリカの大統領は、アメリカの有権者全てが投票して (少なくとも建前では) 全国でただ一人だけ選ぶことになっています。事前の予測等でも、A候補支持が52%、B候補支持が45%というような形で報道されてきていますので、全米での投票結果が集計されて、その結果で勝者が決ると思い込んでしまっても、そちらの方が自然です。

しかしながら実際には、①投票の集計は州ごとに行われます。②また各州には、「選挙人」と呼ばれる人の人数が割り当てられています。そして③集計の結果、どの候補が、何人の選挙人を獲得するのかが決められます。原則として、最終段階では、これら選挙人は、この際に割り当てられた候補に投票することに決められています。④そして最終的には、その選挙人たちが、割り当てられた候補に投票をして、その結果、過半数を獲得した候補が当選する、ということになります。

日本の制度とはずいぶん違っているという印象をお持ちの方も多いのではないかと思います。しかし、選挙そのものの構造に注目すると、日本の場合と少なくとも「相似形」ではあるのです。私は「同型」だと考えています。「違う」ように見えるのは、選挙にまつわる「用語」あるいは「術語」の違いが大きいからなのではないでしょうか。その点を御理解頂くために、大統領選挙のポイントとして示した①から④までを、日本の制度に即して言い換えてみましょう。説明を簡単にするために、かつての中選挙区制の下の衆議院選挙との比較をしてみます。

《衆議院選挙と首班指名》

まず、①ですが、日本の場合は、選挙区ごとに選挙が行われ開票・集計もその単位で行われます。これは、アメリカにおける選挙区が一つの州だと考えることに他なりません。②の選挙人の数ですが、日本の場合は選挙人とは言わず、衆議院議員と言っています。単なる言葉の違いです。そして、③ですが、日本の場合には、どのような投票をするのかが決められているのではなく、所属政党によってその行動が大方決められています。特に総理大臣を選ぶときには、自分の党の捜査いなり党首なりを選ぶのですから、これもアメリカの選挙人が誰を選ぶのかを決められているのとほぼ同じことになります。そして④ですが、これは国会における首班指名と同じことです。

日本の総理大臣の選び方と、アメリカの大統領の選び方がほぼ同じであることは御理解頂けたと思います。この制度が、アメリカにおいて今回の混乱を招いた一因だとするのなら、日本の場合は、総理大臣の指名だけでなく、各種法律の制定も同じプロセスで行われるのですから、制度的な欠陥という構造的な問題が元になって、より広い範囲で影響を及ぼしていると考えても良さそうです。

《アメリカの制度の問題点》

今回のアメリカ大統領選挙でも問題になっているのは、アメリカ全土での得票数が多いにもかかわらず、その候補が自動的には当選しないという点です。総投票数ではバイデン候補が明らかに勝っているのに、選挙人制度があるために、それとは違う結論に至る可能性があるからです。

4年前の選挙でも、ヒラリー・クリントン候補は、全体の51%の票を得ています。クリントン大統領が誕生してもおかしくはなかったはずなのですが、いわゆる「ラスト・ベルト」での票を固めたトランプ候補が選挙人の数では上回って当選しました。しかし、アメリカの大統領選挙では、このような事例は一二に止まらないのです。ウイキペディアに掲載されている、一般投票の得票率と、誰が当選したのかの比較表を見て下さい。

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クリントン候補の他に、2000年の選挙で、得票率では勝ったゴア元副大統領ではなく、ジョージ・W・ブッシュ候補が当選したことが良く知られていますが、その年にも、最後には法廷で決着が付きました。

なぜこんなことが起るのかの説明も必要です。それは、選挙人を選ぶことで、有権者の意思が捩れて反映されることになるという点です。その結果、一般投票の得票数による勝敗ではなく、その逆の結論になるのです。より具体的な「思考実験」をウイキペディアの図で説明します。分り易いと思いますので、参考にして下さい。注意すべきなのは、選挙人の数は、連邦上下両院の合計議席と同数で、上院議席は各州に2人ずつ配当されているので、最小は3人ということになります。

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長くなりますし、英語の説明を翻訳している時間がありません。でも、グラフと数字だけで内容は分って頂けると思います。さらにもう一つの問題は、一票の格差です。その原因の一つは、アメリカの各州とも、人口に関わらず、上院議員数が2名だということにあります。それが大きな原因になって、選挙人が何人を代表するのか、という格差が生じています。日本では「一票の格差」としてしばしば問題にされています。この点もウイキペディアのグラフで御覧下さい。

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カリフォルニア州では、選挙人一人を選ぶのに、70万人という数が必要なのですが、ワイオミング州では20万人ちょっとで済みます。格差は3倍以上です。

日本の最高裁判所が、昨年の参議院選挙の一票の格差3倍を合憲だと判断したのは、「アメリカでも3倍くらいは問題視されていないのだから日本もそれに準じていれば良い」という基準でもあったからなのでしょうか。

さて日本の選挙制度の問題点ですが、これまで何度も繰り返して来ています。でも大切なことですので、再度、問題提起をしておきましょう。それは次回に。

[2020/11/24 イライザ]

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2020年11月23日 (月)

11月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

農園周囲の田んぼは稲刈りあとの土肌と刈った後の稲の株が点々と見える単調な風景だが、農園だけはブルーベリーの紅葉が始まり赤い色の葉が陽の光の経過の中でキラキラ光ったりぼんやりしたりかすんだりしてそのうえ風にゆられるとさらに複雑な景色を見せてくれる。妻の友人はこの風景を見ようと広島市内から車でわざわざ来られたそうだ。農作業は40本位ある枯れたブルーベリーの掘り返しを続けている。全部の掘り返しが終わったら新しい苗木を植えるのだが何の種類をどういう組み合わせにするのかは決まっていない。

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15日(日)

①、農園の周囲の落葉の片づけたり野焼をしたり、枯れたブルーベリーの掘り返しをしたり、

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②、親戚の援農で里山のブルーベリー園の下刈りをして頂いたり、ジャーマンアイリスの掘り返しをしたり、

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③、ブルーベリー園の巡回をしたりする。早生のブルーベリーは黄色の紅葉が多くみられる。

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11月21日(土)。里山のサンショウの紅葉。

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11月22日(日)。

①、ちょっと離れた場所から見る里山西側の斜面のブルーベリー園の紅葉。

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②、反対側に回ってブルーベリーの畑から里山のブルーベリー園を眺める。

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③、里山西側のブルーベリー園。すっかり早生のブルーベリーの葉が落ちた。

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④、葉の落ちたブルーベリーの枝に花芽が浮かぶ。

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⑤、その周囲にはエゴノキの紅葉も見える。

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⑥、3段ある転作の畑のブルーベリーは早生を植えたのだがほとんど枯れた場所。この夏の猛暑で昨年以上に成長が悪く枯れた木も多かったのでまだブルーベリーの木の掘り返しを続けている。本数が多いので11月末までかかりそう。

 

2020年11月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

<編集後記>延期になっていたイライザさんの原稿は、明日掲載します。お楽しみに。

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2020年11月22日 (日)

宇品線のモニュメントを訪ねて

11月14日に紹介した千暁寺からの帰り道、広島市南区役所を訪れました。目的は、南区を紹介するリーフレットなどをさがすためです。3階の地域おこし推進課まで上がると、「南区散策ガイドマップ」や「南区地域学の報告」など10種類を超える資料が、自由に入手できるよう配備されていました。

その中に「宇品線の足跡をたどる モニュメントMAP」がありました。そこには、1986年9月30日の全線が廃止となった宇品線の面影を今に伝えるために作られたモニュメントが紹介されています。

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この地図を頼り「宇品線のモニュメント」を訪ねてみることにしました。そこでは思いがけない人との出会いや新しい発見やもありました。「モニュメントめぐり」にスタートする前に、簡単に宇品線の歴史を紹介します。

よく知られているように宇品線は、1894年(明治27年)8月1日に始まった日清戦争の開戦直後の8月4日に起工され、8月20日までわずか17日間という短い期間で完成しました。区間は、6月10日に開通し山陽鉄道の東京方面からの最終駅であった広島駅から南へ約6kmの宇品港までの路線です。戦争を遂行するための大量の兵員や物資を輸送するために施設されたものです。陸軍省が管轄する軍用鉄道でした。日清戦争やそれ以後の戦争で大きな役割を果たします。日清戦争後は、山陽鉄道宇品線となり、一般営業も行われたようですが、その沿線に兵器廠や被服廠が作られた歴史を見れば、その大きな目的が何だったかははっきりします。戦後は、国鉄の路線として活躍しますが、先に述べたように1986年9月に全線廃止となりました。

散策の最初に訪れたのは、猿猴川左岸です。「モニュメントMAP」にはなかったのですが、かつてここに架かっていた「鉄橋」の痕跡を見つけたかったからです。残念ながら「鉄橋の跡」を示すものは何もありません。「鉄橋があった」と思える場所には、「平和橋」がかかっています。写真の反対側(下流側)の橋脚に「平和橋」の名前が書かれています。この橋を渡り、道路を北に進むと、写真の奥の方に見えるマツダスタジアムに突き当たります。

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「平和大橋」の名前については、後で調べて分かったことがあります。1954年9月の台風で、宇品線の鉄橋の橋脚が傾いたため不通となり、川下側に平行して新しい鉄橋が作られました。通れなくなった古い鉄橋は、板が張られ、人道橋として復活したそうです。その時この人道橋に付けられた名前が「平和橋」だったのです。その名前が、現在の新しい橋にも付けられたのです。

残念ながら「鉄橋」の痕跡を見つけることはできませんでしたが、ここをスタートに宇品方面に向かいました。宇品線跡は、廃線後は道路として使われました。橋の南側で少し、左に曲がりそのまま真っすぐ道路が伸びています。道路の落葉を清掃されている住民に出会いましたので、声をかけました。「この道が宇品線の跡ですね」「そうです。わが家と線路との間(宇品方面に向かって右側)には、溝がありました。今は暗渠になっていますよ。」

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 段原地区の再開発で、多くの道路が付け替えられ広くなっていますが、宇品線の跡の道路は殆どがそのまま残ったようです。その道路をまっすぐに進み、南段原駅付近に作られた公園をめざします。この公園はすぐに見つかりました。正式名称は、段原南第五公園ですが、「宇品線公園」と名付けられ、親しまれています。

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「南段原駅」の駅名表示板があります。隣駅は、広島駅方面が「おおすぐち」宇品方面が「かみおおこう」です。少し文字が薄くなっていますが、読み取ることができます。「モニュメントMAP」では、広島駅方面の隣駅は、「東段原駅」となっていますが、この駅名表示板には、何故か「おおすぐち」と書かれています。

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その理由は、「東段原駅」は、1930年に新設され、1943年10月に廃止となっていますので、戦後には存在しなかった駅だからだと後でわかりました。「南段原駅」は、広島駅からの距離は1.8キロ、1931年に新設されたときの駅名は、「女子商業前停留場」でしたが、1937年に「南段原駅」と改称されました。

この公園には、駅名表示板とともに線路の一部と動輪が設置されていますが、もともとあった駅とは少し場所が違うようですが、公園の別名「宇品線公園」にも表れているように、近所の人たちの宇品線への思いが込められて整備されたことがわかります。

「モニュメントMAP」には書かれていませんが、この公園の南約90メートル進むと宇品線は少し左にカーブします。ちょうどそのあたり、広島南警察署段原交番の裏側に通る道路に面して「惜別宇品線記念碑」が設置されています。

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この記念碑には、「蒸気機関車」の絵と「92年間の健闘に感謝 明治27年(1984)~昭和61年9月30日(1986)」の文字が刻まれています。大きな碑ではありませんので、見つけるのが難しいかもしれませんが、写真で分かるように裏側(西側)に大きな柳の木があります。これを目印にすると見つけやすいと思います。

と、ここまでたどり着くのにずいぶん字数を要してしまいましたので、このつづきは、明後日以降にします。

いのちとうとし

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2020年11月21日 (土)

おかしいことはおかしいと言おう!―安保法制に反対する府中市民の会11月リレートーク

安保法制に反対する府中市民の会は、毎月19日に、市内2カ所での街宣活動を続けています。11月の19日リレートークの様子が、写真、演説原稿とともに届きました。参加者は、上下Aコープ前が10人です。

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府中市天満屋前が11人でした。

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送られてきた小川敏男さんの演説原稿を紹介します。


 今月、113日は74年前に日本国憲法が公布された日です。私たちは、この11月を憲法月間として、日本国憲法は、世界に誇る日本の宝、憲法を生かし、平和といのち、くらしと人権が大切にされる国を築きましょう、と訴えさせていただいています。

しかし、いま広島県民の一番の関心は、昨年7月の参議院選挙での河井克行、案里議員の買収事件のことです。日曜日(15日:編集者注)は安芸高田市の市議会議員選挙の投票日でした。新聞で結果を見た府中の市民の人は、「河井克行から現金を受領した、お金をもらった市議会議員が当選しとる。どうなっとるんにゃ」と言われています。中国新聞も「これでは政治不信が広がるばかり」と書いています。

中国新聞には、1025日から決別・金権政治「第2部被買収者」という特集記事が7回にわたって掲載されました。1回目は「広島県議会、根深い『カネ』」という見出しで、亡くなられた藤田雄山知事の時代のことを紹介しています。「知事選挙の時、県議らに対策費としてお金を渡していた。その金額は2億から3億円に上った。しかし疑惑は解明されることなく幕引きされた」と報道されています。

今回もお金を受け取った県議会議員は検察庁が起訴しない意向からか有権者への説明や責任をとろうとしていません。これでは「政治は誰がやってもかわりゃへん。良くなることはない」となってしまいます。世の中を良くしようと政治家を志す人も出てきませんし、子どもたちへの影響が一番の問題です。

府中市の県議ももらった一人です。なぜお金を受け取ったのか、けじめをどう考えているのか、府中市の有権者に説明をしてもらいたいものです。

藤田雄山知事時代の買収事件もうやむや、今回の河井克行、案里議員の買収事件もうやむやでは、広島県の政治は何も変わりません。広島県議会が、広島県民の信頼を取り戻すためには、今回の買収事件でお金を受け取った県議会議員が、「なぜお金を受け取ったのか、けじめをどう考えているのか」をきちんと説明することだと思います。

憲法を守るというのは案外身近なことです。今回の河井克行、案里議員の買収事件など「おかしいことはおかしいという」ことだと思います。


この小川さんの原稿を読んで、共感される方も多いと思います。買収で多額のお金をばらまいた河井克行・安里夫妻だけでなく、お金を受け取った側の説明責任が厳しく問われていると思います。

それにしても、粘り強く毎月定例の街宣活動を続けている府中のみなさんの活動に拍手を送りたいと思います。

いのちとうとし

<編集後記>今日21日は、イライザさんの原稿の定例日ですが、イライザさんのインターネット環境が悪くなっているため、アップすることができませんでしたので、急遽変更することになりました。

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2020年11月20日 (金)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文―その4

昨日からのつづきです。

3枚目の大きな修正は、説明文としては最後になる6枚目です。この説明文は、読み終えて振り返ると、「平和祈念・死没者追悼空間」が目の前に広がる大切な位置にあります。

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「死没者追悼空間」から見た6枚目の説明文

まず最終案を紹介します。

ここに、原子爆弾によって亡くなった人々を心から追悼するとともに、誤った国策により犠牲となった多くの人々に思いを致しながら、その惨禍を二度と繰り返すことがないよう、後代に語り継ぎ、広く内外に伝え、一日も早く核兵器のない平和な世界を築くことを誓います。

当初案です。

ここに、原子爆弾によって亡くなられた方々を心から追悼するとともに、二度とこのような惨禍が繰り返されることがないよう、後代へ語り継ぎ、広く内外へも伝え、一日も早く核兵器のない平和な世界を築くことを誓います。

ここで最も重要な修正は、「誤った国策により犠牲となった多くの人々に思いを致し」の文言が挿入されたことです。この修正は、全体を通じても最も重要で、論議のあったところです。

2001年6月28日の広島での被爆者団体との意見交換を受け、厚生省が7月6日に示した案には、「日本は遠くないここの一時期に国策を誤り、戦争への道をあゆみました。」と「国策を誤り」との文言を明記した案が示されました。しかし、7月11日に開催された開設準備会検討会で、森亘座長(元東京大学学長)が、「『国策を誤り』の表現は、主観的すぎるため不適切である」と強く主張し、検討会は「『不幸』に変更修正する」を決めました。

当然のことですが、この決定に対し、広島の被爆者団体は「到底納得できない」として、翌々日(13日)には厚生大臣に対し、「非修正」を求める要望書を提出しました。そうした広島の被爆者団体の強い態度が力となり、「誤った国策」の文言が挿入されることになったのです。この「誤った国策」は、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」の村山総理談話で使われて言葉ですから、被爆者団体にとっては譲れないことでした。被団連事務局長として被爆者7団体をまとめ、説明文修正の中心的役割を果たした近藤幸四郎さんは、「誤った国策」という言葉が盛り込まれたことを「国がその責任を認めて建設したことに意義がある」と語っていました。その事実を認め、一日も早く核兵器のない平和な世界を築くこと」を誓ったのが日本政府であることが重要なのです。

この経過をじっくりと読んでいただければ、私が「追悼空間スロープ」にある6枚の銘文(説明文)にこだわる理由を理解していただけるのではないかと思います。

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ですから、現在の追悼祈念館では、この6枚の説明文の扱いがおろそかになっていることにずっと問題意識を持っていたのです。そこで先日、追悼祈念館を訪れ、私の手元にある資料を示し「この6枚の銘文(説明文)をホームページやリーフレットできちんと紹介してほしい」と要望しました。対応していただいた館長は「私たちも、大切な文章だということは理解しています。ただこの施設は、国からの委託を受け広島市が運営していますので、私たちが『こうします』と言うことができません。厚労省に『要望があったこと』をきちんと伝えます」との返事でした。良い方向に進むことを願っています。

現在、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の地下1階「情報展示コーナー」では、企画展「時を超えた兄弟の対話―ヒロシマを描き続けた四國五郎と死の床でつづった直登の日記―」が、開催されています。好評で開催期間が2月28日まで2カ月延長されることになりました。ぜひこの機会に、追悼祈念館を改めて訪れ、この4回のブログで紹介できなかった3枚を含め「追悼空間スロープ」の6枚の説明文全文をじっくりと読んでほしいと思います。

いのちとうとし

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2020年11月19日 (木)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文―その3

追悼祈念館の地下1階から地下2階につながる「追悼空間スロープ」には、すでに紹介したように6枚に分割して銘文(以下「説明文」という)が掲げられています。ここでちょっと説明が必要です。なぜ、銘文と説明文とを混在して使っているのかです。これから紹介する最終案が印刷された資料の冒頭には、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文」とはっきり「銘文」と書かれていますので、私はずっとこれが「銘文」だと思っています。しかし、手元にある途中経過が書かれた資料には、「説明文」という言葉が度々登場しますので、これからは他の銘文と区別するため、「説明文」を使うことにします。

これからが本論です。

説明文は、被爆者団体との協議を経て最終案がまとまったのですが、当初案(2001年6月28日)からは、6枚のうち4枚が修正されています。大きく修正されたのは、その中の3枚です。ここでは、その中でも大きく修正された3枚について紹介します。最終案(現在掲示されているもの)と当初案の全文を記載し、広島の被爆者が何にこだわったのか、何を大切にしたのかを考えてみたいと思います。

1枚目は、スロープに入ると最初に目にする説明文です。まず最終案です。

日本は、20世紀の一時期、戦争への道を歩み、そしてついに昭和16年(1941年)12月8日、アメリカやイギリスとの間に戦端を開き、太平洋戦争に突入しました。戦争は、アジア太平洋地域を主な戦場として戦われましたが、やがて日本の敗色が濃くなり、アメリカ軍機による日本各地に対する爆撃が始まり、沖縄も戦場となりました。このような戦況の下、昭和20年(1945年)8月6日、人類史上最初の原子爆弾という、かつて比類のない強力な破壊兵器が、広島の街に投下されました。

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当初案は、こうです。

昭和16年(1941年)12月8日、日本は、アメリカ合衆国などとの間に戦争を開始し、太平洋戦争に突入しました。戦争は、太平洋諸島及びアジア諸国を戦場としていましたが、やがて日本は敗色が濃くなり、アメリカ軍機による日本各地への爆撃が始まりました。そして、昭和20年(1945年)8月6日、人類史上最初の原子爆弾が、広島の街に投下されました。

この説明文の大きな修正は、3つです。一つは、冒頭の「日本は、20世紀の一時期、戦争への道を歩み」です。当初案に対し「突然に原爆が落ちたという印象をぬぐえない」という指摘があり、それを受け修正されました。二つ目は「沖縄戦」が加わったことです。それは「広島、長崎、沖縄」の連帯を強く意識したいたからです。そして三つめは、原子爆弾が「比類のない強力な破壊兵器」だということを明記したことです。はっきりと「人道に反する」とは入れることはできていませんが、「許しがたいもの」だということは表現されました。

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次の大きな修正は、3枚目の「どんな人たちが被害者になったか」の記述です。まず最終案です。

原子爆弾が投下されたとき、広島には35万人前後の人々がいたと推定されます。これらの人々には、当時日本の植民地であった朝鮮半島の出身者が多数あり、また、中国出身者も含まれており、その中には半強制的に徴用された人々もいました。中国や東南アジア出身などの留学生、アメリカ軍捕虜なども含まれていました。

当初案です。

原子爆弾が投下されたとき、広島には35万人前後の人々がいたと推定されます。これらの人々には、多数の朝鮮半島などの出身者も含まれ、その中には徴用された方々もいました。また、中国や東南アジア出身の留学生、アメリカ軍捕虜などの外国人も含まれていました。

ここでも大事な修正がされています。まず「朝鮮半島が植民地であった」ことを明記しました。この修正は、朝鮮人被爆者協議会李実根会長の発言が大きかったようです。さらに「強制連行」という言葉使われていませんが、当時「半強制的に徴用された」中国人がいたこと、そしてその人たちが原爆の犠牲になったことにきちんと触れています。この言葉を入れたのは、当時広島で中国人の強制連行、強制労働の問題が熱心に取り組まれていたからだと思います。最終案では、原爆の犠牲者は、日本人だけではなかったことをきちんと書いた説明文となりました。

今日のブログで大きく修正された3枚全てを紹介する予定でしたが、長くなりましたので、一番本質的で重要な修正が行われた最後の1枚については、明日紹介することにします。

いのちとうとし

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2020年11月18日 (水)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文―その2

追悼祈念館の銘文の最終案がまとまるまでの経過を紹介する前に、追悼祈念館が建立されることになった経過をまず紹介したいと思います。

この追悼祈念館(当初どう呼ばれていたかははっきりしない)の構想が、最初に政府内部で持ち上がったのは、厚生省が原爆死没者全国実態調査を行った1990年のことです。そのことは、追悼祈念館のホームページ「開館までの歩み」に「1990年 厚生省が原爆死没者に対する弔意の表し方について検討を開始」と紹介されています。

当時、被爆者援護法制定のための参議院の野党のまとめ役として活躍されていた浜本万三参議院議員から、広島県被団協の主だったメンバーに「内々のことだが」と、次のような打診がありました。「間もなく50回忌を迎えることになる。仏教では、50回忌は『弔い上げ』(とむらいあげ)と言って最後の法要になる。それまでに何とかしなければならないが、今の国会情勢(自民党が多数)では、被爆者援護法を成立させるのは、難しい。そこで、『国としての追悼の施設をつくる』話が出ているのだが、どうだろうか?」というものでした。

しかし、この提案に対する広島県被団協の反応は冷ややかでした。「慰霊碑があるのに、重なる施設はいらない」が答えでした。後に、広島県被団協の坪井事務局長(1999年当時)は、マスコミに対しその反発の理由を「長年求めてきた被爆者に対する国家補償を、自民党が追悼祈念館の建設でかわそうとしてきたからだ」と説明しています。当時示された案では、追悼祈念館の建立場所は、広大工学部跡地(中区千田町3丁目、現在の県立図書館の東側辺り)だったことを記憶しています。

広島の被爆者の強い反対もあり、一度は立ち消えたかに思われた追悼祈念館構想でしたが、数年後復活することになりました。それは、1994年12月に成立した「被爆者援護法」に「国は広島市及び長崎市に投下された原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記し、かつ、恒久の平和を祈念するため、原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め、その体験の後代の国民への継承を図り、及び原子爆弾による死没者に対する追悼の意を表す事業を行う」という条文が入ったからです。

この被爆者援護法成立後、広島の被爆者団体も「建設そのものの反対」の立場を変え、「国が死没者を慰霊し、不戦・反核を誓うものにするという戦略」(近藤幸四郎談)に替わりました。以降、国に対し、追悼祈念館建設の理念の提示を強く求めることになりました。1995年、援護法発効とともに国は、「原爆死没者追悼平和祈念館開設準備委員会」を発足させ、1998年に「祈念館のあり方」が提言されました。

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実際に追悼祈念館を建設するにあたって重要となったのが、「追悼祈念館建設の理念をどうするか」でした。それが最もよく表れているのが、「死没者追悼空間」へのスロープに掲げられた銘文(説明文)なのです。

昨日紹介した資料によれば、地下1階入り口附近の壁面の文案とスロープの文案が示された最初は、2001年6月28日の日付となっています。この資料では、「追悼空間導入部(スロープの前)の説明文」の項にこう書かれています。「平和祈念・死没者追悼空間は、原子爆弾死没者を静かに追悼し、そして、平和について深く思索するための場所であり、この祈念館の最も重要な役割を担う場所です」と。

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ですから、このスロープに掲示される銘文(説明文)は、この追悼祈念館の理念が示されたものだと言えるのです。そして、この資料に最初には「作成にあたっての留意点」として3項目があげられていますが、その3番目には、「出来るだけ」と断ってはありますが「被爆者団体の要望に配慮すること」と書かれています。

実は、そのことを裏付けている文章があります。それは、被爆者援護法が採択される時に付された国会の付帯決議です。その中に「原爆死没者慰霊などの施設のできるだけ早い設置を図るとともに、被爆者および死没者遺族の共感が得られる施設となるように努めること」という一文があります。付帯決議は、法的な拘束力はありませんが、国会の意思を表したものですから、無視をすることはできません。

ですから、この銘文(説明文)の内容を決めるためには、被爆者の声を聴き、それを反映させることがどうしても必要でした。被爆者の声を無視することはできなかったのです。ですから最終案は、被爆者の強い要望が入れられた案文に大きく修正されてまとめられたのです。

被爆者の声に押されて当初の案文がどのように変わったのかは、明日紹介します。

いのちとうとし

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2020年11月17日 (火)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文

平和公園にある「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」(以下「追悼祈念館」という)のホームページを開くと、「祈念館について」の項の最初に、「銘文」として「原子爆弾死没者を心から追悼するとともに、その惨禍を語り継ぎ、広く内外に伝え、歴史に学んで、核兵器のない平和な世界を築くことを誓います。 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」と書かれています。この銘文は、追悼祈念館1階入り口に掲げられているものです。

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改めて、追悼祈念館を訪ねました。1階の入り口左手の「8時15分」を表すモニュメントの手前の壁面に、確かにあの文章が刻まれています。それを確認して、右手の階段を下り地下1階の入り口に進みました。コロナ対策の消毒、検温を行い、横のテーブルに置かれた、「追悼祈念館」のリーフレットを手に取りました。三つ折りにされたリーフレットの最後のページの一番上に、先ほどの文章が書かれています。しかし、「銘文」という断り書きは記載されていませんので、リーフレットには、「銘文」という言葉はありません。

地下1階の受付を入ると、地下2階の「平和祈念・死没者追悼空間」へと進むスロープが目に入ります。そのスロープの方に向かうと、スロープに入る直前の左側壁面にもかなり長文の「銘文」があります。

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そのままスロープを下っていき、右側の側面を注意深く見ていくと、壁面の切込み6カ所に銘板を見つけることができます。

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ここで「銘文」という言葉について触れておきます。広辞苑によると「銘として、金石の器物にしるされた文。」と書かれています。これだけでは何のことかわかりませんので、さらに「銘」を調べます。「(金属)にしるすこと。書きつけること。転じて、心に刻んで忘れないこと。」と書かれています。つまり「銘文」とは、私流に解釈すれば「心に刻んで忘れないために、石に刻まれた文」ということになるように思えます。

すでに紹介したようにこの「追悼祈念館」には、石に刻まれた文章は、3つあります。ですから、ホームページに記載された「銘文」も「銘文」であることには間違いありません。しかし、私が「追悼祈念館の『銘文』」と思ってきたのは、「平和祈念・死没者追悼空間」へと進むスロープの6枚のパネルに刻まれた銘文のことでした。

「追悼祈念館」のホームページでは、このスロープを「追悼空間スロープ」とし、「地下1階から、時計の針と逆回りに下ることにより被爆直後のヒロシマへと時間をさかのぼります。スロープの内壁と平和祈念・追悼空間の銅板には黒い粒が見えます。これは、当館の建設当時に敷地内で採取した被爆地層の土を、うわぐすりに混ぜて焼いたためにできたものです。」と紹介していなす。

リーフレットでは、「追悼空間スペース」として「時計回りと逆回りにスロープを下っていくことにより、あの時へと時間をさかのぼっていきます。」と簡単な紹介文が記載されているだけです。

追悼祈念館の「ホームページ」にも「パンフレット」にも「銘文」のことは、一言も紹介されていません。どちらにも記載されていないことについては、「追悼祈念館」に問い合わせて、確認しています。

これでは、よほど気を付けて見学しないと、このスロープに取り付けられた「銘文」に気付く人は非常に少ないと思います。「なぜこんな扱いなのだろうか」という疑問が湧きます。

私の手元には、この「銘文」の最終案とそこにたどり着くまでの経緯を記した文書があります。この文案をまとめるために中心的役割を果たした今は亡き近藤幸四郎さんから譲り受けたものです。そこには、最終案をまとめるために広島の被爆者がこだわる続けた思いが記されており、この「銘板」に刻まれている文章がどれだけ大切なものかがわかります。ですから、「追悼祈念館」のホームページにもリーフレットにも紹介されていないことに疑問を感ずるのです。

広島の被爆者の思いが記された銘文と最終案がまとまるまでの経緯について明日以降紹介し、理解を広げたいと思います。

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「追悼祈念館」からの帰り道、平和大橋から平和公園を振り返ると、サクラの木が真っ赤に色づいていました。

いのちとうとし

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2020年11月16日 (月)

お好み焼 KAJISAN(かじさん)と森瀧市郎先生

久しぶりに、比治山トンネルの西入口近くにある「お好み焼き KAJISA」に行きました。

最初にお店に入ったのは、数年前。お店の外の値札に「肉玉そば 500円」が目に付いたからです。「今時、肉玉そばが終日500円。安い」と思ったのがきっかけです。この値段、35年前から変わっていないそうです。500円ですが、キャベツがたっぷり入りボリュウムがあります。

後で知ったのですが、このお店はテレビや新聞で何度も紹介されています。ですから知っている方も多いと思います。店を営む梶山敏子さんは、原爆孤児だったからです。最初に店に入った時には、梶山さんが原爆孤児だったことは全く知りませんでした。

そんなに何度も通ったわけではありませんが、2回目だったと思いますが、お好みを焼く梶山さんと話していると、意外な事実を知らされました。

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右端奥に鶴見橋があります

 話のきっかけが何だったのかは覚えていませんが、「私はね、森瀧先生と少し関わりがあるのですよ。森瀧先生が亡くなられた時に造られた本に、私も追悼文を載せているのです。森瀧先生は、優しかったです。」との話です。この話に出る「本」とは、森瀧市郎先生が亡くなられた翌年(1995年)7月発刊した「人類は生きねばならぬ 森瀧市郎の歩み」と題した「森瀧市郎追悼集」のことです。8人の刊行委員の一人に私も名を連ねていますが、梶山さんの名前はすっかり忘れていました。帰宅してすぐに追悼集を確かめると、間違いなく梶山敏子さんの名前があります。

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梶山さんの追悼文は、「広島子どもを守る会代表」として、次のように書かれています。

「今年もお正月明けに、先生から賀状を頂戴致しました。『頌春 ‟いのちとうとし“1994年元旦』と書かれていました。温かくて力強い文字の賀状です。それから三週間もたたない1月25日、先生の訃報に接しました。深い悲しみを覚えています。 思い返しますと、昭和28年、原爆孤児精神養子運動が展開された時に、森瀧先生と初めてお会いしました。原爆で親を亡くした私たちに精神親をさがして下さる架け橋になって下さいました。たくさんの愛情を注いでくださり、今日まで私たちが強く明るく生きてきたのも、先生のおかげと深く感謝しています。32年前に、同じ境遇で結ばれた私たち夫婦の結婚式に列席して下さり、祝辞を頂いたことを鮮明に覚えています。」その後に、先生が亡くなられる3年前に開かれた「広島子どもを守る会 思い出と感謝の集い」で森滝先生と再会したことが懐かしく触れられ、追悼のことばとなっています。

ようやくうろ覚えに思い出しました。この追悼文は、1994年2月5日に国際会議場で行った「お別れ会」の会場で、梶山さんが述べた「お別れのことば」でした。

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文中に出てくる「結婚式」は、「広島子どもを守る会」で出会った一歳年上の夫昇さんと1962年3月27日に行われた「テレビ結婚式」のことです。その後、1965年に会社勤めの夫の留守中、自宅でできる手軽な商売ということでお好み焼き屋が開店しました。会社勤めだった昇さんは、仕入れなどの裏方で手伝っておられたようですが、会社を退職してからは一緒にお店に立っておられます。お店は、都市計画や比治山トンネルの開通などで建て替えはあったようですが、ほぼ現在地での営業が続き、今に至っています。

お店の名前は、当初は、息子さんの提案で「梶山」をもじって「かじさん」だったようですが、今のお店に建て替えた時、「KAJISAN」に替えたとのことです。

のれんをくぐりガラス戸を開けると、「いらっしゃい」の元気な声が出迎え、誰にでも笑顔で気さくに話しかけてくれる梶山敏子さん、そしてそれをやさしく見守る昇さんの姿があります。

「KAJISAN」さんは、また立ち寄りたいお好み焼き屋さんです。そして長く続いてほしいお店です。

いのちとうとし

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2020年11月15日 (日)

11月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

ほぼ毎週末に行く農園だが、秋は紅葉、落葉が見られる。行くたびにブルーベリーの色合いが変化してくるので目を楽しませてくれる。作業も汗をかくこともなく蛇も蛙もスズメバチもみなくなったので警戒心を緩めて続けられる。

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11月8日(日)。ブルーベリーの葉の色が毎週くるごとに変化する。真っ赤ではないが一段と赤みを増したブルーベリー畑。

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東側と西側の斜面のある里山のブルーベリー園の西側。田んぼを挟んで向こうの里山にもカエデなどの紅葉が点在している。

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早生のブルーベリー。もう落葉が始まっている。

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小さい畑の作業

①.草取りをし、畝を立ててからソラマメ、サヤエンドウの種をまいた。

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②.ジャーマンアイリスを掘り上げる。葉と根を短く切る詰め数日乾燥させてから植えるのは次の土日になる。

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11月14日(土)。

①.昼ごはん時。室内からブルーベリーの紅葉が見える。

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②.3段あるブルーベリー畑の一番上の畑の刈れたブルーベリーの木を取り除く。枯れる木は根が回っていないので3本足の鍬を使って割と簡単に抜ける。

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③.農園周囲の落葉などの片づけ。

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④.地面に張りつくように咲く野菊。青色が寒さとともに濃くなってきている。

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⑤.帰り道沿いにある柿の木。葉はすっかり落ちたので柿の実が宙に浮かぶ。落葉の後は落柿に移るがいつ頃になるか。

 

2020年11月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年11月14日 (土)

被爆建物 宇品の千暁寺

広島市郷土資料館が、先週の土曜日(7日)開催したフィールドワーク「宇品・出島・新旧海岸散策」に応募したのですが、抽選に外れ参加できませんでしたので、当日の資料を手に入れるため同館を訪れました。フィールドワークのコースが書き込まれた資料を見ると、出島を出発したコースの途中に「千暁寺」の名前を見つけました。

懐かしい名前です。かつて社会党の衆議院議員だった大原亨さんの選挙では、必ず最終日に実施されたこのお寺での個人演説会の準備をしたことや大原亨さんの葬儀(199年4月)に参列したことを思い出したからです。千暁寺は、広島市郷土資料館から1.2Kmほど海岸方向に進んだ場所にあります。久しぶりというより20数年ぶりの訪問です。

2階に釣り鐘がぶら下がる大きな山門が目に入ります。釣り鐘は、戦時中に金属拠出され、戦後長く失われていましたが、親鸞聖人生誕800年の1974年(昭和49年)3月に鐘楼門とともに新鋳されています。

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山門の右側に、千暁寺が被爆建物として登録されていることを示すプレートが貼り付けられています。

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このプレートには、「本堂と納骨堂」が被爆したことが記されています。しかし、今は被爆建物として残っているのは、本堂だけです。

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本堂の被爆状況について、広島市原爆戦災誌には、次のように書かれています。

「爆心地から4.3キロメートル。被爆時、住職は檀家の法事に行っていて無事であり、坊守は裏の空き地にて負傷した。原子爆弾の炸裂による爆風で、本堂の屋根が浮き上がり、周囲の壁・建具が落ちたり飛散したりした。庫裡も同じような状況で天井が落下した。被害は全体として半壊程度で、すぐにバラック式の修理をして、被爆死亡者の葬儀その他寺の活動を行った。7日、他の寺で修行していた長男が帰宅し、寺内に殺到した避難者の救護や、死亡者の供養を行った。」

ここには納骨堂については、触れられていませんが、山門を入ってすぐ右側に被爆建物として残りました。1990年4月の大原亨さんの葬儀の時には、確かにこの建物があったことを記憶していますが、今はその建物はなくなり、その位置には石碑が建っています。

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見にくいのですが、石碑の右奥に二つの墓があります。右側が大原亨さん夫妻のお墓です。千暁寺の墓地は、元宇品にあるそうですので、境内にあるお墓は、お寺と深い縁この二基だけのようです。被爆建物の納骨堂は、老朽化が進み雨漏りがするようになり、床や棚の底が抜けるようになったため、2011年3月に安全性確保のため、やむなく取り壊されました。納骨堂に納められていた遺骨の中には、身元不明の遺骨も多かったようで、その遺骨は、西本願寺に移されて供養されているそうです。現在の千暁寺の納骨堂は、本堂の裏手に造られていました。

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私には、千暁寺についてもう一つ知りたかったことがありました。それは、何時の頃のことか、誰から聞いた話か覚えていませんが、「戦時中、外地の戦場から宇品港に帰還した遺骨は、一度この千暁寺に納め供養の法要が営まれ、その後遺族による引き取りを待っていた」という話です。そのことを知りたくて、ちょうど境内の掃除を終え、帰宅されようとした中年の女性の姿を見つけましたので、問いかけてみました。「私はよく知らないのです。ご住職は不在ですが、坊守さんがおられますので、訊ねてみてください」と言いながら、わたしを庫裡に案内し、坊守さんを呼んでいただきました。初めて知ったのですが、「坊守」とは、ご住職の奥さんのことでした。坊守さんから聞いた話です。「詳しいことは、住職に聞いていただきたいのですが、おっしゃる通りです。戦地から帰還した遺骨は、ここで引き取りを持っていました。中には、石や紙切れ一枚の骨箱も多かったと聞いています。このお骨は、納骨堂ではなく、本堂の下に納められていたと聞いています。毎年ていねいに供養していました。はっきりと何時だったかは定かでないのですが、40年ぐらい前だったように聞いていますが、その遺骨は、東京の千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に納められたと聞いています。西本願寺では、8月15日とは別に追悼供養を毎年行っています」。帰宅して、千暁寺のホームページを検索すると、1986年(昭和61年)に本堂の修復をしたことが記載されていますので、この時に千鳥ヶ淵に移されたのではないかと推測されます。

しばらく境内を散策した後、千暁寺を後にしました。うかつなことですが、「千暁寺」の名前が、宇品港をひらいた「千田貞暁」に由来することを今回初めて知りました。

千田貞暁は、現在の千暁寺の地に、築港に先立ちその工事に携わる人々の宇品説教場を建設しました。その後1930年(昭和5年)に寺号が公認され「千暁寺」と命名されました。現在の本堂は、1935年(手話10年)に完成しています。千暁寺の前の道路・御幸通りも、宇品港築港工事の時、埋め立て工事の土砂や物資を運ぶ道として工事に先立って作られた新道です。ですから、今も左右の周辺の土地より高くなっています。

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帰り道、少し回り道をして千田廟公園を訪れ、「千田貞暁像」を写してきました。

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宇品にはまだまだ訪ねてみたいところが沢山あります。そして御幸通りの名前の由来や、宇品港築港の様子などなど、また機会があれば改めて報告したいと思います。

いのちとうとし

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2020年11月13日 (金)

厚労省「黒い雨」検討会をユーチューブで配信

厚生労働省は、「黒い雨」の援護地域を再検証する検討会を16日に開催することになり、その会議を「YouTubeのライブ配信にて公開する」ことを11日に発表しました。しかし、厚労省は当初、この「ネットでの公開」には否定的でした。

11月9日の深夜(私が気づいたのは10日に朝)、一通のメールが届きました。

その内容は、「『黒い雨』裁判敗訴を受けて、厚生労働省に設置する新たな「検討委員会」の初会合が、いよいよ来週16日に開催されることが固まりました。(中略)そこで厚生労働省にインターネット中継をしたい旨、伝えたところ、コロナ対応を理由に、拒否されてしまいました。(略)」

発信者は、夏の原水禁大会のオンライン集会でお世話になった認定NPO法人OurPlanetTVの白石さんです。このメールには、OurPlanetTVが、厚生労働省に提出した「『黒い雨』検討会における『撮影フルオープン化』の要請書」も添付されていました。それを読むと、国が行う委員会や専門家会議などが、当初「頭撮り」(会議の冒頭部分だけ撮影)に限定されている場合でも、「フルオープン化」の要望が行われ、結果的に、全ての会議で「フルオープン化」および「インターネット中継」が実現したことが紹介されていました。その一つに、厚労省が主催する「東電福島第一原発作業員の長期健康管理等に関する検討会」では、インターネット中継が許可されただけでなく、「撮影しやすいよう机の配置なども改善いただくなど、丁寧なご対応」があったことが紹介されています。

この検討会は、7月29日、広島地裁が、原爆投下直後に降った「黒い雨」を浴びた人々による訴訟で、援護区域外にいた原告84人全員を被爆者と認めた判決に対し、控訴する際、国が、広島県、市の意向を受け、援護区域の拡大を視野に入れた検証を行うことを表明したことによって、設置されることになったものです。

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NHKお好みワイド(11月6日)

ですから、この検討会の審議の経過を、特に広島では注視しています。東京で開催される会議を傍聴することは無理(初会合は、会場の関係で傍聴できない)ですから、インターネット中継されれば、多くの人が見ることができます。

このメールを受け、私にできることはと考え、すぐに広島市の原爆対策部にメールを入れ、「厚生労働省への働きかけをしてほしい」とお願いをしました。その日(10日)の午後5時過ぎに、広島市の原対部長から「厚労省に電話を入れました。『他からも要望が来ています。今検討中です』との返事でした」との連絡がありました。この時点では、まだ厚労省は、「YouTubeのライブ配信」を決めていません。

今回の件は、広島県、市からの要望が大きな力になると思い、翌日(11日)午前中に広島県の被爆者支援課を訪れ、同様の要望をしました。課長は不在でしたが、「きちんと伝えます」との返事をもらい、「結果は、メールで知らせてください」とお願いし帰宅しました。午後3時に広島県の被爆者支援課二井課長からのメールが届きました。「お話しいただいた標記について厚生労働省に伝えたところ,『YouTubeのライブ配信にて公開する』とのことでした。また,資料及び配信URLは,開催日当日10時に厚生労働省ホームページに掲載予定とのことです。」

このメールが届いた時と同じ頃、東京では厚労省が、冒頭に記載した内容の記者発表をしていました。広島県、市の働きかけは、厚労省の「YouTubeのライブ配信にて公開」決定に大きな力になったと思います。

問題は、これからです。この検討会がどういう報告書をまとめるかです。検討会は、11人で構成されていますが、そのメンバーには広島県が推薦した広島大名誉教授の鎌田七男医師(83)や広島市が推薦した小池信之副市長、「国が設定した援護区域の基になった調査よりも広い範囲で黒い雨が降ったとする調査結果を発表」している元気象庁の増田善信さんなどが入っていますので、原告のみならず広島県、広島市が強く求めてきた「地域拡大」の報告書が提出されることが強く望まれます。

そのためにも、インターネット中継される検討会を多くの人が視聴することが大切です。資料及び配信URLは,開催日当日(16日)10時に厚生労働省ホームページに掲載される予定です。

いのちとうとし

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2020年11月12日 (木)

大津市で「憲法理念の実現をめざす第57回大会」開催 〓 まもろう、平和と人権!すすめよう、民主主義と共生! 〓

11月7日・8日、滋賀県大津市びわ湖ホールにおいて「まもろう、平和と人権!すすめよう、民主主義と共生! 憲法理念の実現をめざす第57回大会」(護憲大会)が開催されました。

今年は、コロナ禍の中で日程を短縮し、参加者を大幅に絞ったうえ、オンライン配信を活用しての大会となりました。

初日の開会総会は、勝島一博実行委員長から「憲法軽視など権力を私物化した安倍政権の継承を自任し権力を振り回す菅政権。いまこそ立憲主義・国民主権を取り戻し、憲法理念の実現に向けてさらなる取り組みの強化をしていこう」と主催者挨拶。来賓として連合、立憲民主党、社民党、滋賀県知事などから連帯あいさつ・ビデオメッセージが行われました。

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その後、大会基調の提案。特別報告「敵基地攻撃論と日米軍事同盟」のビデオ報告(飯島滋明名古屋学院大学教授,前田哲男軍事評論家,半田滋防衛ジャーナリスト,藤本泰成平和フォーラム共同代表)とメイン企画①シンポジウム「新型コロナウイルス感染症と日本の人権状況」(鈴木雅子弁護士,河かおる滋賀県立大学准教授,宮子あずさ看護師,杉浦ひとみ弁護士,飯島滋明教授)が行われました。

2日目のメイン企画②では、憲法課題をめぐる取り組み(滋賀における多文化共生の取り組み,水俣病をめぐる状況,女性の人権状況,沖縄の現地の情勢とたたかい)・各地からの報告(神奈川県:ヘイトスピーチを許さない取り組み,福島県:高レベル放射性廃棄物の誘致反対の取り組み,福井県:関西電力を告発する会の取り組み,石川県:金沢市庁舎前広場護憲集会使用不許可違憲訴訟のたたかい,社青同:反核平和の火リレーの取り組み)が行われました。

その後、大会のまとめと、「『新しい生活様式』といった美辞麗句を権力者に語らせるままにするのではなく、市民自身が一人ひとりのいのちの尊厳を守ることを基本にしながら、他者との共同のための方法を新たに獲得していくことが求められている。そのための試みを積み上げていく努力を、ともに重ねていこう」との大会アピールを確認して護憲大会を終了しました。

二日間の討議の中で、敵基地攻撃能力の危険性やコロナ禍で外国人・在日朝鮮人,女性・子どもの人権が脅かされている状況など、民主主義を進めるためには労働組合が必要であること。人権をもう一度考え直す必要があること。憲法をしっかり据えることの大切さを学ぶことができました。

なお、来年の護憲大会は、東日本大震災から10年という節目の年。1030()111()、宮城県仙台市で開催されることとなりました。

藤本講治

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2020年11月11日 (水)

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか・その2 ――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか・その2

――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

 

 このブログで10月1日に問題提起したのは、日本の子どもたちの多くが、「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっているのではないかということでした。9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんによる問題提起に、私なりの視点で答えてみたかったからです。

それは、『法学セミナー』9月号に「論説」として掲載して貰った拙稿の一部を引用したものでしたが、是非その全体をお読み頂きたく、前回は、論説の最初の約3分の1だけ引用しました。憲法を「数学書として読む」とはどのような読み方なのかの解説と、裁判所の判例や通説・定説では、99条の憲法遵守義務が、「法的義務」ではなく「道徳的要請」だと解釈されているという問題点についても言及しました。

今回は、その続きですが、論説の中心部分でもあります。

 

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『法学セミナー』2020年9月号62ページから69ページまでの内、64ページから69ページまで。

 

  1. 憲法の否定は許されない

99条の解釈については、「置換禁止律」違反だけでなく、憲法全体で「義務」という概念がどのような位置を占めているのか、そしてそれが誰に課されているのかという点からも、二つの重要な問題が生じている。

一つは、校則であっても、数学の公理系であっても、ある一定のルールを定めた「体系」がある場合、その存在意義を損なわないために最低限必要なことは、その体系中のルールを「守る」というメタ・ルールが存在することである。「義務」を「道徳的要請」に薄めてしまっては、例えば、校則の最後に、「これを守るかどうかは道徳的要請なので、拘束力はありません」と付け加えるのと同等の意味になってしまう。つまり、論理的には、その体系の存在そのものを否定することになる。裁判所の判決が憲法を否定してしまうことは、当然、許されない。

次に、義務が課せられている対象に注目しよう。対象は、二つある。一つは「天皇」、もう一つは「公務員」である。最初に「公務員」を取り上げよう。99条によって義務を負わされている公務員が、自らの義務について、「それは義務ではなく道徳的要請だ」と言って責任を回避することは許されないはずだ。

「法の支配」とは、言葉の意味を尊重し論理的な推論によって得た結論によって合意を形成し、また権力の行使を許された公務員は、それを濫用しないためのルールに縛られて仕事をするという枠組に依存する。その枠組が機能するためには、公務員に負わされた「義務」が義務として機能しなくてはならない。その「義務」の意味を希釈することは、「法の支配」という枠組の中に「力の支配」を持ち込むことになるからだ。これも論理的には、憲法の否定だと考えられる。

安倍政権の言動はじめ、現実の政治の世界には、その結果としか考えられない多くの事例がある。これらについては『数学書』の「付論2」を参照されたい。

次に、「義務」を課されているもう一つの対象、天皇について考えよう。『数学書』でも論じたように、この中で、天皇に課されている「義務」を判決も通定説も無視してしまっているのは、理解に苦しむだけでなく、憲法における天皇の位置付けという視点からも問題である。それも一因となって、天皇に関するいわゆる憲法論は、実は憲法とは関係のない歴史や伝統、政治的イデオロギーについての議論として行われる傾向があって、空回りしているきらいがある。この点については、稿を改めて論じたいが、「天皇に課された義務」をその通り読むことで次のような結論に至ることだけは指摘しておきたい。

何より、憲法上の天皇の位置付けが明確になる。それは、99条からの論理的帰結として、天皇には「憲法の守護者」としての役割が与えられているということである。以下その結論の要点である。(拙著のIV部に相当する)

  • 「憲法遵守義務」は国事行為ではなく、「義務」である。天皇に関するすべての行為を「国事行為」だと決め付けるのではなく、天皇についての規定を天皇の権利と義務という形に論理的に整理し直すべきである。
  • 仮に、天皇が99条違反をして、憲法に従わなかった場合には、天皇はその地位を剥奪される。
  • 公務員、特に内閣が憲法違反を犯した場合にも、内閣が憲法を遵守している場合にも、天皇には、それとは独立した形で憲法を守る義務があり、またその義務を果す上では内閣の助言や承認は必要ではない。
  • つまり、天皇の存在そのものが、内閣と公務員が憲法を遵守しなくてはならないというメッセージの発信をしており、また憲法そのものの人間的具現化になっている。

憲法では、天皇について、このように明確な姿を描いている。それを全く無視してしまっているこれまでの憲法論は、憲法の持つ素晴らしさの大きな側面を生かしていないと言って良いだろう。

 

  1. 憲法は死刑を禁止している

 憲法を「論理的に読む」ことから、比較的簡単に得られる結論の一つを、『数学書』では「定理A」と呼んだ。それは、「憲法は死刑を禁止している」という命題である。憲法12条、13条、25条のそれぞれが、独立した形で死刑を禁止している。しかし、昭和23年の最高裁判所の判決 ( 「判決」と略す) は、死刑が合憲だと述べている。(最大判昭和23年3月12日 刑集2巻3号191頁)。これも明確に「憲法マジック」である。以下、憲法12条、13条、そして25条に続いて、 [定理A]を証明する。

 

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(以下略)

 

13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(以下略)

 

  1. [定理A]の証明

これら三つの条文から、独立に[定理A]が導かれるので、そのうちの一つ、25条を取り上げて証明する。他の二条についても同様の議論が成り立つ。

25条では、「生活を営む権利」が保障されている。「生活」とは、生きている人間が日常的な活動をすることを意味する。その際に、「生きている」という前提がないと、条文の意味がなくなってしまう。さらに、25条は 「公共の福祉に反しない限り」という例外規定にも縛られていない。

  25条の (そして12条、13条も)、主体は「国民」である。その中には犯罪を犯した人も含まれている。その人に死刑が科されるかどうかの判断にもこれら三つの条文が関わってくる。さて、仮に国家が、犯罪者に対して死刑を執行したとしよう。その行為は許されるのだろうか。

第25条については、「最低限度の」という限定的な条件が付けられてはいるものの、「生活」は「生活」である。生きていなくては生活できないことは自明であり、その「生」を奪うことは「生活を営む権利」の侵害であり、25条違反だ。

その他の条文からも同様な結論が得られ(*)、憲法は少なくとも3か条においてそれぞれ別の立場から明確に死刑を禁止していることになる。Q.E.D (**)

 

(*)13条の例外規定については、『数学書』の第四章を参照のこと。

(**)Q.E.D. とは、ラテン語のQuod Erat Demonstrandum(かく示された)の略で、多くの数学書では、証明が終ったことを示す記号として使われている。

 

かくして、死刑については、素直に字義通りかつ論理的に憲法を読む立場と、最高裁判所による確定判決という立場から、それぞれ正反対の結論が出てきた。では、どちらを採用すべきなのだろうか。

通常の法的枠組を尊重すれば、当然「判決」が最終的判断になる。となると、死刑が合憲であることに疑いの余地はなくなる。同時に、憲法を字義通りに、そして「論理的に」読むこともゆるがせにできない。

その視点から、[定理A]の証明と「判決」とを比較しておこう。 [定理A]の証明は今お読み頂いた通りで、簡単明瞭である。そして、死刑が違憲であるという「証明」は、誰が証明しても、誰がその趣旨を説明してもその結果や論理的筋道には全く影響がない。小学生がこの証明を掲げて、その正当性を訴えられることにこそこの立場の強さがあると言って良いだろう。それは、この「証明」が純粋に客観的存在だからである。

このように、誰にでも分る形で死刑が禁止されていることを憲法は示しているのだから、それとは正反対の結論を主張する側からは、最低限、何故、[定理A]の証明をそのまま認めることができないのかを、論理的に説明する義務があるのではないだろうか。これは今からでも遅くはない。

 

  1. 最高裁判決の問題点

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最高裁による昭和23年の死刑についての判決の、要の部分を引用しておこう。

もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに,憲法第31条によれば,国民個人の生命の尊貴といえども,法律の定める適理の手続によつて,これを奪う刑罰を科せられることが,明かに定められている。すなわち憲法は,現代多数の文化国家におけると同様に,刑罰として死刑の存置を想定し,これを是認したものと解すべきである。

詳細は『数学書』の第5章をお読み頂きたいのだが、この「判決」の推論には、論理的には穴がある。一つには、13条で使われている「公共の福祉に反しない限り」を必要条件ではなく十分条件として扱っている点である。そして、この字句を、論理通りに必要条件と読んだ場合には、それに続いて吟味されるべき可能性の全てについての場合を尽さずに、死刑を「当然予想している」という結論になってしまっているからだ。31条における「適法の手続き」も、必要条件を十分条件と読み換えている点で、同様の非論理性が問題だ。

となると、「判決」の持つ力は、論理とか説得力によるものではなく、最高裁という「権威」に依存していると考えざるを得ない。これを、確定していない地方裁判所の判決である場合や裁判所以外の場、たとえば国会における議員の発言や、閣議決定、または学界における専門家の発言等と比較しても、最高裁の判決であるという事実は決定的な意味を持つ。

我が国の法的枠組が、憲法を出発点として、三権分立の原則に従って、また法的な整備を重ねた結果として機能してきたことを蔑ろにするつもりはないが、こうした積み重ねも、より広い立場で俯瞰すると人間による知的営為の一部だ。知的営為の一部としての正当性から考えると、ある命題を主張する主体によってその説得力が変るものと、つまり「権威」があるかどうかが判断基準の一部になるものと、どのような主体が主張してもその説得力には変わりのないものとの間で、どちらを採用すべきかと問われれば、それは客観性において優れている方だという答になるのではないだろうか。

 

  1. 自衛隊は違憲である

次に、多くの子どもたちが憲法を学ぶ際に遭遇する「憲法マジック」とその結果、生じるジレンマとフラストレーションから見て行こう。私たちの世代がそうだったのだが、子どもたちが小学生として初めて憲法を読むとき、関心を持つ条文の一つが9条であることは言うまでもない。そして、改めて条文を読むと、自衛隊が憲法違反であることは明白である。また、現実に存在する自衛隊が、「陸海空軍その他の戦力」であることは誰でも知っている。しかし、憲法では持ってはいけないことになっているのだから、立派な「憲法マジック」だ。念のために条文を掲げておこう。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

      2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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以下、10月1日の引用につながるのですが、出来ればその部分を再度お読み下さい。下線をクリックするとそのページに飛びますので。

 

[2020/11/11 イライザ]

 

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2020年11月10日 (火)

いったん埋めたてられた海は元に戻らない

世の中にはどう考えても理解が出来ないことというのは、多々あるものですが、僕の中でどうしても「うん」とうなずけないのが、上関原発計画地の海を埋め立てようとする作業です。

いったん埋め立てた後に、上関原発は計画が撤回になったから、「埋め立ては必要ありませんでした」で済む問題ではないのです。埋め立てた海を元に戻すことは不可能です。

もちろん膨大な費用も掛かります。中電にその費用を尋ねたら、「回答は差し控える」という答えが戻ってきました。この時代、まさに時代遅れですが、2012年10月5日に、埋め立てし免許の延長申請をした時の申請書を読むと、埋め立て工事の総額は186億5千万円となっています。

その埋め立て作業、山口県が中電からの海域工事を行う申請を許可したことにより、中電は11月4日から始めようとしました。まずは、現地に出向いた広島からの抗議行動参加者からの11月4日のレポートを読んでみてください。

・今日14時から中電が「ボーリング調査の準備作業」を開始しました。中電は司令船(10人前後乗船)、警戒船、作業お願い船の3隻が中心に動きまわりました。一方、釣りをしながらの監視・抗議をする祝島漁船団が約9隻で待ち構えて対応。

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真ん中の船が中電司令船(祝島の家並みや山肌も見える)

中電は16時過ぎまで居ましたが、一切の作業はさせませんでした。マスコミ船も2隻がカメラクルーを載せて動き回ってました。今日は、爽やかな晴天でお日様ポカポカ状態。豊かな自然に囲まれ、心も体もリフレッシュします(中電が来なければ最高だけど・・・)。しかし、西風が強くかなりの白波が立っていました。

・さて、私たち陸上応援部隊は、山口県人を中心に十数名で見守りました。町道の石垣には府中市のメンバーが書いて送ってくれた「みんなの海だ」「原発絶対反対」の大きなバナーを掲げました。

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漁船団からも、祝島からもよく見えたはずです。私たちも含めみんなに元気を与えてくれるありがたいバナーです。感謝!感謝! 明日以降も掲げ続けます。

・山口県のテレビは夕方6時過ぎてからのニュースでNHK、山口朝日、テレビ山口が報道してくれました(私の確認した範囲)。山口朝日は、今日の中電前での抗議の街頭宣伝と抗議文提出の場面も報道してくれました。

レポートにあるような状況が、少なくとも4・5・6日の3日間は続きましたが、作業は出来ないでいます。7・8の土日は休み、9日は理由が明らかにしていませんが、中止となっています。

このような攻防は昨年も行われ、昨年は12月に入り「海が荒れる」ということで、この春まで延期するとなっていましたが、春の時点で再び秋以降まで延期となり、現在の状況になったのです。

現地の海域で活動している主に祝島の漁業者の人たちは、当然ですが仕事を休んで参加されているのです。そして船を動かせば燃料費は掛かるのです。

国のエネルギー基本計画では、原発の新増設は認めていないのです。それでも強引に埋め立てを行おうとしていることは、国の指導に反する行為ではないでしょうか。改めていいますが、埋め立てられた海は元に戻すことはできないのです。

上関原発を止めるようにという声を、ぜひ多くの人に伝えてほしいと思います。中国電力への電話・FAXは、次の通りです。

本社地域共創本部:電 話082-544-2854 

                         FAX082-504-7006

上関工事事務所:電 話0820-62-1111

木原省治

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2020年11月 9日 (月)

「平和大通り樹木探索のつどい・秋編」に参加しました。

竹屋公民館主催の「平和大通り樹木探索のつどい・秋編」が、昨日開催され、夫婦で参加しました。集合場所は、鶴見橋西詰。午前9時半スタートです。受付を終えると、3班に分かれます。私たちのグループは第3班です。30人の募集に対し、参加者は23名。案内をしていただくのは、竹屋公民館を中心に活動を続けておられる「平和大通り樹の会」の会員の皆さん。3班のガイドは、長谷さんです。代表は、10月6日のブログ「平和大通りを歩いてみませんか」で紹介をした小林みどりさんです。小林さんは、もちろん今回も参加されています。

竹屋公民館から諸注意があった後、いよいよ「探索」がスタートしました。「鶴見橋、昔からあった橋ではありません。江戸時代には、この場所に鶴が飛んできていました。向こう岸には、見張り小屋がありました。」「この場所を踏んでみてください。反響するのがわかりますか」鴬張りになっているようです。この場所は何度通っていますが、初めて聞く話です。

そんな説明からのスタートでしたが、いよいよ本格的な樹木の探索です。最初の木は、トウカエデの木です。落葉を見れば、間違いなくカエデの葉です。赤く紅葉しています。トウカエデは、平和大通りに220本植わっており、3番目の多さです。ちなみに一番多い木はクスノキで381本、2番目はケヤキの232本です。

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スタート時に10個の空欄で区切られ、その中に樹木の名前が書かれている資料が手渡されました。樹木ごとに葉をスケッチするための用紙です。この空欄ごとに葉のスケッチをすることになります。

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トウカエデもその中の一つです。落葉を拾い、簡単なスケッチをします。「2分間で葉の形、葉脈など特徴を書いてください。」と注意があります。

そんなことを繰り返しながら、10種類の木を中心に巡っていきます。

被爆者の森でも何本か紹介がありました。先日は気がつかなかったのですが、「北海 ライラック 道被爆者協会」と書かれた説明札が、砂に汚れて放置されています。

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よく見ると、そのすぐそばに、ほんのわずかですが木の跡が残っています。説明札を移動させて、写真を撮りました。写真では、北の字のちょうど真上に小さく映っています。暑さに耐えられず枯れてしまったのか原因は不明ですが、ちょっと気になります。北海道の道木となっているのは「エゾマツ」ですが、あたたかい広島では育たないということで、代木としてライラックが送られてきたようです。それでも育つのには難しかったのでしょうか。広島県被団協のみなさんと相談して、何とかかわりの木が植えられるように努力したいと思います。

10本の木には入っていませんが、広島市の花「キョウチクトウ」のエピソードを聞きました。配布された資料の中に、・葉っぱが無い木・花が逆さまに咲く木・棘のある木など「面白いいろいろな樹木」が紹介されています。その中に「毒のある木」として4種類の木が書かれています。実はその一つに「キョウチクトウ」があり、「フランスでは、このキョウチクトウの木をバーベキューの串として使ったため、肉を食べ亡くなった人がいるのですよ」と説明されびっくりです。初めて聞く話です。

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季節外れともいえますが、広島第一県女の慰霊碑の横のキョウチクトウは、まだ花をつけていました。こんなエピソードを聞きながら見ると別の感覚が湧いてきます。

広島の花は「キョウチクトウ」だと紹介しましたが、広島の木は、平和大通りに一番多く植わっている「クスノキ」です。

ハガキになる木も紹介されました。タラヨウの木です。葉の裏に文字が書けます。

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同行された「平和大通り樹の会」の会員の一人が、この木の葉に宛名を書き、切手を貼って本当に郵便局に投函されたそうです。きちんと届いた現物を持参され、それを見せていただいたのですが、プライバシーのこともあり、それを写真で紹介できないのが残念です。

平和大通りには、どんぐりの実を付ける木が沢山あります。どんぐりのハカマもそれぞれに特色があることを知りました。持ち帰ったドングリの袴です。

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違いが分かりますか。ウロコ状のもの、トゲトゲのもの、シマシマのもの。多様です。どんぐりの形にも違いがあることがわかりました。

この日の行事は、12時で終了です。ちょうどクリスタルビルの前まで来たところで、時間となりました。最後の木は、「ベニバナトチの木」です。

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 この木も、季節外れの花を付けていました。てっぺんですので見えにくいのですが、小林みどり代表が双眼鏡を持ち出し観測した結果、花であることが確認できました。

写真のように青空が広がる好天に恵まれた「平和大通り樹木探索の集い・秋編」になりました。花の咲くシーズンの「春編」にもぜひ参加したいと思いました。

いのちとうとし

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2020年11月 8日 (日)

11月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

7日(土)は日が昇ってからもしとしとと雨。農園に行くのは中止した。

1日の農作業で3段ある田んぼの転作で19年前に植えたブルーベリー畑に、初夏に木と木の列の間に敷いた防草シートを剥いで折りたたみその場に置いておく作業が終わった。新しい出会いもあった。近くで昨年ブルーベリー園を始めた場所に行ってみるとちょうど作業中の園主に出会い挨拶をする。いったんお別れしたあとわが農園にお見えになって親しく案内した。この地はおいしいブルーベリーの実がなるのでこれからが楽しみだ。

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10月31日(土)にやっとブルーベリー畑の列間に敷いてる防草シートを剥いで畳む作業が終了。夏の収穫シーズンに合わせた作業環境整備と片付けに区切りがついた。

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11月1日(日)の夕方、冬場を除く春夏秋の農園周辺の草刈りを手伝って頂いている親戚の男性による草刈り。

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11月3日(火)。

①、晩生のタイプが植えてあるブルーベリー畑の色合いは夏の青から晩秋の薄い赤色に変ってきた。

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②.里山のブルーベリー園に行く途中の里道沿いのキボシも葉が黄色になり枯れ始める。

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③.里山のブルーベリー園の早生を植えている場所の葉は紅葉がかなり進んでいる。

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④.その足元の植物の紅葉。赤や

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⑤.苔の上の黄色や、

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⑥.季節外れのネジバナも一輪開花してちょっとおどろく。

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⑦.反対側の晩生のブルーベリーもところどころで葉が赤くなってきた。

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トマトやサヤエンドウを植えていた小さい畑の草取りをやっと行い畝を4列たて、石灰をまいて3日の農作業終了。「しーずかーなあ しずかな さーとのあーき」(静かな静かな里の秋)だった。

2020年11月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年11月 7日 (土)

広島護国神社被爆大鳥居の額

一昨日、広島城跡の一角に建つ広島護国神社を訪ねました。お参りするためではありません。広島城跡の東側入り口(RCC前)に建っている広島護国神社の被爆大鳥居に架かっている「額」のことを調べたかったからです。

護国神社の被爆大鳥居のことについては、このブログで昨年9月9日と10月17日の2回紹介しています。このブログを書くため、当時私が訪れた時には、下の写真のように、額は修理のため取り外されていました。

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その時は、「被爆した額だから修理が必要になったのだろう」と勝手に思い込んでいました。その後しばらく「額」のことは気にも留めていなかったのですが、弁護士会館からの帰りにふと見ると、「額」が掛けられているのに気づきました。最初は、「きれいになったな」と思っていたのですが、よくよく見ると「あまりにも新しすぎる」と疑問を感ずるようになりました。

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一度護国神社を訪ねて経過を聞いてみようと思っていたのですが、延び延びとなり一昨日の訪問となりました。

社務所を訪ね、「額」のことを訊ねました。しかし「神官のみなさんは会議中で今お答えできる人がいません。名前と電話番号を教えていただければ後で連絡します」とのことでしたので、巫女さんの言葉に甘えて、メモを渡して帰りました。寄り道をしながら、もうすぐ自宅という所まで帰ったところで、携帯電話の呼び出し音が鳴りました。広島護国神社からの電話です。「先ほどお訊ねの額のことですが、前の額が古くなり部品などの落下の危険性があったため平成28年(2016年)7月に新しいものに交換したのです。古い額がどうなったかもお訊ねだったようですが、被爆したものかどうかわからなかったものですから、保存はしていません」との返事です。

私はとんでもない誤解をしていました。昨年、大鳥居横の警備員の方から「修理中」と聞いた時には、すでに新しい額に替わっており、被爆時のものではなかったのです。「額」が新しくなった時期と経過はよくわかりました。しかし、電話での話にはちょっと疑問が残ります。帰宅途上の路上のことですので問い返しはしなかったのですが、架け替えられる以前の額が「被爆したものかどうかわからない」との説明についてです。

昨年10月17日のブログで紹介した2007年の中国新聞に掲載された「1945年10月5日林重男さん撮影の写真」には、「額」が鳥居に残っている様子がはっきりと写っています。

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改めてこの写真が掲載されていた中国新聞記事を検索してみました。「甦る『原爆十景』ドームは選ばず 1947年選定」というタイトルで2007年4月30日に掲載された「編集委員・西本雅実」と署名入りの記事です。この記事は、1947年に「原爆十景」と名付けられた原爆記念物がその後どうなったかを紹介しています。その二番目に「護国神社鳥居上の額」として、経緯が紹介されていますので、少し長いのですが全文紹介します。「広島護国神社の鳥居は、南の爆心地側の額は残ったが、北側の額は吹き飛ばされた。神社は広島市民球場の建設に伴い56年に広島城跡へ移転し、鳥居と額は城の東側に当たる裏御門で現存している」。そして写真のキャプションには「=旧文部省の原爆災害調査団の記録映画班に同行した林重男氏(2002年死去)が45年10月5日撮影」と書かれています。

この記事を読む限り、2016年以前に大鳥居の上にかかっていた額は、被爆したものであることになります。護国神社からの説明を不思議に思うのは当然です。

一昨日、護国神社を訪れたた時、巫女さんから、来訪者の説明用に用意された「被爆後に写された写真」数葉を見せていただきました。そこには額が映った写真もありました。護国神社が、被爆物を大切にしようとされていることはうかがえました。現に現在の境内には、上の写真に写っている石灯籠や狛犬など被爆物が、そのまま移設されています。その護国神社が、なぜ額について「被爆したものかどうかわからない」と説明されたのか疑問が残ります。もちろん今さら護国神社を責めるつもりはありません。しかし、残念ながらまた一つ、貴重の被爆物が失われてしまったのです。

いのちとうとし

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2020年11月 6日 (金)

広島原爆資料館が「海外に暮らす被爆者」の展示文の修正を約束

6月28日のブログ「原爆資料館の1枚の展示文に疑問を感じました」https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/06/post-90a62b.html)で紹介した広島原爆資料館東館の展示文が修正されることになりました。

パネルは、「『広島の復興 様々な支援』の中の『海外で暮らす被爆者』」です。

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この展示文についての疑問点は、6月28日のブログを読んでほしいのですが、簡単に言えば「、裁判の敗訴によって、ようやく2003年から海外に住む被爆者に援護法が適用されるようになったことが書かれていない」ことです。

少し時間がかかりましたが、次のように修正されることになりました。

~海外に暮らす被爆者~

広島、長崎で被爆後、故郷に帰国した外国人や海外に渡った日本人には、長い間、被爆者援護制度が適用されませんでした。1967年(昭和42年)の韓国原爆被害者援護協会の発足をはじめ、在外被爆者への援護を求める運動が大きくなり、司法に訴える動きも相次ぎました。2002年(平成14年)の大阪高等裁判所の判決を受け、2003年(平成15年)から、被爆者援護法に基づく諸手当の支給が開始され、現在では、被爆者が居住する国の日本大使館等で被爆者健康手帳や諸手当の申請ができるようになり、医療費支給も行われています。

修正の意味を理解していただくため、原文も紹介します。

~海外に暮らす被爆者~

広島・長崎で被爆後、故郷に帰国した外国人被爆者やさまざまな事情で海外に渡った日本人被爆者には、長い間、被爆者援護制度が適用されませんでした。1967年(昭和42年)の韓国原爆被害者援護協会の発足をはじめ、在外被爆者への援護を求める運動が大きくなり、1980年(昭和55年)、海外で暮らす被爆者の渡日治療が始まりました。2001年(平成13年)から在外被爆者への援護制度が順次見直され、現在では被爆者が居住する国の日本領事館などで被爆者健康手帳や諸手当の申請ができるようになり、諸手当の海外送金も行われています。

当初、2002年の大阪高裁判決、2003年の被爆者援護法適用開始の重要性について、なかなか理解してもらえませんでした。しかし、広島市原爆被害対策部長と原爆資料館副館長に当時の状況を直接説明することで、問題提起から1年半余りの時間がかかりましたが、展示文の後半部分を全面的に修正する方向に進むことができました。

書き加えたいことはたくさんありましたが、全体の字数が制限されている(修正後251字9行)ため、韓国の原爆被害者を救援する市民の会の市場淳子さんの協力を得て、最低限に必要な文字を入れ、修正文が完成しました。

資料館の展示パネル本体の修正時期は、まだ決まっていませんが、近いうちに実行されることになっています。

いのちとうとし

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2020年11月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その18) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅴ〕

ベトナム戦争、湾岸戦争の最大の弾薬補給基地

ヒロシマとベトナム戦争を考えるとき、見落としてはならない問題があります。それは、かつてアジア侵略の出撃基地としての役割を担わされた廣島が、「過ちは繰り返しませぬ」と誓い、平和を希求するヒロシマに生まれ変わったはずにもかかわらず、ベトナム戦争に加担してきた歴史です。

ご存知の通り、広島県には秋月弾薬庫(江田島市)、黄幡弾薬庫(呉市広)、川上弾薬庫(東広島市八本松)の3つの弾薬庫群から成る「秋月弾薬敞・米陸軍第83兵器大隊」(司令部・呉市)があります。いずれも旧日本軍が建設したもので、敗戦で米軍が接収した極東最大規模の弾薬庫群です。

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川上弾薬庫遠望

朝鮮戦争(19506月~19537月)では大量の弾薬が送られ、停戦後しばらく経た1955年から12年間、秋月を除く広弾薬庫(黄幡弾薬庫)と川上弾薬庫は一時休止されていました。

ところが、1967年10月27日に突如として米弾薬船が入港し、呉市広町から約39km北の山陽本線八本松駅の北側にある川上弾薬庫への弾薬輸送が再開されたのです。1969年に出版された『安保黒書』(労働旬報社)には、「この時から広―川上間を弾薬を積んだトラックのピストン輸送がはじまり、68年6月までに約1万4,000トン、積荷率80%の10トン積みトラックにして、1,750台が輸送に当たったのである。」(第3章「安保体制下の基地」268㌻)と書かれています。

こうして川上弾薬庫への弾薬搬入と搬出は今日まで続き、朝鮮戦争に続きベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と米軍の軍事行動を支える弾薬補給基地の役割を果たし、現在に至っています。

 閉ざされた弾薬輸送情報

2003年111921日の3日間、陸上自衛隊第13旅団が川上弾薬庫で初めて「テロを想定した警護訓練」を行いました。 私たち(憲法を守る東広島地区協議会)は、防衛庁への「中止申し入れ」と東広島市への要請を行うとともに、現地で監視行動を取り組みました。

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上の写真は南側ゲート横の高台に設置された哨戒所です。小銃を手にした隊員がカメラを向けた私を見ながらメモを取っていますが、それまで銃口は外に向けられていまし た。哨戒所のすぐ下は子どもたちが通学し市民が行き交う市道が走っています。東側ゲート上空を戦闘ヘリが飛び交い、基地内には幾つもの機関銃や迫撃砲が据えられています。と、突然、装甲戦闘車両と警護隊員が現れ、テロ襲撃者に扮した隊員との銃撃戦シーンがフェンス越しに飛び込んできました。

その後、20057月、20071月と岩国基地の米海兵隊との合同警護訓練が規模を拡大しながら行われ、その都度、抗議や監視行動を取り組んできました。ところが2006年以降、「テロ対策」として弾薬輸送などを含め情報がクローズされ、日米軍事一体化の姿が覆い隠されています。

かつて、ベトナム戦争反対と「抜き打ち輸送」を繰り返す米軍の弾薬輸送に反対に立ち上がり、弾薬輸送に関する事前情報の提供を勝ち取った呉市民と呉地区労の闘いに学び、諦めることなく弾薬庫を覆うベールを剥ぎ、弾薬庫撤去の闘いを進めなければなりません。

ベトナム戦争、「間接的な加害者」

広島市にお住まいの原爆文学研究者の松本滋恵(ますえ)さんが、「原爆詩人 栗原貞子の平和思想と実践」(『UEJジャーナル』第31号、2019915日)の中で、「ヒロシマというとき」の時代背景にあったベトナム戦争に関する栗原さんの言葉を紹介されていたことを思い出し、『ヒロシマの原風景を抱いて』を書棚から探し出しました。

少し長いですが紹介し、本稿を閉じたいと思います。

「ベトナム戦争は実は海を隔てたベトナムにあるのではなく、実は内なるベトナムは私たちの生活の中に起きているという認識が起こったのであります。沖縄のB52の基地、佐世保の原潜の問題、八王子のアメリカ軍の野戦病院の問題、この間には九州大学に米軍機が墜落いたしました。そして広島からつい近くの江田島の秋月、呉・川上弾薬庫の問題、ベトナム戦争は遠いベトナムにあるのではなくて、日本の内に私たちの内に燃えているのです。

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ナパーム弾に焼かれる少女

ということは、たんに私たちが原爆の被害者であると言うことだけでなく、日本の政府のベトナム戦争への協力を通じて、私たち自身がベトナムの人たちを殺すという間接的な加害者になっていることです。・・・(中略)・・・ベトナムに大量のナパーム弾を撃ち込んだり、毒薬を大量にまいてジャングルを焼き、野生の動物を全部焼きつくしたりするような戦争を見ていますと、これは原爆と違わない状態であるということ、そしてパリ会談が失敗すると、第三の原爆がベトナムで使われるのではないかという危機感が非常に強くなってくるわけです。」(1975年・栗原貞子著、『ヒロシマの原風景に抱かれて』274275㌻)

(2020年11月5日、あかたつ)

 

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2020年11月 4日 (水)

平和といのちと人権を! 11・3 オンライン憲法集会―憲法を活かす 新しい時代

11月3日は、祝日法では「文化の日」となっていますが、1946年10月29日の閣議決定によって、日本国憲法が公布された日でもあります。

戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、毎年この日を中心(昨年は11月1日)に「憲法のつどい」を開催してきました。

今年は、コロナ過ということで「つどい」の開催方法をいろいろと論議しましたが、メイン会場は人数を制限(100名)し弁護士会館で開催し、県内各地(広島市内2カ所、福山市2か所、三次市、廿日市市、三原市)にオンライン会場を設けオンライン中継で開催することになりました。戦争をさせない千人委員会、平和運動センターは、自治労会館にオンライン会場を設け、参加者を募り、38名の参加がありました。

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弁護士会館のメイン会場では、定刻の午後2時ちょうどに世話人の依田有樹恵弁護士の司会でスタートしました。最初の主催者あいさつは、共同代表の石川幸恵さんです。

今年の記念講演の講師は、高橋純子(朝日新聞編集委員・論説委員)さんです。高橋さんは、5月3日の憲法記念日の集会に来ていただくことになっていたのですが、コロナの影響で集会が中止となったため、改めてお願いし快諾を得ての講演となりました。

演題は「『仕方ない帝国』を生き抜くための憲法」です。配布されたレジュメには、大きく4項目が書かれています。

「Ⅰ、安倍政権の78カ月 Ⅱ、菅政権をどう見るか Ⅲ、たくましき主権者となるために Ⅳ、『対案』よりも大事なものは」です。私のメモから、少しだけ高橋さんの話を紹介します。

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「来るなと言われたのですが、来ちゃいました。対面で話したかったからです。」で始まった講演ですが、本論の最初は「小選挙区制の問題点」です。わずかな支持によって勝利することができる選挙制度。その結果は、「選挙に勝てば何でもできる」という「選挙勝利主義」を生み出した。本当はそうではない。白紙委任されたわけではないのですから、何をやってもよいということではない。しかし安倍政権は・・・。こうした政治状況の中で「デモをやっても変われますか」という意見が出る。「順応した方が楽だ」と考えるのか「えー変わりますよ。デモができるようになったじゃないですか」と言えるのか。「順応が楽だ」と考える人たちの背景には、「先行きに不安があるという状況が土壌になっている」と思えます。

安倍政権以前、「有権者」という言葉が多かったが、安倍政権になって立憲主義が問われる今は、「主権者」という言葉を使っている。自民党の国家観は、ピラミッド型の組織体系。「分をわきまえろ」という考え方が普通の人たちにも浸透してしまった。しかし、日本国憲法の論理は「ひろばの論理」。それは「共通の目標を作る」のではなく、「個人が目標を立てる」「個人でありつづける」こと。

文字にするとわかり難いかもしれませんが、パンチのきいた高橋さんの口から繰り出されると、何となく納得できるは内容です。

次は「菅政権をどうみるか」です。「国家観が無い」とズバリ指摘。「質問には答えないで、力でねじ伏せる手法を取り続けるだろう」と厳しい認識が示されました。そうなることは「日本の政治がやせ細ってしまっている。政治の土壌がやせてしまったことを意味している」からとの指摘。

私たちの運動への助言もありました。「闘い方の発想は、柔軟に…自由に楽しく、しなやかに。そしてがんばり続けることが大切です。」

さらに、「たくましくなるためには、問い自体を問い返す力を付ける。逆に言えば問い自身を私たちが立てていることが重要」とアドバイス。

最後に茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」と題する詩が紹介されました。ここでは最後の二小節を紹介します。

「駄目なことの一切を /時代のせいにするな /わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性くらい /自分で守れ /ばかもの」

力づけられる高橋純子さんの講演でした。最後に共同代表石口俊一弁護士の閉会あいさつで、集会は終了しました。メイン会場、オンライン会場総計で、317人の参加がありました。

いのちとうとし

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2020年11月 3日 (火)

「広島大学旧理学部1号館~未来へ受け継ぐ記憶~」展

広島市が主催し、広島大学が共催する「被爆75周年特別企画 広島大学旧理学部1号館~未来へ受け継ぐ記憶~」展が、1日から旧日銀広島支店で始まりました。私も初日に行ってきました。

展示は、10のコーナーに分かれており、次の10の項目で組み立てられています。

「①広島大学旧理学部1号館(広島文理科大学本館)の沿革 ②被爆前の広島文理科大学 ③原爆による被害(10枚の写真) ④市民が描いた原爆の絵(15枚)なぜが馬の絵が目立ちます ⑤広島文理科大学ゆかりの人物1 三村剛昂(よしたか)(1944年同大理論物理学研究所の初代所長) ⑥広島文理科大学ゆかりの人物2 橋本初次郎(被爆当時、研究室の焼失を防いだ広島文理科大学生) ⑦カタカナのヒロシマ ⑧ヒロシマの地質学に挑む理学部地質学教室の調査 ⑨ヒロシマの医学に挑む 広島大学原爆放射線医学研究所所蔵資料から ・「ヒロシマ」に挑む広島の医師たち 原爆投下直後からの活動 ・原医研と爆心地復元調査 ・被爆者の医療研究と被爆資料の収集 ⑩ヒロシマピースツーリズムで巡る被爆建物」

この他にも被爆した弁当箱など現物も展示されています。

入口すぐ左には、広島文理科大学や東千田町に関する被爆体験証言映像の上映や証言パネルの展示がされ、11月3日(火、祝)、11月7日(土)、11月8日(日)の14時及び15時から、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の朗読ボランティアによる被爆体験記朗読会が、実施されます。

会場内は、撮影が禁止されており、展示物を紹介する印刷物も配布されていませんので、細かな紹介は残念ながらできません。タイトルだけはメモを取りましたので、雰囲気だけでも感じてほしいと思い、紹介をしました。

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ところで、上の展示会の案内チラシの最初には次のように書かれています。「広島の『知の拠点』再生プロゼクトにより、『知の拠点』にふさわしい保存・活用に向けて検討が進められている被爆建物」

そうです、この「広島大学旧理学部1号館」は、貴重な被爆建物です。

被爆によって、外部を残して延焼したようですが、復興過程においては絶対的に研究・教育施設が不足した時期にあった中で、校舎として存在し続けてきた歴史を持っています。しかし、1985年頃からタイルが壁面から剥離するようになり、特に北面が激しく、頭上注意の看板と防護ネットによって対処したと言われています。そして1991年9月に理学部が東広島に移転し、大学の建物としての役割を終え、保存を前提とし跡地利用計画が検討されてきました。しかし、今もなお方針は固まっていません。既に使われなくなって29年という年月が経ち、老朽化は一層進んでいます。

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昨年末以来、同じ被爆建物である旧陸軍被服支廠の保存を求める市民の関心が大きくなっています。松井広島市長も「全棟保存を求める」と発言されました。この発言を聞いた時、改めてこの広島大学旧理学部のことを思い出し「広島市がやるべきことは、旧陸軍被服支廠をどう保存するのかも大切だが、この広島大学旧理学部の被爆建物をどうするのか、どう保存するのかの結論を早急に出すことだ」と強く感じました。

旧広島大学跡地は切り売りされ、周囲にはどんと新しい建物が建っています。タワーマンションも建ちました。幸いにして建物の北側のひろばは残っています。わたしが現地を訪れた日は好天に恵まれた日曜日でしたので、多くの家族連れや友人同士と思える人たちが、この広場を憩いの場として活用していました。

「被爆75周年特別企画 広島大学旧理学部1号館~未来へ受け継ぐ記憶~」展を観ながら、「広島市は、早急に被爆建物広島大学旧理学部の保存活用方針を立てる必要がある」ことを改めて痛感しました。

この展示会は、今月12日(木)まで開催されていますので、ぜひ訪れていただき、被爆建物の保存を考える機会になればと思います。

いのちとうとし

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2020年11月 2日 (月)

被爆の生き証人としてⅢ

10月6日、広島県議会は旧陸軍被服支廠にかかる再調査費用として約3,000万円の予算案を可決しました。

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県は建物の強度が従来の想定より高かったため、耐震化にかかるコストを3分の1程度に減らせる可能性があるとの「新たな知見」を発表、再調査を14日からはじめました。4棟のうち県が所有する13号棟が対象で、今月中に現地作業を終え、得られたデータを有識者会議で評価、耐震化の有無を含む補強工法と費用の4パターンを年内に示すとしています。

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8月に旧陸軍被服支廠で中西巌さんの話を聞く機会があり「今、生き残っている人は何らかの奇跡の積み重ねで死ななかった」と言われていました。被服支廠も何らかの奇跡の積み重ねで残っているのだと思います。

1棟あたり28億円ともいわれている耐震化費用は大きな額ですが、一度、壊してしまえば元には戻せないことも踏まえ、国・広島県・広島市が知恵を出し合い一体となって全棟保存をすすめるよう、私たちも常に関心をもち、声をあげ続けましょう。

~ヒロシマを忘れた時、ヒロシマは繰り返される~

おきたか

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2020年11月 1日 (日)

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか ――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか

――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

 

 このブログで10月1日に問題提起したのは、日本の子どもたちの多くが、「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっているのではないかということでした。9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんによる問題提起に、私なりの視点で答えてみたかったからです。

それは、『法学セミナー』9月号に「論説」として掲載して貰った拙稿の一部を引用したものでしたが、是非その全体をお読み頂きたく、今回は論説の最初の約3分の1だけ引用しました。

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『法学セミナー』2020年9月号62ページから69ページまでの内、64ページまで。

  1. はしがき

読者の皆さんは、物心ついて初めて憲法を読んだときの感動を覚えていらっしゃるだろうか。その気持ちは皆さんが成長するにつれどう変化していったのだろうか。筆者はそんな思いに駆られて、もう一度初心に戻って憲法を読んでみたらどうなるだろうと考えるようになった。その結果、2019年7月に、法政大学出版局から『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』 (以下、『数学書』という) を上梓した。

実は、この本を書くに至ったのには40年ほど前のアメリカでの経験も関係している。その経緯は、『数学書』の冒頭で説明した通りだが、本稿では、そこでは明示的には表せなかった、ことによるとそれ以上に大切な問題提起をしたい。

まず、「数学書として憲法を読む」とはどのような読み方なのかについては、次述2で説明するが、簡単には、「字義通り素直に、論理的に読む」と言って良いだろう。問題は、そのように憲法を読んだ結果、結論のいくつかが、裁判所の判決、そして通説・定説 (「通定説」という) とは矛盾していたことである。そもそも矛盾のあることも問題なのだが、本稿では、この矛盾の持つ意味や社会的影響等が、看過できないくらい深刻であることにも注意を喚起したい。

  1. 「数学書として憲法を読む」とは

通常、専門家ではない一般市民が憲法を読む際には、憲法の文言通り、字義通り、素直に条文を読むことになる。『数学書』では、その延長線上で、憲法の条文を数学における「公理」(*)と見立てた上で読む試みを行った。本来の公理系は「何の矛盾も存在しない文書」を指すが、憲法内には矛盾が存在する。「論理性」という面では完璧とは言えない文書である憲法を、できるだけ「論理的」に読むためのルールを「律」としてまとめた。その全体を、語呂の良さから「九大律」と呼ぶ。以下を御覧頂きたい。

  • [正文律] 対象とする日本国憲法の正文は日本語とする。
  • [素読律] 書かれていることを字義通り素直に読む。定義される順序も必要に応じて尊重する。
  • [一意律] 一つの単語、フレーズは、憲法の中では同じ意味を持つと仮定する。
  • [公理律] 憲法を「公理」の集合として扱う。
  • [論理律] 憲法解釈は論理的に行う。法律やそれに準ずるものは、公理からの論理的帰結であると位置付け、論理的に考えて憲法と整合性があるかどうかの判断をする。
  • [無矛盾律] 条文間には矛盾がないという前提で読み、解釈を行う。
  • [矛盾解消律] とは言っても現実問題として、憲法内には文言上、一見、矛盾している記述が存在する。条文間の矛盾や使われている概念間の矛盾について、「論理的」で憲法の趣旨が生きるような、かつ出来るだけ無理のないしかも説得力のある解釈を探し、可能であれば「矛盾」を解消する。最低限、「矛盾度」が低くなるように読む。
  • [自己完結律] 憲法は、基本的には自己完結的な文書であると仮定する。つまり、書かれていることにはすべて意味があると仮定し、書かれていないことには依存しない。また、立法趣旨等も条文に掲げられていないものは無視する。
  • [常識律] 定義されていない言葉や概念が使われている場合は、日本語の常識で解釈する。それもできるだけ自然な解釈による。

本稿では公理として読むこと自体を中心的テーマとしてはいないので、(4)の「公理律」と (8)の「自己完結律」は適用しない。この読み方を、『数学書』64ページの「abuse of language」によって、「論理的に憲法を読む」あるいは「論理的に読む」と呼ぶ。

以下、憲法の条文のいくつかについて、字義通りの解釈と、裁判所の判決や通定説とでは正反対の解釈になっている例を示す。憲法では「○○は××である」と述べているのに判決や通定説等では「○○は××ではない」と解釈する場合である。これを「憲法マジック」と呼ぶ。

(*)ユークリッド幾何学の公理が有名だが、例えば、「公理5  直線外の一点を通り、その直線に平行な直線は一本だけである」がその一つである。

  1. 置換禁止律

憲法を「論理的に読む」上で、最初に確認しておきたいのは、条文中の個々の字句は、そのまま読まなくてはならないことだ。これは、数学の等式で考えると分り易い。[1+1=2]という式の中で、[1]を勝手に[3]と変えたり読んだりしてはいけないのである。当り前のことなのだが、重要なルールなのでその点から確認しておく。

また数学では、対象を定めることも重要である。念のため、ここで対象にしているのは、日本国憲法である。それは、国会の議を経て、1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行された、我が国の最高法規を指す。物理的には、どの六法全書にも記されている、日本語によって書かれた文書である。

その中の特定の字句は憲法という存在の必要不可欠な構成要素であり、それを物理的に変更することは許されない。たとえば、「国民」という字句を「臣民」という字句に訂正することは当然、許されない。これは誰にでも賛成して貰える初歩的なルールのはずである。これを、「置換禁止律」と呼ぶことにする。

次に確認しておきたいのは、字句は変えずにその意味を変える読み方である。意味を変えるということは、「論理的」には、その字句を変えることと同じだからである。たとえば11条で使われている「永久の権利」の「永久」の意味を、「長期にわたって」と変えることは許されない。それでは意味が違ってしまうからだ。

加えて、死刑についての考察 (⇨後述6) で明らかにするが、字句の意味から論理的に帰結される結論も同じように変更は許されず、そのまま受け入れなくてはならない。これらの変更も、「abuse of language」によって、「置き換え」に含まれると考える。

大切なのは、これらの「置き換え」を許すことは、「尊重する」という99条の規定に反するという事実であり、かつ98条によって憲法が「最高法規」であることにも反する。「最高法規」として認められているのは、どの六法全書にも収められている日本国憲法である。それとは異なったもの (その中の字句を変更したもの) がそれと全く同一のものではあり得ない。かつ置き換えられたものまで「最高法規」であると主張することは、「最高法規」が二つになってしまい、理屈にもならないからだ。

念のため付け加えておくが、厳密に考えると、字句の変更はもちろんのこと、字句はそのままであってもその意味を変更するということは、憲法改正に当る。となると、その変更を行うためには、96条の改正手続きに従わなくてはならない。その手続きを経ずに変更を行おうとするのであれば、最低限、96条に依らない「改正」の正当性を、しっかりした根拠とともに示す必要がある。

  1. 憲法遵守「義務」を「道徳的要請」に置き換えて良いのか

以上の準備の下、これまで見過ごされ勝ちだった「憲法マジック」を考える。99条の解釈である。憲法全体を律する条文の解釈が「置換禁止律」違反を犯しており、憲法の存在そのものに関わる最大の問題点の一つである。まず条文を掲げる。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

「尊重し擁護する義務を負ふ」のだから、これは「義務」以外の何物でもあり得ない。しかし、1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では、99条について「憲法遵守・擁護義務を明示しているのであるが、この公務員に対する憲法への忠誠と護憲の要請は、道義的な要請であり、倫理的性格を有するにとどまる」と述べ、法的義務ではないことを明確に示している。(水戸地判昭52・2・17判時842-22頁)。また、1981年7月7日には東京高等裁判所が同訴訟の控訴審の判決で、99条は「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」との判断を述べた後、「本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであって、この義務に違反したからといって、直ちに本条により法的制裁が加えられたり、当該公務員のした個々の行為が無効になるわけのものではな」い、と倫理性を強調している。(東京高判昭56・7・7判時1004-3頁)

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つまり、意味の上で、「義務」という字句を「道義的要請」という字句に置き換えており、これは「置換禁止律」違反である。

最高裁の判決は先例拘束性を持つと理解されているが、仮に上記の東京高裁の判決にはその力がないとしても、このような「先例」を参照しつつ、99条に依拠して公務員の憲法遵守義務違反の訴訟が受け付けられない状況があったとしてもおかしくはない。その意味でも、東京高裁判決の意味は大きい。

さらに、両判決では、条文の「義務」を「道徳的要請」に置き換えて読むべきだという十分な論理的根拠が示されていない点が問題である。

「根拠」として読めなくはない一節はある。東京高裁の判決の、「国家の公権力を行使するものが憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務はいわば、倫理的な性格のものであつて」という下りだ。仮に前半が「根拠」だとすると、論理的には理解不能になってしまう。

それは次のような理由からだ。常識では公務員には遵守義務がある、それゆえ、我が国の法律体系の「最高法規」である憲法では、「倫理的性格のもの」になる、という因果関係は、筆者には理解不可能だからだ。

加えて、もしこの理屈が正当であるのなら、主語は国民、動詞は納税する、に置き換えることで、「主権者たる国民が税金を納付すべきことは、当然の要請であるから、本条の定める国民の義務はいわば倫理的性格のものであって」となり、30条の納税の義務は、倫理的な性格のものになってしまう。

以下、次回をお楽しみに!

[2020/11/1 イライザ]

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