なぜ益田高等女学校の生徒は被爆しなければならなかったのか
昨日紹介した二つの被爆体験記をよく読んでみると、新たな被爆の実相を知ることができます。
島根県立益田高等女学校(以下「益田高女」)から多くの女子学生が「島根学徒報国隊」として呉の海軍工廠に動員されます。崔さんの被爆体験記では、最初の動員先は呉の海軍工廠となっていましたので、全員が「呉の海軍工廠」に動員されたと思っていました。しかし、益田市原爆被害者の会の体験記(「以下「益田の体験記」」を読んでいくと、そのうちの何人かははっきりしませんが、呉市広町にあった海軍航空工廠に動員された人たちがいたことが分かりました。このことが実は、被爆体験では道を分けることになります。ところで、動員された生徒数ですが、「益田の体験記」に掲載されている沢江さんの手記では、約100名となっていますが、豊田文子さんの手記では「3人の引率の先生に付き添われ、140余名が軍事機密で鎧戸の降りた汽車に乗り」と、少し詳しく書かれています。どちらの人数が正しいのか、今となっては不明です。推測すれば、沢江さんの約100名が、海軍呉工廠に動員され、残りの40名余りが広の航空工廠に動員されたのではないかと推測できます。根拠ははっきりしないのですが、広に航空工廠に動員された渡辺環香さんの手記の空襲を描いた場面で「工場に取り残され20名」と書かれています。交代制を考えると、その倍の40名ぐらいいたと想像できるからです。
動員の生徒数については、これぐらいの予測しかできませんが、昨日報告したように、いずれにしても呉の海軍工廠に動員されていた生徒のうち約40名が、広島で働くことになり8月6日を迎えます。そして原爆の被害を受けることになったのです。ところが、この約40人という人数も怪しくなります。私が引用した約40人は、沢江悦子さんが「益田の被爆体験記」に書かれている人数なのですが、「ヒロシマへ・・・」では、同じ沢江さんが「大州の工場にいたのは、50人のクラスメート」と発言されているのです。大州で被爆した人たちは直接被爆者ですので、本当は何人なのか?気にはなりますが、そのことを知るすべは今のところありません。
ところで、広島大州の中国配電の機械工場で働くことになった生徒は、被爆時全員が工場にいたわけではありません。当時は二交代制の勤務になっており、遅番だった生徒は比治山の東側麓にあった広島女子商業高校の寮で寝ている時に、被爆しています。爆心地から2kmの地点です。そのいずれで被爆した生徒も梁の下敷きなどにより、大ケガをした人がいましたが、幸いに亡くなる生徒はいませんでした。ただ、引率の青山好恵先生が、大きな木の下敷きとなり亡くなられています。益田高女の唯一の原爆犠牲者です。
さらに呉の海軍工廠や広の航空工廠に残った生徒たちも、被爆を体験することになります。終戦を迎えた翌日8月16日には連合軍の進駐を恐れ「婦女子は帰れ」(益田の体験記・豊田文子さんの手記)の指示が出され、引率の先生に従って呉から広島駅へと向かいます。「広島駅で汽車が無く、7時間待ってやっと汽車に乗りました。・・・17日全員が無事帰ることができました。」(豊田文子さんの手記) 爆心地から2km以内にある広島駅で7時間も待つことになったのですから、この生徒たちは当然入市被爆者となったのです。
一方、広島市内で被爆した生徒たちのその後の足取りを、崔さんはこう書いています。「7日から9日まで毎日、工場と女子商の間を往復しました。8日に青山先生の遺体を女子商の近くのぶどう畑で火葬しました。10日には一応益田に帰ることになりました。青山先生の遺骨をもって帰りました。14日にまた広島へ来ましたが、翌日、敗戦をむかえ私は両親のいる匹見に帰りました」と。沢江悦子さんは、こうも言っています。「私たちは、昭和20年の3月に卒業しましたが、家に帰されないで専攻科として夏まで残されたため被爆したのです。」
もし、島根から広島の動員学徒で派遣されなければ。もし、そのまま呉の海軍工廠で働き続けていたら。も卒業とともに動員が解除されていたら。二つの体験記を読み進むと、いくつもの疑問符が湧きます。
「なぜ益田高等女学校の生徒は被爆しなければならなかったのか」
この問いの根底に横たわる問題本質は、繰り返し問い直さなければならない課題だと改めて気づかされた匹見訪問でした。
いのちとうとし
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